Helleborus Observation Diary 

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237 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:44:30.24 ID:QkS64LeQ0




 午前最後の授業は体育で、着替えは休み時間に教室で行う。
 この着替えっていうのが、わたしはどうにも苦手……得意じゃない。

 自分が下着姿である状態そのものが落ち着かない。
 中学校のときは、みんな肌を見せないように器用に着替えていたはずだったけど、
 いま視界に入る人たちはそのままの姿で廊下に出たり、友達同士でくっついたり触り合ったりしている。

 そういうものなのだと、一年生の初めに理解した。理解はしたけど、わたしはどうにも慣れない。見られていると思うと落ち着かない。

 これって、自意識過剰なのかな。
 きっとそうだ。
 でも一人だけわざわざ教室から遠い更衣室を使うわけにもいかないし、誰かからなにかを言われたとしても、それは社交辞令とかお世辞の類で、過剰に反応するのもおかしい。

 それに今の季節は、制服の下に何枚も着ているものがあるから、まだ大丈夫だ。
 脱いで、着る。それだけのこと。
 終わったと息を吐くと、後ろから視線のようなものを感じる。

 慌てて振り向く。けれど、誰もこちらを見てはいない。

 後ろに目が付いてるわけではないから、当然だ。
 換気のためと開けられている窓から、カーテン越しにお昼時にしては冷えた風が吹きつけてくる。そうだ、今日は曇りだった。

238 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:45:28.03 ID:QkS64LeQ0

「どうかした?」

 着替え中のふゆが、向き直ったわたしに訊ねてくる。
 体育の時間の、ひとつ結びにしているふゆもかわいい。……じゃなくて、問いかけに反応する。

「わたしって、自意識過剰だよね?」

「なに、なにそれ」

「ふゆはそう思わない?」

「……いや、私は、そう思ったことはないけど」

 ふゆが怪訝そうに眉を寄せる。

 なんだか言わせてしまったみたいになる。実際言わせているようなものだけど。

「なら、いいの。ちょっと気になっただけ」

「そう? そっかー。まあ、そういうときもあるよね」

 ふゆはこういうとき、いつも踏み込んでこない。わたしだったら理由とか、どうしてそう思ったのかを聞いてしまいそうなのに、ふゆはそうしない。

 そういう距離感の取り方が、もどかしくもあって、嬉しくもある。

239 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:47:13.99 ID:QkS64LeQ0

「ふゆはやさしいね」

「……やさしさ感じる要素あった?」

「うん。いつもやさしい」

 見つめると、居心地悪そうに目を伏せられる。
 そういう反応もまたかわいいと思う。だからなのか、ついつい困らせたくなってしまう。ふゆには悪いけど。

 近くの二人は机にもたれるようにして、話をしていた。

「今日も仲良しこよしね」と栞奈ちゃんがこくこく頷いて、駆けるように歩いていく。
 それに続いたつーちゃんは、わたしたちを交互に見たまま後ろ歩きで教室から出ていく。

「なぜ先に行く。……遅れるし、私たちも行こう」

 上の体操着を羽織ったふゆが、一歩進んでわたしの隣に並んでくる。
 そこから走って二人に追いついて、四人で体育館に向かった。

 体育はここのところいつも自由時間で、今回もそうだった。が、クラス委員の子の提案で、全員でドッジボールをすることになった。
 チーム分けは出席番号の奇数偶数で、三人とは別々のチームになる。

240 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:48:33.41 ID:QkS64LeQ0

 同じチームの子に話しかけられて、コートの中央に向かって数歩前に出る。
 ドッジボールってジャンプボールから始まるんだった。

 タイミングを合わせて跳ぶと、対面している子より早くボールに指先が触れた。

 ボールがコートの中を縦横無尽に動く。それによって、みんなの足も動く。
 キュッキュッという運動靴のスキール音がアーチ型の体育館の高い屋根で反響する。

 つーちゃんと栞奈ちゃんはボールを持つと二人で意味ありげな視線を交わしつつわたしばかり当てようと狙ってきて、何回目かで当てられてしまった。
 ふゆはボールが回ってくると、外野に向けて大きくフライを投げていた。わたしには投げてくれなかった。そしてわたしが外野からふゆめがけて投げるとかわされた。

 わたしの方のチームが勝つと、同じチームの友達が何人か内野から駆け寄ってくる。そのうちの一人の子がわたしの腰に手を回してきて、ぎゅうっときつくハグされる。

 首の近くに顔をうずめられて、身動きが取れなくなる。
 こちらの匂いを嗅ぐような息遣いと、その子の体操着から漂う柔軟剤の甘ったるいような香りに、口の中が渇いていく。
 わたしは誰にも当てていなかったのに、どこか喜ぶところがあったのかな。

241 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:50:13.82 ID:QkS64LeQ0

 体を離されたとき、その子の口がなにかのかたちに動いていた気がしたけれど、わたしも同じように動かせたか自信がなかった。

 次はうまく反応できるといいけど、と数秒目を瞑る。
 そのうちに、ボールの投げ合いがまた始まった。

 一回目は拮抗していた勝負が、今度は短時間で決した。

 三人たちの方のチームが勝ち、わたしの方のチームは負けた。目の前の喜び合いを眺める。
 その途中、目がある一点で止まる。
 ふゆとの距離を詰めて、笑顔で手を握る子がいた。

「あっ」と弾かれたように声が出る。どうしてそういう反応になったか、それは単純に珍しいと感じたからだと思う。

 ふゆはクラスの人たちとあまり関わりを持とうとしていないから、こういうふうに誰かと仲良さげにしているのはめったに見ない。
 つーちゃんと栞奈ちゃんもそういう傾向があって、他のグループの人たちと、授業とかで必要なこと以外の会話をしている印象はない。

 ……ああ、けど栞奈ちゃんは、他のクラスの同じ部活の人とは仲良さそうにしているかな。
 今のクラスにはいないけれど、廊下や学食でバスケ部の人と会ったりすると楽しく会話している。

242 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:53:16.97 ID:QkS64LeQ0

 突然手を握られて、ちょっと驚いたり、困ったりしないのかなと思ったけど、ふゆはなんでもないような様子で、その子と目を合わせて話をしている。

 もしかして、けっこう仲良いのかな……。まったく知らなかった。

 でも、まあ、ふゆと仲良くしたい子がいるというのは、なにも不思議なことじゃない。
 わたしだって最初はそうだったのだから、気持ちはわかる。

 だから、よかった、と素直に思う。
 それはきっと、いろいろな意味でだった。

 無意識に頭を振ると、「ね」と斜め前から声がかかる。

「あれは瑞樹ちゃん。吹奏楽部所属で、生徒会の会計。
 一年生のときのクラスは私とつーと同じで……って、そんなの同じクラスだし普通に知ってるか。そもそも桃は友達だよね?」

 線一本隔てたところにいた栞奈ちゃんが、授業で教科書の文章を読み上げるときのようにわたしに言って、それからふゆの方を向く。

243 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:54:02.83 ID:QkS64LeQ0

「うん、知ってる。友達だよ。……でもどうして?」

「見てたから、その見てる桃を私は視界で捉えた」

 なんだか、英語の翻訳みたいな言い方だと思った。

「……そういうふうに見えてた?」

「いや、ただ見てたからって、それだけだよ。桃がどう思ってるかとかは、知らないしわからない」

 と、わたしに体の向きが戻る。
 そして、つーちゃんに冗談を言うときみたいに笑いかけられる。

「あ、もう始まるみたい。次もちゃんとずばーんと当ててあげるから、覚悟しといてよ」

 次の試合、栞奈ちゃんになにかを耳打ちされたふゆが、若干面倒そうに、小さく「おりゃー」と声を出しながら、わたしの方めがけてボールをゆるく放ってきた。

244 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:55:00.18 ID:QkS64LeQ0




 放課後になって、ふゆと二人で園芸部の部室に向かう。

「文集を書くから残ってく」とふゆがファイルを片手に告げてきて、ならわたしも一緒に勉強していようと思った。

 ばいばいまた明日と廊下ですれ違う友達に挨拶をする。
 その中には体育の時間にハグをしてきた子もいて、でも、手を振りつつ目を向けたら逸らされた。

 わたしたちの教室と園芸部の部室の間には職員室があって、そこでふゆはなにかを思い出したように足を止めた。

 そして、テスト期間につき生徒入室禁止(ノックの後に元気な声で用件をお伝えください)、と張り紙がなされている扉をノックして、
「二年の冬見です。辻井先生いらっしゃいますか」と声をかける。

「はいはーい。冬見さん、と、本橋さん。どうしたの?」

 担任の藤花先生が出てきて、訊ねられる。先生のことはみんな藤花先生と呼んでいるから、辻井先生って一瞬誰のことだろうと思った。
 腕にはこれから二者面談で使うと思われる、ぶ厚い本を抱えている。そういえば、ふゆは進路調査票になんて書いたのだろう。

「文集用の写真を撮りたくて……カメラをお借りできるって、前に先生が言っていたので、借りられたらなと」

「あー……でも冬見さん。いまテスト期間中だけど、大丈夫?」

245 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:55:43.82 ID:QkS64LeQ0

「すぐ終わります。なんていうか、テストよりもそっちの方が気になってしまって」

「なるほどねー、テスト前にふと気になって部屋の掃除とかしちゃう感じ?」

「そうですね。そんな感じです」

「んー、わたしもあったなぁ、そういうこと。うんうん、ちょっと待っててね?」

 バタンと扉が閉まる。そうだ、先生は園芸部の顧問をしているんだった。
 ……いや、そうだっていうか、初めて知った。

 すぐに戻ってきた先生は、「わたしの私物なので、気をつけて。まあ、冬見さんなら大丈夫か」とふゆにカメラケースを手渡した。

 ふゆが一通りカメラの使い方や撮り方などを教えてもらっている間、手持ち無沙汰を覚えて、側にある四角く小さい窓の外を眺める。
 人のいない放課後の校庭を見るのは珍しい。耳を澄ますと、体育館の方からはボールの弾む音が響いてきていた。

「本橋さんは、付き添い?」という先生からの問いかけに、
「のような感じです」とわたしが答える前にふゆが答える。

246 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:56:33.17 ID:QkS64LeQ0

「そう。もしよかったら部活、入らない? あ、こんなときだけ顧問ぶりたいとか、そういうんじゃないからね? 冬見さん」

「あっはい。思ってないですよ?」

 薄く反応したふゆと藤花先生の目がわたしに向く。

「え……っと、でも、いいんですか?」

 自然とそう訊き返していた。
 いままで考えたことがなかった。ふゆと同じ部活。

「いいんですかっていうか、ねえ、冬見さん?」

「あぁその、活動はほぼしていないから、入っても入らなくても変わらないと思うよ」

「そう、悲しいことに。名簿に名前が載るくらいで。部員数でどーこうはないから、特に勧誘もしてこなかったんだよねー」

「部員が多くても、それはそれでなので、私としてはやりやすいですけど」

「そうよねぇ。冬見さんが入ってくれて、部長してくれて助かってるよ」

 またしてもわたしを見て、ふゆと先生は控えめに笑う。
 誘われているのかそうでないのか、つまるところどっちなのだろう。

247 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:58:07.92 ID:QkS64LeQ0

「あぁもうこんな時間。二人ともテスト勉強も頑張ってね。特に数学、今回はわたしじゃないから難しいよー。あと、カメラは明日返してくださいね」

 と先生は朗らかな調子で言って、コツコツと靴を鳴らして歩いていく。

 廊下の一本の道のりだけで、いろいろな学年の生徒に話しかけられて、その度に止まって話を聞いている。
 やっぱりみんなに好かれているんだ。わたしも先生が担任でよかったと思っていたから、納得かもしれない。

 ていうか数学、難しいんだ。理系科目は苦手だから、頑張らないといけない。中学での貯金はとうに尽きていた。

「先生って、ちょっと変わってるよね」

 という隣からの呟きに、うんと軽く頷いた。

 今日は曇天ではあるけれど、これ以上暗くなってもいけないし、ということで、部室に荷物を置き、先に屋上へと写真を撮りにいくことにした。
 
 鉄扉の鍵を開けたふゆに続いて、外に出る。
 屋上に来るのは、これで三回目だった。

248 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:59:04.65 ID:QkS64LeQ0

 カメラの設定をしているふゆを横目に、前に進んで手すりをつかみ、東側の校庭の様子を眺める。
 やっぱり人はいない。中庭にも人はいない。少し遠くでは、新幹線が線路を通過していっている。

 不意にパシャリと音が聞こえて振り返ると、わたしにカメラが向いていた。

「なんだか、似合うね」

「似合うって?」

「花と、空と、桃がかな。でもこれは消さなきゃね」

 ふゆがカメラを操作する。言葉通りにわたしが映った写真を消しているみたいだった。
 ファインダー越しのわたしは、お花と曇り空が似合うらしい。前にふゆが「晴れより曇り空の方が好き」と言っていたことを思い出す。

 好きな空模様に似合うと言われて喜ぶのは、さすがに論理が飛躍しているだろうか。

「さてと、ちゃっちゃと撮っていこう」

 場所を移動しながら、お花を写真に収めていくふゆの背を追いかける。
 ここにあるお花はすべてふゆが育てたもので、お気に入りのお花たちなのだと思う。

249 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:00:00.73 ID:QkS64LeQ0

 ひとつひとつを撮りながら名前を言って、わたしに教えてくれる。
 その声音が、表情が、撮っている姿がとても楽しそうで、思わず「ふふ」と声が漏れる。

「もっと詳しく聞いてみたいって言ったら、ふゆ、教えてくれる?」

 前にここに来たときに、ひとつのお花のことは聞いた。
 でも、そのほかのお花についてはまだだった。

「まあ、うん。でも、そんなに気になる?」

「気になる」

「どうして?」

 どうしてって。

「わたしもお花が好きだから。それに、ふゆが育てたものなら、なおさら気になる」

 そう言うと、ふゆははっとしたような表情になって、カメラを持っていない方の手で眉間に触れる。

「この間の自然公園も楽しかったよ。紅葉が綺麗で、咲いているお花たちも色鮮やかで……」

「そっか。桃は、そうだったね」

「うん……うん?」

 桃はの"は"という部分が気になって視線で問いかけると、ふゆはカメラを下ろして苦笑する。
 まとっていたやさしげな雰囲気に、少しだけ影が落ちた。

250 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:00:53.23 ID:QkS64LeQ0

「たいしたことじゃないんだけどね」

 記憶の中から言葉を見つけるように、一拍置いて、

「けっこう前……もう何年も前に友達にね、『花なんて、見ても貰ってもなにも嬉しくないでしょ』って言われたことがあって。
 そのとき、ああ、たしかにそうだよねって、思った。
 贈り物をされるなら形に残るものの方がいいって人もいるし、形に残らないものなら、まだ食べ物とかの方がもらって嬉しいかもしれない。
 枯らしたら相手になんとなく申し訳ないし、枯らさなくともすぐに捨てることになる」

「うん」

「だから、あんまり話すことに慣れていないっていうか。
 もし花のこと嫌いな人だったらどうしようとか考えて、自分からは話してこなかったから」

 理由を訊かれても困るし、とふゆは笑う。

 なにについての理由だろう、と考えているうちに、ふゆは次の言葉を並べていく。

「でも、話さないだけでさ、どう思っているかなんて、ほんとはどうでもいいの。嫌いなら嫌いで、興味ないなら興味ないで。食べ物の好みとかと同じでさ、良いとか悪いとかってないでしょ? 
 けど、なんていうかね。つまりさ」

 つまり、と今までの言葉とうまく繋げるようにもう一度言って、話の終着点を探すような間が空く。
 ふゆがこうやって、長く話をしてくれるのは珍しいことかもしれない。

 やがて、なにかいい言葉がひらめいたみたいに、ふゆはひとつ頷いて顔を上げた。

「桃が花を好きなの、勝手だけど私はうれしいなって」

251 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:05:03.70 ID:QkS64LeQ0

 予想外の言葉にわたしが黙ると、この場所にしんと沈黙が流れた。目を合わせようとしたら、ふゆの顔がふいっと横に逃げる。

 風は吹いていなかったけれど、その動きでふゆの髪が揺れる。耳元のベージュカラーの髪が、曇り空からのわずかな明かりで、つやつや光っていた。

 意味を考えながら、足を動かして横顔を追いかける。照れたみたいに目の下を赤くしたふゆを見て、どきりと心臓が一度大きく跳ねた。
 話しすぎた、とその表情が告げてきていた。

