18: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:08:59.91 ID:hoMUvMIQo
それほど派手に動くような曲じゃない。だけど、これはきっと、感情を込めて表現すべき曲だった。
エレキギターのカッティングと一瞬の空白を挟んで、いよいよ最後のサビへと流れ込む。
メロディラインの起伏をなぞるようにして、私の手足は好き勝手な軌道を描いていく。
いまの私はきっと操られている。この曲が宿した透明な想いの糸に結ばれて、喩えるならマリオネットみたいな感じで、音符の羅列が望んだようにだけ動いている。
19: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:09:28.76 ID:hoMUvMIQo
「もう、そんな時間っすか?」
額から伝う汗を手の甲で拭いながら、部屋の隅に掛けられているはずの時計を探す。
時計の針は一二時を四分の一ほど過ぎた辺りを指していた。
20: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:09:58.52 ID:hoMUvMIQo
「時間を過ぎたら止めてくれて構わないって、いつも言ってるのに」
自分のちょうど真正面、鏡の両側に設置された小型のスピーカーから、さっきまでと同じ曲がまた最初から流れている。
もう既に何百回と聴き込んでしまったそれは、世間にはまだ公表されていない、私だけの唄だ。
21: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:10:36.90 ID:hoMUvMIQo
靴底が擦れるたびに、キュッ、とスタッカートの効いた音が鳴る。
その音はここ以外だと、たとえば学校の体育館くらいでしか聞くことのできない、かなり珍しい類のものだけれど、私はこの摩擦音が身体に染み込んでいく感覚をそれなりに気に入っていた。
ステップを一つ刻むたび、その音一つ分だけの質量が自分から欠け落ちるような、窓明かりに染まったこの部屋と同じ色に近づけるような、そんな気がするから。
22: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:11:24.76 ID:hoMUvMIQo
私が確認を終えるのとほとんど同時に、ギィ、とやけに年季の入ったような唸り声が後方から、静まりかえった部屋の中央へ転がっていく。
その音を合図に私は無人のレッスンルームに背を向けて、それからプロデューサーさんの後を追いかけた。
空調の電源はすでに彼が切ってくれていた。
23: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:12:28.26 ID:hoMUvMIQo
他愛もない会話を交わしているうちに、いつの間にか扉の列はふっと途切れ、幅の広い折り返し階段に行き当たる。
このフロアは四階で、かつ最上階でもあった。
私は特に気にしていないけれど、一方のプロデューサーさんはここを通るたびに、エレベーターがあればいいのにな、と口癖のように言う。
たしかにあれば便利だろうとは思うけれど、あってもどうせ使わないだろうなとも思う。
24: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:13:14.87 ID:hoMUvMIQo
午後にも車での移動が控えていたけれど、私たちは一旦事務所へ戻ることにした。
事務所に着いたのは午後一時頃。といっても、特別な準備が必要というわけではなかった。
私のしたことといえば今後の予定には不要な荷物を、主には先ほどまで使用していたレッスンウェアの類を事務所に移動させて、それから帰りにコンビニで買ってきたおにぎりを二つほど口へ運んだくらいだ。
25: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:13:52.39 ID:hoMUvMIQo
「傘は?」
事務所を出る直前、扉の前で彼はそう言った。
私はわざとらしく首を傾げてみせる。
26: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:14:29.26 ID:hoMUvMIQo
「雨が降るって言いたいんすか」
「それ以外にいったいどんな可能性があるんだ」
「外、あんなにも晴れてたのに」
「でも、降るらしいぞ」
27: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:15:08.21 ID:hoMUvMIQo
押し開けられた扉の内側を、やはり彼の背中を追うようにしてくぐる。
直前、素直に傘を持って出かけたほうがいいだろうかと一瞬だけ考え直して、しかし結局、私は何も持たずに事務所を後にした。
仄暗い階段を駆け足で下って、いまは駐車場に停められているだろう車がやってくるのをしばらく待つ。
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