15:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:52:12.75 ID:n4MKx+790
◇◆◇◆◇
引き延ばされた一秒が、ゆっくりと元に戻っていく。
履歴書と、必要な書類は鞄の中に入っている。何度も、何度も確かめた。
16:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:53:45.04 ID:n4MKx+790
2.「それが、愛でしょう」
中身がこぼれ落ちきった砂時計をひっくり返す。全部が下に落ちるまでには百八十秒、三分かかる小さなものだ。
それが意味しているのは一つだった。適当なペンケースと割り箸を重し代わりに乗せていた蓋からのけて、カップラーメンの封を切る。
17:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:54:54.05 ID:n4MKx+790
どこに行くにも、何をするにも緊張していた社会人一年生だった頃を思う。電車の中で吐きそうになったり、特に理由もなく出社を拒否して、いつも乗っているのとは反対方向の電車に乗ろうかなんて考えていたこともあった。
思えば二年目三年目にも、その先にも似たような感情を抱いたことがないわけじゃない。
だけど、今はそんな記憶にあるどの瞬間よりも緊張していた。
もうすぐ、担当アイドルが引退する。
18:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:55:48.66 ID:n4MKx+790
「……似合って、ますか?」
一瞬だけ、瞬きをしていたら見逃してしまいそうな僅かな間、愛梨の細い眉がどこか不安げに八の字を描く。
言葉とは裏腹に、いつだって愛梨はマイペースでいつも通りに見えるけれど、これだけの大舞台だ。裏方の僕ですら、今も胃がひっくり返りそうなほど緊張しているというのに、その舞台に登る当人なら言わずもがなだろう。
19:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:57:01.77 ID:n4MKx+790
「じゃあ、この衣装を選んでくれたプロデューサーさんは魔法使いですか? それとも、王子様?」
からかうように、ちろりと紅い舌先を覗かせて、愛梨はそう問いかけてきた。
「僕はそんなに大層なものじゃないよ、愛梨」
20:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:58:30.75 ID:n4MKx+790
「……ああ、行こう。愛梨」
答えて、彼女の手を引くまでにはどれぐらいの時間がかかっただろう。
多分、三分と経っていないはずだ。それどころか、一分かかったかどうかも怪しい。
それなのに、まるで答えるのに数年かかったかのような重みが全身を包み込んでいた。こうして愛梨の手を取って、ステージに向けて、終わりに向けて歩けているのが、不思議なぐらいに。
21:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:59:44.74 ID:n4MKx+790
だからこそ、それこそくだらない偏見でしかないのだけれど――かつての業界では確固として一つのボーダーラインとされていた、二十代を過ぎても現役でアイドルとして活動を続けている人は何人もいる。
現に、かつてのトップアイドル、日高舞も今は現役復帰しているし、その破天荒さで日々お偉いさんの頭を悩ませているとは上司から聞いた噂だった。
それだけに、愛梨がアイドルを続けるという選択肢だって、十分に考えられた。
それでも、終わりを選んだのは僕たち二人に他ならなかった。二人で話し合った末に、納得して決めたことだった。
22:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:00:46.51 ID:n4MKx+790
「どうしたんだ、愛梨?」
「えっと、今言うことじゃないかもしれないんですけど」
「ああ」
「スーツの胸ポケットにラーメンついてますよ」
23:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:01:48.50 ID:n4MKx+790
思い返す。
誰かから誕生日に贈り物を貰うことに経験がなかったわけじゃない。ただ、正直にいってしまうと、あの頃の僕は精神的に参っていた。
期待の裏返しとはいえ、入社一年目にしてさっそく大きなプロジェクトに組み込まれて、右も左もわからないままアイドルを担当することになって。
いつ失敗してもおかしくなかった。僕も、僕に関わる全ての人も、案件も、もちろん、愛梨自身も。そしてその責任はいつも自分の両肩にのしかかっている。これで気が狂わなかったことをいっそ褒めてほしいぐらいだといつも思って仕事をしていた。
24:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:02:32.54 ID:n4MKx+790
「私も……プロデューサーさんが一緒にいてくれたから、ここまで頑張ってこられたんです」
その言葉に嘘がないのは、内側から滲む熱に潤んだ彼女の瞳が示している。
思い返す。愛梨をプロデュースしていて、何度か聞いて、今改めて聞かされている言葉のことを。
嬉しくないはずがなかった。そんな感謝の言葉を添えた砂時計を手に取ったとき、僕は初めてこの仕事をやっていて良かったと、心からそう思えたのだから。そして今だって、トップアイドルとして、その名前に恥じない姿で目の前にいる愛梨からそんな言葉を受け取ったのだ。これ以上の名誉なんて、これ以上に嬉しいことなんて、きっとこの世のどこにもないのかもしれない。
25:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:03:24.02 ID:n4MKx+790
◇◆◇◆◇
正直なところ、いつもいっぱいいっぱいだった。余裕なんてない毎日だった。
それが言い訳に過ぎないことはわかっている。それでも僕はいつしか、その言い訳に甘えてしまっていたのだ。
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