1:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:09:52.33 ID:441QTGT20
「楓さんは」
窓際のソファーにいる彼女に声を掛けようとして、止めた。
夕暮れ時の事務所は、普段ならもう少し人がいるものだ。
ただ、たまたま今日は皆、仕事先から直帰したりオフだったりで、誰もいない。
夏樹がいれば、まさにそこのソファーでギターを弾いてくれたりもするけど、今日は地元で用があるらしい。
静かに流れる二人きりの空間──
そして、窓の外を眺める彼女の物憂げな横顔は、何の気無しに声を掛ける軽率さを俺に抱かせた。
ただ、あまりに他愛が無さすぎるなと思い直し、慌てて止めたけど、楓さんはこちらに振り向いている。
遅かったか。
開き直って、言葉を続ける。
「楓さんは、人前で泣いたことってあるんですか?」
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2:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:11:24.82 ID:441QTGT20
モデル上がりのスタイルの良さは今さら言うまでもないが、やはり彼女は姿勢が良い。
背の低いソファーに腰を下ろし、余った脚を瀟洒に畳むその姿もサマになる。
「なぜかそれ、よく聞かれます」
3:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:12:47.74 ID:441QTGT20
「あぁ」
合点した。そう言えば、撮影の合間に観たって話をしてたっけ。
確か、アニメ映画だったと──。
疑ってしまったことをこちらが謝る前に、楓さんは続ける。
4:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:14:08.30 ID:441QTGT20
「奏ちゃんも、そう言っていました。
ご都合主義の子供だましだって」
砂糖とミルクを多めに入れたコーヒーを、楓さんは嬉しそうに啜った。
この人は、こうして少し子供扱いしてあげた方が喜ぶきらいがある。
5:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:15:13.39 ID:441QTGT20
急にこちらを向いて、楓さんはどこか悪戯っぽく微笑んでみせた。
息がかかりそうなほど間近にある俺の顔にまるで動じることなく、宝石のようなオッドアイは真っ直ぐに俺の目を射貫く。
「──男の方」
「それは、なぜでしょう?」
6:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:16:11.54 ID:441QTGT20
「えっ?」
思わず目を見開いて振り向くと、言葉とは裏腹に、満足げに咲く楓さんの笑顔があった。
「ようやくこっちを見てくれましたね」とでも言いたげの、まるで俺の心情を見通していたかのような表情だ。
7:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:17:33.19 ID:441QTGT20
――――
「モデルをやっていた理由、ですか」
8:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:19:46.14 ID:441QTGT20
「いいえ」
お猪口の中身をクッと飲み干し、ふぅっと息をつく。
徳利を差し出すと、彼女は両手を添えてそれを受けた。
9:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:20:59.20 ID:441QTGT20
「でも、プロデューサーは私を、アイドルの道へとスカウトしたんですよね」
楓さんはニコリと微笑んで、ゆっくりと首を振り、店員を呼んだ。
「まだ大丈夫ですよ」
10:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:21:49.75 ID:441QTGT20
「ただ、あの日のプロデューサーは、ふふっ──」
「やめてください」
思い出すだけで死にたくなる。
相当酔っ払ってた俺は、彼女を目に留めた途端、脇目も振らずにスカウトに走った。
11:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:23:01.28 ID:441QTGT20
――――
「だからと言って、ケンカをしたいってことは無いでしょう」
12:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:24:00.46 ID:441QTGT20
「開けるまでならいいですよ、飲まないならね」
「中身を捨てろと?」
「ここはオフィスです、楓さん」
缶チューハイを片手に、キョトンと小首を傾げる担当アイドルを目の当たりにして、思わずため息がついて出る。
13:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:24:44.05 ID:441QTGT20
「──何でしょう」
今日の活動報告は、大体作り終えた。
そうでなくとも、いつにも増して真剣な彼女の表情は、俺の手を止めるのに十分だった。
14:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:25:58.34 ID:441QTGT20
大胆な物言いだな──
あるいは楓さんも、この二人きりの空間に流れる妙な空気にあてられているのかも知れない。
「こっちも、意地悪な言い方になるけど」
15:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:27:24.77 ID:441QTGT20
「えっ?」
何と無しに、その場で背を少し伸ばす。
こんな時、俺も夏樹のようにそのソファーに腰を下ろして、フォークギターの一つでも弾けたらな──なんて。
16:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:28:33.43 ID:441QTGT20
ひとしきり言い終わって冷静になり、ふと自分に驚いた。
こんな想いを、いつの間にやり場もなく抱いていたとは──。
でも、照れくささこそあれ、恥ずかしいという気持ちはあまり無い。
仮に今、俺の顔が赤くなっていたとしても、夕日のせいにすればいいや。
17:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:29:47.33 ID:441QTGT20
俺はまだ、この人が演技以外で泣いた姿を見たことがなかった。
それはたぶん、今まで本音をさらけ出す相手がいなかった、この人のつよがりでもあるのかも知れない。
「まぁ、いいです」
18:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:31:01.58 ID:441QTGT20
唐突に窓を叩く音がしたので、顔を上げる。
「あ──ふふっ。プロデューサー、こっち」
19:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:31:43.95 ID:441QTGT20
何やってんだよ、いい歳して。どうでもいいけどさ。
「まぁ、楓さんなら居るだけで彼らを喜ばせられるだろうけど」
「何ですか?」
「何でもない」
20:名無しNIPPER[saga]
2019/02/08(金) 22:33:24.82 ID:441QTGT20
だから、楓さん──。
もし、あなたが誰で、何のために生きているか。
あなた自身がそれに迷う時があれば、その謎が早く解けるよう、俺は──。
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