138: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 21:24:04.87 ID:hoMUvMIQo
見慣れた景色の中を列車は走っていく。
途轍もない速度で移動しているはずなのに、しかし遠くに張りついた町並みはほとんど静止しているようにみえるという現象が、不思議で不思議で仕方がなかった時期があったことをふと思い出す。
いまはそうじゃない。
いまの私はこの現象の理屈を分かっているし、完全ではないにせよ、聞き齧った物理の知識を使えばある程度なら説明できる。
139: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 21:24:38.88 ID:hoMUvMIQo
私とあの人は多分、ほとんど同じような世界を眺めながら一緒にいた。
勿論、完全に一致していたわけじゃない。
むしろ食い違っている部分のほうが圧倒的に多かっただろう。
それでも、私たちはきっと同じ世界をみているのだと信じられるほどには似通っていた。
140: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 21:25:09.06 ID:hoMUvMIQo
次に停まる駅の名前を告げるアナウンスが車内に流れる。
架橋を越えて最初の駅、私はそこで列車を降りた。
エスカレーターで一階まで下りて、改札を潜り、西口から出て徒歩数分。
こうしてみると、事務所は意外と近くにある。
141: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 21:25:48.35 ID:hoMUvMIQo
「おはよう」
すると、私からみて右側、キッチンのほうから、白いマグカップと一緒にスーツ姿のプロデューサーさんがふらりと現れた。
右手に持った小さな器からはこれでもかとばかりに湯気が立ち上っている。
142: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 21:26:23.72 ID:hoMUvMIQo
「プロデューサーさん、珈琲なんか飲むんすね。知らなかったっす」
「まあ、基本的に朝にしか飲まないからな」
「美味しいっすか?」
「いや、別に。一口飲んでみるか?」
143: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 21:26:54.32 ID:hoMUvMIQo
窓際に置かれている直角型のソファの一番端に彼は腰かけた。
私は同じソファのもう一方の端っこにぺたりと座り込む。
ちょうど私たち二人は対角線上で向かい合っている形だ。
その間には小さくて使い勝手のよさそうなテーブルが、しかしお互いになんとか手が届きそうというくらいの絶妙に離れた場所にあった。
144: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 21:27:39.06 ID:hoMUvMIQo
その内容とは、いずれ発売する予定だった私の曲の歌詞を、他でもない私自身が書くというものだ。
あの人が置いていった仕事は他にも幾つかあったけれど、私とは直接関係のないものを全部合わせても、最後の最後まで残ったのはこれだった。
作詞なんてやったことは、遊びでさえ一度もなかったけれど、いざ書き始めてみれば思いのほかスラスラと言葉は並んでいった。
145: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 21:28:15.10 ID:hoMUvMIQo
詳しいことは何も知らない。知りたくもなかったから、そもそも訊かなかった。
ただプロデューサーがいなくなったということだけが絶対的な事実だった。
あの日を境に、私の中で無意識のうちに確かだと信じきっていた何かが崩れてしまったのだと思う。
そんな感覚が何となくあった。
146: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 21:28:46.96 ID:hoMUvMIQo
「結局、あれから何か変えたのか?」
青色のクリアファイルを手に持ったまま、彼はそう言った。
私は首を振る。
147: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 21:29:20.27 ID:hoMUvMIQo
「訪ねてみるまでは、何かが変わってしまうかも、って思ってたっすけどね」
何かが変わってしまったのなら、その結果に従って全部書き直そうと思っていた。
だけど結局、何も変わらなかった。
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