19:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:06:19.03 ID:6NLLeJ5C0
皆一様に目をきょろきょろさせだした。千夜も倣う。居ない。
先程居たはずの位置は空席だ。雲散霧消、一ノ瀬志希の紫の髪も、青味掛かった瞳も、猫のような微笑を湛えた唇もそこにはなく、その行方を知る者もないようだ。
「しまった、志希のやつ! 今すぐ探して来ます!」と、立ち上がりもせずに魔法使い。
(「ボクが行こう」と声が上がった。)
20:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:06:50.37 ID:6NLLeJ5C0
「お任せ下さい、アリババ様。必ずお守りしますよ」
これは上手くいった。カシムが盗賊に見つかった事をアリババに聞き、盗賊の追跡から身を守らなければならない事を知らされる場面。この時点ではモルジアナはカシムの奴隷なので、アリババと主従関係にはないが、この危機が彼女の仕える家自体に迫るものであるのを思えば、胸を叩いて請け合ってやるくらいのものだろう。
「盗賊が付けた目印かもしれない。よし、誤魔化しておこう」
これも及第だ。家の門に書き込まれた記号を発見し、盗賊による襲撃の目印である可能性を看破するシーン。千夜ならせいぜい印を消すことを考えると思うが、『アリババ』の時代ではけっこう難しいのかもしれない。それを近所中に同じ印を付け、情報の差異を奪ってやろうというのは成る程、木を隠すなら森の中というのか、流石モルジアナ、叡智の人だ。
21:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:07:33.25 ID:6NLLeJ5C0
≪私は幸せでございます≫。
その言葉は、喉も震わせられなかった。
言えばいいだけ、ただの演技だ、演技でもない打ち合わせだ、割り切ってしまえばいい――のだが、しかし。
――しかし、どの口でこんな事を?
22:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:08:01.38 ID:6NLLeJ5C0
「ううん、確かにそうかもね。ただ、今回はあんまり舞台慣れしてないお客さんを見込んでるから、分かりやすくやろうって腹なんだ」と演出家。
「いえ、そうではなく…… あの、すみませんでした。聞かなかったことにして下さい」
「いやいや、聞かせてよ。君と僕と、皆で作る舞台なんだよ?」
「ほんのつまらないことで」
23:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:09:30.24 ID:6NLLeJ5C0
その場を沈黙が支配した。
雑音がないのが、かえって耳に痛かった――私は嫌だったのに、お前が言えと! 難詰すべく魔法使いを睨んだ。どんな顔を返されたか頭に入らなかった。空気が張り詰め、紙の擦れる音や、椅子に姿勢を正す様子、誰かの息遣いまでもが聞き取れた。千夜は自分を、打ち上げられた魚のように思い始めた。己の考えを表に出すというのは、なんて気まずいものなのだろう。そんなものは濁った海に泳がせてさえおけば良かった、万事良かっただろうに!
そこへ、ガタッ、と椅子の鳴る音がした。見れば夢見りあむ――アリババの兄にしてモルジアナの主人、カシム役――が呆けた顔をしていた。
24:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:10:09.95 ID:6NLLeJ5C0
「千夜ちゃん……? そんなにぼくのことすこって」
「いいえ」
「ア即オチッ⁉︎ やむ‼︎」
「そりゃあまた――」と、魔法使いが口を切った。「――リトルなリドルがあるもんだ。《幸せって何?》《不幸せって何?》」
(「あ、それ知ってるー☆」
25:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:10:40.37 ID:6NLLeJ5C0
「困ったなぁ。実はこれ、完全に脚色なんだよね。元の話には全然ない台詞なんだ」
演出家は言う。魔法使いが答えた。
「脚色ですか? それでは先生のお考えで……」
「いやいや、皆さんの個性に頼ると言った手前だからね。ただ……」
26:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:11:26.03 ID:6NLLeJ5C0
「というわけだから…… 白雪さん、考えておいてくれる?」
「考える、というと……」
「勿論、最後の台詞だよ」
与えられた試練、というわけだ。千夜は初めて、自分の役柄に重みを感じた。ただこなす、というわけにいかなくなった。
27:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:13:25.96 ID:6NLLeJ5C0
クッキーを焼いた。シートを敷いた天板に、並べたのは花や木やハート。皿に移していた時、どうかした弾みに一つ、取り落とした。ペシャ、と小気味良くもない音を立て、それはへし折れた。元は星型だったそれの、テーブルの上、一つ角が分かたれた無残な姿に、首を撥ねられた死体の印象を重ね、体が首を離すまいと抗い続けたような屑の軌跡を眺め、不気味に感じるのと、虚しい気持ちとに襲われた。
昔の話だ。思い出しても色の付いていないような、いかにもノイズの走りそうな、瞳が紅く輝いていたのは信じられるけれど、それも感覚ではなく理屈でそれと分かるような、白と黒しかない世界の、その中で。
ちとせは優しく微笑んだ。優しく、優しく囁いた。
28:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:14:08.68 ID:6NLLeJ5C0
そんな記憶を、バラバラになった陶器の破片を眺めながら喚び起こしていた。たまには事務所でトルコ風コーヒーを、気分も良いし、折角だから彼にもと、その机からマグカップを奪って来たのが失敗の始まりだった。一条を通じて述べるには千夜の記憶が飛んでしまったが、とにかく給湯室の床、かつては《ME BOSS,YOU NOT》と声高だったそれは、今や手榴弾にでもやられたように無残な最期を晒して散らばっている。
断末魔の叫びを聞きつけたか、タッタと足音を鳴らし、彼が顔を覗かせた。
「割れたか?」
29:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:14:51.14 ID:6NLLeJ5C0
彼は悪戯っ子のように笑い、
「だな。怪我ないか?」
「いえ…… すみません。弁償します」
「弁償? そんなのいいんだよ。千夜が怪我してなくてよかった」
「……、それはまた後で、として。すぐ片付けますので」
234Res/183.06 KB
↑[8] 前[4] 次[6]
書[5]
板[3] 1-[1] l20