67:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:52:16.85 ID:6NLLeJ5C0
暫時の間、電車の揺れる音だけがあって、
「……あの、やはり、読むのが良いかと」
「『アリババ』を、ですか」
「はい。……脚本だけでは駄目ならば、千夜一夜物語の邦訳のものが、いくつかあります。バートンの英訳版を邦訳したもの、マルドリュスの仏語訳を邦訳したものが、有名です。前嶋信次・池田修による、アラビア語写本からの邦訳、平凡社の『東洋文庫』版というものもあります。ただこれは、『アリババ』については、別巻として収録されてはいますが……」
68:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:52:58.54 ID:6NLLeJ5C0
「それはアラビア語からの邦訳本、なのですよね。その『アリババ』も、アラビア語からの訳なのですか? そうすると……」
「アラビア語原典は、存在しない、という話でしたね。平凡社版の『アリババ』で底本とされているのは、ヴァルシー偽写本≠ニ呼ばれているもので、これには、アラビア語で『アリババ』の物語が記されています。これは一九八四年まで『アリババ』の原典と考えられていたのですが、実際はガラン版以降に成立したもので、ガラン版の仏語の物語をアラビア語に訳したものだと分かっています。つまり、平凡社『東洋文庫』版の『アリババ』は、ガラン版をアラビア語に訳したものを、改めて邦訳したもの、という事になりますね」
「結局、回りくどいのですか」
69:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:53:34.78 ID:6NLLeJ5C0
言下の応答にぱちくり、とした目へ示すように、文香はトートバッグから蒼い本を取り出した。事務所のベンチで彼女が読んでいた、そして千夜に救われ墜落の憂き目を見ずに済んだ、例のハードカバーだ――どうも、さっき振りですね。
無人レジにバーコードでも読ませるかのように真っ直ぐ提示された、その背表紙には金色で『ガラン版 千一夜物語 6』と彫られている。薄いフィルムで保護されているのは、文香なりの取り扱いというわけだろう。ふうん、と応じた。
「こういう装丁なのですね。覚えてお――」
70:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:54:09.09 ID:6NLLeJ5C0
今度はインターセプト――この女、本のこととなると。
鼻先にぐい、と突き付けられたそれに、しかしかぶりを振った。
「大事な御本でしょう。汚してしまうかも」
「本にとっては、読んで頂けるのが、大事なのです」
71:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:54:44.36 ID:6NLLeJ5C0
軽く開いてみると、まだまだ新しい本らしく、軋むような抵抗を感じた。ぱらぱらと頁を捲る。見つけた。『アリババと、女奴隷に殺された四十人の盗賊の話』。思っていたより物騒なタイトルだ。さっと読み進めてみる。
《「強大なるスルタンさま」とシェヘラザードが言いました》――
「乗り換え、ですね……」
72:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 00:55:51.59 ID:tRJaplXx0
カーテンを開けば朝陽が飛び込み、今日の始まる空気が満ち満ちる……とはいかなかった。部屋から見上げる曇天は予報通りで、気持ちの良い陽射しは午後まで御預けのようだった。なんとも気怠い頭を抱えて、ベッドの肌触りが手招きしていて、それでいても朝は朝、やって来たからにはこちらも目を覚まし、今日という日を享受しなければ申し訳が立たない。千夜もそうだし、ちとせもそうだ。
「お嬢様」
真っ白な掛け布団に包まって、というより殆ど埋まっている彼女に声を掛けた。次いで朝食のオーダーを取るのだ。トーストだろうとシャインマスカットだろうとホットチョコレートだろうと、お気の召すままに供する手筈は整っている。
73:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 00:56:32.68 ID:tRJaplXx0
もう一度呼んで、今度は布団を剥ぎ取った。枕に顔を埋めるようにした彼女は、金色の髪を艶美に、しかし弱々しく乱れさせていた。
様子があまりよろしくない。肩を掴んでひっくり返してやると、苦しげな声を漏らすその顔は、透明な美白というよりいっそ生気がないようだ。
「ん…… おはよう。今日は積極的だね」
紅眼を覗かせ、ちとせは呟く。
74:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 00:56:59.83 ID:tRJaplXx0
それでも、薄弱ながら確かに千夜の輪郭を撫でる指に、張り詰めた不安がましになって、口から笑いともため息ともつかないものが漏れた。
不思議だ。確かめられているのか、確かめているのか、分からない。動いていく温度が描くのは、千夜なのに、ちとせだ。
「きっとご無理をなさったのですよ。はしゃぎ過ぎたのです、特に昨日は」
「大丈夫だよ」
75:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 00:58:08.12 ID:tRJaplXx0
はあ、とだけ曖昧に返したが、首をひねった。言意を量りかねている間に、ちとせは畳み掛ける。
「千夜ちゃんが心配してくれて嬉しいな。それで、このまま病人にお説教続ける気? 牧師様を叱る方がマシってものじゃない?」
「あのですね」
「ねえ千夜ちゃん、昨日早く帰ってれば、なんて思ってるでしょ。そんなの私、嫌だからね」
76:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 00:58:42.37 ID:tRJaplXx0
「プロデューサーさんなら、外回りに出られてますよ」
ちひろは言った。こうとなってから思い出すが、確かに昨日、そんな事を漏らしていた筈だった。すっかり忘れていた、と自分の不手際に軽い落胆を覚える。
千夜は手提げに入った二つの箱を取り出して、彼の雑然とした机に置いた。
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