614: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:16:45.73 ID:Wqc3ZOPPO
極度の混乱、極端ともいえる自罰的傾向、事実関係の誤認識、うつ症状の進行、精神療養の必要あり。新田美波─療養施設にて治療を受けている。面会謝絶され、隔離されている。世間から遠ざけられる─さらに。亜人に関する事柄からも─つまり、佐藤と永井圭。
均衡が崩れた精神。それがどのような思考や感情を生み出すのか、アナスタシアにはわからない。今日は九月二日、アスタシアは高校の教室にいて、自分の席に浅く腰かけながらいま現在の状況について考えをめぐらせている。昨日の始業式の日には、心配しきったクラスメイトに囲まれ、静かに考えることができなかったから、今日は昨日の分までより多くのことを深く思索しなければならない。
615: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:18:29.01 ID:Wqc3ZOPPO
学校に行くことに、母親は懸念を示した。母親はそれが過敏な態度だとは自覚していたが、亜人のことがひどく取りざたされている現状で、娘が突然消息を絶ち、その間に亜人が殺戮を引き起こし、その亜人は殺戮は一過性のものではなくこれからどんどん拡げていくと宣言したのだから、アナスタシアが亜人だと判明した直後の周囲への疑心暗鬼と不安がぶり返してしてたとしても仕方のないことだった。
母親は(父親にも祖父母にもいえることだが)アナスタシアが亜人だと発覚してから、むしろ娘の安全にこれまで以上に気を遣いだした。車の行き来の激しいところでは痛いくらいに手を握りしめ、川の流れを覗き込もうと橋の欄干から身を乗り出そうとすればまるで連れ去ろうとでもするかのようにきつく抱き締めた。成長するにつれ、アナスタシアは家族のそうした態度にうんざりすることが多くなった。
616: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:20:05.88 ID:Wqc3ZOPPO
晴れ渡った冬の車内、ロシアはとてつもない寒波に見舞われていた。暖房の調子がわるく、途切れ途切れに吐き出される温風は調子を崩した犬の喘ぎに似ていた。窓ガラスが白くなっていたのは曇りのせいではなく凍ったせいだった。
空気そのものが凍るほど寒い日に母娘ふたりで車に乗ったのは、明日は仕事なのにガソリンを入れることをすっかり忘れていたためだった(ついでに灯油を買う必要もあった)。母親は七歳になる娘に眼をやった。ふてくされていた。人形アニメが見たかったのだ。ひとりでも平気だから家にいると駄々をこねたが、もちろん母親は有無を言わさず防寒着をしっかり着込ませ車に乗せた。いまでは防寒着の前は開きマフラーはほどけていた。寒さよりこんな風に窮屈にされるのが我慢できないとでも言いたげな風だった。
617: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:22:25.68 ID:Wqc3ZOPPO
いまなら母親がそんな顔をした理由がわかる、亜人の情報提供を呼び掛けるチラシに載った永井圭の顔写真──佐藤と田中のあいだにあるその写真で永井は学生服の詰襟を上まで閉めている──を見ているとつよくそう思う。太い枝をみずからの首に突き立てて易々と頸動脈を破ってしまったあの光景は恐ろしかったが──あの躊躇いのなさは自分が亜人だと確信しているからというより、自分より偉大な存在にみずからのすべてを捧げようとしているかのようにアナスタシアには思えた──ある程度時間が経過してみると、行いそれ自体への恐れとはまた別の感情もあることがわかった。美波があの光景を見ていたらと考えると、背中を寒気が走り抜けたような感覚をおぼえた。それと同時に、アナスタシアは自分だけが感じる寒気におののいた。死を躊躇しないあの態度。それがある一点を越えたら自他の区別がなくなってしまうのではと、アナスタシアは漠然と感じている。一線を越えた先には帽子を被った男がいる。
冷風がうなじにあたり、アナスタシぶるっとは身震いをした。髪を二つ結びにしていたから冷たさが首の後ろにまともにぶつかった。ひとりきりの静寂が守られていた教室にクーラーのゴォッーという作動音がおおきく響いた。
