37:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:14:52.75 ID:n4MKx+790
自然に、ハンドルを握る手に力がこもっていた。
それはきっと、僕が抱いていた焦りと、無関係ではなかった。
焦燥がちりちりと胸を焦がしていく錯覚がした。あと少しで、心臓が破裂して、内側から焼け死ぬんじゃないかなんて物騒な心配を抱いてしまうぐらいに、脈拍が上がっている。
そして。
38:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:15:39.91 ID:n4MKx+790
『死んじゃいたいとか、いなくなっちゃいたいとか、そんなことを考えたことは一度もないんです』
『…………』
恐らくそれは本当だろう。そこまで思い詰めた感情を抱えて、そしてそれを誤魔化しながら生きていれば、五年以上もアイドルとしてやっていくことは不可能に近い。
テレビが映し出す華やかなイメージとは裏腹に、アイドルは過酷な職業だ。理不尽と出会うことだって数知れないし、だからこそそんな時にアイドルを守れるように、いざとなったらいつでも彼女たちの代わりに腹を切れるように、僕たちが、プロデューサーが、マネージャーが、そしてそれより上の役職に飾られた人間がいるのだ。
39:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:16:42.33 ID:n4MKx+790
『……私、色んな人に支えられてここまで来たことはわかってます』
あんまり頭は良くないですし、天然ですけど。愛梨はそう謙遜したけれど、それをちゃんと理解している時点で十分に、十分すぎるほどに彼女は聡明だ。
『だから、ずっと……泣いちゃダメだって、そう思ってたんです』
40:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:17:26.52 ID:n4MKx+790
『……プロデューサーさん』
『……愛梨』
『もう、遅いかもしれないですけど』
泣きたいときに泣いていいですか、つらいことがあったら、弱音を吐いていいですか。それは、迷惑じゃないですか。
41:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:18:20.07 ID:n4MKx+790
だったら、最初から通じ合っていたんじゃないかと思う。それなのに、通じ合っているはずなのにすれ違う。
簡単なことのはずなのに難しくして、わかっていることのはずなのに見落としてしまう。それがどうしてなのかはわからない。
多分これも、この世に遍く存在する、いくら考えたって答えが出てこない問いかけの一つだ。
だとしたら、神様が七日目にサボったことが、よしとしてしまった間違いが、こういうものなんじゃないかと、そう思う。人間が人間である限り、どうやったって間違い続けてしまうこと。
42:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:19:18.79 ID:n4MKx+790
『愛梨』
『なんですか、プロデューサーさん?』
『歌手路線で行くつもりはないか?』
見なかったことにして、記憶の底に沈めていたものを引っ張り上げながら問いかける。
43:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:20:18.04 ID:n4MKx+790
◇◆◇◆◇
果たして十時愛梨が歌手路線一本で行く、という僕の掲げた博打は無謀の一言で一蹴されるかと思いきや、すんなりと社内を通ってくれた。
それは皆が皆、僕と愛梨の決めたことに賛同してくれた、なんて都合のいい話じゃないことぐらいはわかっている。
44:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:21:26.35 ID:n4MKx+790
きっと、奇跡と人はいうのかもしれない。
いつだったか、路線を変えることになって、最後に臨むこととなった和装グラビアの撮影の時に愛梨が呟いていた一言が、はたと頭の片隅に零れて落ちる。
『何千年先も、みんなの心に残るような……そんなアイドルになりたいです』
45:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:22:26.67 ID:n4MKx+790
「私、一番最初に言いました。私がトップアイドルになれば、プロデューサーさんはトッププロデューサーになるって、だから、トップを目指すって、プロデューサーさんといれば、トップアイドルになれると思うって」
「……ああ、覚えてるよ」
「それと、あの時言いました。大好きですって。だから、私のプロデューサーはプロデューサーさんだけです。そこに、代わりなんて絶対にいませんっ!」
思えば、至らないことばかりだった。
46:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:23:39.25 ID:n4MKx+790
――プロデューサーさん、プロデュースしてください! ほら、レッスンしましょ!
愛梨を担当することになって初めてレッスンに同伴するとき、そんな言葉をかけられたことを覚えている。
スタッフに見送られて、ゆっくりと開いていくカーテンの演出に合わせて、愛梨は花道を歩んでいく。
人生は長い旅路のようなものだと誰かが言った。だとしたら、僕たちが歩んできたのは、きっと始まりを探す旅だった。
47:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:24:41.35 ID:n4MKx+790
「私、天然だってよく言われるんです」
知ってる、と、マイクパフォーマンスに答えるようにレスポンスが飛んで、会場が笑いに包まれる。だけど、そこに侮蔑や嘲笑は一切ない。裏方から客の姿は見えないけれど、一つに溶け合って聞こえてくる笑い声は色とりどりだけれど、皆、温かなものに感じられる。
皆、ずっと待っていた。愛梨が帰ってくることを。このきらめく舞台で歌うことを。
いくつもの優しさに、何物にも代えることの出来ない幸せに包まれて、愛梨はフィナーレを謳う言葉を噛み締めるように紡ぎ上げていく。
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