「わたしでよければ、いつでも話してくれていいよ」

「……そ。まぁ、そもそも桃以外には……」

「……わたし以外には?」

「話せる友達がいないから、桃が聞いてくれるなら、それも、うん」

 うれしいよ、とふゆは足元に咲くお花を見てはにかむ。

 途切れ途切れだった言い始めにしてはさらりと言った、その最後の言葉が、頭の中で鳴り響く。

 ふうん、そうなんだ。
 わたし以外の友達には、話さないんだ。

252 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:06:40.06 ID:QkS64LeQ0

「やっぱり、すごく素敵だと思う」

 思ったことを考えないまま言うと、ふゆは「ん?」と普段通りの表情で、首を傾げた。

 ふゆが、と言いかける。でも、
 お花を育てることが、と喉から出かかる前に言い直す。

 その方が、ふゆを困らせないかなと思ったから。
 いまはなんとなく、困らせたくなかった。

「そっか。なら、そうだ。桃も育ててみる?」

 ふゆは歩き出して、塔屋のすぐそばにあるプランターの前にしゃがみ込む。
 そのお花の名前──クリスマスローズは、この前教えてもらったから、ちゃんと覚えていた。

「お花を育てたの、小学生以来だよ。大丈夫かな?」

「まぁ大丈夫。そんときは、なに育てたの?」

「ひまわりとあさがお」

253 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:10:26.15 ID:QkS64LeQ0

「学校でみんなに配られるやつ?」

「そうそう」

「そっか。ちゃんと育てられた?」

「うん。たしか、種まで」

 わたしもふゆの隣にしゃがむ。距離は十五センチ。
 肩が触れそうなくらいまで近いのに、もっと近付いてみたくなる。

「なんか前まで来ちゃったけど、種類はこれでいい?」

「ふゆの一番のお気に入りでしょ?」

「まあ、そうだね」

 このお花にひときわ強く向ける、やさしい表情。
 わたしも育てたら、ふゆはもっと喜んでくれるかな。

「だったら、これがいい」

 視線を合わせてから、まっすぐ前に手を伸ばし、プランターの縁にかけていたふゆの手にそっと重ねる。

 ふゆの好きなお花をわけてもらって、育てる。
 それは、なんだかとても素敵なことのように思えた。

254 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:11:56.89 ID:QkS64LeQ0
本日の投下は以上です。
255 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:20:03.56 ID:QkS64LeQ0
訂正
252
「お花を育てたの、小学生以来だよ。大丈夫かな?」

「お花を育てるの、小学生以来だよ。大丈夫かな?」
256 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/22(水) 14:22:11.08 ID:N5AwWJYZ0
おつ
257 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/23(木) 21:14:57.02 ID:qABIjVxm0
おつです
258 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/23(木) 21:26:11.08 ID:ZJvwiSTX0
乙。女子校だったのか。
259 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/25(土) 17:22:54.17 ID:1DxniCdi0




 それから園芸部の部室に戻り、下校時間ギリギリまで勉強して家に帰ると、お母さんがリビングのコタツで溶けていた。
 お父さんはまだ帰ってきていなくて、お母さんに訊いてみたら、今日は泊まり込みだという。

 ひなみはお母さんの隣でノートを広げていて、集中するためなのかイヤホンを耳にかけている。

 近寄って手を振ると、「姉さんおかえりー」とすごく小声で言われた。音楽を聴いていると、声の音量調節が難しいらしい。

 真面目に勉強しているひなみを見ていると、自分の不真面目さというか、意識の低さを突きつけられるような思いになる。
 中学生の頃は、学校自体がそういう校風だったというのもあるけど、勉強しないと周りに置いていかれると思って、もっと計画的に勉強をしていた気がする。

 今は焦りが足りていないのかな、やる気が眠気に負ける。前だってテスト期間でも寝ていたわけだけど。

 部屋に行き制服から着替え、ベッドに倒れ込む。
 そして今日あったことを思い出す。すぐに眠気がやってきて、それをスマホを開くことで阻止する。そしてスマホを操作しているうちに時間が過ぎる。悪循環。

 しばらく寝転がってからリビングに戻ると、お出汁のいい香りが鼻をくすぐった。

260 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:23:29.09 ID:1DxniCdi0

「今日はおでんだよ」とお母さんがキッチンから声をかけてきた。

「わー、美味しそうだね」

「……あれれ? 流行ってるんじゃなかったの?」

 お母さんは不思議そうな顔でちらっとひなみを見る。
 その見られたひなみは、「わーい」とキッチンに向かって、漬物の乗った小皿をテーブルへと運んでくる。

「この季節はやっぱりおでんだよねー。はい、姉さんの」

「ありがと。わたしも運ぶよ」

「あーいいよ。姉さんは座ってて座ってて」

 ひなみに言われるままに、椅子に座る。
 座ってから、いいのかなぁと思う。いろいろと。

 テレビのバラエティ番組からする音に耳を傾ける。
 するとまた眠くなってくる。ゆらゆらーと首が揺れる。

「どうしたの、ぼーっとして」

 席についたお母さんが、箸を片手に首を傾げる。
 その視線の先はわたし。……あ、わたしのことか。

「ぼーっとしてたかな?」

「してたよ。白目剥いてたよ」

261 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:24:22.87 ID:1DxniCdi0

「えー?」

「いや白目は嘘よ。で、どしたの?」

 ちょっと信じてしまった。
 どうしたもこうしたも。眠気に理由はあるのかな。

「ママ、ちがうよ。姉さんがぼーっとしてるのはいつものことだよ」

「あらそうだった。桃はパパと同じぼんやり族だった」

 対面の二人がうふふと楽しそうに笑い合う。
 たしかに、うちの家族を二つに分けるとしたら、わたしとお父さん、ひなみとお母さんになると思う。

「そうねー。なにか外で買い食いしてきた?」

「んーん、食べてきてないよ」

「そう……いつでも腹ぺこの桃ちゃんはどこに行ってしまったの」

「……どこに行ったのかな?」

 わたしがいつでも腹ぺこだったときって何年前の話なのかな。
 今よりも活発に動いていたとき、とすると、三年前くらい。そんなに昔の話ではなかった。

 食べる量が減ってもなかなか終わらない成長期。
 遺伝にしては、もうお母さんの身長を軽く越してしまっている。

262 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:25:23.62 ID:1DxniCdi0

「うーん、寝不足?」

「ではないと思う」

「じゃあ、テストが嫌で現実逃避?」

 お母さんがテレビを見ながら、質問を重ねてくる。
 なんだか取り調べを受けているみたいだ。

 テストが嫌……そう言われるとそういうふうに思えてしまうけど、口を軽く引き締めて首を横に振る。

「ちゃんと勉強してるの?」

「まぁ、ぼちぼち」

「そう。ま、したくないならしないでも、お母さんはいいと思うけど」

「勉強は、そこまで嫌いじゃないから大丈夫」

「そう? なら、うぅーん……それならもうなにも思いつかないなぁ」

 会話が途切れたタイミングで、ずっとテレビの方を見ていたひなみの顔がこちらを向く。

「…………」

 その表情で、いろいろと察する。
 どうやらわたしはいま心配されているらしい。

263 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:26:33.27 ID:1DxniCdi0

「そんな、心配しなくてもいいよ。たしかにぼーっとしてたけど、理由は本当になにもないから」

 浮かぶことはそれなりにあったものの、特にこれと決められるような心当たりはなかった。

「なら、いいの。昔から嫌なことがあっても、内側に溜め込んでなかなか言わないじゃない? だから、たまに訊いておかないといけないわねー、っていうのが今」

「ありがとう。でも、ほんと、なにもないよ」

 そもそも、わたしはなにか溜め込んでいるのだろうか。

 その心当たりもない。なんとなくのもやもや、じわぁーっとなる気持ちならあるけど。
 それは、ここ最近になって頻度が多くなってきたように思える。けれど、それにしても、特に溜め込んでいるという自覚はない。

 でも、お母さんが言うなら一理あるのかもしれない。
 必ずしも自分のことを自分が一番よく知っているわけではないと思う。

 人に言われて気付くことだってある。わたしは、そういう言葉に振り回されたり、影響されやすいから、鵜呑みにしすぎるのはいけないことだと思うけど。

「ママ、ひとつ忘れてるよ」

「なあに?」

264 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:27:35.25 ID:1DxniCdi0

「姉さんがぼーっとしてる理由。それは、好きな人ができた、とか!」

 ひなみが箸で大根をつかみながら、難問の答えを導き出したときみたいにキラッと目を光らせる。お母さんは目を細めてくすくすと笑う。

「あらあら、それはそれは。……で、ひなみは? 最近どうなの?」

「え、どうしてこっちに飛ぶの? なんもないです」

「なんもないってことはないでしょう? ほら、なんでもいいから話してみんしゃい」

「なんもないです。とりあえずお勉強頑張ってますー」
 
「そりゃいい子いい子。で、ひなちゃんは学校でなんかあった?」

 ごまかしのような言葉をするっと聞き流すお母さんに、ひなみはむうと唇をとがらせる。
 そんな様子をすぐ隣で見たお母さんは、にやーっと頬を緩めて、ひなみの髪を撫で回した。

 わたしと二人でいると少し背伸びしている感じがするけど、お母さんお父さんの前では等身大の中学二年生なんだなぁ、と感心なのかよくわからない感想を抱く。

265 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:29:08.08 ID:1DxniCdi0

「ひなちゃんかわいい」

「姉さんはひなちゃんやめて」

 今の流れではバレないと思ったのに、顔が一瞬でツンっとしたものに戻った。
 わたしはだめなのか。いったいなぜ……。

 ひなみの学校トークを聞いたあと、お母さんはコタツに入ってすぐにすやすやと寝息を立てて眠り始めた。

「お母さんとてもお疲れみたいだ」

「だね。心配」

「心配するなっていつも言われるけど、心配だよね」

「うんうん。それだし、姉さんのことも心配してるからね」

「そっか」

「成績とか」

「あ……うん。これからちゃんと勉強しますとも」

 そんなに成績悪いってわけでもないけどなぁ。

266 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:29:51.05 ID:1DxniCdi0

 それから二人で洗い物をして、わたしは自室に戻った。
 すぐにベッドに倒れ込みたい気持ちはあったけれど、我慢して学習机に向き合う。

 提出課題用のノートを開いて、数問解き進めているうちに段々と集中してきた。

 暗記科目はギリギリに詰めていけばいいから、まずは数学二つを重点的にかな。

 一時間くらい経って、ふとつーちゃんの言っていたことを思い出す。頭に浮かんでくる空想の波によって、一瞬思考が数式とは別のものへと移り変わる。

「クリスマスは、ふゆとデートできたらいいなー……」

 となんとなく声に出したけれど、一ヶ月も先のことで、ちょっと気が早い……早すぎるかもしれない。
 空想が広がっていくうちに、目の前の視界がぼやけてきて、また眠くなってくる。授業中はそうでもないのに、どうしてだろう。

 追試にかかりたくはないし、補習にかかってしまうとさらに面倒らしいし、やれることはやっておこう、と気を取り直して再びペンを握った。

267 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:30:32.74 ID:1DxniCdi0




 コンコン、とわたしの部屋のドアをノックする音によって、すうっと意識が浮上する。

 スマホの画面に映っている時刻は午前九時。遅刻だ。
 え、どうしよう、と目の動きだけであわあわする。
 いやでもアラームが鳴っていないから、今日は平日ではないはず……あ、やっぱり、土曜日って表示されてる。

 ひとりで一喜一憂していると、ドアの向こうからお母さんの声がする。

「起きなさーい。下につかさちゃん来てるから」

 その言葉で眠気が一気に飛ぶ。
 ついでに体もベッドから飛び出した。

「つーちゃん? ちょっと待って待って」

「待たない。早くしなさい」

「あ、うん。十分だけ、いや十五分待ってって」

「はーい、伝えとく。十分ね」

「えっ、十五分って……」

 ドアの向こうからの返答はなく、代わりに廊下を歩く足音が聞こえる。ええ……。

268 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:31:38.63 ID:1DxniCdi0

 急いで着替えて顔を洗って歯を磨いて髪を整えて下の階に降りる。
 洗面所に置いていたはずのヘアピンが見つからなくて、その場にあった洗濯バサミで代用しようとしたけど、さすがにと思って部屋に戻ったから時間を少しロスした。

「ももちゃんやほー」

 なにか用事でもあったかなとリビングを眺めると、つーちゃんはひなみとコタツに入ってスマブラをしていた。
 コタツの上に目を移すと、学校の英単語帳が置かれている。わたしのではないから、多分つーちゃんのだ。

「おはよ。お待たせしました」

「うん。まぁ、ももちゃんママにどうせだからあがってって、って言われたから、待っていたわけだけども」

「あ、うん。そうなんだ?」

 リビングにお母さんの姿はなく、寝室にでも行ったのかなと思ったところで、廊下から歩いてくるのが見える。
 ちゃんとお化粧していてスーツ姿だった。今日はお昼から出勤のようだ。

「そうそー。柚子がいっぱい届いて……えいっ、うちのお母さんがももちゃんちに持ってけって、えいやっ」

 コントローラーを操作しながら、片手で器用に指差した場所には、ダンボール箱が一つあった。
 近寄って中を開けてみると、本当に柚子がびっしり入っていた。美味しそう。

269 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:32:20.83 ID:1DxniCdi0

「つかささん、なかなかやりますねー。ソフト持ってるんですか?」

「最近スイッチ買ってねー」

「そうなんですねー。ジュース賭けましょう」

「いいよー。次ももちゃんも混ざる?」

 誘われて、なぜか「たまにはやってみよう」とお母さんが入ってきて、四人で三回対戦した。
 順位については割愛する。ひなみが強かったとだけ。

 つーちゃんは午後からアルバイトがあるみたいで、成り行きに午前中はうちで勉強していくらしい。
 ひなみは近所の友達の家に出かける、と足早に家を出ていった。
 わたしも部屋に一度戻って、勉強道具を持ってくる。ここ数日はほんとに特定の教科しかやっていなかったので、気晴らしに別の教科に目を向けてみることにした。

 立ったついでにお母さんに頼まれて三人分の飲み物を準備する。
 キッチンでケトルのお湯が沸くのを待っている間に、ひそひそとした会話が耳に届いてきた。

「つかさちゃん。あの子、授業ちゃんと受けてる? ぐーぐー寝てたりしない?」

「いや、寝てるとこなんて見たことないですよー?」

270 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:33:36.08 ID:1DxniCdi0

「あ、やっぱり。わりと内弁慶な性格してるから、そうじゃないかとは思ってたのよねぇ。だから家ではおねむなのかしら」

「そうなんですかね? でもあの、安心してください。ももちゃんは体育以外だいたい寝てるわたしよりは全然真面目なので」

「あら、それはつかさちゃんママに報告しないと」

「やーめてー、くーださーい」

 わたしが近付くと、ぱっと会話が止んだ。
 ばっちり聞こえていた。……でも、悪口ではないし、聞こえていないふりをしておいた。

 時計の長針短針がてっぺんで重なるくらいまで、時折話したりしながら、まぁまぁ集中した時間を過ごした。
 普段のわたしならこの時間くらいまで寝ていただろうから、ちょっと得したような気分になる。

 コタツにだらんと身を完全にあずけていたお母さんは、たまに「わかんなかったら教えてあげる」と言ってきたけれど、
 ためしに聞いてみると「そうね。これは……自分で考えなさい」と梯子を外してきた。……ええ、まぁ。その通りだ。

271 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:34:40.87 ID:1DxniCdi0

 つーちゃんはというと、うぐぐぐと眉間を寄せて唸りながら、栞奈ちゃんが作ってくれたというテスト対策の問題を解いていた。
 なにそれわたしもほしい、と思いつつ、つーちゃんは今も昔も頑張り屋さんなんだなぁと、うれしくなった。

 ペンを置いて柚子をいただいていると、立ち上がったお母さんが、

「じゃ、アフタヌーン出勤しまーす」

 と言って、財布からお札をぴらっと出して渡してきた。

「これで二人でランチでも行ってきなさい」

「え! いいんですか?」

「いいのよー、息抜きと、柚子のお礼だと思ってー」

「まじですかー。ありがとうございます。うちのお母さんにも言っときます」

「うん。では、いい午後をー」

 手をぶんぶんと速く振って、良い笑顔で部屋から出ていく。仕事のこと、そんなに好きなのかな。
 ワーカーホリックという言葉が頭に浮かんだ。

272 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:35:32.19 ID:1DxniCdi0




 コートを着て、家を出る。わたしたちの家周辺は高台に一軒家が並ぶ住宅街になっていて、お店はほとんどない。
 なので歩いてバスに乗って、つーちゃんがアルバイトをしているお店の近くの駅まで向かう。

 そういえばわたしたちはそこそこ家が近いのに、わたしは地下鉄通学で、つーちゃんはバス通学だった。
 定期だとどっちが安いんだろう、とか、栞奈ちゃんもバス通学だったかな、とかそういうことを考えながらバスに揺られる。

 天気は二日連続の晴れ。風は弱め。
 バスの中は暖房でだいぶ暑くなっていた。

「なに食べようね」

 駅に着いて、つーちゃんに訊いてみる。
 土曜日のお昼時だけあって、ぐるっとその場でまわって目に入るお店には並びの列が出来ている。

「ビッグマック食べたい」

 もらったお金から考えると、もう少しお高めなところにも行けるように思えたけれど、つーちゃんはアルバイトの前にがっつり食べたい気分なのかな。

 同意の意味で頷いて、お店に入る。セットを二つとナゲットの注文を済ませると、結構いいお値段だった。残ったお金は、あとでお母さんに返そう。

273 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:36:19.94 ID:1DxniCdi0

 二階の四人席に向かい合って腰掛ける。高校生っぽい男女の団体が近くの席で大きな声で話している。それを見て、つーちゃんがちょっと嫌な顔をしていたので、窓際のカウンター席に移動した。

