新田美波「わたしの弟が、亜人……?」
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305: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/07/08(土) 13:17:22.07 ID:8mPTevMeO

アーニャは最近百まで数えられるようになった。お米の粒を使って数えたのだった。次の目標はティースィチャ、千粒まで数えること。


「とんでもなく大きいな」
以下略 AAS



306: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/07/08(土) 13:18:39.31 ID:8mPTevMeO

アーニャの気分は良くなったが、それでも地上とはちがう風景の話は忘れられない。次の日も、父親の友人が置いていった山頂からの写真を眺めては、この風景を自分の眼で確かめてみたいと思っている。アーニャはカーペットの上に手足をのばした姿勢で寝転がっていて、あごをくっつけながら焦点をあわせるでもなしにぼんやりと写真に目を向けている。半分眠っているようにもみえるが、突然バッと起き出し、写真を床に置くとカーペットに手のひらをのせ、砂場の砂を寄せ集めるように、黒地に白の線が入ったカーペットの生地を寄せ上げた。きちんと山のかたちになるまで指をぴんとのばしたまま手を動かす。やっと、納得できるかたちになったが、手を離すとカーペットはすぐにへたりこんでしまう。もういちどやり直し、カーペットを山にする。アーニャは手で押さえたままお尻を上げ、それからゆっくりひざを伸ばす。手と足をカーペットにくっつけている姿はまるで猫がのびをしているよう。アーニャはすり足しながら手と足を入れ替える。すこしすべってしまったが、カーペットはまだ十分山のかたちを保っている。両手が自由になったアーニャは角の尖った木製のコーヒーテーブルを掴んで、それを重しにしようとふんばる。上等な楢の木でできたテーブルは五歳のアーニャにはとても重たい。指はピンク色になってるし、足元のカーペットはぐしゃぐしゃの有様。アーニャは疲れて腕の力を抜く。そのとき、押さえつけられていたカーペットの生地が、つるつるした床の上を、砂浜に押し寄せる波のようにすべった。カーペットにのかっていたアーニャは、カーペットの動きとは反対の方向につんのめり、頭はテーブルにむかう。




307: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/07/08(土) 13:21:45.51 ID:8mPTevMeO

ごん、というものが落ちる音を聞いたアーニャの父親が居間にもどると、位置のずれたカーペットがまず目に入った。次に縁のところが赤くてらてらしているコーヒーテーブルが見え、これも位置がずれている。近づいて、家族三人が腰かけられるソファの陰をのぞいてみると、そこにはおでこから血を流したアーニャが倒れている。カーペットには血が染み込み、黒地の部分は不吉に湿り、白線の部分はいやな赤みになっている。アーニャはぴくりともしない。

アーニャの父親は医者ではあったが、選手達の体調管理やトレーニング法の考案などが仕事のスポーツ医だったから、業務で人の死に接したことはない。彼は喉が閉まり、息ができない思いをしながら、アーニャの額の傷をタオルで押さえようとひざまずく。娘のまぶたは開いていて、青い瞳はいつものようにとてもきれいだったが、光はなかった。脈も測ってみる。指はなにも感じなかった。

以下略 AAS



308: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/07/08(土) 13:23:25.20 ID:8mPTevMeO

そのとき、アーニャの眼がぱっちり開いた。ぼおっとなっていたのは一瞬で、みるみる顔はゆがんでそしてアーニャは大声で泣き始めた。額を打ったことを覚えていたし、それが最期の記憶だったから、怖かったし、痛みもあると思い込んでいたのだ。とてもおおきな声で泣いたから、アーニャは息継ぎをしなければならなくなった。そこでアーニャは自分を見下ろす父親に気がつく。父親は眼を開けたまま微動だにせず、石像みたいに固まったまま。ぜんぜん心配してくれないから、アーニャはまた泣き始める。こんどは大声は出さず、ぐじぐしと洟を啜るような泣き方。

