17:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:54:55.75 ID:fM9nM/xA0
『お嬢さまは、価値のなかった私に意味をくれた』
どこかで読んだ本に書いてあった。人生とは今まで積み重ねた過去の総和であると。
だとすれば積み重ねた過去が全て無価値になる、無に帰することがあったのなら、そして更にそこから引き算が成されたら、人間はどうなるのか。
大学時代にキルケゴールの本を読んで、レポートを書けという課題が出たのを思い出す。死に至る病だったか、宗教観が強くて大分癖のある本だったが、それでも多くの人間がタイトルから想起する通りに、絶望は人を死に至らしめるのだと、そういうことが書いてあったはずだ。
18:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:56:01.21 ID:fM9nM/xA0
「……私は」
永遠にも似たその重力を先に振り切ったのは、果たして千夜の言葉だった。
震える唇が微かに紡ぎ出した、たった一言。それは知らない人間が聞いたのなら、いつもと変わらないように怜悧で鋭い響きを持っているようにも聞こえるのだろう。
ただ、そこには絶望があった。きっと過去に戻って彼女の口からもう一度その名前を聞いたときにも同じ事を感じるのであろう、果てのない虚無。
19:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:56:49.02 ID:fM9nM/xA0
「悪くなかった。従者としてお嬢さまと共にある自分以外の自分ができることも、偏屈で、他人が嫌うような私にわざわざ関わりを持とうとした変わり者に囲まれることも。いつしかそう思うようになって……私の中にはもう一つの価値が生まれてしまった」
舞台の上では主人であるちとせと対等の存在として肩を並べる、ヴェルベット・ローズとしての白雪千夜。年少組に囲まれて、困惑しながらも小さな彼女たちの面倒を見る白雪千夜。この事務所に来てから彼女の中に生まれたものを、彼女が価値と言い換えていたそれを数えていけば、枚挙に暇がないだろう。
価値。定量化できるもの。換算できるもの。
20:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:58:20.50 ID:fM9nM/xA0
「……私は。生きたい。私として、お嬢さまと生きたいんだ。少しでも長く、お嬢さまと……舞台に立って、共にありたいと、その為の価値を、自分に求めている。おかしいだろう、お前を散々夢想家だなんだと笑ってきた私がこの有様だ、何よりもそれを最上位に置いているんだ。ここでの日々は悪くない。変わり者だと今でも思う時はあるけれど、私に接してくれた人間を無碍にすることはできない。ただ……そこにお嬢さまがいなければ、私は」
笑ってくれ。自嘲する千夜の瞳からは、絶え間なく涙が注いでいた。
注ぐ。空には満天の星々が輝いているのに、ここだけが地球から切り離されて、雨が降り注いでいる。
21:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:59:13.10 ID:fM9nM/xA0
それでも、俺は。
俺の身体はまだ、涙を流せてはいなかった。できることなんて、ただ三十六度の熱を持った壁になることぐらいだった。
神様に祈ったことは何度もある。だけど、今回は特別だ。
もしも。もしもだ。定量化されることを、価値と無価値に分けられることをあんたが否定するのなら、俺がこうしていることにも、何かの願いや祈りが、そこに込められた意味があってくれるのだろうか。
巷に雨が降るように、と、昔の詩人がどこかで言った。その通りだと、そう思う。なら、俺の心に溢れているものは、どうやったら外に出てくれるのだろうか。
22:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:59:59.33 ID:fM9nM/xA0
月明かりに照らされた病室は、ドラマで見るよりもずっと静かで、背筋に粟立つような怖さがあった。
『……私は祈りました。願いました。お前も……お嬢さまに仕える者であるなら、そうしてはいかがですか』
一頻り泣いた千夜を見送るときに聞いた言葉を思い返す。そういえば仕事の事後処理やら何やらで、まだ一度しかちとせには面会していなかったし、その時間だって短いものだった。
23:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:00:57.96 ID:fM9nM/xA0
誰かの死に目に立ち会うという経験は何度かあった。
縁起でもない話なのはわかっている。それでも今、死という場所に一番近いちとせを見て、それを思うなというのも難しい。
死、という言葉を聞いたとき、人が考えるのは多分ありったけの苦しみとか痛みとか、そういうものであるはずだ。
初めて誰かの死を見送ったのは、飼っていた猫の時だった。
24:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:02:11.96 ID:fM9nM/xA0
正直、今のちとせの側にいて、俺ができることが何なのかなんて、病室にいる今でも見当がつかない。
ただ、千夜の言葉を聞いたとき、俺は弾かれたように飛び出していた。そうしなければいけないという確信が、思考回路の演算を振り切って、両足を動かしていたのだ。
今の俺に、できること。
考える。このまま朝なんて一生来ないんじゃないかと疑いたくなるような沈黙の中で、ただひたすらに思考の海をかき分けて、記憶の引き出しを、おもちゃ箱でもひっくり返すように乱雑に開け放って、答えを探し続ける。
25:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:03:05.75 ID:fM9nM/xA0
それでも。
それでも、そんな夢みたいな奇跡がこの世界にも転がっていることを俺たちは知っている。
天海春香がアイドル・アルティメイトの舞台に立った時、観衆の反応は明らかに冷ややかなものだった。テレビの前で見ていた奴らの中にも、無名の事務所の売り出し中とはいえよくわからないアイドルが画面に映ったとき、チャンネルを変えようとしたのはきっと少なくないはずだ。
それでも、天海春香は奇跡を手繰り寄せた。彼女が話す言葉が、歌い上げた歌詞が、私を見ろと、天海春香はここにいると、そっぽを向いた人間の首根っこをひっつかんで、無理矢理彼女の方へと振り向かせたのだ。
26:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:03:54.70 ID:fM9nM/xA0
言い訳をするつもりはない。だけど、死というのはそれほどまでに重いものなのだ。
俺は神頼みこそよくするが、敬虔な信徒じゃない。それも特定の神様じゃなくて、八百万もいるんだから一人ぐらい叶えてくれと、そういう軽い気持ちでのものだ。
だから、死んだら人は天国に行くなんて、とてもじゃないが信じられない。人だけじゃない。ありとあらゆるこの世を去ったもの全て、空の上で幸せに暮らしていますなんてことがあり得るだろうか。
もしあり得たとしても、地上に遺された俺たちにはそれを確かめる術がない。だったらそんなのは、ないのと同じじゃないか。死んだら人は、猫は、物は、ありとあらゆる全ては、消えてなくなってしまうんだ。
27:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:05:14.08 ID:fM9nM/xA0
それでも、彼は逆上しなかった。ちとせの言葉が、何か心火の炉に薪をくべたかのように撮影は異例の延長という措置を執られて、結果として彼女の宣材写真は非常に挑発的で蠱惑的、しかしまだあどけない少女の面影を残した笑顔を見事に映した一枚に仕上がったのだ。
まるで、ちとせの言葉によって、初めからそう仕向けられていたかのように。
魅入られている。十時さんのプロデューサーが俺に放った言葉が脳裏をよぎる。
ちとせのルーツがルーマニアのブカレストにあると聞いたのは、あの桜の下でのことだった。
28:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:06:09.75 ID:fM9nM/xA0
「君には多分大きな借りがある。千夜のことだ。彼女と打ち解けるのは色々と苦労したけど、多分ちとせがいなかったら俺は匙を投げてたんじゃないかって思うよ」
正直にいうと、俺は白雪千夜が苦手だった。
初対面の印象が互いに険悪なものだったことを引きずっている節がないとはいわない。ただ、やっぱり決定的なのは、彼女がいつも自分の存在について「価値」という換算可能な概念で語っていることだろう。それは俺にとって、どうしても許しがたいことだったからだ。
だが、蓋を開けてみれば千夜のそれは価値観じゃなくて呪いだった。そして、解かれなければいけないものだった。
29:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:07:13.41 ID:fM9nM/xA0
「この世界には、きっと奇跡が溢れている」
十時愛梨が初めて灰の冠をその頭上に戴いたように、天海春香がそのきっかけになる時代を作ったように、そこから更に遡れば日高舞が、歴史の教科書に名前を残すような偉人たちが、歴史を転換させるような偉業を、奇跡と呼んで差し支えのないようなことを起こしてきた。
俺はその存在を信じて疑わない。きっと奇跡は誰にだって訪れる。本の受け売りをまともに信じるのなら、人間には三回奇跡が起きるはずなんだ。それでも。
30:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:08:05.87 ID:fM9nM/xA0
「君は……俺にこう訊いたな。望みは何だと」