「アルバイト、何時までなの?」

 とトレーの上のポテトをつまむ。塩が偏っていて舌がびりびりとしびれる。

「今日は七時まで。明日もある」

「わー大変」

「まぁ楽しいから。お金も稼げるしー」

「そっか。んー、わたしもバイトしてみようかなー」

「えー……えー、反対。ももちゃんぜったい変な客に絡まれるよ」

「つーちゃん絡まれるの?」

「連絡先渡されたことなら何度か。受け取れませんよーって言ってもしつこく渡してくる人いるよ。怖いよ」

 怖いよ怖いよー、とつーちゃんは脅かすような低い声で五本の指を動かす。
 連絡先、と考えを巡らせる。うーん……。

274 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:36:59.71 ID:1DxniCdi0

「ふゆももらったことあるのかな?」

「そりゃあ、わたしはカフェだから多いのかもだけど、ふゆゆだってお花屋さんでしょ? 接客業なら当然あるんじゃない?」

「……うん、たしかに。そうだよねー」

「……あぁ、そっか。彼女としては心配?」

 つーちゃんが首を傾げて、問いかけてくる。
 漠然ともやっとする気持ちがあって、溜め息が出てしまいそうになるのを、口を結んで堪える。

 それから遅れて、彼女というワードに、たしかにどっちも彼女になるのかなと、そういうことが一瞬だけ頭の中を掠めた。

「心配というか、えっと、渡されたときのふゆはどんな感じなんだろうなって」

「いや、まー愛想笑いしかないっしょ。マジであの手の輩はメンタル鬼強いから、会計終わっても勝手に自分の話ずっとしてくるよ。ほんとに怖いよ、ももちゃん」

「……わ、わかったわかった。わたし、バイトはしないから。そもそもする気ないけど、しないから」

 ずいっと前のめりになった、つーちゃんの大きな目に気圧された。

275 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:38:04.39 ID:1DxniCdi0

「それがいいと思う。ていうか、まず、ももちゃんはバイトする必要ないじゃん」

「うーん……でも、それを言ったらつーちゃんだって」

「いやぁー、わたしは趣味多いから出費多いし、お小遣いあんまり多くないから。旅行とかも行きたいしー」

 ゲーム、漫画、おしゃれ、ディズニー、アイドルのライブ──と、つーちゃんは指を一本また一本と倒していく。

 その姿を眺めて、わたしって無趣味なんだなと思った。

 服や靴といった身の回りのものは買ってもらえるから、お小遣いの使い道は食べものくらいしかない。
 だけど、それについても今はそこまで食べなくなったし、前もって外で食べてくると伝えておけば、今日みたいにお母さんとお父さんはお金を握らせてくれる。

 休みの日にはお父さんに釣りとかキャンプに連れていってくれて、それも楽しいけど、趣味かというと……あれは同行してるだけなように思える。

 あ、でも……と、自然に思い至る。
 ふゆからもらうお花を育てているうちに、ガーデニングが趣味になるかもしれない。

「なに急にニコニコして」

276 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:38:45.38 ID:1DxniCdi0

「え? ニコニコしてる?」

「してるしてる」

 自分の顔を摘むと、ほんとに頬が上がっていた。
 下に引っ張るとすぐに戻った。が、隣から笑われる。

「ま、それはいーとして……ちょっと待ってて」

 つーちゃんはコーラをずずっとストローで飲み干し、席を立つ。ポーチを持っているから、お手洗いかな。

 待っている間にガーデニングについて調べてみようと、コートのポケットからスマホを取り……家に忘れてきた。
 ポテトのかけらを口に放り込んで、窓の外を眺める。カメみたいな雲がカメのように空を流れていく。
 反射している背面から、二つの影が近付いてくるのが見える。

 振り返ると、さっきの高校生集団のうちの男女二人組だった。
 なんか明らかにわたしを見ている。わたしはこのお店の店員さんではないし、連絡先渡されたりしないよね。

「桃ちゃん? 久しぶりー」

 女の子の方がにっこり微笑みながら話しかけてくる。男の人の方はスマホをいじりながら、ちらちらとわたしの顔を見たり見なかったりしている。
 名前を知られている。どうやら人違いではないらしい。

 ていうか、店員さんでなくても連絡先は渡される。

277 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:39:27.00 ID:1DxniCdi0

「えっと、久しぶり」

 言いながら、目の前の二人が誰であったかを考える。

 悩むまではいかず、すぐに思い出す。中学校が同じだった人たちだ。
 女の子の方は、たしか三年間ちがうクラスだったけど、一回か二回くらいは話したことがあったと思う。

「元気してた?」

「うん。この通り元気ですよ」

 苗字も下の名前も思い出せなくて、なぜか感じた申し訳なさからか敬語になってしまう。

「さっきのって、つかさちゃんだよね?」

「そうです……だけど……、どうして?」

「ん、一緒の学校なの? っていうか、そうだったね」

「うん、よくご存知で。いま同じ学校だよ」

 知っているのにわざわざ訊いてきたってことは、なにか意味があるのかな。
 という深読み。ただの世間話かもしれないけど、普通、他のクラスの人の進路状況まで知っているのかな。

278 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:39:56.35 ID:1DxniCdi0

 男の人の方が初めて口を開く。

「元気なの?」

「そりゃ元気でしょ」と女の子が答える。

「だってほら、噂がさぁ……」

「あーね。でも逆に元気になりそうじゃん?」

「あーあー、なるほど。まぁたしかに?」

「あんたさっきからキョドっててキモいよ」

「うるせーよ。そら緊張するだろうがよ」

 目の前で二人が暗号のような会話を始めて、置いてけぼりにされる。
 いや、最初から意図がわからないのは変わっていない。宇宙に来てしまったような感覚。午前中に見たthatが五個並んでいる英文を想起する。

「噂って、なんのこと? わたしは聞いたことないけど」

 聞き流し続けてもよかったけれど、話しながらちらちらとわたしを窺う二人の様子に、わたしの中のセンサーが反応して、勝手に口が動いていた。

「いや、も……本橋さん。知らないってことは」

「ないでしょ」

 と連携プレーを見せてくれた二人の目が、わたしを探るように向く。

279 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:40:51.71 ID:1DxniCdi0

 なんか、なんていうか……なにをしているんだろう。

「んー、でも、わたしは知らないよ」

 言いたいことがあるなら、はっきり言うべきだと思う。
 迂遠な会話は嫌ではないけど、それが今の状況に適しているかというと、適してはいないから。

 なおも怪訝げな顔がこちらを向いている。……それで終わり、ではいけないのかな。

「ほんとに知らないよ」

 念を押すように言って、つーちゃんの荷物と、二人分のトレーを持って立ち上がる。
 ばいばい、と手首を上向ける。つーちゃんのリュックがとても重くて、なにが入っているのか気になった。

 ちょうど良いタイミングで、つーちゃんがお手洗いから出てくるのを見つけて走り寄る。

「あ、ももちゃん片付けてくれたんだ。あざまー」

「うん。どいたまー?」

 そうしてお店の外に出る。
 カメのかたちの雲は東の方角にまだ見えた。

280 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:41:21.82 ID:1DxniCdi0
本日の投下は以上です。
281 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/27(月) 09:08:11.01 ID:nSrMUWU+0
おつ
282 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:21:15.58 ID:u+6cRxYp0




「ももちゃんこれからどうすんの? 帰る?」

 お店から出てすぐに、つーちゃんはリュックの肩紐をつかみながら、わたしの顔を覗き込んできた。
 さっきの二人について訊いてみようかと思ったけれど、わたしとしても忘れた方がいいと思ってやめた。そもそも、つーちゃんは感知していないのだ。

 駅前の大きな時計台の示す時刻は午後一時半。帰って勉強だと思うと、もう少しだけ外にいたいかもしれない。

「どうしよ。なにも考えてなかった」

「勉強道具は? って、訊かんくても手ぶらじゃん」

「そう。なにも持ってない」

「カラオケでも行きたい気分だけど、あいにくわたしもう時間あんまないんだよね」

 二時からなんだよねー、と指をくるくる回す。
 家での出勤前のお母さんと同じように、楽しげな表情になっている。
 つーちゃんも労働が好きなんだろうか。

 なんとなく疑問に思ったけど、アルバイトって何分前くらいにお店にいかなければならないんだろう。
 なにかしらの準備や着替えとかもあるはずだし、十五分前くらいかな?

283 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:21:56.77 ID:u+6cRxYp0

 だとすると、つーちゃんのお店の場所は知らないけど、ここで油を売る時間もそこまでないんじゃないかと思う。

「特に見たいお店もないし、帰ろうかな」

「そっかー。ならまた、月曜に学校で」

「うん」

「ももちゃんママにお礼言っといてね」

「わかった。わたしの方も、言っておいて」

「おっけー」

 つーちゃんが腕を空にぴんと伸ばして、駅とは反対方向に歩いていく。

 さて、家に帰ってなにをしよう。古典かな。
 とぼんやり考えながら、わたしも歩き出す。

 不意に背中に大きな声がかかって、それがつーちゃんの声だと思って振り返る。

「会いにいったら?」

「え?」

「わたしのバイト先から近いし、ここからも近いよ」

 ちょっとなに言ってるかわからないと思ったけれど、すぐにふゆのことだと考えが及ぶ。

284 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:22:34.48 ID:u+6cRxYp0

「でもふゆ、今日バイトなのかな?」

「知らないの?」

「知らない」

 はっきり答えると、つーちゃんは口をぽかんと開けた。
 そしてそのままなにかを言おうという感じに、細くした目を横に流した。

「でも、前に土日はたいていバイトって言ってたよ。会えるよ、多分」

「でもいいのかな? ……あ、いいって言ってた」

「のか。ていうかそもそも行ったことない感じ?」

「うん。迷惑かなって、思ってて」

 いつでもいいよ、とたしか言われたけど。

「や、ふゆゆって迷惑とか言わないでしょ」

「まぁ、うん」

 そうなんだけどね、と心の中でつぶやく。

 そうなんだけど、なんとなく、ふゆが相手だと思考の中に抵抗……ハードルのようなものが付いてまわってくる。
 それは、出会ったころからのことで、ふゆの性格をちょっとずつ知るようになってからも、変わっていない。
 今までの友達が相手ならこんなことはないのに。なかったのに。

285 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:23:25.15 ID:u+6cRxYp0

 行動を起こすためには、頭を叩かれたときのような衝撃か、緩い水の流れのようなものが必要だけど、今の状況ではそれがない。

 つーちゃんはわたしの表情をじっと眺めてきていた。
 それにようやく気付いて、取り繕うように笑う。

「行ってみようよ。ていうか、行こう!」

 すると、つーちゃんは明るい調子でそう言って、わたしの後ろにまわり、背中を両手でドンと押してきた。
 その衝撃で、足が一歩前に出る。

「せっかくだから、ね?」

「えっと……」

「もー。行かないならわたし一人で行くよ。ふゆゆと両手でハート作ってツーショット撮っちゃうよ。めっちゃ顔面盛ってインスタのストーリーにあげちゃうよ?」

「わたし、インスタやってないよ」

「いや知ってるけど。そういうことじゃなくてだね……」

「……ほんとにするの?」

「いや、しないよ。でも、もしかしたら、天文学的な確率でするかもしれない」

 つまりしないってことでは。
 それに、べつにつーちゃんなら……。

 ……なら?

286 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:24:04.54 ID:u+6cRxYp0

「わかった、うん。行こう」

「じゃあほら、早く行こ」

 つーちゃんはわざとらしく肩をすくめてきて、わたしはなんだか申し訳ない気持ちになった。

 駆け足で先を行くつーちゃんに追いついて、多くの人が行き交う駅近くの道を、並んで進む。

 カメのような雲はこの数分で見えなくなっていた。
 あの雲はもうゴールしてしまったのかもしれない。
 どこに? それはわからないけれど、多分上の方に。

 信号を渡って、短いトンネルを抜け、駅の西側に出る。
 そしてまた信号を渡って大きい通りに出ると、灰色のコンクリートの上にある、お花の絵が描かれた黒い看板が目に入ってくる。

「じゃ、わたしもう時間だから」

 といつの間にかわたしの数歩後ろにいたつーちゃんが、ニコっと……いや、にやにやっと笑いながら敬礼のポーズで走り去る。

「えっ一緒に行くんじゃないの……」

 とぼやいたけれど、多分つーちゃんには届かなかった。

 綺麗に皺無くラッピングされた二本の黄色いバラを持った女の子が、立ち止まっているわたしを追い抜かしていく。
 場所はここで間違いないらしい。聞いてはいたけど、駅からほんとに近かった。

287 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:24:40.30 ID:u+6cRxYp0

 少し迷って、でもまぁここまで来たからには、と覚悟を決める。
 いったん自分の中で納得してしまえば、続けることにある程度は抵抗が薄れてくる。
 ただの思いつきだけど、わたしはそういう性格だった。

 軽く髪を梳いて身だしなみを整える。
 ふゆに会うならもっとちゃんとした装いをして来ればよかった。でもそれは後の祭り。

 お店の方に向き直ると、黒いエプロンを着けている女の人が店先で屈んだ姿勢でいた。
 ぱっぱっとエプロンをはらう仕草をして、立ち上がったその女の人と目が合う。

 長い黒髪を、白色の大きなシュシュでサイドに結んだ、小柄な店員さんだった。

 わたしを見上げたその店員さんに、一瞬だけぎょっとしたような顔をされて、わたしもびっくりする。
 けれど瞬きの間に、その表情は少女的で柔らかなものに切り替わっていた。

「あら、こんにちは。あいていますよ」

 と会釈される。さっきのはなにか、見間違いだったのかな。
 わたしも倣ってお辞儀をする。

「どうぞ、お店の中に。ここ、少し段差になっていますので、お気をつけて」

 と流れるようにお店の中に導かれる。

288 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:25:35.67 ID:u+6cRxYp0

 一呼吸おいて、開け放されているドアの内側に足を踏み入れる。
 多種多様なお花に気を取られながら、挙動不審にならないようにゆっくりと百八十度見回したけれど、お店の中にふゆの姿は見当たらない。

「ごゆっくりご覧になってください。お探しのお花などがございましたら、どうぞお呼びください」

「あ、はい。その……」

「はい、どうされましたか」

 わたしが答えるよりも先に、「あっ」となにかに気が付いたように口元に手をやって、くすっと微笑まれる。

「待っていてくださいね。いま呼んできますから」

 え、察してくれたのかな……?
 頷くと、わたしの横を屈みがちに通ってカウンターの奥へと歩いていく。

 その拍子に胸のあたりのネームプレートに、店長と書かれているのが見えた。

 店長さんだったんだ。
 ふゆが楽しそうにラインしていた人だ。

 お店の中にわたし以外のお客さんはいなかった。
 改めて見てみると、すごく雰囲気のあるお店だ。

289 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:26:39.44 ID:u+6cRxYp0

 ちょっと待っていると、カウンターの奥の扉の向こうからエプロン姿のふゆがやってくる。

「えっと、いらっしゃい、ま、せ?」

 ちらちらと隣の店長さんを窺いながら、ふゆが挨拶をしてくる。わたしの顔を見て、肩が僅かに跳ねる。
 様子からして驚いているみたいだけど、それもそうだよね。驚くよね。うん。

「近くまで来たから、寄ってみたんだ」

「あ、うん。でも、来るなら連絡してくれればよかったのに」

「スマホ家に置いてきてたから……」

「スマホを? なら、仕方ないか」

 いつものように、ふゆが小さく笑う。
 よかった。来てよかったんだ。

 そう安心すると、意識せずとも、目が下に移っていく。

「やっぱりかわいいね」

「ありがとう。このエプロン、かわいいよね」

290 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:28:17.37 ID:u+6cRxYp0

「そうだけど、着ているふゆもかわいい」

「そっか、ありがとう。……って、ちょっと、瑠奏さん、なんで笑ってるんですか」

 急に恥ずかしそうに身をよじるふゆの視線を追う。
 その先の店長さんは、わたしたちを見て、目尻と頬を緩めていた。

「いえ、お仲がとてもよろしいようで」

「はぁ、そうですか」

「お二人を見て、わたしも自分の若かりしき頃を思い出しました。十代のオーラにあてられて、消えてなくなりそうですね……」

 店長さんは、よよとわざとらしく泣き真似をする。

「瑠奏さんだって全然若いじゃないですか」

「でも、高校卒業したのもう十年前ですよ?」

「ピチピチの二十代じゃないですか」

「いいえ、もうこんなにヨボヨボです。それに、ぜんぜん! ぜんぜん……ぜんぜんって! 霞さんヒドいです!」

「……いや、思ってないですよね」

「あ、はい。思ってないです。思ってないですよ?」

「ですよねー」

「と、ここでの霞さんはこういう感じなんです」と店長さんはわたしを見てにこっと微笑む。

291 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:29:04.98 ID:u+6cRxYp0

 それを聞いて、はっと気付いたようにふゆが目を伏せる。
 ふゆと店長さんは仲が良さそうだった。というか、仲が良いのだと思う。とても。
 つーちゃんと栞奈ちゃんみたいな。わたしでは、ちょっと難しいことかな。

 こういうふうに誰かと軽口のようなものの交わし合いをしているふゆを見るのはあまり見なくて、だから新鮮に映った。

「つかぬことをお訊ねしますが、今日は霞さんが呼んだわけではないんですか?」

 そのままわたしに訊いてきているみたいだった。
 ふゆはなんとなく居心地悪そうにしている。若干迷いながら、口を開いて言葉を紡ぐ。

「そうです。わたしが勝手に……」

「あ、いえいえ、そういうわけではないんです。お友達を連れてきてくださいと、以前お願いしたんですよ。
 でも、そうですね……わたしは退散しますので、ごゆっくりどうぞ」

