279: ◆ikbHUwR.fw[saga]
2017/09/30(土) 10:33:08.13 ID:ktVirj9S0
ほぼ一直線に自宅の浴室に戻り、即座に自分の体に飛び込む。
これで目が覚めるはずだった。今まではずっとそうだった。
しかし、今回に限っては、そうはならなかった。加蓮の幽体は、体を素通りした。
揺れで体勢が崩れたのか、加蓮の体はいつもより深く浴槽に沈んでいた。今日は普段より多くお湯を張っていた、その水面は、ちょうど顔の半分あたりにあった。鼻も口も、その下だ。
眠り続ける加蓮の顔は、穏やかに目を閉じたまま、紫色に染まっていた。
――嘘でしょ。
『窒息』という単語が脳裏をよぎる。
体に戻ることはできなかった。何度繰り返しても、建物の壁や他の物質と同じようにすり抜けてしまう。
どうする? まずお湯から出さないと。それから、人工呼吸? 心臓マッサージ? 救急車を呼んで……
思考が氾濫する。その全てが、今の加蓮にはできないことだった。すべての物質をすり抜けるこの状態では、浴槽から体を出すという、ただそれだけもかなわない。
家の中に人はいない。加蓮は離脱の際は家族のいない時間を選んでいた。当分家に帰ってくることはない。
壁を抜けて屋外に出る。そこから少し飛んだ先にある大通りでは、たくさんの人が、地震なんてなかったような顔をして歩いていた。
――助けて!
声の限りに叫んだ、つもりだった。
――向こうの家にアタシがいるの! お風呂でおぼれてるの! 誰かきて、助けて!
反応はない。道行く人の目の前をめちゃくちゃに飛び回っても、体の中を突き抜けても、誰ひとりとして、そこにいる加蓮に気付くことはなかった。
どうしてこんなことになっちゃったの? 空なんて飛んだから? みんなの家を覗き見したから? アタシそんなに悪いことしたの?
――無視しないでよ!!
焦燥と絶望が怒りに転換され、気付けばそう叫んでいた。
それから道行く人々に、思いつく限りの罵倒の言葉をひたすら浴びせかけた。そのひとつも、音になることはなかった。
地震発生から、どれだけの時間が経っただろう? 蘇生措置が間に合うのはどのくらい?
わからない。
わからないけど、たいして知識を持ってるわけじゃないけど、そんな時間は、もうとっくに過ぎているだろうことだけはわかる。
……嫌だ。
せっかくアイドルになったのに、まだまだ、これからだったのに。
誰か……聞いてよ。
泣けるものなら泣いていただろう。しかし、どれだけ振り絞っても、声も、涙も出なかった。
――わたし、まだ、死にたくないよ。
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