1:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 20:44:38.25 ID:QXbKSZYO0
「お戯れを、お嬢様」
箒を持ち直し、階段を上がろうとする私を、お嬢様はなおも引き留める。
「お戯れてなんかないよ、本気で言ってるの」
「本気であるなら、なおさらタチが悪いです」
知らず、ため息が出る。
お嬢様の悪い癖だ。どうやらまた始まったらしい。
「私にどうしろと仰るのですか」
「だから、さっきから言っているでしょう」
ウンザリとした態度を見せてしまう私を尻目に、お嬢様は愉快そうに胸を張ってみせる。
「すごく大手の芸能事務所らしいよ?
悪いことは言わないから、話だけでも聞いてみてあげたらどう? ね?」
「お言葉ですが、お嬢様はもう少し世間をお知りになるべきかと」
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2:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 20:47:04.88 ID:QXbKSZYO0
曰く、都心部へお出かけになられた際、芸能関係者を名乗る男から声をかけられたのだという。
耳障りの良い口車に気を良くして、自らの素性だけでなく、私の事まで紹介してしまうなど――。
「そのような誘い文句は、男が女性をたぶらかすための常套句です。
お嬢様の魅力は確たるものとしてございますが、故に安売りすべきものではありません」
3:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 20:48:16.40 ID:QXbKSZYO0
「キッパリと断り、二度とこの屋敷に近づかないよう、私の方から強く念を押しておきます」
主の世話は従者の務め、とはいえ――余計な面倒ごとを嬉々として拾ってくるのは慎んでいただきたい。
まして、相手が男では何があるか知れない。御身は大事にしていただかなくては。
4:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 20:50:43.75 ID:QXbKSZYO0
ルーマニアから日本に戻り、東京での生活を始めるまでの間、私とお嬢様は黒埼家のおじさまの屋敷に身を寄せていた。
少しの間だけでも空気の綺麗な所で静養された方が、お嬢様の身にも良いだろうという、おじさまと私の判断だった。
東京の住居の契約は、まだ行っていない。
いっそここから学校に通ったらどうかと、お嬢様を溺愛するおじさまのご提案もあったが、さすがに交通の難がある。
5:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 20:53:59.86 ID:QXbKSZYO0
窓を開け、書斎の埃をはたき、桟を雑巾で丁寧に拭く。
屋敷の部屋数は多く、床掃除には掃除機より箒の方が取り回しは利く。
一度、お嬢様がルンバを買ってきたことがあったが、物と段差が多いこの屋敷では限られた場所しか機能しない。精度も知れている。
黒埼家の従者となってしばらく経つ。
6:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 20:55:09.24 ID:QXbKSZYO0
――――。
なるほど、お嬢様の言ったことは間違っていない。
私を待ち受けていたのは、まるで熊のように大きい男だった。
7:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 20:56:11.74 ID:QXbKSZYO0
「みしろ、と読みます」
首を傾げる私に、男は注釈を加えた。
「弊社の代表が『美城』と申しますので、これを当てた数字となります」
8:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 20:58:21.36 ID:QXbKSZYO0
男をゲストルームに案内し、紅茶を出す。
椅子の背にもたれることの無いまま、男は頭を下げた。まるで背中に大きな定規が刺さっているかのようだ。
「コーヒーの方が、よろしかったでしょうか」
「いえ、お気遣いなく……あの」
9:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 21:01:50.98 ID:QXbKSZYO0
大方、歯の浮くような誘い文句が矢継ぎ早に飛んでくるのだろうと思っていた。
私のような魅力の無い者に、どのような褒め言葉を繰り出してこれるものかと、高を括っていたのは認める。
しかし――少し意表を突かれたが、男の続く言葉にはある程度の予測はついた。
10:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 21:04:51.45 ID:QXbKSZYO0
――知った風なことを。
人の幸不幸を、この男は定義できるというのか。
「はい、幸せです。
他に何か、ご用件はありますか?」
11:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 21:06:17.92 ID:QXbKSZYO0
こんな山深くまでわざわざ足を運んできた相手に対し、いくらか気が引けた思いも無いわけではない。
だが、この男も好きでここに来たのだ。たとえ骨折り損で終わることに、まさか文句は言うまい。
「最後に、一つだけお伝えしたいことがあります」
12:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 21:08:59.79 ID:QXbKSZYO0
頑とした態度を見せつける私に、男は黙って頭を下げて車に乗り、屋敷を去って行った。
まったく――芸能界というのは極めて図々しい輩の集まりだな。
一体何様のつもりだろうか。
13:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 21:10:39.25 ID:QXbKSZYO0
一通り家事を終えて自室で休んでいると、時計は夕刻を指そうとしていた。
おじさまとお嬢様、遅いな――。
だが、そろそろ夕食の準備をしなくてはならない。
14:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 21:12:27.40 ID:QXbKSZYO0
――?
妙だな。おじさまもお嬢様も、帰宅を報せるのに呼び鈴を鳴らすことはない。
また客人だろうか。こんな時間に?
15:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 21:14:47.48 ID:QXbKSZYO0
「どうぞ、召し上がってください。
この子の作るハンバーグは、ウチの自慢です。ささ、遠慮せず」
食卓に着いたおじさまが、ニコニコと笑いながら、同じく席に着いたあの男に促す。
せっかくだからと、夕食を共にするよう勧めたのだという。
16:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 21:15:54.76 ID:QXbKSZYO0
食事を終え、テーブルの上を片付ける。
男は私に、「ごちそうさまでした」と丁寧に頭を下げた。
「とても美味しかったです。
よく利用する洋食屋で食べるものよりも、繊細な味付けと食感で、非常な手間暇を感じさせるものでした」
17:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 21:17:22.71 ID:QXbKSZYO0
なるほど。
お互い車で移動していたはずのお嬢様方と男が、ここに来るまでどう接触をしたのか不思議だったが、そういうことか。
同時に、そうまでして私をアイドルにしたかったのかという、お嬢様の強い意欲を感じる。
18:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 21:18:57.19 ID:QXbKSZYO0
「ちとせは言いくるめられたのではない、千夜。私も一緒にいたのだから」
返答に窮した男に、助け船を出したのはおじさまだった。
「この子がそう考えたように、私もお前に、アイドルなるものを志しても良いのではと思ったのだよ。
19:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 21:20:23.12 ID:QXbKSZYO0
話を聞くと、男の芸能事務所――346プロダクションには、事務所が有する女子寮がその敷地内にあるらしい。
地方から上京するアイドル達の生活を支援するものであり、大手故にセキュリティも、万が一の医療体制も万全。
これまで探してきた都内のどの物件よりも、今後の私達に理解のある住まいとなるのは明らかだった。
4月から通うことになる学校にも、電車で二駅ほどしか離れていないらしい。
20:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 21:22:33.10 ID:QXbKSZYO0
――そっと、お嬢様のお顔を覗ってみる。
お嬢様は、何も言わずにニコニコと笑ったままだった。
21:名無しNIPPER[saga]
2019/11/22(金) 21:23:56.46 ID:QXbKSZYO0
「そうは言っても、私はあなたが導いてくれることを期待しているよ?」
テーブルに肘をのせ、悪戯っぽくお嬢様が微笑みかける。
「プロジェクトの名が示すとおり、千夜ちゃんをお姫様にしてあげてね、魔法使いさん♪」
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