2:名無しNIPPER[saga]
2020/06/11(木) 19:36:09.35 ID:fM9nM/xA0
担当アイドルがぶっ倒れた。
寝耳に水、青天の霹靂。辞書でも引けば、いくらでも現状を表す言葉は出力されそうなものだが、生憎それ自体はあまり珍しいことではなかった。
担当アイドルが倒れることが珍しくない、というのも考えてみれば妙な話だが、俺が担当している彼女――黒埼ちとせは、極端に身体が弱い。
どこまで本当かはわからないが、時に自分が、まるで余命幾ばくもないかのように振る舞うことも珍しくなかった。だからこそ、専用にレッスンのメニューを考えたり、スケジュールを調整したりとあれこれ奔走して、何とか彼女がステージに立てるぐらいには体力を付けるように取りはからっていたはずなのだが。
3:名無しNIPPER[saga]
2020/06/11(木) 19:37:32.98 ID:fM9nM/xA0
「意識不明……ですか?」
意識不明。オウムが覚えたての言葉を繰り返すように、たった今、目の前で白衣に身を包んだ医者が告げた事実を諳んじる。
「はい、残念ながら原因は不明ですが」
4:名無しNIPPER[saga]
2020/06/11(木) 19:39:24.58 ID:fM9nM/xA0
何かを落としてきたような、そんな心地がした。
それについて、俺はきっともっと悲しんで、涙を流して、探さなければいけないはずなのに。
胸の内側を鈍器でぶん殴られているような痛みが走るのに、今も、あの桜の下で微笑んでいたちとせの姿がさらさらと摩耗しているのに。
なのに、歩けている。目的地はそこじゃないはずなのに、事務所に、仕事に、いつも通り戻れている。それがただ、不甲斐なくて仕方なかった。
5:名無しNIPPER[saga]
2020/06/11(木) 19:40:52.33 ID:fM9nM/xA0
『捜し物は見つかった?』
今でも、たまに夢に見ることがある。
手持ち無沙汰になった企画書のページをめくりながら、俺はただ、上層部に命じられた通り、割り当てられたオフィスで待機していた。
6:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:42:12.70 ID:fM9nM/xA0
だったら、俺はどうしてあれほどまでにちとせに執着していたのか。
三日三晩、営業回りに優先して、街角で見付けた彼女を探していた。これは冗談でも何でもない。新宿で、池袋で、渋谷のスクランブル交差点で。砂漠の中に一粒だけ落とされたダイヤモンドを探すかのように、俺はちとせをスカウトしようと必死になっていた。
『会いたかった?』
7:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:43:20.31 ID:fM9nM/xA0
ああ、そうだ。
初めにそう言い出したのは、確か。
廊下に置かれている自販機に百円玉を二枚投じて、上段を彩るエナジードリンクのボタンを押す。その動作に十秒もかからないのも、一種の職業病というやつなのだろう。
「あっ、ちとせさんのプロデューサーさん。お疲れ様ですっ」
8:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:44:29.44 ID:fM9nM/xA0
だが、巷を行き交う流行り廃りとは別の話だ。
数年前に業界の中でも全く無名といって差し支えのない事務所が起こした奇跡があった。
765プロダクション。今ではその存在とそこに所属しているアイドルの顔と名前を知らない人間は、この国でもきっと少数派だろうが、数年前はそうじゃなかった。
天海春香をセンターに据えた765プロオールスターズの十三人は瞬く間にスターダムを駆け上がって、第三次アイドル戦国時代の嚆矢となった。これがもし、うちやライバルの最大手が仕掛けたことであったのなら、人々はそれほどの関心を持たず、彼女たちが日高舞の再来と噂されることもなかっただろう。
そして、うちがアイドル部門を設立することも。
9:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:46:01.31 ID:fM9nM/xA0
正直なところ、歯牙にもかけられていないと、そう思っていた。
黒埼ちとせはトップアイドルになれる。俺はそう信じて疑っていないし、実際、着実に彼女のファンは加速度的に増え続けているが、まだ、そう呼ばれるに相応しい実績は積み上げていないのが実情だ。
トップアイドルとなれば、しがらみも多いし関わる人間の数だってそうだ。十時さんは仲間だといったが、プロジェクト・シンデレラガールズの性質上、この事務所にいるアイドルたちは皆ライバル同士ということになる。
勿論、765プロダクションの彼女たちだって当人同士はきっとそう思っているのだろうが、「敵」とまではいかなくとも、兄弟家族と呼ぶには遠い戦いの相手だというのに違いはない。
10:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:47:04.19 ID:fM9nM/xA0
ちとせの言葉には、いつもどこかに嘘が含まれている。
別に、彼女を嘘つきだと詰るつもりはない。それでも事実として、彼女は言葉の端々に冗談を交ぜて、まるでそこにある本当を薄めるかのような癖があった。
俺を見て魅入られている、といったのは、他でもない十時さんを担当しているプロデューサーだった。
彼は優秀だ。まだ駆け出しに毛が生えた程度の俺なんかより、遙かに。
11:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:48:11.40 ID:fM9nM/xA0
多少の申し訳なさを感じながら覗き込んだ顔は、昼寝をしているように穏やかだった。そこに苦痛はないようにさえ見えた。
それでも、さらさらと、今も少しずつ透明な何かが彼女から剥離しているのだろう。
そして、その原因はわからない。倒れた理由も、いつまで無事でいられるのかも、何が剥離しているのかも、意識が戻るかどうかも、全部が全部不透明で宙ぶらりんなまま、ちとせは病室の中でたゆたっている。
37Res/55.36 KB
↑[8] 前[4] 次[6]
書[5]
板[3] 1-[1] l20