617: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:22:25.68 ID:Wqc3ZOPPO
いまなら母親がそんな顔をした理由がわかる、亜人の情報提供を呼び掛けるチラシに載った永井圭の顔写真──佐藤と田中のあいだにあるその写真で永井は学生服の詰襟を上まで閉めている──を見ているとつよくそう思う。太い枝をみずからの首に突き立てて易々と頸動脈を破ってしまったあの光景は恐ろしかったが──あの躊躇いのなさは自分が亜人だと確信しているからというより、自分より偉大な存在にみずからのすべてを捧げようとしているかのようにアナスタシアには思えた──ある程度時間が経過してみると、行いそれ自体への恐れとはまた別の感情もあることがわかった。美波があの光景を見ていたらと考えると、背中を寒気が走り抜けたような感覚をおぼえた。それと同時に、アナスタシアは自分だけが感じる寒気におののいた。死を躊躇しないあの態度。それがある一点を越えたら自他の区別がなくなってしまうのではと、アナスタシアは漠然と感じている。一線を越えた先には帽子を被った男がいる。
冷風がうなじにあたり、アナスタシぶるっとは身震いをした。髪を二つ結びにしていたから冷たさが首の後ろにまともにぶつかった。ひとりきりの静寂が守られていた教室にクーラーのゴォッーという作動音がおおきく響いた。
618: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:23:48.96 ID:Wqc3ZOPPO
教室に入ってきたのは友達とはいえない距離間のクラスメイトだった。彼女はアナスタシアを見て、一瞬驚いたように口をすぼめてからおはようと言った。それから「すごく早いね」とそのクラスメイトは続けた。
アナスタシアは「うん」とだけ応えた。理由を説明することはむずかしかったからだ。さいわい、相手は追及するつもりがなく自分の席にスクールバックを置いた。
619: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:25:38.35 ID:Wqc3ZOPPO
朝のホームルームの一分ほど前に担任が教室に入ってきた。チャイムが鳴るとわいわいがやがやが鐘の音にかき消され、それから椅子が引かれる音がした。起立、着席、ふたたび椅子の足が床を擦る音が響いた。
アナスタシアは席がひとつ空いていることに気づいた。右隣の列の前から三列目にある席で、そこにはいつも時間ギリギリにやってくる子の席だった。その子は歌が得意で、合唱コンクールの練習のときアナスタシアと同じパートだった。その子の友達は歌がうまいのだからとアナスタシアの隣に彼女をたたせたが、彼女は気後れして緊張したのか歌声をうまく出せなかった。アナスタシアはそんな彼女の手をとって、励ました。眼をみて、微笑んだ。彼女が実力を発揮すると、アナスタシアでも驚くほど透き通った声を響かせた。おかげでコンクールでは一位を取れた。アナスタシアとその子は友達になった。その子は昨日は休みで、どうやら今日も休みのようだ。
620: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:27:19.67 ID:Wqc3ZOPPO
身元不明の遺体のひとつがいま空席になっている生徒だと昨日になってやっと判明した。遺体の数はあまりにも多く、身元確認の作業が終わるまでこれだけ時間がかかったそうだ。その子は佐藤のテロの犠牲者だった。
空気が音を伝達するのを止めてしまったかのような沈黙がわずかにおり、動揺とどよめきが教室に広がった。泣き出し、えずく者も出てくるなか、担任は告別式は午後にとりおこなわれると告げた。
621: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:32:31.53 ID:Wqc3ZOPPO
中野「ない……何も……」
空っぽの部屋を中野は茫然と眺めていた。コンクリートが打ちっぱなしになっている部屋は、佐藤が亜人たちを召集したホテルにある地下室だった。中野が入ってくるまでそこは音の無い部屋だった。床にうっすら積もった埃が空気の振動や振幅がいままで存在していなかったことを証明していた。
622: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:34:27.00 ID:Wqc3ZOPPO
怒鳴りあう声が壁にぶつかって跳ね返った。言い争いに発展しそうになったそのとき、永井のポケットのスマートフォンが着信を告げた。永井があわてて着信を確認する。
永井「よかった、待ってたぞ」
623: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:41:34.02 ID:Wqc3ZOPPO
ダウンロードが完了した。PDFファイルをスクロールしていると、ふと永井の親指が宙にとめられた。ファイルを読む。永井はほくそ笑みながら口を開いた。
永井「こいつにしよう」
624: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:42:54.09 ID:Wqc3ZOPPO
永井「婚約者が意識不明の重体、その医療費を自分で負担してる……保険に入ってないのか。はははっ、これはちょっとやそっとじゃ払い続けられる額じゃないぞ!」
すこし興奮気味の早口での説明を聴きながら、中野は戸崎のことを思い出していた。自宅マンションのまえでの無慈悲な眼がはっきりと記憶され、その印象が中心となってその他の輪郭や風景を形作っていた。記憶の世界ができあがると、無慈悲な眼の奥を覗きこめるような気になった。それは感情的な背景であり、戸崎の苦悩と、そして自分の同情が存在していた。
625: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:45:53.45 ID:Wqc3ZOPPO
コウマ陸佐「上の連中は敵を見くびってる」
626: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:47:08.82 ID:Wqc3ZOPPO
突然、研究者が戸崎をきっと睨み付け、責めるような声をあげた。
627: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:48:10.19 ID:Wqc3ZOPPO
曽我部を制したのは報告の内容が予想できたからだった。おおかた暗殺リストの三人目が消化されたのだろう。今朝遺体が発見された桜井に引き続いてとなると、たしかにそのペースにはすこし眼を見張るものの、別段驚くほどのことでも……
曽我部「岸先生が、暗殺されました」
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