1:名無しNIPPER
2020/03/19(木) 22:31:35.02 ID:z07AMiQQO
その日、氷川紗夜はラーメンが食べたかった。
きっかけがなんだったのかはわからない。朝起きて、朝食を摂っている時に見たニュース番組のグルメ特集だったかもしれないし、氷川日菜が隣で「ら、ら、ら、らーめん〜♪」という謎の歌を口ずさんでいたからかもしれない。
理由はともあれ、とにかく紗夜はラーメンが食べたかったのだ。
いつも通りの時間に通学路を歩き、いつも通りの時間に学校へたどり着き、いつも通りに教室の自分の席に座り、目の前で繰り広げられる白鷺千聖と松原花音の「クラゲと紅茶の類似性」という議論を聞き流しながら過ごしている間にも、その想いは募るばかりだった。
SSWiki : ss.vip2ch.com
2:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:33:21.76 ID:z07AMiQQO
今日の放課後、ラーメン屋に寄っていこうかしら。
チャイムの音と共にやってきた担任。「朝のホームルームを始めます」という平坦なその声を聞きながら、そんなことを思う。けれどすぐに紗夜は首を振った。
3:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:34:41.38 ID:z07AMiQQO
では誰かを誘って行けばいいじゃないか、と心無い人は言うだろう。しかしそれも今日の紗夜にとっては論外だ。何故なら、彼女の胃袋は、一対一の真剣勝負を望んでいた。
ご飯を食べている時は、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。どこぞのグルメが放った言葉が紗夜の頭に浮かぶ。まさにそんな気分だ。いわば私対ラーメンなのだ。そういうツーマンの対バンなのだ。
4:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:35:22.23 ID:z07AMiQQO
紗夜がラーメンに対する想いを胸に秘めているうちに、時計の針はあっという間に進んでいく。
気付いたら昼休みだった。ラーメンのことは忘れようと、紗夜は燐子と一緒に教室でお弁当を食べていた。
5:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:35:49.49 ID:z07AMiQQO
商店街の南の方にあるお店だ。カウンター席が16席。ボタン式の自動ドアを開くと麺とスープの匂いがふわりと鼻をくすぐる。
「おねーちゃんとたまに来るんですよ!」と言うあこにオススメを聞くと、「ネギとろろ」と言われて困惑した。ラーメンにとろろ? そんな馬鹿な。
6:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:36:26.23 ID:z07AMiQQO
ラーメンにとろろ。すり下ろしたものではなく、かなり小さく短冊切りされた長芋。
これが意外なほどマッチするのだ。
7:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:37:16.39 ID:z07AMiQQO
「……氷川さん?」
と、静かな声でエルシオンから花女の教室へ紗夜は帰ってくる。眼前にはきょとんとした燐子の顔があった。愛想よく笑う店員さんの姿はない。机に目を向けても、そこにはどんぶりなんてない。一昨年くらいに日菜がくれた(正確には強引に押し付けてきた)姉妹でお揃いの淡い青色をしたお弁当箱しかない。
8:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:37:50.34 ID:z07AMiQQO
「大丈夫ですよ。心配してくれてありがとう」
「……そう、ですか……」
9:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:38:38.34 ID:z07AMiQQO
あこと一緒にご飯を食べに行く、というワードは紗夜の脳内で全て『ラーメン』に書き換えられる。日菜に混じってあこまで『らーめん♪ らーめん♪』と踊りだす。加えて燐子まで静かなウィスパーボイスで『らーめん……らーめん……』と言うんだからもう堪ったものじゃない。
目の前の友人に悪気があるわけじゃないのはもちろんわかっている。だけど、それでも恨みがましい思いを抱かずにはいられない。
10:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:39:22.23 ID:z07AMiQQO
放課後になっても紗夜の激動は収まる兆しを見せなかった。
静かな生徒会室で風紀委員の書類仕事をやっつけている今も、心の中には淡い聖杯が浮かぶ。そこから漂う湯気と濃厚なスープの匂いが浮かぶ。
11:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:40:00.00 ID:z07AMiQQO
そんな風に窓の外を眺める紗夜を遠巻きに見つめる影がふたつあった。名もなき生徒会役員と風紀委員である。彼女たちの思いは同じだった。
