1: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/12(水) 00:13:35.92 ID:BdiXsnKQo
「んん……っ。」
彼女は読んでいた資料の束から顔を上げ、静かに集中を解いた。
ここ、劇場の事務室には談話スペースが置かれており、誰も使っていないときにはローテーブルを挟んだ奥側のソファーでこうした読み物をするのが彼女の習慣となっていた。
彼女が意識を外に向けたとき、開かれた窓から木々が揺れる音を連れた爽やかな風が吹き込んで、そっと彼女の髪を揺らした。
梅雨入りして以来雨が続いていたが今日のような晴れ間は季節柄ありがたく、事務室のどの窓も大きく開かれ、自然の風を取り込むようになっていた。
馬場このみは読んでいた資料をテーブルに置き、談話スペースから出た。
彼女のプロデューサーも事務員である青羽美咲も出払っているため、いま事務室にいるのは彼女だけである。
部屋の端にある冷蔵庫から、作って冷やしておいた麦茶を取り出して、氷を入れた透明なグラスに注いでから、また談話スペースへと戻る。
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2: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/12(水) 00:15:04.98 ID:BdiXsnKQo
風にのって微かに香る潮の匂いが鼻腔をくすぐるなか、彼女はまた資料を読み進めていく。
「…………。」
彼女が一週間ほど前から向き合っているこの資料は、近々行われる演劇の公演のオーディションに関するものだ。
3: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/12(水) 00:15:34.22 ID:BdiXsnKQo
演劇のモチーフは「鶴の恩返し」である。
4: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/12(水) 00:18:29.79 ID:BdiXsnKQo
鶴を助けた青年のもとに、道に迷い雪に降られた娘が泊めてほしいと訪れる。
吹雪で外へ出られない日が続くが、やがて青年は娘の人となりに密かに好意を抱くようになる。
ある日娘が「布を織る間部屋を覗かないでほしい」と言い部屋にこもり、数日かけて一反の美しい布を織りあげた。
青年が詳しい話を聞いても、娘は「言えない」というばかり。
やがて娘が布を織るために頻繁に部屋にこもるようになり、それゆえ次第に二人が顔を合わせて話せる機会が少なくなっていった。
5: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/12(水) 00:19:21.91 ID:BdiXsnKQo
馬場このみが再び意識を外に向けた頃には、すっかり氷も解け、グラスの汗はローテーブルを濡らしてしまっていた。
資料が濡れてしまわぬように台拭きで拭ってから、彼女は息を吐いた。
「悲しいお話ね……。二人は、どうして別れなくちゃいけなかったのかしら……。」
6: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/12(水) 00:20:45.91 ID:BdiXsnKQo
彼女がアイドルとして活動する中で、最近はドラマ「セレブレーション!」や先述の「屋根裏の道化師」をはじめとした演技の仕事も増えてきた。
自身の二十余年の経験も助け、「想い合う二人のすれ違い」そのものについては、いまではある程度具体的なイメージを持てている。
しかしその一方で、物語の幕引きにどこか彼女の中で役に落とし込めない部分があった。
なにも誰もが救われる話であってほしい、ということではない。
7:名無しNIPPER[sage]
2019/06/12(水) 22:18:44.51 ID:PfnMtZAgo
ええぞええぞ
8: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/16(日) 20:48:03.76 ID:aN661FRYo
「はいほー!なのです。」
事務室のドアが開く音がしたと思えば、直後に特徴的な声が聞こえてきた。
談話スペースの奥側に座るこのみにはパーテーションが死角となり直接見ることはできないのだが、声の主が誰であるかは特段迷うこともなかった。
9: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/16(日) 20:48:52.99 ID:aN661FRYo
このみは当人を確認するために腰を浮かし背中を伸ばした。
……のだが、思いのほか死角が大きいようだった。
ローテーブルに軽く手をつくようにして前のめりになり、それでも姿が確認できなかったため、さらにもう少しもう少しと。
体重を前に移すたび存外つらい体勢となっていく。
10: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/16(日) 20:50:59.36 ID:aN661FRYo
まつりは撮影の仕事を終え、劇場へ今しがた戻ってきたとのことだった。
小脇に抱えた小さな荷物を置き、慣れた手つきで自分の飲み物を準備して談話スペースに戻ってきた。
先ほどのこともあり、まつりが戻ってきたころにはこのみの集中は完全に途切れ、反動でローテーブルに突っ伏すような状態になっていた。
