8:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 17:44:44.83 ID:n4MKx+790
皆が元に戻っていったのに対して私はというと、影を地面に縫い付けられたようにじっと体育座りをしていたまま、そのひとのことを見つめていた。
今思えば結構な迷惑だったのだろうけれど。
それでも、空に浮かんでいた何かを、きっとそこにあった思い出を手繰り終えたのか、そのひとはゆっくりと私へと振り返って、こう言ったのを覚えている。
『歌、好きなんだ?』
好き。その時は、嫌いの反対にあった言葉。
だから私は、ううん、と、首を横に振るしかなかった。だって、歌は大嫌いだったから。
『きらい』
『そうなんだ』
不躾で、無礼で、遠慮の欠片もない否定の言葉だったけれど、大して気を悪くした様子もなく、そのひとは私の知っている誰よりも綺麗で、温かい笑顔を浮かべていた。
『ごめんね、でも私が歌ってたとき、一緒に口、動かしてくれてたの、あなただけだったから』
はっとしたように、幼い私は俯く顔を上げた。
何に驚いたのか、その時は言語化できなかったけれど今ならわかる。そのひとは歌っていただけじゃなくて、周りに集まってきた人のことまでじっと観察していたのだ。
言葉にしてみれば簡単そうに見えるそれが、どれだけ難しいことか。
私以外の誰かが歌っているとき、いつも見ているのは何もない空の一点だ。そこに向けて声を出せと、そう教えられているから。テレビで見る歌手の人たちは、当然その瞬間を切り抜かれているからなんだけど――カメラのある方向だけを見つめている。
でも、このひとは違う。頭の上に載せていたキャスケットを少し目深に被り直して、そのひとは、じっと私を見つめていた。
だけど、その時の私は、それ以上に、自分が口を動かしていた、という事実に驚いていたのだと思う。
当たり前だ。私が歌に合わせて口パクをするのはいつだって嫌々やっている、やらされていることで、何なら一回口パクすらしないで黙りこくっていたら先生にこっぴどく怒られたからで、決して自分から進んでやるようなことじゃなかったのだから。
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