3:名無しNIPPER[saga]
2020/06/11(木) 19:37:32.98 ID:fM9nM/xA0
「意識不明……ですか?」
意識不明。オウムが覚えたての言葉を繰り返すように、たった今、目の前で白衣に身を包んだ医者が告げた事実を諳んじる。
「はい、残念ながら原因は不明ですが」
申し訳なさげに少し肩を落として、彼は告げられた言葉と事実が紛れもない現実であることを首肯する。
地球の重力が、ここだけおかしくなっているんじゃないかと、そう思った。
両肩にのしかかる重みに、持っていた鞄を取り落としてしまう。
医者の説明によればちとせの容態は重篤で、そして意識が戻る見込みがない。それが彼女の抱えていた原因不明の病に関わるものかどうかもわからない、症例がないと、あるものを探した方が早いぐらいに不明で埋め尽くされていたが、正直なところ、わからないことの数なんてどうでも良かった。
ちとせは、このまま死ぬかもしれない。
春の桜をふわりと散らすそよ風に乗せて翻った金髪と、一瞬だけ交錯した視線の中で儚く、だけど力強く輝いていた紅い瞳が記憶の引き出しからこぼれ落ちて、削れていく。
縁起でもない錯覚だった。それを否定しようにも、記憶の中にある思い出を掬い上げる度に、その全てがさらさらと静かに崩れて、指の隙間をすり抜けていくような感覚が拭えない。
それなのに、俺の身体は鞄を取り落としたこと以外は、自分でも嘘みたいに、普段通りに動けていた。
冗談じゃないと、激昂すればよかったのだろうか。それとも、金切り声を上げて涙を流せば良かったのだろうか。医者に社交辞令で頭を下げて病室を後にする足取りは信じられないぐらいに重いと感じるのに、踏み出す一歩も、そして、病院を出るなり、鞄からノータイムでスマートフォンを取り出して上層部に連絡を仰ぐのも、まるでいつもと変わらないようで。
――遊離している。
通話を切って、大きく溜息をつく。
こんな時でもいつも、トラブルが起きたときと同じように動けるのはきっと染みついたサラリーマンとしての習慣がそうさせるのだろう。それ自体に問題はないし、組織にとっては好ましいことだ。ここで悲嘆に暮れて連絡が遅れれば、関係各所への通達や諸々を含めてその後の対応も遅れる。
そうすれば、最悪俺一人の感傷で会社一つが傾くという最悪の事態だってあり得るのだ。
だけど。
だけど、それがどうだっていうんだ。
会社が一つ潰れてなくなることより、きっと、何の罪もない女の子一人が死に瀕していることのほうが、そしてそこから想起される結末の方が最悪なはずなのに。
俺の身体は、まだ涙一つ流せていない。何よりも、そのことがただ最悪だった。
悲しんでいるはずなのに、気が動転しているはずなのに、足を動かすのだって億劫なのに、歩調だけがいつもと変わらずに人混みの中へと戻っていく。
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