 店長さんはエプロンのポケットから手袋を取り出して、わたしたちに背を向けた。
 けれど、その一歩目で足がぴたっと止まって、きらきらとした表情でわたしに首を傾げた。

「大事なことを忘れていました。お名前を伺ってもいいですか?」

292 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:29:33.51 ID:u+6cRxYp0

「桃です。この子の名前は」とわたしの前に手のひらをかざして、間髪入れずにふゆが答える。

 言われてしまったから、わたしもはっきりと首肯する。
 紹介してくれたみたいな様相だと思った。

 そしてそれは、なんとなくうれしかった。

「桃さん、ですか。わかりました。では、ごゆっくり」

 深々と四十五度に頭を下げて、軽い足取りで、今度は本当にお店の外に向かっていった。
 姿が見えなくなると、ふゆはわずかに地面の方を向いていた顔を上げた。その表情には、申し訳なさそうな苦笑いが浮かんでいる。

「なんかごめんね。瑠奏さん、私の学校生活のことすごく心配してくれてるみたいで、たまに訊いてくるんだよね」

「わたし……友達のこと?」

「そうそう。あ、大丈夫。桃のことはそんなに話してないから」

「そっか。そっかー、そんなにって?」

「そんなに。たまに。だって、桃かつかさか栞奈のことしか、言うことないから」

「わたしも妹とか、お母さんに話してるから、同じだね」

293 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:30:08.61 ID:u+6cRxYp0

「変なこと言ってないよね?」

「いや、わたしたち、変なことしてないじゃん」

「うん、それもそうか」

 会話が一段落して、またふゆのことを眺める。

 厚手の黒のニットに、細い脚の形がくっきり出るジーンズ。
 お店だから仕方ないのかもしれないけど、もうちょっとかわいい服装の方がふゆには似合うと思う。
 でも、これはこれで、似合っている。ふゆはどんなタイプの服でも似合うのだ。

 普段と唯一違うところは髪型で、サイドの染められている部分と右耳の翡翠色のピアスをはっきり隠すように、旋毛からストレートに下ろしていた。

 いつもとそれほど変わらない。変わりなく、でも、会う場所で大きく変わることを知った。
 背中を押してくれたつーちゃんに、心の中で感謝する。

 実は一人でお花屋さんに来るのは初めてだった。
 それが視線などのあれこれで伝わったのか、単にお客さんとして扱われたのか、ふゆが店内を案内してくれる。

294 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:30:42.29 ID:u+6cRxYp0

「ふゆ、勉強してる?」

 鉢入りのお花を見ながら、手頃な話題を振る。
 コートを着ていても肌寒い店内で、ニットとはいえ上着を着ていないふゆは寒くないのだろうか。冷凍庫に入ったことはないけど、冷凍庫みたいだ。

「まあしてるよ。さっきまでも事務所でしてた」

「休憩時間だったの?」

「ん。さっきちょうど休憩終わりだったの。桃の方は? ちょっと眠そうだけど、もしかして徹夜してるな」

「え、してないしてない」

 素早く手を振って否定する。
 眠そうって。ここ数日で何回も言われている気がする。

「隠さなくてもいいのに。ここに来たのは息抜き?」

「本当だよ。今日はお昼くらいまでつーちゃんと勉強してたんだ。それで、ここの近くでお昼食べて、その流れで」

「へー。つかさと? 頑張ってるんだね」

「うん。つーちゃん、今回は気合入れてるから」

「だね。私もバイト終わったらやらないとなー」

 屋上にいるときみたいに、この前のデートのときみたいに、ふゆは明るい調子だった。
 この前に屋上で言われたことを思い出す。今日は二回もそのことについて考えていた。

295 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:31:54.76 ID:u+6cRxYp0

 生花、観葉植物と場所が移り変わる。ふゆが左手を出したときに、小指と薬指の間にしている無地の絆創膏が、色白の肌とのコントラストで目立っていた。

 白くて触ったら冷たそうな陶器に、雪のように白い花が五輪挿されている。アネモネは赤やピンクのイメージが強かったけど、これはなんだか今の季節にマッチしていて、他のものよりも早く目を引いた。
 その隣には、化学講義室で見るような、目盛りの付いたフラスコにお花が生けられていた。「へえー」と声に出すと、ふゆが「結構売れるんだよ」と教えてくれた。

 おにぎり一個分ほどの大きさのサボテンが淡い色の木目の木箱の中に並んでいて、二百円の値札がテーブルに付いている。意外と安いんだ、と思った。

 観葉植物コーナーの右脇には、上階への階段があった。
 上にもなにかスペースがあるのかな? と前まで行く。

「二階は教室。瑠奏さんが、フラワーアレンジメントとか、ハーバリウムとか、生け花とかを教えるところになってる。今日はなにもないから、電気消えてるでしょ?」

「たしかに……そうなんだ。ふゆも教えてるの?」

「いや、私は一階の店番だけだよ。専門的なことは、少しずつ勉強はしてるけどあんまり分からないから」

「え、その勉強もしてるんだ。すごいね」

「実際は免許とかがいるから、出来ないんだけどね。暇つぶしに本とか読んでるだけ」

296 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:33:20.43 ID:u+6cRxYp0

 それでもすごいよ、と言おうとしたところで、ふゆが先に言葉を継ぎ足した。

「でも、ありがとう。褒めてくれて」

 褒めようとしたわたしが褒められたみたいで、自然にちょっと笑うと、ふゆもつられたように笑った。

 階段の前から移動すると、今度はわたしたちの腰ほどの高さのテーブルに、いくつもの雑貨が置かれている。

「わ、きれい」

 大きな松ぼっくりや、流木という商品名の流木? 花柄のカップが並んでいるテーブルの一帯に、際立ってきれいなものを見つけた。

「それは、ハーバリウム。さっき上で体験教室やってるって言ったやつ」

「ふうん、ハーバリウム……え、かわいいね。かわいくて、きれい」

「あはは、語彙力小学生か。ま、ハーバリウムってきれいだよね」

 一番大きな角型の瓶に入ったものを見ていたけれど、隣にはボールペン型のものや、変わった形をしたものが何種類もあった。

「買おうかな。体験、って言ってたけど、これって自分で作れるものなの?」

「んーどうだろう。小学生くらいの小さな子でも作ってるから、出来ないことはないと思うけど、この売り物くらいのレベルにするのは難しいんじゃないかな」

297 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:33:51.19 ID:u+6cRxYp0

「なら買うことにする。ふゆって好きな色は何色?」

「うーん、緑色かな。桃は橙だっけ?」

「え、話したことあった? よく覚えてたね」

「いや、普段桃が身につけてるものに、橙系多いから」

「そっか。そうだった」

 多くの選択肢の中から、話しているうちに、これだというものを見つける。

 底が入り口と比べて少し広がっている瓶の下半分に橙色のお花が、上半分に緑色のお花が線対称に詰められている。
 その二色が混じり合っているような中央では、一本の長い茎に、一枚ずつの橙と緑の花びらが、蝶の羽のようになっていて、手を触れて動かしたわけではないのに、ひらひら舞っているように錯覚した。

「ふゆの好きな緑色と、わたしの好きな橙色。いいと思わない?」

「そう。いいんじゃない?」

「てきとう?」

「ううん。桃がいいと思ったものなら、それを選べばいいと思うよってだけ。店員はお客さまの意見を尊重して見守る姿勢が大切だって、瑠奏さんが」

298 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:34:41.15 ID:u+6cRxYp0

「そっか。うん、わたしが気に入ったから買います」

「じゃあこっちに。あとは他に買ってく?」

 首を横に振ると、正面のレジカウンターに案内される。
 そこでは店長さんが、気付かぬうちにいたお客さんに、お花を丁寧にラッピングしている。
 清涼感のある、少し前に教室で見たお花。隣のふゆに視線で問うと、「トルコキキョウだよ」と小声で教えてくれた。

 そのままの流れで、店長さんが会計をしてくれた。
 カウンターに商品を出すと、お店の前で見たような、少女的で自然な笑顔を向けられた。

「桃さん。お買い上げありがとうございます。ラッピングはお付けいたしますか?」

「いえ。自分用なので大丈夫です」

「かしこまりました。瓶はガラスとなっておりますので、お気を付けてお持ち帰りください」

 店長さんがふゆに目を飛ばすと、ふと思い至るようにわたしの隣から動き始める。
 その様子を目で追っていると、体の正面からの視線に気付く。いたずらっぽさの比率が増したような、それでも真剣さも感じる表情がわたしの顔をとらえている。

「霞さんのこと、よろしくお願いしますね」

 紙袋を取るために、レジカウンターの奥側にいるふゆには聞こえないような、小さくて、でも芯の通った声で、そう言われた。

299 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:35:17.08 ID:u+6cRxYp0

 不意を突かれるような言葉に、思わず普段喋りよりも大きな声で「はい」と返事すると、あっけに取られたような顔になったふゆが前に出てくる。

「瑠奏さん。いまなんて言ったんですか?」

「また来てくださいねって、言いましたよ?」

 店長さんは「ね?」と言わんばかりに、わたしにウインクをしてくる。
 それを見て、ふゆは怪訝そうに眉を寄せる。

「桃は、なんて言われたの?」

「え、えー……っと」

 と、なんだか少し怖いふゆの目から逃げるように店長さんを見ると、ぱっとすぐに逸らされる。
 ちょっとでも渋ったのだから、本当のことを言うしかない。そもそも、隠す必要性は微塵にもないのだけど。

「えっと、霞さんをよろしくお願いしますって」

 ふゆがエプロンの裾を掴んで、呆れたような溜め息を吐く。
 けれどあっさりと流すように、居住まいを正して、

「まあ、また来てよ。テスト期間終わったあとにでも」

 ハーバリウムの入った茶色の紙袋を受け取る。
 おまけです、と店長さんからレモン味ののど飴もいただいた。

 ふゆに手を振って、店長さんにぺこっと頭を下げる。

300 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:36:49.92 ID:u+6cRxYp0

「今度は学校での霞さんのことを教えてくださいねー!」

 と店長さんがお店の外のわたしに向けて元気な声を出すと、ふゆはさすがに「ちょっと!」と焦ったような声を上げていた。

 その様子を見て、勝手な心配事がひとつ減った。
 余計なお世話かもしれないけど。心の内に秘めておくなら、いいよね。

 でも、店長さんは、ふゆとどういう関係なんだろう。

 それが少しだけ気になったから、また来ようと思った。

 駅まで歩いて、地下鉄に乗って、そしてまた歩いて家の前まで着くと、玄関横のガレージで、お父さんが青色の大きなバイクを洗車していた。

 流され損ねた泡が平坦なコンクリートに留まっている。
 それを避けながら駆け寄って道端の自動販売機よりも身長の高いお父さんと並ぶと、自分がとても小さく感じた。

「おー、お帰り。出かけてたのか?」

「うん。友達に会ってた」

「そうか。その袋は?」

301 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:38:04.22 ID:u+6cRxYp0

「お花屋さんで、ハーバリウム買ったんだ……わかる?」

「へぇ、ハーバ? わからんな。お菓子ならもらおうと思ったが。これから水飛ばしに走りに行くけど、後ろ乗って夜飯でも食べに行くか?」

「んーん、遠慮しとく」

「そうか残念。まあいいや。いまテスト期間だって? ほどほどに頑張れよ」

 濡れるぞ、とホースを持ったお父さんに手でしっしっと傍に追いやられる。
 バイク気を付けてね、と言いながら家に入る。お母さんもひなみもまだ帰ってきていなくて、家には一人だった。

 リビングに入ってすぐに、紙袋をあける。
 そして箱の中から丁寧に、ハーバリウムを取り出して、こたつ机の上に置く。

 きらきらしている。スマートフォンのライトをつけて照らすと、さらにきらきらが増して輝いていた。

302 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:38:33.19 ID:u+6cRxYp0

 もぞもぞとコタツに入って、コントローラーを探り掴むと、電気がついたまま……お父さんかな。お母さんに怒られるよ、とガレージのお父さんに向けて呟く。
 でもそのおかげで、すぐに体が温まる。

 ふゆに帰ったら勉強すると言ったので、眠くならないうちにお昼のまま出されていた勉強道具に手をつける。

 今日はふゆに会えたからかな。なんだか頑張れそうな気がした。勉強に頑張るって、考えてみたら変なのかもしれないけど。
 ふゆに会う前にあった、わたしには身に降りかかったわけではないが少し嫌だったことも、今ふと思い出すまで忘れていた。

 そして今思い出して、でも、ふゆとのひとときで上書きされたように、それか教科書の古文の随筆を見ているうちに、もう見えなくなっていった。

 夕暮れ時になって、ひなみが家に帰ってきた。
 わたしの体の左前に置かれているハーバリウムを見ると、

「なにそれー、かわいい。どこで買ったの?」

 と嬉々としたような反応を示して近寄ってきた。

 ふゆがアルバイトをしているお店で買ったことを伝えると、ひなみは「へー、ふゆさんの!」と笑顔で頷いていた。

303 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:39:04.95 ID:u+6cRxYp0




 次の日、昨日と同じ時間に起きてリビングに降りると、そこには誰もいなかった。
 テレビの電源を入れて、コタツにもぐりこむ。電源がまたついている。

 ふと外の様子を眺めると、窓の外にひなみとお父さんの姿が見えた。
 気になって窓を開ける。なんか食べてる。

「姉さんおはよ。パパとチーズフォンデュしてた」

「朝から?」

「うん。野菜美味しいよ。姉さんも食べたら?」

 玄関からスニーカーを持ってきて、外に出る。
 風が少しあって肌寒かった。どうして外で?

「外で食べるからいいんだよ」

 とお父さんがわたしの質問に先回りする。

「それ、釣りに行ったときも言ってたね」

「言ってたか? まあ、沢山あるから食べな」

 上着を取ってきてから、竹串に刺された野菜や魚介類たちをチーズの海で転がした。
 ちょっと時間が経つと、お母さんが起き出してきて、やや呆れた様子でわたしたちに加わった。

 それから午後になると、お父さんとお母さんは出かけてしまったので、コタツでひなみと勉強を始めた。

 聞いていなかったけれど、どうやらテストは明日と明後日の二日間らしい。
 話しかけたりして邪魔してはいけないなと、すぐに自室に戻ることにした。

 理由はないけど、今日も勉強が捗った。無心で過ごすうちに、休日の時間があっという間に過ぎていた。
 ひなみが夜ご飯だと呼びにくるまで、そんな具合でペンを握っていた。

304 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:39:51.20 ID:u+6cRxYp0
本日の投下は以上です。
305 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/10/03(日) 17:07:08.29 ID:vIw67lkr0
おつです。
あたたかい雰囲気だけど、こっから進むのか?
306 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/10/04(月) 14:05:11.44 ID:Q2IJhMG50
おつ
307 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:25:55.01 ID:YtCrmlzu0




「どうだったん? ちゃんと行ったの?」

 月曜日の朝、校舎裏の自動販売機の前でリュックを背負ったつーちゃんに遭遇して、そう訊かれた。

 つーちゃんは一番下の段のホットレモンを買っていて、迷わずわたしも同じボタンを押した。
 筐体の中で温められたペットボトルは飲むには適していたけれど、冷えた手には熱いくらいで、キャップの上の方を持つのがやっとだった。

「行ったよー。すごくいいお店だった」

「へー、ふゆゆはどうだった?」

「どうって?」

「様子とか。接客とか?」

 もともと訊いてきた側のつーちゃんが、首を傾げた。

「いつも通り、かな。二人でいるときの感じ」

「ふーん。ふゆゆと二人でいるときの感じって?」

「え、なに。どうしたのつーちゃん」

308 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/10/09(土) 01:29:18.13 ID:YtCrmlzu0

「いや気になって。わたしらいるときと、けっこーちがうもんなの?」

「……どうかな? 変わらないと思うよ」

 なんていうか、答えに困る質問だった。
 でもよく考えると、わたしが言い方を間違ったせいのように思えた。

 そのことに気付く前にした要領の得ないようなわたしの回答に、つーちゃんは淡々とした様子で頷いた。
 そこで会話が切れたので、求められている答えではなかったのかな? と思ったけれど、そのうちに次の話題に切り替わる。

 他の人たちが自動販売機の前まで来たので、立ち話をやめて教室に向かって歩き出す。

 階段をのぼったり、廊下を歩いている最中に何人かの友達に話しかけられる。
 いや、話しかけられるというか、朝の挨拶とちょっとした世間話を振られて、なんとなくそれに言葉を返す。
 その間つーちゃんは黙ったままだった。