11: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/16(日) 20:52:25.59 ID:aN661FRYo
このみは、はぁ……、とため息とも返事ともつかない微妙な声を上げつつ、
ちょうど目の前の位置にあった件の資料の束を、まるで紙の感触を確かめるようにそっと指先で転がした。
「『鶴の恩返し』って、悲しいお話よね……。」
12: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/16(日) 20:53:25.23 ID:aN661FRYo
「ええ、実はね……。」
このみはそう言って身体を起こした。
まつりといえば765プロでも演技に定評のあるうちのひとりだ。
自身のプロフィールにも特技として記載するほどであるし、「屋根裏の道化師」でも共演している。
13: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/16(日) 20:55:48.73 ID:aN661FRYo
物語を深く知れば知るほどに、このみはやりきれない切なさを感じてしまっていた。
娘にとって、自身が秘密を抱えたままでいること、そして大事な人に自身の本当の姿を知ってもらえないということは、なにより辛いことだったのだろう。
この選択が正しかったのかなんて、鶴自身もわかっていないのかもしれない。
別れを選んだ鶴は、雪の積もった山の奥で、人知れず涙を流すのだろうか。
それでも辛い選択をしたのは、きっとそれを選ぶほかなかったのだろう。
14: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/23(日) 22:27:18.49 ID:+aWMwZWyo
少しだけ間が空いて、それからまつりはゆっくりと口を開いた。
「……鶴さんはまじめで、人のことを大切にできて、それでちょっぴり臆病さんなんだって、姫は思うのです。」
「姫だったら。その大切な人と逃げちゃうのです。雪が降る道をふたり、えすけーぷ!なのです。」
15: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/23(日) 22:28:04.75 ID:+aWMwZWyo
一方のこのみは、その言葉を受け入れるまでに幾らかの時間を要していた。
確かに、まつりの言う通りである。
もしも娘が竹から生まれていたのなら、青年と離れたくなかったとしても、迎えに来た月の都の使いには従わざるを得なかっただろう。
しかし、娘はそうではないのだ。
たとえ鶴の世界へ戻れなくなったとしても、眩しいヒトの世界で生きる道もあるかもしれない。
16: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/23(日) 22:29:33.56 ID:+aWMwZWyo
「で、でも。それだと、迷惑になっちゃわないかしら……。」
このみはまるで自身のことのように思考を思い巡らせ、そう尋ねた。
娘にとって青年は、運命的な出会いを忘れられずに、もう一度手を伸ばした相手である。
17: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/23(日) 22:30:34.14 ID:+aWMwZWyo
まつりは自分のグラスの縁を指でそっと撫でながら、静かに口を開いた。
「きっと、大丈夫なのです。」
「好きなひとがひとりで悩んでいたら、力になりたい、と思うものなのですよ。」
18: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/23(日) 22:32:25.37 ID:+aWMwZWyo
娘が最後に打ち明けるまで、結局青年は部屋の戸を開けて秘密を覗くことはしなかった。
青年も、彼女の抱えた秘密を大事にしたかった。
「私が青年だったなら……。」
19: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/23(日) 22:33:36.48 ID:+aWMwZWyo
それからしばらくの間、このみは物語を読み返した。
二人の出会いも、二人のすれ違いも、そして二人の別れも。
今ならば、以前より娘に近づけるように感じられた。
20: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/07/07(日) 23:08:11.10 ID:2s7Ltdwho
***
午後2時を回った頃、このみはレッスン室にいた。
主にダンスレッスンで使われたりする部屋だが、それに限らず空いている時には多目的に使えるようになっている。
部屋の窓に面したある壁面には、板張りの床から白い天井まで、部屋の全体が映るほど大きな鏡が据え付けられている。
21: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/07/07(日) 23:09:06.00 ID:2s7Ltdwho
『もう行かなくちゃ。……本当の姿を知られてしまったら、私はもう此処には居られないの……。』
『ずっと言えなくて、ごめんなさい。……今まで、ありがとう。』
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