8:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:44:44.83 ID:n4MKx+790
皆が元に戻っていったのに対して私はというと、影を地面に縫い付けられたようにじっと体育座りをしていたまま、そのひとのことを見つめていた。
今思えば結構な迷惑だったのだろうけれど。
それでも、空に浮かんでいた何かを、きっとそこにあった思い出を手繰り終えたのか、そのひとはゆっくりと私へと振り返って、こう言ったのを覚えている。
『歌、好きなんだ?』
9:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:45:52.78 ID:n4MKx+790
『だから、歌うのが好きなのかなあって、そう思ったの。嫌いだったならごめんね』
子供相手に謝る言葉なんて軽いものだ。
その時から大分時間が経って、今でもそう思うのはきっと、先生が間違ったところを指摘したときにどこか嫌そうな顔をしてから悪かった、といったり、ゲームセンターでメンテナンス不良を指摘した同級生に申し訳ございません、といいながらも嫌々作業をしているのが見てとれるアルバイトの人だったり、かかってきた営業の電話にお父さんとお母さんは家にいません、というと一瞬微妙な間が空いてからすみませんでした、と聞こえてきたりと、そんな人ばっかりを見てきた偏見が積み重なったからかもしれない。
10:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:46:53.80 ID:n4MKx+790
『……うたうの、すきなんです』
私は、嘘をついてしまっていた。
思い出す。泣きじゃくる私の隣に同じ体育座りで腰掛けて、その人はじっと、要領も得なければ、聞き取りやすいものではないし、何より、縁もゆかりもないし、聞く義理も義務もない私の言葉に、とても真剣に、耳を傾けてくれていたことを。
11:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:47:56.29 ID:n4MKx+790
歌を嫌いになったきっかけなんて、ありふれたものだった。お遊戯会の出し物である合唱の練習をしていた途中、私の隣で歌っていた男の子が突然歌うのをやめて、私のことを音痴だと罵ってきたのだ。
歌の音程が合っているかどうかなんて、その道に進むのでもなければ大体誰かが気にするようなことでもないし、カラオケとかで調子外れな歌を披露している友達がいたとしても、何も言わないで盛り上げ立てるのが暗黙の了解みたいなものだ。
だけど、子供というのはどうしたって敏感なもので、その男子にとって私の音程が外れた歌は、どうしたって許すことのできないものだったのだろう。
その日はもう大喧嘩だった。どっちから先に手を出したのかはわからない。でも、私はいても立ってもいられなくなって、その男子の頬に思いっきり平手を打ち込んだことを覚えている。
12:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:49:09.20 ID:n4MKx+790
――あのね、歌って、リズムなんだよ。ちっちゃな流れと、おっきな流れががちゃんってなって、歌になるの。
きっと小さな私にもわかるように、そんな言葉を選んだのだろう。それから時間が経ってみればどういうことなんだろう、とわからない部分が出てきたり、そういうことなのかもしれない、とその時みたいに納得できたり、なんだか微妙な感じの言葉だったけど。
『私が歌ってた歌、結構難しいんだ。でも、あなたはちゃんとついてきてた。だからね、あなたの歌は下手なんかじゃないよ。お姉さんが保証してあげる』
13:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:50:26.53 ID:n4MKx+790
『……おねえさん』
『なあに?』
『ありがとうございます』
私に謝ってくれたのと同じぐらいに、精一杯の気持ちを込めて、頭を下げる。
14:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:51:25.16 ID:n4MKx+790
『どうしたの?』
『おなまえ、おしえてくれませんか!』
今考えてみたら、これはとんでもなく大それたことだったのだろう。
でも、その時の私は知らなかった。ずっと歌を嫌いなままでいたから、知ろうともしていなかった。
15:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:52:12.75 ID:n4MKx+790
◇◆◇◆◇
引き延ばされた一秒が、ゆっくりと元に戻っていく。
履歴書と、必要な書類は鞄の中に入っている。何度も、何度も確かめた。
16:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:53:45.04 ID:n4MKx+790
2.「それが、愛でしょう」
中身がこぼれ落ちきった砂時計をひっくり返す。全部が下に落ちるまでには百八十秒、三分かかる小さなものだ。
それが意味しているのは一つだった。適当なペンケースと割り箸を重し代わりに乗せていた蓋からのけて、カップラーメンの封を切る。
17:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:54:54.05 ID:n4MKx+790
どこに行くにも、何をするにも緊張していた社会人一年生だった頃を思う。電車の中で吐きそうになったり、特に理由もなく出社を拒否して、いつも乗っているのとは反対方向の電車に乗ろうかなんて考えていたこともあった。
思えば二年目三年目にも、その先にも似たような感情を抱いたことがないわけじゃない。
だけど、今はそんな記憶にあるどの瞬間よりも緊張していた。
もうすぐ、担当アイドルが引退する。
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