「ももちゃんやっぱ友達多いね」

「去年と今年で、同じクラスになった人けっこう多いから」

309 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:30:25.64 ID:x7VE9nDA0

「わたしはー、去年のクラスメイトともー、まったくー、話さないけどー」

 なぜか急に抑揚のない言い方。
 せっかくなので真似してみる。

「たしかにー。栞奈ちゃんとー、だけだねー」

「いや乗らなくていいから」

「そっかー。乗らなくていいかー」

「乗ってんじゃん。乗らなくていーから。まーももちゃんわりといつもそんな感じだけどさ」

「そうかな?」

「いや、そこはそうかなーー? くらいしないと」

「そうかなーー?」

「あ、うんうん。そんな感じそんな感じ」

 つーちゃんが言葉とともにぱちぱち手を叩くと、わずかな沈黙が訪れて、同じタイミングで笑った。

「ていうかさー、家で勉強してたらさぁ、ママンにめっちゃ驚かれたの。逆にどうしたんだって心配されてさー、困った困った」

「これまでそんなに勉強してなかったんだ?」

「やーもうそれはゼロよ。ちゃんと通ってるだけいいって口では言ってるけど、ほんとはちゃんと頑張って勉強している娘の方がいいよね」

 はーっと息をついて、物憂げな表情でつーちゃんは廊下の突き当たりへ目を向けた。

310 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:31:35.96 ID:x7VE9nDA0

「いい成績取ったら、もっと驚かれるんじゃないかな」

「あーいいねそれ。赤点三つくらいに抑えよう」

 つーちゃんがそう言ったときに、わたしたちの後ろからつーちゃんの頭めがけて手が出てきた。

「あだっ」

 二人で振り向く。栞奈ちゃんが貼り付けたような笑顔で、つーちゃんを小突いていた。

「赤点一つも取らないようにね。やるからには徹底的にやるよ」

「げっ栞奈、叩くなし! 言われなくても、昨日の分はちゃんとやったぞ」

「よしその調子。まあ別に、私が手綱を握る必要なんてないんだけどね」

「つんでれー?」

「ツンはしててもデレてないわ。ほら、わからないところあったらホームルーム前に教えるから、さっさと教室入るよ」

「はぁーい。栞奈まじやっさしー」

 教室の扉を潜り抜けると、先週と同じく多くのクラスメイトが机に向かっていた。
 テスト期間は教室の空気がどことなく重い。そんなに普段と変わることなんてあるのかなと、あることはわかっているのに頭の中で思った。

311 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:32:11.55 ID:x7VE9nDA0




 昼休み。いつものように四人で学食に向かう。
 今日の学食は三学年の生徒が券売機とテーブル席に所狭しと並び座っていて、普段より盛況だった。

 教室の静寂さとはちがい、幾分かがやがやとしている。
 栞奈ちゃんに席の確保を頼まれて、日替わり定食の代金を渡して、ふゆと二人で空いている席を探す。

 今日みたいに混んでいると、四人で固まって座ることのできる席を探すのは難しい。
 テストの範囲まで終わらないかもしれないという四限の授業が長引いたこともあって(五分オーバーで間に合った)、席確保戦線からは遅れをとっていた。

 ぱっと見て空いているところはあるけれど、そこにはたいてい水の入ったコップが置かれている。

 通路側を中心に見渡している間に、ふゆが先に窓際の席を見つけてくれた。

「うーん。最近なんか見られてる気がするんだよね」

 四人分の水を汲んできて、向かい合って席に腰を下ろしたときに、ふゆが呟くように言ってきた。

312 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:32:51.40 ID:x7VE9nDA0

「わたしそんなに見てるかな」

「あぁごめん言葉足らずで……桃のことじゃないよ。教室にいるときとか、移動教室のときとか、そういうときに、どこからか視線を感じるんだよね」

「そっか。誰かはわかってるの?」

「うーんと、一人……二人、いや三人?」

「それって、わかっていないのでは」

「まあね。だから、普通に気のせいかもしれない」

 この前わたしも同じようなことを思っていたな、と思ってきょろきょろ周りを確認してみる。
 すると、今のことじゃないよ、というふうに正面のふゆがくすっと微笑んだ。

「ふゆもそういうこと気にするんだ」

「まあ、人間誰しも……ってわけでもないかもしれないけど。一度気にすると、無駄に気にしちゃったりするよね」

「わかる。そうだよね」

「たいていは考えても仕方ないことなんだけどね」

313 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:33:37.88 ID:x7VE9nDA0

「しかし、ここでちゃんと考えなかったことこそが、あの惨劇の原因となることに、二人はまだ気付いていないのであった……」

 いきなり斜め前に現れた栞奈ちゃんが、怪談話を読むときのようなテンションで、静かに食べ物の乗ったトレーをテーブルに置いた。

「変なナレーション入れないでよ栞奈」

「あはは。なんの話してたの?」

「最近スナイパーに狙われる妄想をよくしてるって話」

「えー、なにその設定。シリアスだね」

 もともと、ふゆなりのジョークだったのかな? 仔細には訊かなかったけど真面目に反応してしまった。
 微妙なツボに入ったみたいに笑い合う二人を見ているうちに、つーちゃんがやってくる。

 お昼の席順はいつも固定で、わたしの隣には毎日きつねうどんのつーちゃん。
 斜め前には今日はカツカレーの栞奈ちゃん。前には小ランチのふゆだった。

「つーって、面談もう終わったんだよね」

「うん終わったよ。とーかちゃん、マジで怖かったー」

314 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:34:34.25 ID:x7VE9nDA0

「それは普段の行いが悪いからだ」

「うっさい。栞奈はいつ? 二人もまだ?」

「私と霞は水曜。桃は今日だったよね」

「そうそう。今日なんだよねー」と答える。

 いつもなにかと忘れがちなわたしだけど、さすがに今日が二者面談であることは覚えていた。

 それにしても、栞奈ちゃんってすごい。
 プリントで日程が配られたとはいえ、自分以外の日程まで把握しているなんて。

「つーちゃん、どういう話したの?」

「まあいろいろ。学校の話とか、文転しないかとか?」

「え、文転? するの?」

「いやしないしない。選択肢として言われただけ。担任はとーかちゃんがいいし」

「そうなんだ」

315 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:35:04.67 ID:x7VE9nDA0

「あとは、困ってることないかー、とか」

「聞いてる分には、とても怖いようには思えないけど」

「まぁ。雰囲気だよ雰囲気。いつもみたいな軽いノリで行ったら、教室の中がすげー真面目オーラだったから」

「なるほど」

「それにわたし、その場に進路の紙もってったから」

「それが原因じゃん」とふゆと喋っていた栞奈ちゃんの顔がこちらを向く。

「まーそうなんだが。栞奈も出し渋ってたくせに」

「私は行ける学校の選択肢が多すぎて悩んでただけ。期限には出したよ」

「それ、わたしが馬鹿で悩んでいないとでも?」

 横列の二人がいつものような会話を始めると、正面で焼き魚を口に運んでいるふゆと目が合う。
 ターン制みたいな会話方式だ、と思った。会話はまだしていないのだけど。

 二秒、三秒と目が合ったまま時間が流れる。金縛りにあったみたいに、なぜか掴んでいるスプーンが止まる。

316 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:35:46.39 ID:x7VE9nDA0

 ふゆはゆっくりと大きな瞬きをした後に、目を落として小さく二回瞬きをして、止めていた箸の動きを再開した。

「今日はバイトないし、終わるの待ってるよ」

「うん」

 わたしが頷くとほぼ同時に、つーちゃんと栞奈ちゃんのやり取りも一段落ついたようで、そこからは四人での会話が始まった。

 話題は、日常生活で地味に嫌なことについて。
 脈絡なくつーちゃんが言い始めて、それでもその話題は話題名の通り地味に盛り上がった。

 ふゆとわたしはかなり抽象的なことばかり言っていたけど、つーちゃんと栞奈ちゃんはどんどん地味じゃなくなっていって、その様子もまた面白かった。

 四人で順番に意見を出していって、教室に戻ってからどれが一番地味に嫌か投票するまでに至り、
『定食メニューについてくる味噌汁のなかなか外れてくれない蓋』がふゆとわたしの二票で一位となった。

「楽しかったので次回の開催まで各自ネタをためておくように」とつーちゃんが大真面目な顔で言って、
「地味に嫌なことはない方がいいじゃない」と栞奈ちゃんが冷静に話をまとめたところで、昼休みは終わった。

317 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:36:54.59 ID:x7VE9nDA0




 放課後。教室の外の椅子に座り待つこと三十分。
 扉から出てきた前の順番の子に声をかけられて、教室の中に足を踏み入れる。

 掃除のときのまま、多くの机は後ろに下げられていて、教室の中央に四つの机が合わさって置かれている。
 その机の上には、わたしが書いた進路調査票。いくつか重なったファイル。それからこの間に職員室の前でも持っていた厚い本が並べられていた。

「長引いちゃって、待たせたよね。うん。どうぞ、掛けてください」

 つーちゃんが言っていたこととはちがって、藤花先生の醸し出す雰囲気はいつものように和やかだった。

「面談をする全員に訊いていることが、大きく分けて六つあります。今回はそれに従って進めていきますね」

 と藤花先生は記録用らしい白紙のメモを取り出す。

「まず一つ目は、進路について。本橋さんは、四年制の大学進学を希望ということで、これを書いたときから気持ちは変わっていませんか?」

「はい、変わってないです」

318 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:39:08.07 ID:x7VE9nDA0

「うん。ここに書いてある五つを見る限り、県内か、遠くても隣県希望で、学部はいまいち定まっていないと。
 将来やりたいこととか、叶えたい夢があるってわけではない?」

「そうです。今のところは、はい」

「親御さんと進路についての話はした?」

「少しですけど、しました。お父さんもお母さんも、進路は自分で決めなさい、って言ってくれました」

「うんうん、そっか。まあ、高二のこの時期ではっきりと定まっている人は少ないから、まだまだ考えていて大丈夫だよ」

 ふふふと笑いかけられて、自分の肩が張っていることに気付く。机の下で握りしめていた腕をスカートの上に下ろして脱力する。
 一対一で先生と話すことは稀なことで、緊張していた。

「二つ目は進路と被るけど、成績について。本橋さんは一年生からの成績を見るに、理系科目よりも、文系科目の方が得意なんだよね。力を入れて勉強している感じかな?」

「いえ、えっと、わたし普段はぜんぜん勉強しないので……えっと、テスト前の詰め込みの結果だと思います」

319 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:41:12.69 ID:x7VE9nDA0

「そっか。今回のテスト勉強はちゃんとしてる?」

「はい。その、追試はちょっと、と思ったので」

 わたしの答えに対して、藤花先生はにこやかに笑って、手元のファイルの中から進路調査票の横に、白紙に青文字の紙を出した。
 どうぞ、と示されて手に取る。ささっとメモに文章を書き込み終えて、先生は再び口を開いた。

「これはこの間の模試の結果です。今からなら、もうちょっと上のレベルの大学を目指してもいいと思うけど、そうなると数学は結構頑張らないといけないかな」

「数学……は、やっぱりちょっと苦手で」

「そうね。うちの学校の定期テストのレベルと模試では、また一つちがうからねぇ。あ、今回は難しいけどね」

 前にも聞いたけれど、先生の言う今回は難しいって、相当なのでは。
 わたしにとっては、「わたしの作る問題は簡単だよ」と言っている先生の作った問題ですら、結構解きあぐねている。

「わかりました。頑張ります」と頷く。そう言ったからには、今日家に帰ったらまず数学の問題集を解かないと。

 そこから他の科目の成績についての話を少しして、数学や理系科目の勉強方法について書かれたプリントを受け取る。
 本橋さん、と上の方に書かれているので、生徒一人一人に向けて準備されたものだと思う。

320 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:42:38.99 ID:x7VE9nDA0

「うん。では三つ目。友人関係について。本橋さんは、冬見さん、山口さん、つかささんの三人と特に仲が良いみたいだね。
 そこについては、うん、それ以外の友達についても、なにか問題があったりするかな?」

「ないですよ。みんな、やさしいので」

「思うことがあれば、なんでも言っていいんだよ」

「えっと、ほんとうにないですよ」
 
「そっか。ま、すごく仲良さそうだもんね。今はなくても、このさきになにかあれば、先生に相談してね。話聞くから」

 次の質問は、部活やアルバイトについて。わたしはどちらもしていないので、話すことはなく省略。
 藤花先生も学生時代は帰宅部だったと言っていた。

 その次の質問は、冬休みの過ごし方について。
 冬休み、というワードにあまり現実感を持てなかったけれど、たしかに冬休みまであと一ヶ月くらいだった。

「最後の質問は、言っちゃうとフリーなんだけど、学校生活とか、家のこと、学校の外のこととか、なんでも、相談したいことや困っていることはあるかな」

 なにかはあるかもしれない、と考える。
 でも、ここで言うようなことは何一つ浮かばない。

「いえ、ありません」

321 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:43:38.67 ID:x7VE9nDA0

「そっか。重ね重ねになるけど、なにかあれば、先生に気軽に声をかけてね」

「はい。そうします」

 藤花先生が頷いて息を吐いたところで、最後の質問ということはもうこれで面談が終わりだということに気付く。
 一年生のときも早かったけど、今回はもっと早かった気がする。

「みんなは、どういう相談をしているんですか?」

 時間があまってしまって、なんとなく気まずい空気感になることを避けようと、あたりさわりのない質問をする。

「んー、そうだね。個人情報だから、具体的には話せないけど。今までは部活動の人間関係とか、友達同士のいざこざ、恋愛相談とかが多かったかなぁ」

「そうなんですか。みんな、たいへんですね」

「うん。だからこそ、先生がそれを聞いてガス抜きしてあげないといけないんだ。
 歳が近い方が話もわかるでしょうって、わたしだってもう十個くらい離れているのに、他のクラスとか他の学年の生徒がたくさんやって来るのは、ちょっと困るんだけどね」

 そう言って藤花先生は、いろいろなことを思い出すような遠い目で微笑んでから、「いまのは秘密ね」と柔らかな声色で、唇の前に人差し指を立てた。

322 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:44:22.02 ID:x7VE9nDA0




 教室を出ると、ぐっと疲労感が押し寄せてきた。

 面談中は終始和やかに会話していたつもりだったけど、緊張の方も終始解れていなかったみたいだ。
 組んでいたりしたわけでもないのに、足が痺れていた。

 でもふゆを待たせているのだから、と感覚が正常になっていない両足に鞭打って、すぐに廊下を歩き始める。

 わたしの前に面談を受けていたクラスメイトたちは、悩みがたくさんあったみたいだ。
 人数と面談に要していた時間を頭の中で計算する。わたしは他のクラスメイトと比べて二十分近く短かった。

 園芸部の部室は、一階の下駄箱とは反対側の突き当たりにある。
 この前の木曜日と同じく、職員室の前を通って向かう。

 十七時過ぎの校内はしんと静寂に包まれていて、自分のそろそろと歩く足音だけが響いている。

 教室を出てから、誰とも出くわさないまま進む。
 職員室からするコピー機と思しき機械音。それも通り過ぎれば聞こえなくなる。

 だから、部室へ続く曲がり角に至ったときに、その曲がった先からする話し声に、すぐに気付いた。

323 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:44:56.35 ID:x7VE9nDA0

 ふゆの声だ、と思った。
 相手の声は……うまく聞き取れない。
 でもそれが誰なのかは、なんとなくわかる。

 その子がなにかを言って、それにふゆが頷いている。

 コンクリートの壁に背中をあずけて、目を瞑って時が過ぎるのを待つ。
 無意識のうちにそうしていたけど、なぜだろう。盗み聞きはよくないからかな。

 やがて、角の向こうからしていた声が止む。
 その代わりに、たったと駆けるような足音が耳に届く。

 その子はわたしを見つけると、にっこりと会釈して、それから前髪を直すような仕草をしながら、わたしの前を通過していく。
 ちらりと見えたその表情には、明らかに笑顔とは別の感情が籠っていた。

 その子の後ろ姿が見えなくなるまで待って、部室に入ると、ふゆが「遅かったね。もう帰ろっか」と机の上の荷物をまとめ始めた。

 よくない想像がじわじわと広がり、頭の中で渦巻く。

 ただ話していただけだなんて、どうにも思えない。
 だって、あんな表情をしていたのなら……。

 下駄箱で靴を履き替えて、自転車を取りに行ったふゆを待って、並んで校門を抜ける。

324 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:45:23.26 ID:x7VE9nDA0

「ねえ、さっきのって……」

 気付かぬうちに、わたしの口は動いていた。

「さっきの? えっと、あぁ、瑞樹ちゃん?」

 ふゆはなんでもないように問いを返してくる。

 わたしの表情も、声音も、きっといつも通り。
 崩れたりはしていない。動揺しているときほど、外に出る態度は変に冷静になってしまう。

「部室のほうから歩いてきたから、ふゆとお話してたのかなって」

「そうそう。勉強してたら部室のドアが開いてさ、桃かなーって思ったらちがくて、私と話がしたいって言われて」

「そうなんだ。……どういう話?」

「なんか、友達になってくださいって」

「なんて答えたの?」

「うん。まぁその、いいよって」

 その言葉を聞きながら、赤信号の前で立ち止まる。
 次と、その次の信号も赤になっている。メモリはあと二つ。

325 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:45:55.48 ID:x7VE9nDA0

「ここ最近何回か、朝に話してて。それで、言ってきてくれたんだと思う」

「そっか」

 頷いて、それで終わりにすればよかった。
 もう遅いのは自明だったけれど、そう、今みたいに信号が青に変わるタイミングで、別の話題に切り替えて、空想が悪い針路へと向かわないようにすればよかった。

