十時愛梨「それが、愛でしょう」
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17:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:54:54.05 ID:n4MKx+790
 どこに行くにも、何をするにも緊張していた社会人一年生だった頃を思う。電車の中で吐きそうになったり、特に理由もなく出社を拒否して、いつも乗っているのとは反対方向の電車に乗ろうかなんて考えていたこともあった。
 思えば二年目三年目にも、その先にも似たような感情を抱いたことがないわけじゃない。
 だけど、今はそんな記憶にあるどの瞬間よりも緊張していた。

 もうすぐ、担当アイドルが引退する。
 流行り廃りが目まぐるしい現代だ。そう聞くと悲観的なことのように思えるけれど、幸運なことに、僕の担当アイドルの幕引きは極めて円満なものだった。
 十時愛梨引退公演、最終ドームツアーライブファイナル。
 かきこむようにして、スープまで全部胃袋に詰め込んだカップラーメンの容器をゴミ箱に捨てて楽屋を一瞥すれば、そんな文字の記された紙がドアには張り出されている。
 誰もが知っている、どれぐらいの人数が詰め込めるかの指標にもなるドームの席は埋め尽くされていて、ライブビューイングの会場も、チケットの争奪戦が起きるぐらいには好評を博しているのは、きっと何物にも代えがたい幸運なのだろう。

 トップアイドル。ありふれた言葉として、純粋に目指している少女たちの憧れであり目標として、或いは僕たちのような人間が売って歩くための夢として巷を飛び交うその王座に手をかけられるアイドルは、片手の指で数えられるぐらいだ。
 それでも、愛梨はそこまで上り詰めた。
 こん、こん、こん、と三度楽屋の扉をノックすれば、はぁい、と、飴玉の鈴を鳴らしたような返事が耳朶に触れる。

「愛梨、大丈夫かい?」
「はいっ、緊張して今も何だか暑くなってますけど……その分テンションだって最高潮ですっ」
「何よりだ。でも衣装は脱がないでくれよ」
「脱ぎませんってばぁ」

 軽口にむくれて頬を膨らませる愛梨は、黄色に近いオレンジを基調とした豪奢なドレスに身を包んでいる。
 残念ながら、僕は衣装のことについてはそれほど明るくないから何がどうなっていて、それが愛梨をどんな風に引き立てているかについては詳しく語る言葉を持ち合わせていないのだけれど、それでも、童話の中から飛び出してきたようなお姫様のようなドレスと、頭上を飾る銀色のティアラは、アイドルとしての愛梨を、その有終の美を飾るのに、これ以上ないほど相応しいものであることは確信できた。


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