3:名無しNIPPER[sage saga]
2023/02/21(火) 20:26:22.64 ID:G7tB3fi30
しばらくすると、店員の足音が近づいてきて、先ほど頼んだ飲み物がコトリと運ばれた。ひとりは差し伸べられた救いの手に縋るようにそれを受け取り、口をつけるようにして小さく飲んだ。
これは「何もできない時間」を、飲み物を飲むという「何かしている時間」に変えてくれる、今日という日の生命線。だからうかつに飲み干してはいけない。
ほっと安堵したような気持ちでカップの中の飲み物をくるくる回していると、リョウがノートではなくこちらを見つめていることに気づいた。
途端に小さく飛び上がって目を背け、「なっ、なんでしょう」と背筋を立てるひとり。
リョウはもう一度ノートに目を落としながら、ぽつりと呟いた。
4:名無しNIPPER[sage saga]
2023/02/21(火) 20:29:57.84 ID:G7tB3fi30
――今回の歌詞は、リョウのことを意識しながら書いたものだった。
それが、いつもと違う、今回のものが “特別” な理由。
ひとりがリョウに感じる雰囲気や、リョウが好きそうな言葉。そういったものを追い求めて、濃度を上げたり洗練させてみたりと試行錯誤を重ね、何日もかけてやっとのこと書き上げた一曲。
本当は一発でリョウに合格をもらう自信があったし、歌詞を見てもらう今日という日が楽しみだった。それだけにショックは大きい。
5:名無しNIPPER[sage saga]
2023/02/21(火) 20:31:13.13 ID:G7tB3fi30
「……」
「……」
気まずい空気が、二人の間に漂い続ける。
ひとりはまだ動くことができない。ノートの表紙に視線を落として、ただ黙りこくってしまっている。
6:名無しNIPPER[sage saga]
2023/02/21(火) 20:31:52.83 ID:G7tB3fi30
「……出よう」
「え……」
「とりあえず、この店出よ。それ飲んじゃって」
リョウはおもむろにすくっと席を立ち、壁にかけていたコートを手に取った。
7:名無しNIPPER[sage saga]
2023/02/21(火) 20:34:29.29 ID:G7tB3fi30
*
「……っと……ねぇ……」
「……」
「ちょっと! リョウってば!」
8:名無しNIPPER[sage saga]
2023/02/21(火) 20:38:24.61 ID:G7tB3fi30
「あーもーわかった。何があったかは言わなくていいから、これだけは教えて。リョウは昨日ぼっちちゃんと会ったの?」
「……会った」
「やっぱりか……じゃあリョウ絡みなんだね、ぼっちちゃんが休んだの」
「新曲づくりで何かあったんですかね……まさか、喧嘩でもしちゃったんですか?」
「うーん、でもぼっちちゃんが誰かと喧嘩になるような姿って想像できないんだよな〜。リョウが相手だとしても」
9:名無しNIPPER[sage saga]
2023/02/21(火) 20:40:06.96 ID:G7tB3fi30
片道2時間というのは少し盛っているのではないかと思っていたが、あながち間違いでもなかったようだ。
初めて乗る電車、初めて降りる駅。郁代から送られてきた座標情報をもとに地図アプリとにらめっこしながら、リョウは初めて降り立つ金沢八景の地をウロウロとさまよっていた。
中途半端に電車を乗り継がなければいけなくて、帰宅ラッシュに重なったせいでその間まともに座席に座ることもできず、目的の駅に到着するまでにかなりの体力を奪われてしまったリョウ。
しかも駅からまたそこそこの距離を歩くようで、こんな距離を毎日往復して学校まで通っているなんて、とてもではないが信じられなかった。自分なら将来のアテなど決めないうちに中退を選んでしまいそうだ。
だが、昨日もひとりはこれと同じ時間をかけて、歌詞を見せるほんの数十分のためだけに、自分が気まぐれに指定した下北沢のカフェまで来てくれたのだ。そう考えると、こんなことで根をあげている場合ではないと思えてくる。
10:名無しNIPPER[sage saga]
2023/02/21(火) 20:42:27.94 ID:G7tB3fi30
*
そんなわけない。
そんなはずない。
11:名無しNIPPER[sage saga]
2023/02/21(火) 20:45:10.40 ID:G7tB3fi30
「リョウ先輩……」
「っ……」
ひとりは思わずリョウの手を取る。
華奢で繊細な手。すべすべで、自分よりも少しだけ冷たい手。
12:名無しNIPPER[sage saga]
2023/02/21(火) 20:45:52.91 ID:G7tB3fi30
「私……この歌詞がいいんです……」
「ぼっち……っ」
「この歌詞じゃなきゃ……嫌なんです……っ」
“自信作のページ” に何度も染みこんだ涙は、ひとりの想いの強さを表していた。
13:名無しNIPPER[sage saga]
2023/02/21(火) 20:46:51.13 ID:G7tB3fi30
片道2時間の通学路。
当然、その所要時間に対応できる程度には、後藤ひとりの朝は早い。
そして、通学というものに対してそこまで時間をかける感覚がすでに信じられないリョウは、後藤家の生活リズムに合わせられない朝を迎えていた。
「りょ、リョウ先輩、学校送れちゃいますよ……!」
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