 でも、続きの言葉が、どこからか漏れ出た液体のように滲出していく。

「よかったね」

 表面上は問題のない言葉で、
 けれど、その言葉の矢印の方向が問題だった。

 ふゆの方は向かずに、わたしの方を向いている。

 よかったね、ともう一度わたしは口の中だけで呟く。
 どうして? と間髪入れずに自分に問いかける。答えはいくつか思い浮かぶ。

 ふゆに友達ができたから──そういう気持ちがないわけではないけれど、一番の理由にはなり得ない。
 ふゆが隠さずに教えてくれたから──隠すようなことだと思うのは、わたしの捉え方の問題かもしれない。

 どうにか矢印をふゆに向けようとしている。
 そうしたってなにも意味はないのに。……だって、もう何度も同じようなことばかりを考えていて、その答えはわかっているから。

326 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:46:34.41 ID:x7VE9nDA0

 まだ、「友達になりたい」だったから。
 そして、わたしはもう、ふゆと付き合っているから。

 友達になりたいと言われたからといって、必ずしもそれ以上を求めるようになると考えるのは、短絡的な思考だと思う。

 あの子のあの表情も、わたしの見間違いかもしれない。
 あれは悪い方向へと捉えてしまうわたしが作り出した幻覚で、本当はただあの場所にいたわたしに驚いて、表情を崩していただけかもしれない。

 つまり、さっき起きた出来事だけに、過剰に心を乱されているわけではないのだと、そう思う。

 だって、誰かに友達になりたいと言われて、それを無下に断る人なんてほぼいないと思う。
 わたしだってそう言われて断ったことはないし、やさしいふゆなら絶対に断ることはしない。

 だから、わたしが考えているのは、もっと他のことで。

 わたしが躊躇してしまうようなハードルを、簡単に越えていってしまう人たちがいる。
 ハードルだとは微塵にも思わずに、越えている自覚なしに、前へ前へと進んでいく人たちがいる。

 そういう、変えようのない事実についてだった。

327 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:47:37.08 ID:x7VE9nDA0

 ふゆにわたしよりも仲の良い友達ができたら。
 友達よりももっと深い関係の、恋人ができたら。

 ふゆがそういった素振りを見せたことは一度もない。
 去年は仲良くなってからいつも二人でいてくれたし、それは今年もそこまで変わってはいない。
 デートをしたことがないと言っていたから、きっと今までもそういう相手はいなかったんだと思う。

 でも、これからのことはなにもわからなくて。

 もし仮に、ふゆにそういう人ができたとしたら。

 そのときは、わたしのことなんて、気にも留めなくなってしまうのではないか。マフラーを巻いてくれなくなるのではないか。
 そのときは唐突で、気が付いたときにはもう遅いのではないか。

 そしてわたしは、すごく後悔するのではないか。

 そうなる前に、なんとかして繋ぎ止めたかった。
 わたしの存在を、ふゆの記憶に刻んでおきたかった。

 ほどなくして、分かれ道となる駅までたどり着く。

 その間の会話の内容も、相槌を打ったり、質問に対して返答したこともはっきりと覚えている。
 また明日ね、と言われて、それに同じ言葉を返す。

 もっと話したかったけれど、わたしが背を向けたので、ふゆは自転車に乗って行ってしまう。

 ひとりになって、地下鉄に乗って、家まで歩く。
 その道のりが、今日はなぜかいつもよりも長く感じた。

328 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:51:42.38 ID:x7VE9nDA0
今回の投下は以上です。

訂正
>>302

わたしには身に降りかかったわけではないが少し嫌だったことも、今ふと思い出すまで忘れていた。

わたしの身に直接的に降りかかったことではないが、少し嫌だったことも、今ふと思い出すまで忘れていた。
329 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/10/09(土) 18:31:51.37 ID:FdpCEBDT0
おつ
330 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:41:25.63 ID:Satjfcwb0



〈U〉


 そろそろ朝に走るのをやめにしようと考えていたはずなのに、あと数日で十二月となる今日になっても、いつもの河川敷に足を伸ばしていた。

 どうしてかっていうもっともらしい理由はないけど、走らなくとも起きる時間は変わらないし、雨で走れない日はなんだか落ち着かない。
 寒さはまあまあだけど、軽くストレッチをして走っているうちに慣れてくる。二週間前くらいまではあんなに寒い寒いと思っていたのに、人間の身体って不思議だ。

 ただ外の明かりはまばらな街灯を除くとないに等しくて、ほどよく明るくなるまで待っていると、家を出る時間が後ろ倒しになっていく。
 十二月後半の冬至まで、日の出の時間はどんどん遅くなっていく……のかな? 冬至ってそういう意味だったか、正直覚えていないけど、そういうことにしておく。

 河川敷を走る人たちの数は日に日に減っていた。
 最後になるまで粘ってもいいけど、さすがに一人で走るのは心細いしなぁ、と考えながら速いリズムで動かしていた足を止めて、端の階段を降りる。
 
 あの一羽の白鳥はどうしているかな、と思ったから。

 僅かに泥濘んだ砂利道を歩き、いつもの場所に至る。

「……いない」

 最後に見に来たのは何日前だっただろうか。
 そこまで経っていないはずだったけれど、そこにはあの白鳥の姿はなかった。

331 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:42:23.18 ID:Satjfcwb0

 別の場所に行ってしまったのかな。
 それとも、気の合う仲間を見つけたのかな。

 もう見られないとなると、この場所に来る理由がなくなってしまったことになる。
 変わらず朝に走っている理由でもあったし、勝手にちょっとだけ仲間意識を抱いていたこともある。

 でも、もし仲間を見つけたのだとしたら、それはいいことに違いない。

 石段に腰掛けてしばらく待ってみたけど、開けた水上にあの麗しげな姿が見えることはなかった。
 ふと思ったことを小さく呟いて、元来た方向に引き返す。

「やほー。どったの?」

 振り向きざまに声を掛けられて、閉じていた目を開く。
 そこに立っていたのは、いつもすれ違っている帽子のお姉さんだった。

「……え、私、ですか?」

 挨拶以外で話かけられるのは初めてで、普通に戸惑う。
 お姉さんは帽子を外して、私に一歩近付く。いつもものすごい速さで走っているから、顔をしっかり見るのも初めてだった。

「うん。キミ以外いないっしょ?」

「あ、っと、ですね。……ですね」

332 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:44:04.57 ID:Satjfcwb0

「ん。で、どったの? アンニュイな顔してたけど」

 お姉さんは首をぐーっと傾げる。その動きが滑らかで柔らかくて、放っておいたらそのまま一回転してしまいそうな気がした。

 フレンドリーな感じに、若干びっくりしながら考える。
 アンニュイな顔なんて、自分ではしているつもりはなかったけど。

「ちょっと前から、あのあたりにずっと一羽だけ白鳥がいたんです。でも、今日はいなくて。
 毎朝ってわけではないですけど見にきてたので、どうしたのかなーって、ちょっと心配で」

「白鳥って、鳥の? ほわいとばーど?」

「えっと、そうですよ?」

 私がそう言うと、お姉さんは大仰に頷いて、

「いい子!」

 と半ばわざとらしくぱちぱち手を打ち鳴らした。

「はい?」

「いや、自然派と言うべきか? キミはいい子だねぇー」

 人の良い笑顔で、肩をぽんぽん叩かれる。
 フレンドリーだ、とまた思う。最近はよくフレンドリーな人に話しかけられる。

 ……いや、まずフレンドリーな人しか他人に積極的に話しかけてこないか。

333 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:45:45.89 ID:Satjfcwb0

「キミのことはねー、前から気になってたんだよー?」

「そうなんですか?」

「私よりもすらっとしてておっきいしぃー、走り方はまぁアレだけど、走ってる時のおめめがキリッとしてていい感じだし?」

「はぁ」

 まぁアレって。

「んー……私より年上には、なんとなく見えないな? てことは高校生?」

「……これって、もしかしてナンパとかですか?」

「あは、ナンパ違うよー。で、高校生?」

 ナンパ違うらしい。当たり前か。

「はい、高校生ですよ」と答える。

334 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:46:26.91 ID:Satjfcwb0

「あー、やっぱりそうかー。そうだと思ったんだよ。どこ高?」

 知らず知らずのうちに、独特なペースに乗せられている気がする。

 お姉さんは私から視線を外して、転がっている石で水切りを始めた。
 その様子を目で追うと、左手のサイドスローで放られた石は、何度も跳ねて対岸に到達した。

 なんか今すごいものを見たような。
 ……私の見間違いかな? あ、右手の二投目も対岸に。

 まぁそれはいいとして、お姉さんは良い人そうだし、あえて言わない理由もないので高校名を答える。

「へー、あそこの高校。うちのか……おっと、おっとおっと、んー、へー、制服が県一かわいいとこだよね」

「あ、私はねー──」とお姉さんも高校名を言った。

 頭の良い感じの響きの名前の高校。のが多いな。の、三年生らしい。
 ていうか、お姉さんは高校生なんだ。てっきり大学生だとばかり思っていた。醸し出す雰囲気が、何というか、余裕に満ちていて大人っぽいから。

335 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:47:27.16 ID:Satjfcwb0

「部活とかやってる系?」

「園芸部に入ってます」

「自然派だ」

「自然派ですね」

 自然派って何だろう。

「私は何部に入ってそうに見える?」

「陸上部とかですか?」

「はずれー。正解はクイズ研究会の幽霊会員こと帰宅部でしたー」

「へぇ、そうなんですね」

 笑うタイミングかどうか分からなかったけど、とりあえず口元だけ笑っておいた。

 お姉さんが砂利道の突き当たりへと歩き出したので、私も後ろをついていく。
 疲れてはいなさそうだったし、もう一走りしそうな感じだったけど、階段を上がったお姉さんの身体は、舗装されたランニングコースとは逆を向いていた。

336 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:48:19.72 ID:Satjfcwb0

 くるっとターンをしたお姉さんが、じぃっと私を見る。
 そして、何かを思い出すように頭を捻ってから、大きく口を開いた。

「なんてゆーか、最近はもうとにっかく寒すぎて、今日出てくる前に温度計見たら氷点下だったんだよ? 氷点下!
 やーばいよね! ほうしゃれいきゃくー、からっかぜーって感じ。あ、カイロ要る? うん、いっぱいあるからもらっといて?
 で、でー、そんなんだからさ、さっすがに今の時間に走るのはおしまいにしよっかなって思っててー、もう会えなくなるかもしれないキミには挨拶しておきたかったんだよね。
 この前なんて帰りにケーサツの人に声かけられて、ランニングですーって言ってるのに、この服装でだよー。
 二十分くらい、まだ明るくないしアナタは若いんだから気をつけなさいだのなんだの口煩く言われちゃってー、キミも気をつけたほうがいいよ?
 何が言いたいって言うと、まぁもう今年の冬はここに来ることはないかなーっていうね。だから歴戦の盟友に別れの挨拶をー、って、これはさっきも言ったっけ?」

 すごい早口。その間にカイロを三枚も受け取る。
 警察、歴戦の盟友と引っかかるワードが多くて、言っていることを理解するまで時間がかかって、反応が遅れる。

「キミにはまたどこかで会えるといいな。またねー?」

 そのうちに、お姉さんはピースをした手を前に伸ばして、帽子を被り直して軽快に走り去っていった。

 文字通り、嵐のような人だった。
 そして、お姉さんがもう来ないとなると、あの白鳥のこともあるし、私もどうしたものかなぁと少し思った。

337 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:49:17.27 ID:Satjfcwb0




 今日は空気の抜けてきていた自転車をお休みさせて、徒歩と地下鉄で登校した。
 というのも今日の学校は午前授業で、お昼を食べてから、先週みんなで決めた通りに勉強会をすべく、桃の家に向かうことになっていたから。

 テスト前で疲れている先生と授業を受けるよりはテスト勉強をしたい生徒の利害が一致したように、四時間中三時間が自習だった。
 黙々と参考書やノートに目を落とす周りの人の様子を見ながら、私もそこから外れないように手を動かす。

 そうしていると時間はすぐに過ぎていって、気付けば四人で横並びに地下鉄の座席に腰掛けていた。

 桃の家の最寄り駅は今乗っている路線の終点で、乗り降りが多い私の家の最寄り駅を過ぎると、他の乗客はまばらになっていく。

「初めておじゃまするけど、桃の家って一軒家?」

 私たちの乗る車両に、他の乗客がいなくなったタイミングで、栞奈が桃にそう訊ねた。

「うん。よくある感じの、二階建ての一軒家だよ」

 と桃が言うと、

「ももちゃんちめっちゃ広いよ。栞奈驚くなよー」

 とつかさがなぜだか得意気な表情で、桃と栞奈に笑いかけた。

338 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:50:07.79 ID:Satjfcwb0

「つーちゃん。ハードルあげないで」

「いや、あげてないよー。ももちゃんお嬢だからー」

「あ、それはわかるかも。桃ってお嬢様感あるよねー」

 つかさと栞奈の二人は揃ってうんうんと何度か頷く。

 お嬢様感ね……たしかに、分かるかもしれない。
 そういう人がそれなりに多めなうちの学校でも、桃は際立ってお嬢様感があると思う。

「まぁそういう栞奈の家も広かったな」

「そうね。広めではあるけど。でも私の家はマンションだから、一軒家には憧れがある」

「何階だっけ? めっちゃ高くなかった?」

「んー、つーの数学の点数と同じくらいよ」

「うわっ、もうそのネタ擦るなよー」

 酸味の弱いりんごみたいに顔をほんのり赤くしたつかさが、がしがしと栞奈の肩を揺する。
 私の隣に座っている桃は、それを見てふふふと笑みをこぼしていた。

339 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:51:08.92 ID:Satjfcwb0

「霞は桃の家に行ったことあるんだよね」

 栞奈の一言に、学校を出てから今までほとんど話していなかったなぁと思いながら「うん」と声に出して頷く。
 それを聞いたつかさが、薄い黒色のタイツを履いた脚をぷらぷらと揺すりながら、興味深そうな表情で私の横顔を覗き込んできた。

「広かったっしょ?」

「そうだね。庭にプールがあった」

「いや、プールはないでしょ」

「あれ、そうだったっけ?」

「あはは。ふゆゆほんとに行ったことあるの?」

「あるある。でも、ちょっとだけだったから」

 たしか三十分くらいだったんじゃないかな。
 二年生になったばかりの、四月の半ばの学校帰りに桃に誘われて、バイトがなかったので二つ返事で行って、特にすることもなく帰った。

 その三十分をどう使ったかについては、はっきりとは思い出せない。
 でもたしか、椅子に座ってお茶菓子を食べながら、桃と桃のお母さんと会話をして……って感じだったと思う。多分。記憶違いでなければ。

340 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:51:43.48 ID:Satjfcwb0

 駅に着いて、勉強会ならという感じに、改札を出てすぐのコンビニに寄って飲み物やお菓子を買い込む。
 学校とそこまで距離は離れていないはずなのに、乗った駅よりも北に位置しているからなのか、肌寒さは明らかに増していた。

 桃と私で、みんなで食べ飲みするものの会計をしている間に、つかさは焼き芋を、栞奈はコロッケを買って外で食べていた。
 お昼を食べてからあまり間があいていないけれど、二人はもうお腹が空いてきていたらしい。

「小腹と中腹と別腹が空いたよー」

 と呟くつかさの持つレジ袋は大きく膨れていた。

 家の前まで着くと、こういう感じのお家だったなーということを流石に思い出す。

 ネイビーの外壁に、木目調の玄関まわり。大きい車とバイクが置かれているガレージ。
 周りには白い壁が特徴的な、同じ外形の一戸建てがいくつも並んでいるからか、桃のお家は少し目立っているように感じた。

「ただいまー」

 と桃が鍵を使って扉を開けて、それに続いてぞろぞろと中に入る。

 外観とは違って真っ白な壁に囲まれた玄関には、一足のスニーカーが置かれている。
 そこに二足、三足、四足と靴が増えていって、最後に扉をくぐった私の靴で五足となる。

341 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:53:10.89 ID:Satjfcwb0

 最初からあったものはデザインの感じから妹さんのかなと思っていると、部屋の先から足音が聞こえてくる。

「あ、ひなちゃんいたのか。これ、この間の」とつかさが慣れた様子で妹さんにレジ袋の中から何かを渡して、栞奈と共に廊下を進んでいく。

「こんにちはー」

 靴を揃えていると、私の目線に合わせるようにしゃがんだ桃の妹さんに、元気に挨拶される。
 話には何度か出てきていたけど、何気に初対面だった。

「こんにちは。えーっとー……」

「ひなみっていいます。ひなちゃんでも、ひなみちゃんでも、ひなみでもひなでも、ふゆさんの好きなように呼んでください」

「そう。なら、ひなみちゃんって呼ぶね」

「はーい。……あっ、さっきどさくさにまぎれてふゆさんって勝手に呼んじゃいましたけど、よかったですか?」

「うん、いいよいいよ」

「わー、ありがとうございます!」

 立ち上がって隣り合うと、ひなみちゃんはまぁいろいろと桃の妹だという気がした。

 桃が廊下の先から戻ってきて二人が並ぶと、それをさらに強く感じて、思わず目を左右に動かす。

342 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:53:46.60 ID:Satjfcwb0

「どうしたの?」

「どうしたんですか?」

 あ、やっぱり姉妹。似た感じの反応。
 ひなみちゃんの方が中学生なだけあって快活そうだけど、姉妹で雰囲気って似るものなんだなぁ、と感心のようなものを抱く。

 二人の後に続いて、居間に入る。栞奈とつかさは既に上着を脱いでコタツに足を入れていた。
 ひなみちゃんが人数分のコップを持ってきてくれる。それを受け取って、コタツ上の四角テーブルの空いている辺に座る。
 と、隣にひなみちゃんがやってくる。

