48:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:32:25.62 ID:6NLLeJ5C0
それはもう、気息奄々、祈りのように溶けていく声だった。千夜は真っ直ぐ見ていられなかった。この緊迫した状況を代わってさえもらえるなら、神谷氏と佐藤氏が直面したという九十七本の激辛ポテト地獄を自分が請け負ったのにと思った。
ちとせは満足したように文香を眺め回すと、今度は彼女の正面に立った。
「進化しなければ生き残れない。進歩しなければ今さえ守れない。《同じ場所に留まる為には》――」
「《全力で走り続けなければならない》」文香が受けた。「《どこかへ行くならその二倍》――成る程…… 確かに我々は、鏡の国に立っているのです。いわば時という盤の上に」
49:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:34:14.87 ID:6NLLeJ5C0
ちとせは「いいね」と享楽するように口を歪めた。ゆらり、立って前の彼女を見据える。
「白黒、…… ううん」細められた瞼の中には、皆既月食の血の色が満ち満ちた。「紅蒼つけちゃお?」
文香も伍した。困惑や躊躇の表情が、眦を決したそれへ変わりゆく様を千夜は見届けた。
「お望みならば、…… いえ」双の青天にちらと、だがありありと霹靂を閃かせ、「望むところです」
50:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:38:11.48 ID:6NLLeJ5C0
東京テレポートとは大それた名前だ、とつまらない冗談のようなことを思った。きっと都内の何処へでも瞬時に移動出来る、もの凄い駅なのだ。
こんな考えを文香に打ち明けて馬鹿を晒したくはないな、とちょっと調べてみたら、テレポート≠ノは高度に情報化された地域、といった具合の意味があるようだった。
スマートフォンから目を上げると、文香はようやく券売機との格闘を終えようとしていた。千夜の方は左手の携帯端末をピ、とかざせば改札を通れるが、彼女は普段の通勤通学に使う定期券しか持っていないらしい。車を回してもらえないようなロケだの営業だのも少ないわけではないだろうに、きっと路線図との睨めっこが楽しいのだろう。
51:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:38:41.55 ID:6NLLeJ5C0
艱難の果てに獲得した切符を、宝物ですとばかりに両手で握り、世間知らずのシェヘラザードはトコトコ戻って来た。目立たぬように、と急遽借りた(千夜が借りさせた)、腰にベルトの付いたグレーのキャスケット帽が上々の調和を見せている。彼女は恐縮するように言った。
「すみません…… お待たせしました」
「いいえ。行きましょうか」
返すと、文香は薄く笑んだ。息が浅くなるほど蒼色だ。もっと堂々としていればいいのに、とやはり思う――貴女がそれでは、灰色の立場がないでしょう。
52:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:39:12.86 ID:6NLLeJ5C0
二人=Aだ。あれだけ人を挑発しておきながら、去るには《千夜ちゃんが私の僕だから♪》と一言なのだから、ちとせはすごい、千夜には出来ない。彼女が気侭に並べだした手合いの盤面は、今や文香と千夜を彼我に対置しているのだった。その為か、文香が千夜を見る態度がどうも落ち着かないのが居たたまれなかった。
――分かりました、負けてあげますから――とは、言えないけれど。
「そういえば」
53:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:40:01.11 ID:6NLLeJ5C0
「はい」
文香は首を傾げ、その為に大きな瞳が露わになった。《そう≠「えば》とは、どう≠ィっしゃったのでしたっけ――というような表情だ。
「ん…… 《ところで》と言うべきでした」言葉の女神に釈明してから、「読書のお邪魔をしましたね。すみませんでした」
「いえ…… 只今のこうした機会にこそ、代え難いものは、ありますから。読書ならば、また時間を作ればよいのです」
54:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:40:31.48 ID:6NLLeJ5C0
千夜自身の事ながら、心からの親切を提案出来たものだ。そうして貰わないとこちらが気を遣うのでね、とまでは言い添えなかったが。
「はい、ありがとうございます」
文香は言ったが、不安そうに自分のトートバッグと、車内上方のモニターを交互に見比べた。バッグには『神田古本まつり』のプリントがされ、モニターには次に止まる駅が――『渋谷』と大きく――表示されている。
彼女は再び口を開いた。
55:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:41:12.78 ID:6NLLeJ5C0
「……えっと……」
困惑した声色に、千夜はまたぞろ内省を余儀無くされた。どうも近頃、かっとなるようだ。
「いえ…… 美しいものには美しいものの、灰色には灰色の世界があるものですよ」
聞いて、帽子を触っていた文香は顔を傾け、こちらをじっと覗き込んだ。影が、かえって探るような瞳を印象付けた。千夜の表情や所作ではなく、ここにない紅を追っているのだと分かった。
56:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:42:37.47 ID:6NLLeJ5C0
やたら真に迫った声がおかしかった。見れば、頬など染めている。まさか、文香にとってこれが重大かつ恥ずべき悪徳だったのだろうか。千夜は笑いを堪えた。
「それくらいのことなら、」
私が教えますよ、と言おうとして、先の中庭で、文香の読書が妨害された際のいきさつを思い出した。彼女はちとせが耳元に接近するまで、全く気付かなかったのではないか。
「少々、没頭してしまう方で……」
「成る程」
57:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:43:12.05 ID:6NLLeJ5C0
「一度など、あまりに熱中しすぎて、ご苦労をお掛けしたプロデューサーさんに、怒られてしまいました…… 《男がいる時は何も読むなよ》と」
「では、今こそ言いつけを守らなくてはいけませんね」
「はい…… それで、私は、聞いたのです。《男性というのでは、では、プロデューサーさんは?》」
「聞いていませんが」
「いえ、確かに聞きました。プロデューサーさんは…… 《じゃ、僕が守ってやれる時だけな》と」
234Res/183.06 KB
↑[8] 前[4] 次[6]
書[5]
板[3] 1-[1] l20