60:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:46:54.10 ID:6NLLeJ5C0
「はい、それなのですが。……例えばの話、決まった解釈、というのは無いのですよね」
「解釈、というと、幅がありますね…… 文化的背景に基づく考察、ということでしたら」
「ん…… そう大袈裟なものでもないような」
千夜は訥々と、現状を語った。初っ端の読み合わせに躓き、モルジアナについての解釈、最後の台詞の創作を求められた事、稽古が始まって三週間だが、まったく雲を掴むような心地である事、あまり時間が残されていない事。
61:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:47:24.34 ID:6NLLeJ5C0
「そう、ですね……」
文香は聞き終えると、暫く考え込む様子を見せてから、遠慮為い為い口を開いた。
「あらゆる物語に共通することではありますが…… 決まった解釈というのは、やはり難しいですね。作者個人についての研究をもって、生い立ちや交友、思想や信条を知ったうえで、ひとつの文章に思いを馳せようというのなら、それはよい試みだと思いますが……
ご存知のように、千夜一夜物語は、一人の作者の手になるものでは、ありません。古くから多くの語り手によって、脈々と受け継がれてきた物語の、集合体なのです。『千夜一夜』としての原型の成立は、九世紀頃とされます。
62:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:48:01.27 ID:6NLLeJ5C0
文香は滔々と語る。千夜は頷いた。
「『アリババ』の物語や『アラジン』は、千夜一夜物語の中でも特に有名で、ガラン版にも収録されているものなのですが…… これらは、ガランが底本とした写本には存在しないのです」
「存在しない? 原典には書かれていない物語なのですか?」
「はい。千夜一夜物語は、語り手シェヘラザードが、王に様々な物語を聞かせるという構成で、一夜一夜の区切りがあります。一夜に一つの話、ではなく、三十夜を費やして語られるような物語もあるのですが、こういった構成から、ガランは、物語が『千夜一夜』の文字通り千と一夜の分、存在するものだと考えたのです。しかし、ガランの持つ写本には、二百八十三夜の分しか、ありませんでした。
63:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:48:26.65 ID:6NLLeJ5C0
外典とされる、『孤児の物語』。その言葉が時間を止めてしまった、と思った。少なくとも電車は動いていなかった。遠くで事情を説明するアナウンスが流れている。線路内の安全がどうだとか……。
「アラブ出身かフランス出身かも曖昧というのでは…… ますます、ナンセンスなようですね。この物語の背景だの、モルジアナの気持ちを考えてみよう、などと」
「面白い試みだと、思います。それこそ、読むということ、というような」
「あの男こそ、何を考えているのだろうな」
64:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:50:10.15 ID:6NLLeJ5C0
「はあ、モルジアナがここにいたらな。……ここにいたら、話を聞かせてもらうのに」
「はい…… ふふ、そうですね」弾ませて言う。「……小さな真珠。美しき奴隷。叡智と武勇、献身の人」
「そう言われてみると、つくづく役者不足ですね」
「そのようなことは、ないと、思います。……話がしたい、ものですね」
65:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:50:57.49 ID:6NLLeJ5C0
電車は動き出していた。車窓に区切られ、灰色の空が、街並みが、高架橋が、マンションが、後へ後へと流れていく。信号の点滅に急かされ、横断歩道を渡る人が居た。あれぐらいの幅は、千夜なら二十歩は掛かる。あの場にいれば必死になって繋ぐだろう距離を、今はただ座ってやり過ごしている。
66:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:51:28.12 ID:6NLLeJ5C0
ぼうっとしていると、文香が囁いた。
「……灰色は、お嫌いですか」
目を遣ると、彼女はまた、千夜に読めない表情を浮かべていた。大きく見開いた瞳は、探るというより、読み解こうとしているような。締まりきらない唇は、閉じ忘れたというより、微笑み忘れているような。
「……いいえ。好きも、嫌いも」
67:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:52:16.85 ID:6NLLeJ5C0
暫時の間、電車の揺れる音だけがあって、
「……あの、やはり、読むのが良いかと」
「『アリババ』を、ですか」
「はい。……脚本だけでは駄目ならば、千夜一夜物語の邦訳のものが、いくつかあります。バートンの英訳版を邦訳したもの、マルドリュスの仏語訳を邦訳したものが、有名です。前嶋信次・池田修による、アラビア語写本からの邦訳、平凡社の『東洋文庫』版というものもあります。ただこれは、『アリババ』については、別巻として収録されてはいますが……」
68:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:52:58.54 ID:6NLLeJ5C0
「それはアラビア語からの邦訳本、なのですよね。その『アリババ』も、アラビア語からの訳なのですか? そうすると……」
「アラビア語原典は、存在しない、という話でしたね。平凡社版の『アリババ』で底本とされているのは、ヴァルシー偽写本≠ニ呼ばれているもので、これには、アラビア語で『アリババ』の物語が記されています。これは一九八四年まで『アリババ』の原典と考えられていたのですが、実際はガラン版以降に成立したもので、ガラン版の仏語の物語をアラビア語に訳したものだと分かっています。つまり、平凡社『東洋文庫』版の『アリババ』は、ガラン版をアラビア語に訳したものを、改めて邦訳したもの、という事になりますね」
「結局、回りくどいのですか」
69:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:53:34.78 ID:6NLLeJ5C0
言下の応答にぱちくり、とした目へ示すように、文香はトートバッグから蒼い本を取り出した。事務所のベンチで彼女が読んでいた、そして千夜に救われ墜落の憂き目を見ずに済んだ、例のハードカバーだ――どうも、さっき振りですね。
無人レジにバーコードでも読ませるかのように真っ直ぐ提示された、その背表紙には金色で『ガラン版 千一夜物語 6』と彫られている。薄いフィルムで保護されているのは、文香なりの取り扱いというわけだろう。ふうん、と応じた。
「こういう装丁なのですね。覚えてお――」
70:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:54:09.09 ID:6NLLeJ5C0
今度はインターセプト――この女、本のこととなると。
鼻先にぐい、と突き付けられたそれに、しかしかぶりを振った。
「大事な御本でしょう。汚してしまうかも」
「本にとっては、読んで頂けるのが、大事なのです」
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