――いつも凛々しくまっすぐ未来を見据えるその眼差しが、今日はどこか遠くへ向けられている。ちらりと窺える横顔には愁眉。きっと何か貴い物思いに耽っているに違いない。昨今の世界情勢だろうか、貧困に喘ぐ国の子供たちの未来を憂いているのだろうか、それとも、わたくしたちのような下賤の身では到底思い至らない宇宙の真理に想いを馳せているのだろうか。風にそよぐカーテンと揺れる陽射しに照らされたその姿は、まるで一枚の絵画だ。イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢にも負けず劣らずの肖像だ。ガールズバンド時代が生み出した高貴な青薔薇の花……ああ、なんて素敵なんだ。それを手が届きそうな距離から見守れる以上の幸福がこの世界にあるだろうか? いや、ない。あるわけがない――なんて、そんな風に紗夜の姿に見惚れて、やんごとなき憧憬と尊敬と情熱を込めたため息を揃って吐き出す。
12:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:40:50.86 ID:z07AMiQQO
だけど紗夜の頭にあるのは自分対ラーメンの様相だった。ネギととろろとチャーシューを率いたラーメン軍の一大決戦。天下分け目の関ケ原である。
いっそもう、行ってしまおうか。
13:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:41:27.47 ID:z07AMiQQO
とうとう紗夜はラーメン軍との和睦を果たした。するとどうしたことか、先ほどまでやけに重たかった頭も肩も一気に軽くなった。その勢いのまま、机に広げた書類をやっつける。
兵は神速を尊ぶ。善は急げ。思い立ったが吉日。兵法の基本だ。風林火山だ。古代中国の孫子の兵法だ。
14:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:42:12.84 ID:z07AMiQQO
『はぁー……やっぱ書類仕事ってすげー肩が凝りますよね』と伸びをする市ヶ谷有咲。
『ええ……ゲームや読書をしている時も……』と困ったような笑顔を浮かべる燐子。
15:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:42:52.19 ID:z07AMiQQO
「…………」
座ったまま姿勢を正す。顔だけを真下に向ける。特に何にも邪魔されることなく机の書類が見えた。
16:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:44:08.08 ID:z07AMiQQO
そうは思うけれど、それでも一抹の悲しさが紗夜の寂しい胸中に去来する。
でも、泣くことならたやすいけれど、悲しみには流されない。流されてたまるものか。
17:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:45:10.44 ID:z07AMiQQO
午後四時を過ぎたころ、花崎川商店街は活気に満ちていた。
昔ながらの個人商店が並ぶ通りには、夕飯の買い出しだろう主婦や、制服姿のまま買い食いや寄り道に勤しもうという若人たちの姿がたくさん見受けられる。
18:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:45:47.77 ID:z07AMiQQO
その軽快に弾むメロディに乗って、紗夜の行軍は続く。
もう迷うことはないけれど、それでも彼女の胸には小さな悩みの種があった。
19:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:46:18.19 ID:z07AMiQQO
……まぁ、そうは言っても、商店街でエンカウント率アップする人物ならその数は限られてくるわね。
手を繋いで微笑み合いながら歩いている女子高生ふたりとすれ違いながら、紗夜は頭の中に知り合いの顔を浮かべる。
20:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:46:44.79 ID:z07AMiQQO
考えていても仕方ないわね。紗夜は羽沢つぐみを頭の隅に押し込めて、別の人物の対処法を思案する。
北沢さんは純粋だから「これからご飯を食べに行く」とだけ言えばいい。余計なことは聞いてこないだろう。
山吹さんは青葉さんと同じくエアリード能力に長けているタイプだ。それとない雰囲気を匂わせればすぐに察してくれる。
21:名無しNIPPER[sage saga]
2020/03/19(木) 22:47:20.27 ID:z07AMiQQO
羽沢つぐみに対しての的確な言い訳は思い浮かびそうになかったけれど、それでも、と紗夜は思う。
確率的に言えば彼女とピンポイントで出会ってしまう可能性は低い。花女と羽丘の下校時間は少しズレているし、生徒会の仕事と風紀委員の仕事でのズレだって生じる。そう、こんなところで、数多の可能性の中から羽沢さんとだけエンカウントしてしまうだなんて、もうそれは奇跡の類の話だ。運命的な出会いだ。今日はラーメンを食べてはいけませんよ、という神のお告げ的な何かだ。それであれば仕方がない、諦めよう。
62Res/50.47 KB
↑[8] 前[4] 次[6]
書[5]
板[3] 1-[1] l20