忘れるはずもない出来事。かけられた言霊。それはきっと、俺の望みと、ちとせの未来予測を重ね合わせるための魔法だったんじゃないかと思う。俺の望みは、貴女の望む全てと同じですと、そう答えさせるための誘導。
馬鹿げているとは思う。だけど、そうとしか思えない。ならば。
31:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:08:56.22 ID:fM9nM/xA0
きっとちとせは、自分の未来に絶望しながらも、絶望の中で、千夜に未来を仮託すること以外の保険を残していた。勿論これは勝手な推測に過ぎない。それでも、そうとしか思えないようなことが数々あった。
例えば、宣材写真の時だってそうだ。自分がもしこれから死ぬとして、その運命に絶望して千夜を人生の代理人に選んだというだけなら、わざわざ写真写りについてこだわる必要はない。
だが、写真は消えないとはいわなくとも、残り続ける。それこそ、本人の命が失われたって、百年単位で、今ならきっと千年ぐらいはデータを移し替え続けることで存在を残し続けることが出来るはずだ。
俺の兄弟だった猫は死んだ。だけど彼の生前の姿はアルバムに収められていて、それを読み返せば、今でもあいつと過ごした日々が昨日のことのように思い出せる。祖父も、祖母も。例え命が尽きたって、そうして誰かの記憶の中に生き続ける。
32:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:10:02.10 ID:fM9nM/xA0
「……白雪姫の話、私も小さい頃に聞かせてもらったな……」
あは、と、少し掠れた笑い声が耳朶に触れる。
「ちとせ……!」
33:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:11:48.95 ID:fM9nM/xA0
もしも、奇跡と偶然に何か違いがあるとすればそれは何になるのだろうと思ったことがある。奇跡の全ては必然じゃないし、偶然のどこかに必然が含まれていることだってあり得ない話じゃない。
そうしてちとせが意識を取り戻したことで、会社の内部的にはつつがなくとは行かずとも、興業としては問題なく開催されたLIVEバトルの勝敗は、事前の予想を覆すことなく、十時愛梨の勝利で終わった。
正直なところ、どれだけ勝利を祈っても勝てる気がしなかった。十時さんがステージに立った瞬間に、そっと指先でマイクをなぞった瞬間に、初めにあった言葉のように舞台は彼女の色に染め上げられて、そこから先は忘れろといわれても忘れることの出来ない独擅場だったのだから。
生まれながらのアイドル。十時さんを特集した雑誌に記されたキャッチコピーに、違うところはない。技能だけを見れば、十時さんより上手く歌えるアイドルはいるかもしれない。上手く踊れるアイドルはいるかもしれない、万が一にも、彼女よりも美しいアイドルだっているかもしれない。
だけど、きっとその誰もが十時愛梨にはなり得ない。そして。
34:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:13:12.43 ID:fM9nM/xA0
いつだって余裕に溢れていた笑顔が、涙に彩られて崩れていく。だけどそれは、あの時病室で見たものとは違う。熱が、魂か、そうじゃなければ生気とでも呼ぶべきものに満ちあふれた、温かなものだった。
「……私、いつかどこかでこのまま終わってもいいって、そう言ったでしょう」
「ああ、覚えている」
35:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:14:54.79 ID:fM9nM/xA0
それでも今は、どうしてか、それこそ俺の命を担保にしろといわれても、そう断言できた。終わらないと、黒埼ちとせはアイドルとしても、人間としても、これからもずっと、終わらない明日に向かっていける。
多分、今日ここから。泣き暮れるちとせを抱き留めながら、祈るようにそう呟いた。
すれ違う十時さんと彼女のプロデューサーは、何も言わなかった。ただ、勝者として驕ることなく、そして、哀れむことなく堂々と、地鳴りのように響くアンコールに応えて、彼女たちの舞台へと凱旋していく。
だけど、ちとせを見る二人の目は、どこか温かで、きっと俺と同じ事を考えていたんじゃないかと、そう思った。
36:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:15:35.60 ID:fM9nM/xA0
終わりです。長々と失礼しました、HTML化依頼出してきます
37:名無しNIPPER[sage]
2020/06/14(日) 12:03:20.77 ID:FA/tx//o0
乙でした
明日は誰にもわからないからこそ、今を全力でですね
大丈夫。病弱キャラがポテト中毒のシンデレラになる未来だって誰にも予想できなかったんだからw
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