25:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:03:24.02 ID:n4MKx+790
◇◆◇◆◇
正直なところ、いつもいっぱいいっぱいだった。余裕なんてない毎日だった。
それが言い訳に過ぎないことはわかっている。それでも僕はいつしか、その言い訳に甘えてしまっていたのだ。
26:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:04:12.14 ID:n4MKx+790
プロデュースを初めて三年ぐらい経ったところで、愛梨の人気に陰りが出てきた。それは認めがたいことだったけれど、事実だった。
愛梨が誰からも注目の的になった初代シンデレラガールであることに変わりはない。今だってそうだ。勝ち取った栄光は不変のものとして輝き続ける。
だけど、アイドルには賞味期限がある。そのことを示すようにCDの売り上げは右肩下がりで落ちていったし、そうしている間にも次代のシンデレラガールが生まれたり、未来のトップアイドル候補生として色んな事務所から日々アイドルの卵がデビューし続けていた。
だからこそ、焦っていたのかもしれない。
27:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:05:03.39 ID:n4MKx+790
アイドルとは、なんだろうか。
きっとそんなことを同じ業界の人間に聞いたとしたら、今はそんな哲学なんて語っている暇はないと一蹴されるか、そうでなければ僕と同じく頭を抱え続けるかのどっちかだと思う。
当たり前だ。そこに明確な答えなんてないのだから。今だってはっきりとした答えを出せる気がしない。
迷走していた。きっとあの三年目から、二年前の夜までずっと、僕は愛梨をプロデュースしているつもりが、愛梨にプロデュースされて、いや、回る世界と自分自身の不甲斐なさにずっと、振りまわされ続けてきたといってもいい。
28:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:06:00.07 ID:n4MKx+790
ファンとの交流企画を立てるコンペティションで、海の家を運営して、そのメインスタッフをアイドルに一任するという企画が採用されたのは、丁度それから一年ぐらい経ってのことだった。
生憎僕の考案した企画ではなかったけれど、それならば他に適役がいるはずもない、と、メンバー選抜において真っ先に白羽の矢が立てられたのが愛梨だったのはきっと用意されたかのような必然だった。
『うーんっ、気持ちいいですねっ。今回は海の家の看板娘ってことで、私、いっぱいいっぱい頑張ろうと思ってたんですっ』
29:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:07:07.83 ID:n4MKx+790
ただ、何か違和感があるとするなら、彼女がプロジェクト初期からのメンバーではなく、新規スカウト枠として事務所に、プロジェクト・シンデレラガールズに後から所属したことだった。
愛梨がグラビアクイーンとして天下を取った。
そこにだって嘘も間違いもない。愛梨が映るポスターや写真はいつだって人気を博して、注目を集めてきた。何より、その功績こそ全て愛梨のものでも、そうなるように仕向けてきたのは僕自身に他ならないのだから。
それでも、僕はそこに感じた引っかかりのようなものを拭えなかった。やっていたが元からグラビアの仕事なのだから考えすぎだと言われればそれまでの話だったし、実際、その時はそこまで深刻に捉えていなかったはずだ。
30:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:07:57.60 ID:n4MKx+790
ここで、一つボタンを掛け違えていたことに気付けば、何かが変わったのだろうか。
わからない。いや、きっと気付いていなかったはずがない。
言葉にこそ出来ないけれど、見逃してはいけない致命的な齟齬。それは確かに存在していたはずなのに、僕はそれに蓋をして、見て見ぬ振りを繰り返していたのだ。
だってそうだろう。世間には需要があって、それが何年も落ち込んでいないのは、とりもなおさず愛梨がアイドルとして求められていることの証左だ。そして、多くの人間が望んでいて、愛梨自身もそこに不満を抱いていないのなら、きっとこの方針でアイドルを続けていくことに間違いはない。
31:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:09:04.09 ID:n4MKx+790
その話を愛梨から聞いたときは、ひどい雪が降っていたことを覚えている。
首都の道路に積もった雪を、無数のヘッドライトとテールライトが照らしていると書けば少しは風情がありそうなものだけれど、生憎風情より何より、遅々として進まない車が列を成している苛立ちが、時折クラクションになって聞こえてくる殺伐とした夜のことだった。
僕もわざわざクラクションを鳴らしたりはしないけれど、例に漏れず、少しだけ苛立っていた。進んでいくのは気晴らしにつけているカーステレオから流れるラジオばかりで、車の列は何分経ってようやく一メートル進むか進まないかという有様に、怒りを感じるなという方が無理な話ではあったけれど、ささくれ立った感情の大本がそこにはないことぐらいは理解していた。
『それではここで一曲お届けしましょう、天海春香で――』
32:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:09:53.22 ID:n4MKx+790
『うーん……これって言っていいんでしょうか』
『何か、悪いことでも?』
『そんなんじゃないんですけど』
発売前の新譜を何かのコネを使って事前に入手していました、というのはそれが流通に絡む人間なら当たり前の話だけれど、歌う方で、ましてや競合する他社のアイドルが歌う予定のものを不正に盗み聞きしたとあれば信用に関わる。
33:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:10:34.98 ID:n4MKx+790
『私、プロデューサーさんには感謝してるんです』
『……それは、僕もだよ』
そこに嘘はない。進む気配のない渋滞の中で、息が詰まりそうな緊張がどこかに空いた隙間から流れ込んできて、背筋を伝っていくような、そんな寒気を感じた。
その言葉に嘘はなくても、喋っていない部分に嘘が隠されている。
34:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/18(木) 18:11:56.31 ID:n4MKx+790
『あの天海春香と?』
『はい、あの天海春香さんと』
いつものように悪戯っぽく、だけど、どこか困ったような笑みを浮かべて、愛梨が答えた。
この業界は広いようで狭い。天辺に近づけば近づくほど知っている顔が増えて、事務所が違っても仲のいい友達がいる、なんていうのはそんなに珍しいことでもない。
57Res/91.81 KB
↑[8] 前[4] 次[6]
書[5]
板[3] 1-[1] l20