272: ◆ikbHUwR.fw[saga]
2017/09/30(土) 10:26:11.95 ID:ktVirj9S0
しばらく辺りを飛び回った加蓮は、浴室で眠る自分の体に戻った。前回と同じく、なにごともなかったように、ただ時間だけが経過していた。
お湯から上がり、浴槽のふちをまたぐときに若干体がふらついた。意識が離れているあいだも肉体はずっと半身浴の状態にあったから、長くお湯に浸かりすぎたのだろう。時計を見ると開始から30分が経っていた。
じっとりと汗をかいた全身をシャワーで流し、浴室を出る。
髪を乾かし終える頃には、もう指一本も動かしたくないほど疲弊していた。
273: ◆ikbHUwR.fw[saga]
2017/09/30(土) 10:27:17.70 ID:ktVirj9S0
翌日になっても疲労は抜けきらず、加蓮はレッスンで多くのミスをやらかし、トレーナーから散々に怒られた。
「調子、悪いのか?」
レッスン終了後、加蓮と共にレッスンを受けていた奈緒が問いかけた。
274: ◆ikbHUwR.fw[saga]
2017/09/30(土) 10:28:31.35 ID:ktVirj9S0
加蓮はレッスンでの反省を踏まえ、離脱は3日以上の間隔を置くこと、時間は最大でも30分までとルールを定めた。いくら楽しいからといって、アイドルの活動に悪影響は与えたくない。
それと、離脱中はきっと、なにをされても起きることはない。たとえばお風呂の外から家族に呼びかけられた際に、全くの無反応では心配するだろう。戻ってきてみたら本体が病院に担ぎ込まれていたなんて事態にもなりかねない。
だから、離脱をするのは家の中でひとりきりのときだけと決めた。加蓮の母は専業主婦であるため、チャンスはそう多くない。自然と『3日以上の間隔』というルールにも合致した。
何度か試してわかったのは、最大の飛行速度はだいたい全力で走るのと同じくらい、ただし長時間飛んでいても疲れるということはないので、結果的に走るよりもずっと速い。
275: ◆ikbHUwR.fw[saga]
2017/09/30(土) 10:29:22.83 ID:ktVirj9S0
最初のような感激こそ徐々に薄れていったものの、空を飛ぶというのは、他の何物にも代えがたい快感だった。
解放されて初めてわかった、人間というものは苦痛に苛まれながら生きている。常に、絶え間なく。
体の重さ、呼吸をする苦しさ、それから痛み。
生まれてからずっとそうだから気にならないだけで、人間は、生きているというだけでいつも痛みを感じている。それは健康であってもだ。
276: ◆ikbHUwR.fw[saga]
2017/09/30(土) 10:30:21.91 ID:ktVirj9S0
加蓮は、ふだんは立ち寄ることもない駅の前を、上空から見下ろしていた。
少し経って、ひとりの男性が改札口から出てくる姿が映る。それは加蓮の担当プロデューサーだ。
急な残業とかはなかったみたいだね、よしよし。
何日か前、ちょっとした世間話に交えて「プロデューサーって、どのあたりに住んでるんだっけ?」と訊いてみた。
277: ◆ikbHUwR.fw[saga]
2017/09/30(土) 10:31:12.47 ID:ktVirj9S0
へえ、意外と綺麗にしてるんだね、というのが第一印象だった。
しかし、よく見てみるとそれは、片付いているというよりは物がない。物がなさ過ぎて散らかしようがない、という部屋だった。
そこそこ広めのワンルーム、だけどせっかくの面積を無駄にするように、机がひとつと小さなタンスひとつ、あとはベッド、それしかなかった。備え付けのクローゼットが開いていて、ワイシャツやスーツが掛けられているのが見えた。机の上にはノートパソコンが乗っている。つまり最低限の衣類とパソコンしかない。
いかにも、寝に帰るだけの部屋という感じだ。日頃から「仕事が恋人」と言っている彼らしいかもしれない。
278: ◆ikbHUwR.fw[saga]
2017/09/30(土) 10:32:21.10 ID:ktVirj9S0
加蓮は、離脱時間をもっと延長してもいいのではないか、と考えていた。
最近は体が半身浴に慣れてきたのか、自らが課したルールの30分いっぱいまで離れていても、それほどの疲労は感じなくなっていた。少なくとも前のように翌日のレッスンにまで影響が出るということはない。
不安があるとすれば、お湯の温度だ。30分離脱してから目覚めたとき、お湯はかなり冷めている。あれ以上温度が下がったお湯に浸かっていたら風邪を引いてしまうかもしれない。
だったらお湯を多めに、普通に入浴するときと同じくらいの量でやってみたらどうだろう? 多少は冷めにくくなるはず、だけど体力の消耗は大きくなるかな?
なにごともやってみなくちゃわからない、失敗したら失敗したで、今後の糧にすればいいんだ。だって人生は長いんだから。
279: ◆ikbHUwR.fw[saga]
2017/09/30(土) 10:33:08.13 ID:ktVirj9S0
ほぼ一直線に自宅の浴室に戻り、即座に自分の体に飛び込む。
これで目が覚めるはずだった。今まではずっとそうだった。
しかし、今回に限っては、そうはならなかった。加蓮の幽体は、体を素通りした。
揺れで体勢が崩れたのか、加蓮の体はいつもより深く浴槽に沈んでいた。今日は普段より多くお湯を張っていた、その水面は、ちょうど顔の半分あたりにあった。鼻も口も、その下だ。
280: ◆ikbHUwR.fw[saga]
2017/09/30(土) 10:33:59.76 ID:ktVirj9S0
その日観測された地震は、震度5強、マグニチュード5.5と発表された。
地震の多い日本では、さほど珍しくもない規模である。これにより、1人の死者と16人の重軽傷者が出た。
大多数の日本人にとっては『いつもの地震』であり、大きな話題になることもなく、忘れられていった。
だが、346プロダクションの内部は、それからずっと重苦しい空気に包まれていた。
地震による人的被害、その唯一の死亡者が、346プロ所属アイドルの北条加蓮だったからだ。
281: ◆ikbHUwR.fw[saga]
2017/09/30(土) 10:34:41.33 ID:ktVirj9S0
地震からおよそ1ヶ月が経過した頃、ほたるが事務所を訪れた。
「みんな、久しぶり」と手を振るその顔は、どこか固く、緊張しているように見えた。
ほたるが語ったところによると、この1ヶ月、ほたるは負傷の連絡を受けて見舞いにやってきた母親と共に、鳥取県の実家に帰省していたらしい。休養の理由については、頭部に衝撃を受けたことによる、軽い後遺症が残っていると説明した。
それから数日後、ほたるから担当プロデューサーに「しばらくは仕事は受けずにレッスンに専念させてほしい」と申し出があり、プロデューサーとトレーナーで協議し、これを承諾した。
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