10:名無しNIPPER[sage saga]
2023/02/21(火) 20:42:27.94 ID:G7tB3fi30
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そんなわけない。
そんなはずない。
こんな平日のこんな夜遅くに、こんな遠くの家まで、片道2時間もかけて来るわけない。
しかも虹夏でも郁代でもなく、リョウがこの家に来るなんて。
そんなこと、絶対にあるわけない。
だが、部屋の真ん中で布団をかぶって震えていたひとりの背後で、ふすまがぽすぽすとノックされた。
「……ぼっち?」
どきんと胸が縮み上がる。
それはまぎれもなくリョウの声だった。
階下からわいわい聞こえてきた家族の喧騒の中にリョウと思しき人の声が混じっていたことに驚愕し、最後まで自分の耳を疑っていたが、この声は本物だ。
今、ふすまの前にはリョウがいる。
本当に、本当に来たのか。
頭まですっぽり覆っていた毛布をばさっと脱ぎ捨て、ゆっくりと後ろを振り向く。
すーっと開いた戸の奥、暗い部屋から見える明るい廊下の中に立っていたのは、やや頬を上気させた、制服姿のリョウだった。
「りょ、リョウ先輩……っ」
「ぼっち……!」
「きゃっ」
リョウはふすまを閉めるのも忘れてひとりの背中に抱き着き、ひとりはその勢いに押されてこてんと布団に倒れた。
あわてて体を起こそうとするひとりだったが、リョウがさらにしがみつくように腕を回してくるせいで起きられず、結果として布団の上でもちゃもちゃと抱き合うような形になってしまい、ひとりはとにかく恥ずかしくて、観念して大人しくするしかなかった。
もうどこにも逃げ場なんてないのに、まだどこかに逃げてしまうと思っているのか、リョウはひとりを抱きしめる腕をなかなかほどかなかった。その呼吸は少し荒い。きっとここまで、この家だけを目指して一生懸命歩いてきたのだろう。リョウがそんなことをするなんていまだに少し信じられなかったが、心の器にじわじわと温かいものが流れ込んでくるようなありがたさを、ひとりは感じていた。
やがて体力が回復してきたのか、リョウがやっとこさ身体を起こし、ひとりも同じようにして布団に座り直す。薄暗い部屋の中ではあったが、ひとりは久しぶりにリョウの顔を間近でちゃんと見たような気がした。
そのとき、リョウの手が、布団のそばに落ちていた何かにかさりと当たった。
「これ……」
「あ、はい……ノートです」
「……書いてたの? ずっと」
「は、はい……」
昨日ひとりがリョウに見せた歌詞ノート。
今の二人にとって、ある意味すべての元凶とも言えるノート。
ひとりは昨日リョウと別れてからずっと、この薄暗い部屋の中で歌詞を考え、ノートと向き合っていた。
「で、でも……ごめんなさい」
「……」
「あの……歌詞、まだ全然……できてない、というか……な、直ってないんです……」
「ぼっち……」
「せ、せっかく来ていただいたのに……ほんと、すみません……」
ひとりはまた昨日のように頭を垂れ、弱々しくリョウに謝る。
リョウはノートを布団の上に置いたまま、しゅらしゅらとページをめくった。
だが、後の方に進むにつれてどんどんページがめくりづらくなってくる。
ノートを手に取って、一番最後のページをぺりっと開いたとき、リョウは驚愕した。
「っ……!!」
そこに書いてあったものは、昨日カフェで見せてもらったものと同じもの。
書いては消してを繰り返し、ところどころが黒ずんでしまっているページ。
何よりもそのページは、いくつもの涙を染みこませ、波打つようにふやけてしまっていた。
昨日カフェでぱたたと落とした涙だけでは、こんなことにはならない。
ひとりは……このページを前に、ずっと泣いていた。
「す、すみません……ほんと、一文字も……直ってないんです……」
「……」
「何度も消して、違う言葉に変えようとしたりしたんですけど……やっぱり、今のままの方がよかった気がして……変えられなくて……」
「……いい」
「えっ」
「直さなくて、いい……」
かさかさのページを撫でつけながら、リョウはそっと呟いた。
そのときひとりは、廊下から差し込む光を取り込んで小さく光った何かが、リョウの手元にぱたりと落ちたのを見た気がした。
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