「ひなみ、こっち」

「えー姉さんの隣はイヤ。ふゆさんの隣がいい」

 ひなみちゃんがそう言うと、桃は気まずげに私を見て、両手を合わせた。
 その様子を見たのか見ないのか、ひなみちゃんは桃に似た厚めの唇で緩い微笑みのカーブを作って、立ち膝のまま桃の近くに移動する。

 別にかまわなかったけど。親交を深めるという意味で。
 それはそれでちょっと変だろうか? 変かもしれない。

「ふゆゆもう懐かれてんじゃん」と反対側に座るつかさがけらけら笑っていた。

343 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:54:35.77 ID:Satjfcwb0




 勉強会というワードに、ちょっと勉強してすぐに休憩という名の遊び時間になるイメージを持っていたけど、たまに軽く話しながらも目は大体ノートを向いていた。

 その大きな理由は、つかさがかなりやる気だったこと。
 つかさが遊ぼうとしなければ、栞奈と桃も遊ぼうとはしないから。

 細かい事情についてはよく知らないけど、補習には絶対にかかりたくないらしい。

 栞奈は自分の勉強は一切せずに、つかさに付きっきりになって教えていた。
 声を聞いてるとなんかいろいろとスパルタだった。声音はいつも通り落ち着いていて優しいけれど、休ませずに進んでいく感じが。

「私は二年生の範囲はもう全部終わらせてるから」

 と最初に言っていたのも、本当のことなのだと思う。

 ついこの間は忙しくて勉強してないって言っていたけど、栞奈の勉強してないは一般学生とは違っていそうだ。

「ここは凡ミスさえなくせば大丈夫そうね」

「おー、なんで解けてるのか全然わかんねーけど」

「壊れた時計でも一日に二回は正しい時刻を指すって言うからね」

344 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:55:35.88 ID:Satjfcwb0

「なんだそれー! バカにしてる?」

 そして普段あれだけ「赤点がー追試がー」と言っているつかさは、やる気さえあれば科目によってはなんとかなるタイプらしい。
 そこには栞奈も少しだけ驚いている様子だった。

 桃はすらすらと日本史の問題集を解いていた。たしか、文系の方がまあまあ得意と前に言っていたと思う。
 教えてほしいくらいだけど、暗記科目って教えるも何もないか。必要なのは、やっぱり根気とかかな。

 ひなみちゃんは今日まで定期テストだったようで、明日からの普通の授業に向けての予習をしていた。
 テスト明けなら遊んでいてもいいのにと思ったけれど、私たちに合わせてくれたのかもしれない。

「学校での姉さんってどういう感じなんですか?」

 桃が席を立っているタイミングで、ひなみちゃんと目が合うとそんなことを訊ねられて、それにペンを止めて反応する。

「家での様子は分からないけど、そんなに変わらないと思うよ」

「ぼーっとしてます?」

345 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:56:31.19 ID:Satjfcwb0

「してる時もあるね」

「そうですかー」

「うん」

「あ、そういう時の姉さんって、何も考えてないように見えて、実はいろいろ考えてるんですよー」

「そうなんだ」

 桃に関する雑学のようなものを教えてもらった。

 学校の中と外で人はそこまで変わらないと思うけど、箱の中を覗けないのなら、その様子について訊いてみたくなるのは当然か。
 この前の土曜日に、瑠奏さんも桃に訊こうとしていたし。あれは、割と恥ずかしかった。

 吹き抜けになっている階段を降りてきた桃は、頭を悩ませながら数学の勉強をし始めた。
二日目(今週の金曜日)にあるからか、つかさもさっきからずっと数学をしている。

 私は数学についてもそこまで苦手ではないから特に問題はないと思うけど、先生が今回は難易度高めって言っていた気がする。
 確認くらいはしておいた方がいいだろうか。

346 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:57:06.78 ID:Satjfcwb0

 でも提出課題は結構前に全て終わらせてしまっている。
 さすがに栞奈みたいに、全範囲を網羅しているとまでは言えないけど、今回のテスト勉強はいつもと比べて身が入っていた。

「時間がないし、もう数学は暗記だと思って解法のパターンを頭に入れなさい。このパターンが出てくるの三回目でしょう?」

「はい、わかりました! 栞奈先生!」

「よろしい。で、ここ間違ってるよ」

「はい、どうも! ありがとうございます!」

 ベテラン講師とベテラン生徒は変わらずそんなやり取りを続けている。

 誰に聞かせるわけでもなく二人で喋っているのに、ちょっと面白いのはなんでだろう。
 私のフィルターを通すと、栞奈は竹刀を持っているように見えたし、つかさはハチマキを巻いているように見えた。

 桃がリモコンを操作して、僅かに暗くなってきていた部屋の電気を点ける。
 私の座っている場所から正面の壁掛けの時計を確認すると、勉強をし始めてから三時間少々経っている。

347 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:57:58.36 ID:Satjfcwb0

 スパルタ塾はそのままに、レジ袋に入ったままだったお菓子を取り出し、桃に声をかけて休憩することにした。

「ふゆさんは成績良いんですか?」とひなみちゃんに質問されて、
「普通くらいだよ」とチョコレートを食べてから答える。

「とても知的なオーラを感じます」

「そうかな? ありがとう」

「いえいえー。好きな食べ物ってありますか?」

「なんでも食べられるけど、肉よりは魚派かな……?」

「わたしも魚派です!」

 ひなみちゃんと会話している間、桃は戸惑った様子で、明らかに落ち着きがなくなる。
 んー……まぁ、気持ちは何となく分かるけど。

「二人はすごく仲良しなんだね」

 私がそう言うと、ひなみちゃんはえへへと笑って、身体をぐいっと桃の方に倒す。
 そしてそのまま太ももに顔をつけ……たかは角度的に見えないけど、膝枕的な構図になっているはず。

 制服のスカートの下に敷いていたクッションと一緒に二人のいる辺に移動すると、桃は慣れたように、ひなみちゃんの髪に細い指をするすると滑らせていた。

348 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:58:37.94 ID:Satjfcwb0

「ふゆさんもどうですか?」

 と心地良さそうに瞼を閉じているひなみちゃんが、すすすと頭を移動して、片方の太もものスペースを空けた。

 桃だけじゃなく、向こうの二人の視線も感じる。遊んでないで勉強しなさいという圧か。
 ひなみちゃんの頭は重くないだろうけど、そこに私が加わって二人分となれば重いだろうし、一人の方が寝心地も良いはずと思って、「いや」と固辞する。

 桃がお姉ちゃんしているところは初めて見るし。
 本物の妹が目の前にいるのに、私まで妹のようなことをする必要はないんじゃないかな。

「……あ、そうだ。ふゆちょっと来て」

 小分けのお菓子を何個か食べ終える頃には、ひなみちゃんは満足したらしくもう起き上がっていて、コタツから出た桃が手招きをしてくる。

 私も立ち上がって後を追いかけると、桃は階段を上って、二階へ進んでいった。
 そして行き着いたのは桃の部屋だった。ベッドと学習机とテーブルと、コタツがここにも。
 きちんと整頓されていて、可愛らしい部屋だ。

 でもなぜ突然部屋にと思ったけど、桃の視線で何となく意図が伝わる。

349 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:59:22.14 ID:Satjfcwb0

「飾ってくれてたんだ」

「うん」

「気に入ってくれたようで」

 こくこくと桃は二度首肯する。二色で彩られたハーバリウムを見つめる瞳が、少しだけ泳いだように思う。
 そういえば、今日の桃はいつもよりもだいぶ口数が少ない気がする。もともと、そこまで多く喋るタイプではないけれど。

 居間に戻ろうとしたところで、すっと腕を引かれる。
 桃のひんやりとした手の感触に「わっ」と思わず跳ねたような声が出る。

 フローリングに足裏を這わせるように移動してベッドに腰を下ろした桃と、腕を取られたまま立っている私。
 いいのか分からないけど私も座った。

「どうぞ」

 と桃は微妙な表情でスカートをぽんぽん叩く。

「ど、どうぞ……」

「なるほど……」

 さっき、私がみんなの前だからと恥ずかしがっていたと思ったのかな。

350 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 19:00:29.24 ID:Satjfcwb0

 それとも、拒否されたと思ったとか。私がめっちゃ眠たそうに見えて、なんてことも。全然眠くないけど。

 一応目を擦って瞬きをしてみる。うん、全く眠くない。

「えっと、いいの?」

「いいよ」

「……あ、反対にしない?」

 特に言語化できるような意味はなかったけど、桃がしたように脚をぴちっと閉じて太ももをぽんと叩く。
 そのままの流れで、両手を後ろに伸ばして、ふわふわした生地のオルテガ柄のブランケットにつけた。

 まあ何かそっちの方がしっくりきたというか。今思い付いたけど、さっきまでひなみちゃんにしていたのだし、連続でさせるのは申し訳なかった。

 ぱっと私の手を離した桃に、どうぞという意味を込めて笑いかける。
 すると桃は和やかに頷いて、私に向けて上半身をぽすんと倒し、ゆっくり瞼を下ろした。

 このありそうでなさそうな状況について考えているうちに、桃の細い息遣いが聞こえてくる。

 私の脚よりは絶対に桃のものの方が柔らかそうだな……なんていう場当たり的な思い付きはさておき。
 スカートの布一枚越しには、私の肌に桃の体温は伝わってこなかった。

351 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 19:01:28.90 ID:Satjfcwb0




 桃が起き上がるまで待って階下に戻ると、栞奈、つかさ、ひなみちゃんの三人は、お菓子を片手に雑談に花を咲かせていた。

「おふたりとも今日泊まっていきませんか?」

「あー、わたしん家もう夜ご飯作ってくれてると思う」

「私もそうかな。ごめんなさいね」

「わー、いえいえ。そうですよねー。次はぜひ泊まりに来てくださいね」

「いいね、ひなちゃん。五人でお泊まり会するか」

「したいですしたいですっ!」

 三人の会話の感じと、勉強道具がテーブルの上からなくなっていたことから、もうそろそろお開きになりそうだと思った。

 その直感は半分当たりで半分外れだったようで、つかさは一回だけと栞奈に言ってひなみちゃんと五回ほど対戦ゲームをして、それから勉強会は解散となった。

 桃とひなみちゃんに玄関先まで見送られて、外に出る。
 コタツや床暖房で身体の芯まで温まっていたせいか、寒暖差で身が縮こまる。

 つかさはここから家が近いみたいで、でも地下鉄駅とは逆方向らしく、その方向に、手を振りながら歩いていった。

352 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 19:02:06.87 ID:Satjfcwb0

「なんか、勉強会っぽさ皆無だったね」

 私と二人きりになると、栞奈は大袈裟に溜め息をついて、申し訳なさそうに苦笑した。

「遊ぶのは遊ぶ日にってことでいいんじゃない?」

「そう? ま、それはそうね」

「うん」

 と頷いた私を見て、栞奈はすっと表情を戻した。

「改めて感じたけど、誰かに教えるのって難しい」

「へぇ、栞奈でもそうなんだ」

「……ん。私でも、って?」

「えっと、栞奈は成績良いし、運動部の部長してるから、今までも誰かに教える機会はあっただろうなって」

「あ、そういうこと。それがあまりないのよ。部長している手前、頼ってもいいんだよって姿勢でいるつもりだけど、何だか遠慮されることが多いかな。
 ま、逆に私からうるさく言うのは、強制しているみたいで嫌だから、軽口とかノリ以外ではしないように心がけているけど」

「あれ、てことは今教えてるのは、つかさが栞奈を頼ったからなんだ」

353 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 19:02:38.83 ID:Satjfcwb0

「そ。あのつーが真剣な表情で頑張りたいって言ってきたから、それなら私が出来る範囲で力になりたいなって。
 まぁそれがけっこう大変なんだけどね。つーは頑張っているけど、流石に一、二週間では厳しいところもある」

 言葉を区切った栞奈は、何かを省みるように目を細めて、右手でこつんと耳の上辺りを叩いた。

「私は、自分に出来ることを出来る範囲でしているだけだから、人に教えるのは向いていないのかも。
 自慢じゃないけど、だいたい何でも覚えられるし、感覚で出来てしまうから、それを一から噛み砕いて説明するのはいつも使っていない頭を使う作業で、難しい」

 出来てしまう、という言い回しが栞奈らしいなとちょっとだけ思った。
 つかさが前に栞奈のことを"超人的"と評していたのも、あながち間違ってはいないのかもしれない。

「なのに時間割いて教えてあげてるなんて、栞奈は優しいね」

「まーね。でもどうせ私は点数取れるから、暇な時間の有効活用法だよ」

「栞奈が言うと説得力ある」

「それに、こんな時くらいしか私は役に立たないから」

「そんなことはないでしょ」

354 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 19:03:20.53 ID:Satjfcwb0

「あはは、釣り合い取るためにちょっと自虐してみた。
 ま、私の見立てだとつーは一年の範囲から壊滅的だと思ったんだけど、そうでもなかったことが不幸中の幸いというかね」

「そうなんだ」

「うん。つーと桃って、中学は中高一貫校だったんだよ。なら少し納得かなって。知ってた?」

「ううん、知らない」

 普通に初めて聞く情報だった。
 いや、どこかで聞いてはいたけど忘れていたのかな。

「ていうか、霞は残らなくてよかったの?」

「どこに?」

「どこにって、桃の家に」

「え、どうして?」

 純粋に訊き返すと、栞奈は横目で私を見つめてきた後、ああ、と正面を見ながら軽く頷いた。

「桃の妹ちゃんがもっと話したそうにしてたの、気付いてたでしょ?」

「まぁ何となくは、うん」

355 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 19:03:52.99 ID:Satjfcwb0

「そういう場合は、霞だったら残っていきそうだから」

 栞奈の中の私像はどんな風になっているのだろうか。

 実際、私は夜ご飯の心配はないし、桃が迷惑じゃなければ残ろうかなと思いはしたから、合っているけど。

「また次がありそうだしいいよね、みたいな」

「ん、たしかにそれもそうね」

 言いながら、栞奈はくすくすと笑う。

「そういえば、イクラはロシア語って知ってた?」

「知らないけど……急にどうしたの?」

「聞きかじりの知識を言い合うの、つーといる時によくやってて、霞ともやってみようかなって」

「なるほどね」

「ちなみに向こうではキャビアもタラコもまとめてイクラなんだってさ」

「……栞奈って魚卵マニアなの?」

「いや違うけど。はい、次は霞のターンね」

 と私に無茶振りしながら、今度はいつもつかさ相手にしているような、悪そうで楽しそうな顔をする。
 とりあえず何かは言わなくちゃならんっぽい。

356 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 19:04:24.39 ID:Satjfcwb0

 私は何を言うべきかけっこう迷って、

「映画のニモって、昔見たことあるんだけど……」

 と魚介に引っ張られた思い付きを口にすると、

「あ、カクレクマノミ?」

 と栞奈がクイズの答えを当てるような、反射的な速度で返してくる。

「ううん、ではないって話。あれはイースタンクラウンアネモネフィッシュで、近縁種?」

「へぇ、そうなんだ」

 さすがに知っていると思ったから二段構えでいったら、知らなかったみたいだ。まずは一安心。

 そこから連想されることまで話すかについても迷って、でも栞奈は何度もお店に来てくれていたなと思い出して、そのまま言うことにする。

357 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 19:04:59.61 ID:Satjfcwb0

「共生してるイソギンチャクは英語だと海に咲いているアネモネっていうのが由来でシーアネモネ。
 クラウンっていうのは、そこから来てるんじゃないかな。
 それで、同じシーアネモネって名前のバラの品種があって、イソギンチャクに形が似てる」

「え、そんなのあるんだ。調べてみよ」

 栞奈は黒のコーチジャケットからスマートフォンを取り出して、すっすっと滑らかに入力、検索した。

「きれいね。霞のお店にも置いてあるの?」

「たまに入荷してくる。見た目が珍しいから、すぐ売れていく印象」

「ふうん、すごいね。知らなかった」

「うん。じゃあ私は終わりで、栞奈のターン」

「はいよ……んー、どうしよっかな……」と栞奈は腕を組んで悩んだような素振りを見せる。

 けれどさっきの私よりは、早く沈黙を破って、

「クマノミって、生まれる時は性別がなくて、基本的にみんなオスになるんだけど、群れの中でメスに性転換するんだってさ」

358 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 19:05:36.28 ID:Satjfcwb0

「へー……そんなのどこで知るの?」

「生物の資料集に載ってた。群れにメスがいなくなると、一番大きい個体がメスになるらしいよ。で、メスになるとオスには戻れないの。
 資料集にフローチャートみたいなのが載ってて、それがカオスすぎて印象に残ってた」

 意味ありげにこちらへと視線をずらして──多分、その図について思い出して、栞奈はにこっと笑った。
 それが私の反応をうかがうような笑い方に思えて、そんなに面白いのなら、私も見てみようと思った。

 そして、次は私の雑学披露ターンかなと考えたけど、駅に着いたタイミングだったからか、それきり栞奈は続きを求めてはこなかった。

 栞奈は家に帰ったら、通話をしながらまたつかさに分からないところを教えてあげるという。
 つかさをもっといじれるから楽しいと、本当に楽しそうに言っていたけど、まさかそこまでしてあげるなんて。

