1: ◆Rin.ODRFYM[sage saga]
2020/08/09(日) 23:20:48.56 ID:S7yVE8bX0
歩いているだけで首筋を汗が伝う、うだるような暑さから逃れ、私は事務所へと入る。
てのひらにぎしぎしと食い込む紙袋の持ち手の圧力に苛まれながら廊下を抜け、メインオフィスに出れば、冷房の効いた涼やかな空気が私を迎えてくれた。
私に気が付いた社員の人たちからの会釈やら「お疲れ様です」の挨拶やらに、こちらも会釈で以て返し、目的の人物がいるであろうデスクを見やれば、残念ながら期待が外れたようだった。
出直すか、待つか。
頭の中に二つの選択肢を浮かべ、さてどちらにしようと考えていると「凛ちゃん、お疲れ様」とのよく知る声を投げかけられる。
声の方向へと体をひねってみれば、そこには事務所一番のスーパー事務員さんである、千川ちひろさんがいた。
蛍光緑の装いに身を包み、笑顔の眩しい彼女はアイドルの私から見ても容姿が整っていて、その上で超人的なまでに仕事ができる。
という、非の打ちどころがないような存在だ。
「今日は撮影終わりでそのまま上がりだったわよね。何かあった? あっ、経費関係かしら」
私の今日のスケジュールまでもを把握しているのには驚いたが、ややあってこれはプロデューサーから聞いたのだろう、と得心する。
アイドルである私、渋谷凛を担当しているプロデューサーのデスクはちひろさんの隣にあるからだ。
それゆえに、ちひろさんとプロデューサーは何かと雑談する機会も多い。
私のスケジュールを把握していても不思議ではなかった。
「いえ、えっと。特に用というほどのことじゃないんですけど」
「そうなの? なら、プロデューサーさん?」
「まぁ、そんなところというか……これ、現場でたくさんもらって」
言って、私はちひろさんに紙袋を見せる。
彼女は袋の中のメロンを見るや「わぁ」と目を輝かせた。
「一個、事務所で食べようかと思って。ちひろさんもどうですか?」
「いいの?」
「はい。重いので、一つ手放したくて」
「ふふ、それで寄ってくれたのね」
じゃあお礼をしないとですね、とちひろさんは笑って、手招きをする。
私はそれに従ってついていって、彼女のデスクの隣の席へと腰かけた。
「プロデューサー、まだ帰って来てないんですね」
「ええ。でも、そろそろじゃないかしら」
彼女は自身のパソコンをかたかたと操作して、プロデューサーの今日の行動予定を表示させる。
「ね」とちひろさんが指で示した帰社予定時刻は、もうあと十五分ほどだった。
「お礼になるかはわからないけど、いただきもので良い紅茶が今あるの。だから、凛ちゃんの持って来てくれたこのメロンと一緒におやつにしましょう!」
「じゃあ、メロンは私が切っておきますね」
「んーん。いいのいいの。凛ちゃんは座って待っててね」
私に有無を言わせず、ちひろさんはメロンを抱え給湯室の方へと行ってしまう。
追いかけても手伝わせてもらえなさそうなのは明白であるので、大人しく待つほかなさそうだった。
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2: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:22:36.59 ID:S7yVE8bX0
〇
一人取り残され、手持ち無沙汰になった私はなんとなしに目の前のパソコンを操作する。
パソコンはすみやかにスリープ状態から立ち上がり画面が点灯し、パスワードの入力を促す表示が出た。
3: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:23:32.08 ID:S7yVE8bX0
「うわ。何見てんの」
プロデューサーのおばかぶりに私が呆れていると、不意に背後から声を投げられた。
4: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:24:11.46 ID:S7yVE8bX0
そうして、ああだこうだとばかみたいなやり取りを繰り広げつつ事務所の中を歩き、食堂へと私たちはやってくる。
「プロデューサーさん、帰ってきたんですね」
「そうなんです。だめだ、って言ったのについてきて」
5: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:24:43.61 ID:S7yVE8bX0
「じゃあ、凛。何かリクエストある?」
「急に言われても、ぱっと出てこないよ」
私の返しに、彼はむーと唸り顎に手を当てる。
6: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:25:42.31 ID:S7yVE8bX0
◆
日付の変更と共に届いていたらしい友人たちからのおめでとうのメッセージへ、ありがとうの返信をしながら身支度を整えた私は自宅前の通りに出る。
7: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:26:29.63 ID:S7yVE8bX0
「これ、二人分の荷物なんだよね」
「そうだな」
「一週間、旅するみたいな量だね」
「笑っちゃうよな」
8: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:27:28.70 ID:S7yVE8bX0
○
一切の目的地を告げられないまま、彼の駆る車に揺られること一時間ほど。
9: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:28:11.83 ID:S7yVE8bX0
○
宛もなく走って、疲れたら歩いて、風景に対してあれこれと感想を言い合いながら進んでいるうちに、やがていかにもな外観のハンバーガー屋さんに行き当たる。
10: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:29:02.43 ID:S7yVE8bX0
○
「ふー。たべたたべた」
「お腹いっぱいになっちゃったね」
11: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:29:28.06 ID:S7yVE8bX0
○
「これでわかったでしょ?」
「凛の可愛さが?」
12: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:30:40.83 ID:S7yVE8bX0
○
簡単にシャワーで足を流したあとは、車に戻って汗を拭いてから着替えた。
午前のうちに着替えのストックを使ってしまうとは思っていなかったので、このペースでいけばどこかで適当な服を購入しなければならないかもしれない。
13: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:31:26.80 ID:S7yVE8bX0
車へと戻り、二人同時に一箱ずつ開封する。
結果は互いに空振りで並んでいるものはどれもスタンダードな形のものだった。
「出ないじゃん」
14: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:32:33.33 ID:S7yVE8bX0
その数分後に戻ってきた彼の手にはピノはなく、紙コップが握られていた。
「なにそれ」
「あったかいお茶」
15: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:33:13.06 ID:S7yVE8bX0
○
「失礼な店員だよ、全く」
ぷんすか怒りながらも、どこか愉快そうに言ってプロデューサーは機械的な動作でピノを口へと放り込んでいく。
16: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:34:00.79 ID:S7yVE8bX0
○
ピノをかなりの数を食べてわかったことは二つ。
17: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:34:39.40 ID:S7yVE8bX0
○
足を組んで座ったまま寝落ちしてしまっていたせいか、おかげか。
ぴりりと痺れる爪先の感覚で私は目を覚ました。まだぼんやりとした意識の中、周囲を見渡してみる。
18: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:35:16.42 ID:S7yVE8bX0
○
彼が寝ているうちに、と着替えが行える付近の施設を探して、私はジャージへの換装を終える。
19: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:35:59.35 ID:S7yVE8bX0
「どれにする?」
満面の笑みでおにぎりをもぐもぐとしている彼が背後から、私に訊ねる。
ので、「んー。これは? プロデューサー、できる?」とグローブとボールを持って、彼に見せてみた。
20: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:37:06.89 ID:S7yVE8bX0
○
「九回裏、抑え込まれていたおしぶ打線が最後の意地を見せました。クリーンナップが鮮やかに出塁し、本日初めて訪れたチャンスらしいチャンス! 満塁で迎えますは主砲、渋谷選手です。さぁアウトカウントは二つ、試合は彼女に委ねられました!」
21: ◆Rin.ODRFYM[saga]
2020/08/09(日) 23:37:40.03 ID:S7yVE8bX0
プロデューサーは本当に打たれるとは思っていなかったようで、目を白黒とさせていた。
「はい。私の勝ち」
「いや、えー? 野球できたの?」
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