30:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:07:57.60 ID:n4MKx+790
ここで、一つボタンを掛け違えていたことに気付けば、何かが変わったのだろうか。
わからない。いや、きっと気付いていなかったはずがない。
言葉にこそ出来ないけれど、見逃してはいけない致命的な齟齬。それは確かに存在していたはずなのに、僕はそれに蓋をして、見て見ぬ振りを繰り返していたのだ。
だってそうだろう。世間には需要があって、それが何年も落ち込んでいないのは、とりもなおさず愛梨がアイドルとして求められていることの証左だ。そして、多くの人間が望んでいて、愛梨自身もそこに不満を抱いていないのなら、きっとこの方針でアイドルを続けていくことに間違いはない。
31:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:09:04.09 ID:n4MKx+790
その話を愛梨から聞いたときは、ひどい雪が降っていたことを覚えている。
首都の道路に積もった雪を、無数のヘッドライトとテールライトが照らしていると書けば少しは風情がありそうなものだけれど、生憎風情より何より、遅々として進まない車が列を成している苛立ちが、時折クラクションになって聞こえてくる殺伐とした夜のことだった。
僕もわざわざクラクションを鳴らしたりはしないけれど、例に漏れず、少しだけ苛立っていた。進んでいくのは気晴らしにつけているカーステレオから流れるラジオばかりで、車の列は何分経ってようやく一メートル進むか進まないかという有様に、怒りを感じるなという方が無理な話ではあったけれど、ささくれ立った感情の大本がそこにはないことぐらいは理解していた。
『それではここで一曲お届けしましょう、天海春香で――』
32:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:09:53.22 ID:n4MKx+790
『うーん……これって言っていいんでしょうか』
『何か、悪いことでも?』
『そんなんじゃないんですけど』
発売前の新譜を何かのコネを使って事前に入手していました、というのはそれが流通に絡む人間なら当たり前の話だけれど、歌う方で、ましてや競合する他社のアイドルが歌う予定のものを不正に盗み聞きしたとあれば信用に関わる。
33:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:10:34.98 ID:n4MKx+790
『私、プロデューサーさんには感謝してるんです』
『……それは、僕もだよ』
そこに嘘はない。進む気配のない渋滞の中で、息が詰まりそうな緊張がどこかに空いた隙間から流れ込んできて、背筋を伝っていくような、そんな寒気を感じた。
その言葉に嘘はなくても、喋っていない部分に嘘が隠されている。
34:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:11:56.31 ID:n4MKx+790
『あの天海春香と?』
『はい、あの天海春香さんと』
いつものように悪戯っぽく、だけど、どこか困ったような笑みを浮かべて、愛梨が答えた。
この業界は広いようで狭い。天辺に近づけば近づくほど知っている顔が増えて、事務所が違っても仲のいい友達がいる、なんていうのはそんなに珍しいことでもない。
35:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:12:55.87 ID:n4MKx+790
ただ、どこかで行き詰まったとき、人は今いる場所じゃなければどこでもいいからと、結局今いる場所からそう離れていないところをぐるぐると歩き回っていることが多い。うちの事務所だと、一ノ瀬志希――まで行くと本当に放浪癖だが、塩見周子や二宮飛鳥辺りはそんなプチ迷子とでも呼ぶべき癖を持っていることは記憶していた。
それでも、愛梨にもそんな癖があった、と、いうより、そこまで何か思い詰めていたこと自体が、初耳だった。
『それでは二曲目です、寒さも一気に吹き飛ばす、高槻やよいでゲンキトリッパー、お聴きください』
36:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:13:52.55 ID:n4MKx+790
『春香さん、歌ってたんです。さっき流れた曲だったんですけど、なんでか私、ずっとそれに聴き入っちゃって』
想像する。愛梨が紡いだ言葉から、夜の埠頭で歌う天海春香の姿を。
生憎、どんな曲なのかはこのとき頭から抜け落ちてしまっていたけれど、それでも何となく様になっていると、そう思った。きっと、天海春香なら夜の公園だって、ボロボロのテントを背景にした芝生の上だって、どこだって自分のステージになる。
悔しいけれど、何度かオーディションでぶつかったとき、そして歌番組で共演したときに、彼女の中にあるアイドルとしての魅力というべきものは嫌というほど見せつけられた。
37:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:14:52.75 ID:n4MKx+790
自然に、ハンドルを握る手に力がこもっていた。
それはきっと、僕が抱いていた焦りと、無関係ではなかった。
焦燥がちりちりと胸を焦がしていく錯覚がした。あと少しで、心臓が破裂して、内側から焼け死ぬんじゃないかなんて物騒な心配を抱いてしまうぐらいに、脈拍が上がっている。
そして。
38:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:15:39.91 ID:n4MKx+790
『死んじゃいたいとか、いなくなっちゃいたいとか、そんなことを考えたことは一度もないんです』
『…………』
恐らくそれは本当だろう。そこまで思い詰めた感情を抱えて、そしてそれを誤魔化しながら生きていれば、五年以上もアイドルとしてやっていくことは不可能に近い。
テレビが映し出す華やかなイメージとは裏腹に、アイドルは過酷な職業だ。理不尽と出会うことだって数知れないし、だからこそそんな時にアイドルを守れるように、いざとなったらいつでも彼女たちの代わりに腹を切れるように、僕たちが、プロデューサーが、マネージャーが、そしてそれより上の役職に飾られた人間がいるのだ。
39:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:16:42.33 ID:n4MKx+790
『……私、色んな人に支えられてここまで来たことはわかってます』
あんまり頭は良くないですし、天然ですけど。愛梨はそう謙遜したけれど、それをちゃんと理解している時点で十分に、十分すぎるほどに彼女は聡明だ。
『だから、ずっと……泣いちゃダメだって、そう思ってたんです』
40:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:17:26.52 ID:n4MKx+790
『……プロデューサーさん』
『……愛梨』
『もう、遅いかもしれないですけど』
泣きたいときに泣いていいですか、つらいことがあったら、弱音を吐いていいですか。それは、迷惑じゃないですか。
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