618: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:23:48.96 ID:Wqc3ZOPPO
教室に入ってきたのは友達とはいえない距離間のクラスメイトだった。彼女はアナスタシアを見て、一瞬驚いたように口をすぼめてからおはようと言った。それから「すごく早いね」とそのクラスメイトは続けた。
アナスタシアは「うん」とだけ応えた。理由を説明することはむずかしかったからだ。さいわい、相手は追及するつもりがなく自分の席にスクールバックを置いた。
619: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:25:38.35 ID:Wqc3ZOPPO
朝のホームルームの一分ほど前に担任が教室に入ってきた。チャイムが鳴るとわいわいがやがやが鐘の音にかき消され、それから椅子が引かれる音がした。起立、着席、ふたたび椅子の足が床を擦る音が響いた。
アナスタシアは席がひとつ空いていることに気づいた。右隣の列の前から三列目にある席で、そこにはいつも時間ギリギリにやってくる子の席だった。その子は歌が得意で、合唱コンクールの練習のときアナスタシアと同じパートだった。その子の友達は歌がうまいのだからとアナスタシアの隣に彼女をたたせたが、彼女は気後れして緊張したのか歌声をうまく出せなかった。アナスタシアはそんな彼女の手をとって、励ました。眼をみて、微笑んだ。彼女が実力を発揮すると、アナスタシアでも驚くほど透き通った声を響かせた。おかげでコンクールでは一位を取れた。アナスタシアとその子は友達になった。その子は昨日は休みで、どうやら今日も休みのようだ。
620: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:27:19.67 ID:Wqc3ZOPPO
身元不明の遺体のひとつがいま空席になっている生徒だと昨日になってやっと判明した。遺体の数はあまりにも多く、身元確認の作業が終わるまでこれだけ時間がかかったそうだ。その子は佐藤のテロの犠牲者だった。
空気が音を伝達するのを止めてしまったかのような沈黙がわずかにおり、動揺とどよめきが教室に広がった。泣き出し、えずく者も出てくるなか、担任は告別式は午後にとりおこなわれると告げた。
621: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:32:31.53 ID:Wqc3ZOPPO
中野「ない……何も……」
空っぽの部屋を中野は茫然と眺めていた。コンクリートが打ちっぱなしになっている部屋は、佐藤が亜人たちを召集したホテルにある地下室だった。中野が入ってくるまでそこは音の無い部屋だった。床にうっすら積もった埃が空気の振動や振幅がいままで存在していなかったことを証明していた。
622: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:34:27.00 ID:Wqc3ZOPPO
怒鳴りあう声が壁にぶつかって跳ね返った。言い争いに発展しそうになったそのとき、永井のポケットのスマートフォンが着信を告げた。永井があわてて着信を確認する。
永井「よかった、待ってたぞ」
623: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:41:34.02 ID:Wqc3ZOPPO
ダウンロードが完了した。PDFファイルをスクロールしていると、ふと永井の親指が宙にとめられた。ファイルを読む。永井はほくそ笑みながら口を開いた。
永井「こいつにしよう」
624: ◆8zklXZsAwY[saga]
2018/07/08(日) 20:42:54.09 ID:Wqc3ZOPPO
永井「婚約者が意識不明の重体、その医療費を自分で負担してる……保険に入ってないのか。はははっ、これはちょっとやそっとじゃ払い続けられる額じゃないぞ!」
すこし興奮気味の早口での説明を聴きながら、中野は戸崎のことを思い出していた。自宅マンションのまえでの無慈悲な眼がはっきりと記憶され、その印象が中心となってその他の輪郭や風景を形作っていた。記憶の世界ができあがると、無慈悲な眼の奥を覗きこめるような気になった。それは感情的な背景であり、戸崎の苦悩と、そして自分の同情が存在していた。
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