ようやく父親がアーニャの介抱を再開する。娘を慰めながらおでこの傷を確認してみると、裂傷も頭蓋骨の凹みもきれいになくなっている。何事も起きなかったようにつやつやしたまるいおでこだったが、その皮膚の上や銀色の髪の毛には血がこびりついたままで、それはカーペットや床も同様。

以下略 AAS



309: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/07/08(土) 13:24:35.42 ID:8mPTevMeO

「偉大なロシア人というものは、頭を斧で割られて死ぬものだそうだ。たとえばトロツキー、それと『罪と罰』の老婆」

「あの老婆は俗物じゃない」

以下略 AAS



310: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/07/08(土) 13:26:04.88 ID:8mPTevMeO

「どうしたんだ、ふたりして抱きあって?」


と、祖父はたずねる。そのとき、彼はカーペットの血の跡を見つける。視線は息子と孫に移動し、ベソをかいているアーニャの髪の毛の赤いところに眼をみはる。
以下略 AAS



311: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/07/08(土) 13:27:32.68 ID:8mPTevMeO

さて、話をふたつめの不幸なできこどに移すが、これはひとつめの出来ごとから半年後の話で、事件といってもいいかもしれない。なぜなら、アナスタシアの祖父の友人である、質屋を営むペシコフという男が、真夜中に後頭部を斧でしたたかに打ちのめされ、砕けた頭蓋骨を歩道に散りばめるはめになったからである。モスクワ郊外の人通りまばらな、雪と泥だらけの小道は、ペシコフの頭があったところがすこしのあいだ、ねっとりとした赤色に染まっていたが、一時間もしないうちに雪に埋もれて見えなくなった。

この事件はさらに悲劇的なところがあった。ペシコフは寒さが厳しくなってくると、古くなった茶色い外套をいつも身につけ身をちぢこませることを習慣としており、これはぬくぬくとした部屋の中でも行われていたのだが、彼の愛用する、というよりキツネやウサギの毛が寒い季節に冬毛に生え変わるように、ペシコフが灰色の空から冷たい突風が吹き荒ぶこの季節につねに彼の肌を覆っていたその外套は、彼の身体からすっかりなくなっていて、あわれなペシコフの亡骸には肌着しか残されておらず、狩りで仕留められ、皮を剥がれた獲物を連想させる有様となって冷たく凍った路面の上に横たわっていたのだった。

以下略 AAS



312: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/07/08(土) 13:29:36.40 ID:8mPTevMeO

さてこの事件の犯人はついぞ発見されえぬままであったが、地域ではちょっとした騒ぎになった。それは残酷極まる殺人というだけでなく、すこし妙なところもある事件だったからだ。ペシコフが殺された現場はかれの質屋の真ん前だったのだが、質屋の鍵は壊されておらず、中にだれも侵入した形跡もなかったのだ。どうやら犯人はペシコフを待ち構えていて、斧で後ろから殴ったあと、辱しめるためか寒さのためか、とにかく外套を剥ぎ取っていったようだ。

とある三文雑誌はこの事件を『罪と罰』と『外套』の不出来な合体と書きたてたが、さすがにこの表現は顰蹙を買った。だいたい、『罪と罰』で斧殺人の被害に遭う老婆は高利貸しだったろう、との指摘も寄せられることにもなった。雑誌側は指摘に対し、もちろん承知していて相違はあえてであり、不出来という語句にその意を込めた、とコメントした。当然、この言い訳はさらなる怒りを呼んだわけだが、しかし、被害者の友人たちは怒りよりも哀しみが勝っていた。ペシコフはこんな馬鹿げた記事の主役になるには、善人過ぎたのだ。

以下略 AAS



313: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/07/08(土) 13:32:00.63 ID:8mPTevMeO

