122:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 01:30:51.82 ID:tRJaplXx0
《江戸切子の、菊繋ぎ紋です》。文香は言った。長寿を祈る紋様です、と。
千夜はそのガラス細工の蒼さと麗しさに、彼女を想った。彼女の瞳を、舞台でドレスやコスチュームを装った姿を、とりもなおさず、この容器に自分を思い出せ、というようなメッセージを。
だが翻って文香は、これは彼の色なのだと言った。幾星霜振りの晴天のような、星々が連なる河のような、そういう彼の色なのだと。だから贈るのだ、と。ガラスではあの騒がしい事務所で何日ともたないかもしれませんよ、ホットコーヒーを飲むものを探しに来たと思うのですが、あまり高価そうな、というより実際高価な、ものはかえって気づまりさせるかも――千夜が善意から与えた幾つかの忠告は、文香のそういう決意の前で、全て闇夜の鉄砲となったようだ。
123:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 01:31:23.64 ID:tRJaplXx0
千夜は件の男を見遣った――ま、ブルーベースという顔だな。不健康なだけだろうけど。
「綺麗だ。な、千夜?」嬉しそうに彼。
「聞かれても困りますが」
「すぐにお礼言わなきゃな」と、スマートフォンを弄り出す。
124:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 01:31:50.51 ID:tRJaplXx0
彼は「ふうん」とか「はあ」とか言いながら画面の操作を終えると、
「十六時に電話くれるってさ」
「お前に? 知ったことか」
「メモしなきゃ…… ええと」
125:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 01:32:36.98 ID:tRJaplXx0
「ペンポケット?」
「スーツの胸ポケットではその新しいネクタイに似合わないと思うのなら、入れるのは内側のペンポケットにするべきです」床を示し、「座り立ちが多いくせに腰のポケットなど使うから、すぐ落とす」
「おおっ」彼は屈み、ボールペンを拾い上げた。「ペンポケットね。覚えておくよ、ありがとうな」
126:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 01:33:02.94 ID:tRJaplXx0
「別に。あまり落とされて、誰かが躓きでもしたらと思っただけです」
「みんなの心配? 千夜は優しいな」
「お前を気にしたのではないと言っている」
「へえ、僕を気にしてない割には名探偵だな。よくネクタイのせいだって分かった、すごいぞ」
「ほんの戯れです」
127:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 01:33:31.46 ID:tRJaplXx0
空気が揺れた。
地鳴りのような重低音が部屋を騒がす。上空を飛行機が行ったらしい。
ああ、そうだった――ついのんびりしてしまっていたが、来るべき時が、言葉が来た。背負おうとしたものの意味を問われ答えあぐねたまま、落胆に嵌りきった千夜がその泥を撒き散らしながら辿り着いたここは、如何わしい司祭の対坐する告解部屋で、千夜はこれから信じてもいない神の名にすがり、自分のしたことを洗いざらい悔い改め、あるいは永遠に破門されなくてはならないのだ。
128:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 01:33:57.20 ID:tRJaplXx0
だけれど、彼は千夜の告白を強いはしなかった。顔だけを見て、「そっか」と言った。
「もしどうしても嫌だったら、ひとつも千夜の為にならないと思うなら、今回の仕事はよしにしよう。簡単な話だとは言わないけど――千夜が居なくても問題ないとは言えないし、だけど――カバーしてみせるよ。背中は任せて、千夜は楽しめ」
彼はとん、と自分の胸を叩いて見せたけれど、
129:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 01:34:28.20 ID:tRJaplXx0
得られなかったと知ってから、自分が求めていたのがやれ≠ナなければやるな≠ネのだと分かった。意思などを問うて欲しいのではない。
お見通しでか、そうでないか、
「頼りないか、そうだなぁ。君のお嬢様風に言うなら、僕は魔法使いだ。君の被った灰を払って、ドレスを着せて馬車に乗せるまでが仕事。そこから先、手までは引いてやれるわけじゃない」
「しかも魔法は時限式」
130:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 01:34:54.95 ID:tRJaplXx0
望むもの、と言われ、千夜はちとせの隣を想う。守るべきもの、と言われ、千夜はちとせを想う。そんなものは分かり切っていて、だから今、くだらない自分が頭を悩ませているのだというのに。
「楽しめるばかりではないでしょう。アイドルという仕事が生存競争である事ぐらい、私だって知っている」
「ああ、大変だな」
「華やかな舞台を夢見ながら、実際は声の一つを上げることも許されず、ただ涙を流す者たちを、私でさえ見てきた。そうなっても背中を押すと?」
131:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 01:38:48.12 ID:tRJaplXx0
ふつふつと頭痛が始まった。衝動が身体を駆け巡った。
「神様とやらが私を戒めるとすれば、わざわざ塩の柱に変えたりなどしない。硫黄も永遠の火も必要ない。鏡一枚だ。鏡に映る本当の姿を見さえすれば、私には全部が分かる。何を願おうと分不相応だ。何を望む資格もない。
私がここに居るのは、お嬢様に恩をお返しする、その当然の道理の為だ。お嬢様が望むことならば、応えなければならない。お嬢様が新しい舞台で活躍なさるのなら、よりお側でお支えする為に、私自身も努力をしなければならない。当然の道理だ。私の願うことじゃない。その筈だった。それを……
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