12:吹き矢[sage saga]
2023/04/07(金) 15:15:40.72 ID:laNpeqI/0
「なん、て?」
違和感。沈む。深く。
手をついたにちかのベッドに、強い違和感を感じた。
にちかの下半身を覆うベッドの掛け布団に身を乗せているのだ。そこに乗せている手のひらで感じているものが、やけに柔らかい。手が体の重みでやけに沈む。
本来ならば、そこにあるべき質感、固さ、柔らかさが、無い。
13:吹き矢[sage saga]
2023/04/07(金) 15:16:09.79 ID:laNpeqI/0
何も返せなかった。自身に恨み辛みをぶつけてスッキリするならばそれが一番だと居座るつもりだったが、彼女が流した僅かな涙に、心の奥底まで自分には救えないと思い知らされたのだ。
俺はただただ黙って、にちかに一礼をした。
深く深く、深く。
長く長く、長く。
できればこのまま、贖罪のまま時が止まればと願うほどに。
14:吹き矢[sage saga]
2023/04/07(金) 15:16:38.32 ID:laNpeqI/0
次の日。美琴とは事務所にて待ち合わせをした。
「おはよう、美琴」「うん、おはよう」とだけがにちかの病室に着くまでの間に美琴と交わした会話だった。
最早自ら何か声をかけることができなくなっていた。美琴がどう思っているのか、今の俺にはわからなかった。
病室内は静寂としていた。
じっとにちかを見つめる美琴。
15:吹き矢[sage saga]
2023/04/07(金) 15:17:09.13 ID:laNpeqI/0
それから毎日とはいかなかったが、二日に一度は必ずにちかの元を伺った。行ける時は週六度ほど、同日に二回行ったこともあった。
はづきさんは断らず、にちかも口では何も言わなかった。
いつも彼女は笑顔を浮かべて、1時間ほど俺が一方的に話すだけ。だが、だからといって何かが改善するわけじゃなかった。
にちかの脚が生えるわけでもない。彼女がアイドル引退を撤回するわけでもない。
ただ、ただにちかが居なくなるのが嫌だから、居なくなってないのを確認するためだけの訪問だった。
16:吹き矢[sage saga]
2023/04/07(金) 15:17:40.06 ID:laNpeqI/0
いいや、違う。
俺はただ諦めているだけだ。
いつかにちかの心が変わるかも、なんてありもしない未来を望んでいるだけだ。
臆病な狂信者だ。
俺は誰だ? 何者なんだ?
17:吹き矢[sage saga]
2023/04/07(金) 15:18:08.66 ID:laNpeqI/0
何度も通っているうちに看護師の中で俺の顔を知らない者は居なくなった。ご苦労様ですと労いの言葉ををかける者もいた。
今日はいつもよりも大きな荷物を持ってきた。肩から下げたトートバッグは時折持つ腕を変えなければ辛くなってしまう。
いつもならば、開けるのを躊躇う病室の扉も今日ばかりは少しも重みを感じなかった。
「おはよう、にちか」
朝食を済ませたにちかは、はづきさんが暇つぶしにと持ってきた雑誌を読んでいた。
18:吹き矢[sage saga]
2023/04/07(金) 15:18:36.13 ID:laNpeqI/0
その日は書類整理が忙しい日だった。SHHisが空けた穴を埋めるように、多忙になった283プロの皆んなの仕事が増えれば増えるほど、やらねばならないことは必然的に増えていた。
デスクに向かってPCのキーボードを叩く。目が霞む感覚はあるが、それでも体はよく動く。
「プロデューサー。少し、いいかな」
PCの向こう側から美琴が声をかけてきた。
「ああ、いいぞ。どうした」
19:吹き矢[sage saga]
2023/04/07(金) 15:19:21.13 ID:laNpeqI/0
「そん、な……そんなの」
美琴は諦めている。にちかはそれを疑わないでいた。きっと自分のような、未熟者が更に半端になってしまえば美琴の足手まといになってしまうと思っていた。だからこそ、美琴の言葉に涙を流していた。
「社長にはグロテスクだと言われたよ。あまりにも無謀で、にちかのことを何も考えていないんじゃないかと。けど……俺はこのままにちかにさよならで終わりだなんてしたくない」
「確かに、これまでのようなダンスは踊れない。けどにちかが最初にアイドルを始めた時だって、一からダンスを学んだじゃないか。踊ることには変わらない。もう一度……もちろん出来ることには差がある。また覚え直すのは辛いかもしれない。けれど」
「100人に見せて、100人が受け入れてくれる、とは俺も思ってない……。ひどい言葉をかけてくる様な人も、いるかもしれない。だから、全ての責任は俺に投げればいい。そのためのプロデューサーなんだ。そのための俺だから。にちかは……にちかが輝けるように用意するのが俺なんだ——それに、諦めてほしくないのは俺と美琴だけじゃない」
20:吹き矢[sage saga]
2023/04/07(金) 15:19:49.74 ID:laNpeqI/0
映っていたのは先日、とある雑誌でSHHisに、にちかについて語っていた、あのアーティストだった。トレードマークの特徴的なサングラスと肩まで伸びたウェーブかかったロン毛で一目に彼だと分かった。
録画では、既に番組は中盤に差し掛かっているようだった。
「いやぁ、だけどねぇ、ほんとねぇ。○○くんは凄いねぇ。これを一人でねぇ、やってしまうんだから」歳を食った年配の司会者がねちっこい話し方で、褒めているのか皮肉っているのか、嫌な意味で心に残りやすい話し方をする。
「そんなことはないですよ。そういう道を選んでるので」ドライな答え方をする。彼はそういうアーティストだからだ。
「いやぁ、しかしねぇ? 話は変わるけどさぁ。シーズ、残念だよねぇ。七草にちかちゃん」
21:吹き矢[sage saga]
2023/04/07(金) 15:20:17.22 ID:laNpeqI/0
この後SNSでは阿鼻叫喚の騒ぎだった。彼の話に同調する者もいれば、成功した人だから言える事だと反対を唱える者も居た。様々な意見があったが、それでも彼の言葉を信じ、七草にちかの復活を望み、信じ、夢見る者たちは多く声をあげ出した。
「にちか……」
彼女はずっとスマートフォンを眺め、握りしめていた。SNSに挙がった彼女を応援する言葉に強く心を打たれていた。目からは熱い、熱い涙が溢れていた。
彼女の心にはさっきのアーティストの言葉が反響していた。
見る夢がないなら、夢を見せよう。それが、|彼の夢《アーティスト》。
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