さてここで話は(またしても)変わって、彼のあだ名である「半分ロシア人」について説明する。このあだ名は平均的なロシア人が摂取する酒量の半分で酔っ払ってしまう体質から来ているものなのだが、ペシコフの葬式から帰ってきた祖父は、どうやらズブロッカとコリアンダー・ウォトカとジグリ・ビールさらにポート・ワインのせいで、半分どころか二倍のロシア人になっていた。モスクワ発ペトゥシキ行きの列車にでも乗り込むんじゃないか、と見る者をそう思わせざるをえないありさまだった。

アーニャは祖父の「半分ロシア人」というあだ名が好きで、祖父の方も孫娘の前では喜んで「半分ロシア人」らしく振る舞うようになった(もちろん、素面のまま)。まずはグラスを用意する。グラスを持ち上げ、酒をあおるふりをして美味そうに唇を手の甲で拭う。テーブルにグラスを戻したところでアーニャの質問。「酔っ払うってどういうこと?」。祖父はテーブルの上のグラスを指差して答える。「ここにグラスが二つあるだろう。このグラスが四つに見えだしたら酔っ払ってるってことだ」。「グラス一つしかないよ」。グラスの数を祖父に教えるとき、アーニャはくすくす笑っている。

以下略 AAS



314: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/07/08(土) 13:33:05.54 ID:8mPTevMeO

いまの祖父はきっとグラスの数が数えられないだろう。グラスは分裂に分裂を重ね、計上できる段階はとっくに過ぎ去り、おそらく万華鏡を覗き込んだときのように乱反射の小宇宙を形成している。アーニャは心配して祖父に近寄ってみる。祖父はがっくりと項垂れ、魅入られてしまったかのようにグラスを見下ろしていた。アーニャはなんだか見てはいけないものを見ているような気分になった。

と、突然アーニャの身体が宙に浮いた。父親がアーニャを抱き上げて、ベットまで連れていく。アーニャは台所から連れ出されるまで祖父から視線を外さなかった。ベットの上にはきれいに折りたたまれたパジャマがあって、父親がパジャマのボタンを外すあいだにアーニャはひとりで服を脱ぐ。パジャマに袖を通し、上のボタンからとめる。手こずってると下からボタンをとめていた父親がアーニャを手伝う。ベットにはいったアーニャは枕に頭を預けながら、自分を見守っている父親に尋ねてみる。

以下略 AAS



315: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/07/08(土) 13:35:41.96 ID:8mPTevMeO

アナスタシアは暑気にあてられ眼を覚ました。寝起きに一呼吸すると、蒸し暑い空気が鼻から肺に吸い込まれる。タオルで顔を拭き、もう一度深呼吸してから周りを見渡す。後ろに広がる森は深い影を作っていて、奥に行けば行くほど樹間は狭くなり影の濃さが増して不気味な感じがするが、その分涼しそうでもある。視線を眼の前に戻すと、太陽の照り返しで緑色に輝く草の葉がそよ風に揺れている。さらに視線を上げると、地面は途中で途切れ、そこから崖になっていて、十二メートル程下方から川の流れる音が上ってきている。崖の向こう側の景色は、いまアナスタシアがいる場所を鏡で写したみたいにそっくりで、最盛期の蝉の声が前後の森からアナスタシアに降り注ぐ。川がせせらぐ音と蝉の声に混じって、ピーヒョロロロという鳶の鳴き声が聞こえてくる。アナスタシアは鳴き声に顔を上げてみるが、頭上にある小楢の木の枝は存分に葉を繁らせ、空を飛行する鳥の姿は見えなかった。暑さに参ってしまいそうな気がするので、木の陰から出て行くのは躊躇われた。後ろ髪を結んで露出させたうなじにタオルを当て汗を拭くと、タオルがじっとりと汗を含んだ。

アナスタシアがスマートフォンを取り出して時間を確認すると、時刻は午後三時を目前にしていて、約束した時間から二時間以上過ぎていた。永井圭はまだ現れない。



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