134:名無しNIPPER[sage saga]
2019/05/25(土) 12:17:20.37 ID:YWfCY9A20
「父さん、そろそろ休んだ方がいいんじゃない?」
流れてくるギターサウンドに耳を傾けながら言う。
135:名無しNIPPER[sage saga]
2019/05/25(土) 12:17:52.43 ID:YWfCY9A20
父にそう言われたのはこれで何度目だろうか。こちらの世界に来てから大体ひと月半だけど、その間にもう数えきれないくらい、そんな風なことを言われた。
詳しくは知らないけれど、どうにもこちらの沙綾はよほどワガママを言わない性格をしているらしい。この短期間で耳にタコが出来るくらい聞いているのだから、きっと相当だ。
136:名無しNIPPER[sage saga]
2019/05/25(土) 12:18:29.67 ID:YWfCY9A20
二階に上がって、寝る支度を整える。それから三階まで階段を上って、自分の部屋に向かう前に、三つ子の弟たちの部屋の扉をそっと開く。
陸海空の三人はぐっすり眠っていた。ただ、三つ並んだ敷布団の上に掛布団がない。三人が三人とも、それぞれの寝相の悪さを発揮して、掛布団を蹴っ飛ばしていた。
137:名無しNIPPER[sage saga]
2019/05/25(土) 12:19:14.26 ID:YWfCY9A20
妙に確かな輪郭を持った感覚。その気持ちの赴くままに、沙綾はみんなに別れを告げた。やけに改まった態度で「じゃあね」なんて言ったせいか、そこでもまたカスミが心配そうな顔をしていたのがやけに心に残った。
秋の夜空の下、瞬く星を見上げながら、いつの間にか見慣れていた街をひとり歩く。
138:名無しNIPPER[sage saga]
2019/05/25(土) 12:20:10.05 ID:YWfCY9A20
――おうおう、オレさまを忘れるとは結構な扱いじゃないか。
139:名無しNIPPER[sage saga]
2019/05/25(土) 12:20:45.14 ID:YWfCY9A20
そんな家路をたどり、沙綾はやまぶきベーカリーに帰り着く。お店の明かりはとっくに消えていた。裏の勝手口に回り込むと、そちらの窓からは明かりが漏れている。
勝手口のドアを静かに開いて、沙綾は家に入る。
140:名無しNIPPER[sage saga]
2019/05/25(土) 12:21:46.43 ID:YWfCY9A20
みんなと別れて、ライオン丸くんと言葉を交わした(気がした)帰り道。その道すがら、頭の隅ではずっとそのことを考えていた。だけど、いざこうして母の姿を目前にすると、何にも言葉が出てこない。
言わなければいけないことは、感謝とか、謝罪とか……別れの言葉とか、だ。
141:名無しNIPPER[sage saga]
2019/05/25(土) 12:22:23.67 ID:YWfCY9A20
「どうしたの、急に?」
「……ううん、言ってみたかった……だけ」
142:名無しNIPPER[sage saga]
2019/05/25(土) 12:23:12.90 ID:YWfCY9A20
正直なことを言ってしまえば、して欲しいことはたくさんある。二年前に母が他界してから、その温もりにもう一度触れられたなら……と考えたことは、数えきれない。
だけど、やっぱりこの温もりは私のものじゃない。私じゃない方の沙綾のものだ。それを一度でも奪おうと思ってしまった私に、わがままを言う権利なんてない。
143:名無しNIPPER[sage saga]
2019/05/25(土) 12:23:59.78 ID:YWfCY9A20
本当に些細なことだけど、おままごとみたいなことだったけど、初めてお店の手伝いをした時のこと。今よりもちょっと綺麗なヤマブキパンで、今よりもヘンテコな名前のパンが少ない売り場に、焼き上がったばかりのパンを陳列したこと。あの時も優しい声と笑顔があって、そして温かくて大きな手が私の髪を撫でてくれた。
最後にこうしてもらったのっていつだったっけな。お母さんが入院する前かな。ああ、きっとそうだ。中学生にもなって、こんな風に頭を撫でてもらうだなんてことはないだろう。だからかな。気が付いたらお母さんの手がこんなに小さく感じられて、でも、やっぱり温かくて、すごく心地よくて……懐かしくて泣いちゃいそうだ。
189Res/213.78 KB
↑[8] 前[4] 次[6]
書[5]
板[3] 1-[1] l20