242: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 21:53:23.96 ID:7K73HWKCO
今朝、トイレの洗面台でプロデューサーがハンカチをくわえながら手を洗っていたところ、ふたりの社員が彼の背後を通り過ぎ、便器の前に並んで用をたしながら、ここ最近の忙しさについて愚痴を言い合っていた。正面と右側から聞こえる水音に混じって届くその愚痴に、言葉の悪さを感じつつも同調する気持ちもあったのは、鏡に映る自分の目元がいやな感じのする黒い隈をつくっていて、その変色はまるで黒くなったところが腐り出して眼球が転がり落ちてしまうような不吉な予感を彼に与えていたからだった。
このまま隈が広がったら。とプロデューサーは思う。眼球を提供した遺体みたいになってしまうのだろう。黒いからっぽの眼窩に氷を詰められる。それでも、いまのこの呪いがかかったかのような眼つきよりだいぶましになるだろう。
243: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 21:55:45.67 ID:7K73HWKCO
いっそのこと、眼帯でもしてしまおうか。顔をあげ、ふたたび鏡を見たプロデューサーはそのように思った。さっき彼にお疲れと声をかけた社員はハンカチで手を拭いている。もうひとりは洗面台で手を振り水気を切ってから、ハンドドライヤーの方へ歩いて行った。手を入れると温風がゴォーッと唸りをあげた。
早坂美玲がしているようなやわらかくキュートな眼帯はとてもつけられないが、医療用の白い眼帯も気が進まない。昔のハリウッドの映画監督みたいに黒い眼帯をしてみたい。ジョン・フォード、ラオール・ウォルシュ、フリッツ・ラング、ニコラス・レイ、あとアンドレ・ド・トス。アンドレ・ド・トスがトビー・フーパーの『スポンティニアス・コンバッション』にカメオ出演しているのは、彼が五十年代に『肉の蝋人形』を撮ったからだと白坂小梅は言っていた。
244: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 21:57:35.96 ID:7K73HWKCO
ハンドドライヤーがたてる唸った風音が、拗ねた子犬のたどたどしい鳴き声のようになったとき、手を乾かしおわった社員が待っていた同僚にむかって言った。
「このままだと死にそうだな」
245: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 21:58:41.43 ID:7K73HWKCO
弟が研究所を脱走した日から、美波の心の大半を自責の念が占めていた。ふさぎこんでいて、この二日間まともに食事もとっていない。軽い鬱のような状態になっていて、意味がわかる明瞭な発音の言葉はほんの二言三言だけしか言わなかった。
美波「あれは助けてた」
246: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 21:59:42.54 ID:7K73HWKCO
美波「そうだ、ごはん食べないと」
美波は突然首をまわし、食堂のほうへ顔を向けながら何気ないふうにぼそっとつぶやいた。時刻は午後四時三〇分過ぎ、まだまだ光の状態は日中のときとさほど変わらない明るさを保っていた。突然脈絡の無いことを言い出した美波にプロデューサーは戸惑った。美波は昼食を口に入れいちど嚥下したが、消化する前に嘔吐した、とプロデューサーは寮母から伝えられていた。躊躇いがちに美波に声をかけると、美波はなかば惚けた表情をしたままプロデューサーに向きなおり、力のない声で言った。
247: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:00:45.86 ID:7K73HWKCO
美波「レシピは知ってるんです。元気になるレシピ……」
プロデューサーに呼ばれた寮母が手伝い、美波を部屋まで連れていった。ふらつきながら力なくこうべを垂れる美波の姿は、プロデューサーの内面に取り返しのつかない後悔を生み、いまでもその念が彼を悩ませている。
248: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:01:46.64 ID:7K73HWKCO
小梅「プロデューサーさん……」
ふたたび赤信号で停止したとき、後部席の小梅が身を乗り出し、ぼそぼそとしたしゃべりを聞き逃さないようプロデューサーの耳元に口を近づけた。
249: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:03:24.26 ID:7K73HWKCO
小梅が祝田通りのほうを指差した。プロデューサーは小梅の指の先にある建物に目を向けた。地上二十六階建てのビルがあった。中央合同庁舎第五号館。厚生労働省はこの庁舎に入居していた。
小梅「コ、コンビニに行くだけだから……大丈夫、だよね?」
250: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:04:23.89 ID:7K73HWKCO
武内P「白坂さん……ありがとうございます」
小梅の眼がすこしまるくなった。すこしの沈黙のあと、小梅は口を開いた。
251: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:06:38.64 ID:7K73HWKCO
誰もいないモニタールームは暗闇に包まれている。戸崎は機器が並ぶ空間へと続く階段に無言のまま腰をおろし、細く引き締まった眼をモニターに向けている。正面の巨大モニターには亜人擁護思想者の個人情報がリアルタイムで更新されていて、この二日間でその数は飛躍的に増えている。
下村「今日ですね」
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