 こんな優しくて出来た友達ほかにいないぞ、つかさ……という何目線か分からないような思いを抱いた。

359 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 19:06:06.77 ID:Satjfcwb0
本日の投下は以上です。
360 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/10/27(水) 16:03:10.88 ID:Gu3iJyvl0
おつです
361 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/10/27(水) 19:07:10.58 ID:xAhZua4r0
訂正
>>33
一匹→一羽
>>45
「うん。私にとっては嬉しいことだよ」 → 「うん。わたしにとっては嬉しいことだよ」
>>236
五月→四月
362 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:03:46.33 ID:l6qqBTUa0




 中学三年生のちょうど今頃の時期、この高校に志望校を決めた時のことを思い出す。

 高校受験をするかどうかなんて、普通なら迷わない。
 けれど私は少し迷って、かといって誰に相談するでもなく、気付けば最終的な判断を下す十二月になっていた。

 当時住んでいた県とは別の、今住んでいる県の高校を受けることは決まっていたから、
 そうなると必然的に取り得る選択肢は狭まっていって、その時の担任の先生が示した最も安全な選択肢を取った。

 日程上可能な二校を受けて、この高校を選んだ。
 その理由は、校舎が綺麗だとか、煩わしいことがなさそうだとか、いろいろあったような気がする。

 確実に合格するかどうかと、通いやすいかどうか。
 出願するまではこの二つについてしか考えていなかったから、この学校の校風などについては入学するまで全く知らなかった。

 進路調査票の空欄を埋める時、私は桃とした会話を思い浮かべて、あまり考えることなく大学進学に丸をつけ、模試の際にも書いていた県内の大学の名前と学部を記入した。

 何かは書かなければいけない。きっと周りのみんなはちゃんと何かを書いて提出している。

363 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:04:23.30 ID:l6qqBTUa0

 もし白紙で出すようなことをすれば、先生に迷惑がかかるし、そういう印象を持たれるようになる。
 ないとは思うけど、それによってもっと他のところへと波及するかもしれない。

 それを避けるためにも、とりあえず無難なことを書いて、今の私にはまだ考えられないことだと先延ばしにするつもりだった。

「冬見さんは、県外には出たくないんだよね」

「はい、できれば」

 先生との二者面談の途中、以前受けた模試の結果が返ってきた。
 自分の感触よりも出来ていたようで、つるつるとした素材の紙の上に並ぶ文字列は、何となく非現実的なもののように思えてくる。

「何か理由があるなら、教えてくれないかな」

「理由は、特にないですけど……どうしてですか?」

「そのね、冬見さんの成績なら、もうワンランク上の大学に推薦を出すことも出来るから」

 県外にはなっちゃうんだけどね、と付け足しながら、先生はクリアファイルの中から大学名のびっしり書かれたプリントを取り出した。

364 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:04:58.83 ID:l6qqBTUa0

 渡されるがままに、そのプリントの上半分を眺める。
 知っているような知らないような大学名の羅列に、どう反応すべきか分からない。

「どうかな?」

 と先生のうかがうような目が向く。
 中途半端な会釈を返すと、こことかはどう? といくつかの大学と学部を指で示される。

 所在地、大学名、学部……。

 サイズの違う靴を履いている時のような感覚。
 ……いや、まぁそれは当たり前のことだけど。

 それ以前の話だとは、言わない方がいいだろう。
 面談が始まってから今までの会話ごとひっくり返すことになってしまう。

「考えておきます。でも私は、将来についてあまり考えられていないですから、本当にその大学に行きたい人にその枠を使ってあげてほしいです」

「そっか。うん、でも一応資料は渡しておくから、読んでみて興味が持てたら言ってね。冬見さんなら、わたしも全力でサポートするよ」

「わかりました。ありがとうございます」

 軽く頭を下げると、先生はふうと小さく息をついた。
 私のこの反応も、もしかしたら織り込み済みだったのかもしれない。

365 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:05:36.25 ID:l6qqBTUa0

 調査票に書いた、今のところの志望校に向けての学習方法について書かれたプリントを受け取る。

 そして、少しそれについての話をした後に、先生は目元をわかりやすく緩めて、握っていたボールペンをカチっとノックした。

「昨日は冬見さんたちと勉強会をしたって、つかささんから聞いたよ」

「はい、しましたよ」

「つかささん、ちゃんと勉強してた?」

「栞奈がつきっきりで教えてましたよ」

「そう。ならこのあとの面談で、山口さんにお礼言わないとだなぁ」

「お礼ですか?」

「そうそう……あっ、その時の山口さんって、自分の勉強を全然しないでつかささんに教えてたの?」

「そうですね。してなかったですよ」

「うわぁ、それはほんと、ほんと申し訳ないなぁ……」

 頭を抱え込むようにして視線を下向けた先生を見るに、栞奈にそれとなく頼んでいたのかもしれない。
 私が知らなかっただけで、先生はつかさに相当気を揉んでいたみたいだ。

 当のつかさは、このままだとふつーに留年しそうだぜぃ! とかって笑顔にピースで言っていた気がするけど。
期末テスト後あたりに。
 私には関係ないことだけれど、いたたまれないような思いを抱く。

366 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:06:25.47 ID:l6qqBTUa0

「わたしがつかささんに勉強しないとー、分からないところは教えるよー、って言っても、あんまり耳に入っていないみたいだったのになぁ……」

 ぼやくような口調で言ったあと、はっとしたように先生は私を見た。

 どうやら無意識に口に出してしまったようだった。
 一瞬だけ、そういう時に特有の気まずい沈黙が流れた。

「友達と先生とじゃ、ちょっと違うんじゃないですかね」

「うん。まぁそうだよねぇ」

「先生とは仲良いからこそ、みたいなこともあるかもしれないですし」

「……え、そう見える?」

「なんとなく友達みたいだなーって思ってました。よく話してますし、その、お互い名前呼びじゃないですか」

 そう言うと、先生はあぁと小さく頷いた。

「春先につかささんから、名字じゃなく名前で呼んでほしいって毎日のように言われてたから」

「先生って、押しに弱いタイプなんですか?」

「あはは、正解」

 先生は肩にかかるゆるくウェーブした髪をはらって、少し恥ずかしそうに笑った。

367 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:07:05.09 ID:l6qqBTUa0

「あ、でも冬見さんもそうじゃない?」

「言われてみるとそうかもしれないです」

「んー、じゃあそれが原因で困っていることとかは?」

「困っていること……いや、ないと思います」

「本当に?」

「……えっと、私ってそういう風に見えますか?」

「ううん、そういうわけじゃないけど。冬見さんって困っていても話さなそうだから」

 そういう風には見られていないのだと安堵したのと同時に、以前瑠奏さんに言われたことと同じようなことを言われて、自分の瞬きが多くなるのを感じた。

 大人の目線から見た私はそうなのだろうか。
 憶測や決めつけだとしても、そういう見られ方をしてるのだとしたら、他の人にだってそう思われているかもしれない。

 でも、困っていること……再び思考を巡らせてみても、特に何も浮かんではこない。

「部活とか、アルバイトでは?」

「部活は、先生も知ってる通り私一人なので」

「あ、うん。そうだよね」

368 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:08:04.19 ID:l6qqBTUa0

「文集の原稿ももうすぐ書き終えますし、問題ないです」

「部活、冬休みはどうするの?」

「そうですね……えっと、さすがに毎日学校には来られないですし、いま屋上にあるものは家に持ち帰ろうかと思ってました」

「そっか。うん、その方がいいね」

「はい。バイトについても、お店の人やお客さんは優しくしてくれる人ばかりなので、困ってることはないですよ」

「今のところは大丈夫です」と私は言った。

「それに本当に困ったことがあったら、その時は誰かに相談しますよ」

「うん、そっか。わたしでもいいし、わたしじゃなくても、本橋さんたちなら聞いてくれるんじゃないかな」

「そうですね。聞いてくれると思います」

 私が頷くと、先生も同じように頷く。
 最初に出た名前が桃だったことに、なぜか安堵する。

369 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:09:19.91 ID:l6qqBTUa0

 その後もなされる問いかけに、大して迷うことなくすらすらと言葉を並べながら、そういう模範解答的な答え方がかえって心配される一因な気がしてくる。
 言われた先生の方も、私の中での事実とはいえ、暖簾に腕押しのような返答を何度も続けられたら困るだろう。

 悩みの一つや二つはあった方が正常なのかもしれない。
 客観的に見て、心配されて当然なのだ。きっと。

「あとは、何か質問とかはないかな?」

 と最後に先生は訊ねてきた。

 ありませんと即座に答えようとして、でもそれはそれでと思ってちょっと考えてみることにする。
 私のそういう気持ちが伝わったのか、先生は立ち上がって窓の方へ向かい、薄ピンク色のカーテンを閉めた。薄曇がかかっていた空は紫色に染まっていた。

「なんでもいいんですか?」

 と戻ってきた先生に訊ねる。

「なんでもいいよ。冬見さんとこうやって話せる機会って貴重だから」

「そうですかね」

370 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:09:59.63 ID:l6qqBTUa0

「うん。冬見さん、普段はガード固いし」

「あ、はい」

 そんなつもりはないのに、反射的に返事してしまった。

 まず最近はそこそこ話していたように思ったけど。
 でもまあそれは、他の生徒に比べたら話していないってことかもしれない。

 私はようやく思い付いたことを口にする。

「先生は、昔から高校の教師になりたかったんですか?」

「ん、もしかして冬見さんは先生に興味あるの?」

「いや、そういうわけではないですけど。単に気になったので」

「あぁ、なるほど。んー、どうだろうなぁ……」

 先生は昔のことを思い出すように、視線を上向けて悩んでるようなポーズをとる。

 しばし待っていると、先生は椅子にきちんと座り直すように姿勢を正してから、私の方へと目を戻した。

「多分、昔からってわけではなかったよ」

「そうなんですね」

371 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:10:30.52 ID:l6qqBTUa0

「具体的に考え始めたのも、三年生になってからだったかな」

「なら、何かきっかけとかってあったんですか?」

「きっかけ……というか、それまでは目の前の勉強で精一杯で、その先について何も考えてなかったんだよね。
 でも、わたしには歳の離れた妹がいてね、両親が仕事で忙しいのもあって、よく勉強とかを見てあげていたの。
 それが楽しかったのと、シンプルに学校が好きだったから、進路を決めるってなった時に、この道を選んだんだと思う」

 話に耳を傾けていると、言葉を結ぶように「答えになってるかな?」と問いかけられたので、「はい」と声に出して頷きを返す。

 先生の妹さんについては、前に何かを話した時に名前が出たことがある気がする。
 たしかその時も今と同じように、首筋からすっと伸びている銀色のネックレスを握っていたはずだ。

「それって、妹さんからもらったものなんですか?」

「え? あぁ、うん……そうそう、妹からね」

 ぱっとネックレスから手を離すと同時に、急に今まで合っていた目が、宙を泳いだ。
 なんだろう、もしかして触れちゃいけないことだったのだろうか。

372 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:12:44.20 ID:l6qqBTUa0

 怪訝に思う気持ちが顔に出ていたのか、持ち直すように先生はこほんと咳払いをした。

「うちの妹、いま大学生で海外に留学しててね、これはお姉ちゃんが寂しくないようにってもらったものなの」

「へー、海外に……」

「うん」

「すごく仲良いんですね」

「そうそう」

 頷いた先生は、普段教室で見るような微笑み混じりの笑い方ではなく、もっと慈愛に溢れたような、あんまり喩えが浮かばないような表情で笑う。

 きっと先生は妹さんだけじゃなく、家族のことがとても好きなんだろうと思う。
 ただの推測だけど、そういう感じがした。

「でも、よく分かったね」

「なにをですか?」

「このネックレスのこと。もしかして冬見さんのもそうなの?」

「あぁ。えっと、はい」

373 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:13:33.05 ID:l6qqBTUa0

 私のはもらいものってわけではないけど、それでも同じようなものだと思う。
 髪を耳にかけるようにして上げて、右の耳たぶに触れると、立体的になっている部分だけが少し冷たくなっている。

「じゃあ、大切なものなんだね」

「……そうですね」

 昔のことを思い出しながら、私が今までしてきた選択には意思がどれほど含まれていたのだろうか、とふと思う。

 話の流れにはそぐわないし、結論なんてない問いだと初めから分かっている。
 でも一度考えてしまうと、怖い夢を見た後のように、しばらくの間は頭から出ていってくれない。

 消極的な選択にもいくらか意思は含まれる。
 選択権がないってことはありえなくて、いずれにしても意思をもって何かを選んでいる。
 だとしたら、その責任は全て私に帰結するのだろうか。

 そんなことを考えているうちに面談の時間は終わった。
 出来ることなら先のことよりも、今のことを見ていたい。明日からのテストは、少し考えるだけで憂鬱だけど。

374 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:14:40.70 ID:l6qqBTUa0




 普段の放課後よりも少し遅れてバイト先に着くと、平日の夕方なのに五、六人のお客さんが来店していた。
 すぐに着替えて、これから上がりのパートさんと交代し、お正月の予約用紙が積み重なっているカウンターに入る。

 用紙を備え付けのファイルにまとめて、注文を受けて、売り尽くしのための値引きをして……と業務をこなしていると、時間はあっという間に過ぎていく。

 休日の朝のように忙し過ぎてもつらいけれど、逆に暇すぎるよりはほどよく忙しい方がマシだ。
 でないと、今日みたいな日にはひたすら歴史用語やら化学の公式やらが頭の中を駆け巡っていそうで、それはそれで困る。

 そういう日でも、十九時半を過ぎる頃には客足が鈍くなる。
 店内を移動しつつ花の残量を見て、発注内容があっているかどうか、水が濁っていないかなどを確認していく。
 この仕事は以前はパートさんの仕事だったけれど、いつの日からかこの時間に一人でフロアにいることの多い私がするようになっていた。

 まあ、でもそれだって流れ作業のようなものだから、もう慣れたものだ。
 あらかた終わってきたこともあって、ペンを止めてぼんやりと何か別のことを考えそうになっていると、事務所の方から瑠奏さんがやってきた。

「霞さん、お疲れさまです」

375 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:15:31.10 ID:l6qqBTUa0

「あ、お疲れさまです。もうすぐ終わりますよ」

「そうですか。じゃあ、掃除しちゃいましょうか」

 今日は早めに閉めの作業をするらしい。
 用紙を瑠奏さんに渡した後、二手に分かれて店内を掃除していく。

 その間、もうお客さんは来ないだろうと判断したのか、瑠奏さんは割と普通目な声量で私に話しかけてきた。
 内容は、大通りにあるカフェの新商品、スタンド花をせっかく作ったのに直前になってキャンセルされたこと、と移り変わっていくうちに、今日の面談についての話になる。

「推薦をもらえるのなら、ありがたく受け取る方が良いのではないですか?」

 と瑠奏さんはきょとんとしたような表情で言う。

「楽できるなら楽しましょうよ。楽することは悪いことではないですよ?」

「そうなんですよね」

「ですです。それにしても、霞さんって成績優秀だったんですね。テスト期間でも入ってくれているので、てっきり勉強は捨てているのかと」

「さすがにそれは……」

376 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:16:56.89 ID:l6qqBTUa0

「ふふ、冗談です。霞さんは真面目ですから、成績が良いことくらいわかります」

「いや、ただちゃんとやっていないと迷惑がかかるので」

「迷惑ですか。何に対してですか?」

 瑠奏さんと店の真ん中付近で合流する。
 何に対してって言われると、それは。

「やっぱり霞さんは大人ですね」

 そんなに間が空いたわけではないけど、瑠奏さんは私の返答を待たずしてそう続ける。
 話し方やニュアンスからして、ただの褒め言葉ではないように思えた。

「ずっと子供でいるよりは良いんじゃないですか?」

「まぁ、それはそうですよ。わたしみたいに何歳になっても子供扱いを受ける大人になるくらいなら……」

「あ、すみません」

「謝らないでください、今更身長は伸びませんし顔つきも変わりませんし」

「あっはい」

「まあ冗談はいいとして、子供は小さな大人ではないって言うじゃないですか」

「えっと……まぁなんとなく聞いたことはあると思います」

377 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:17:43.53 ID:l6qqBTUa0

「あれはつまり、子供であることを経験しないと大人にはなれないってことですよね」

「そうなんですかね」

「実際のところは分かりませんけど」

「……えっと、つまりどういうことですか?」

「つまり、」

 瑠奏さんは一拍置くように溜息をつき、細い首筋をすっと伸ばして私を見上げる。

「とりあえずでもいいですから、大学には行っておいた方がいいと思いますよ」

「……えっと」

「何か問題があるわけではないのでしょう?」

「まぁ、多分」

「って、結局途中で辞めてしまったわたしが言ってもぜんぜん説得力がないですよね」

 瑠奏さんは真面目な顔をすぐにやめて、おどけるように苦笑する。

378 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:18:18.29 ID:l6qqBTUa0

「……その、やっぱり、そうだったんですね」

「はい。言ってませんでしたか?」

「聞いていたかもですけど、記憶にはないです」

「まぁ、かなり昔のことですからね……」

 過日を懐かしむように、瑠奏さんは大人っぽい表情で私に笑いかける。

 きっと瑠奏さんが思い出しているのは、私がまだ小学生だった頃のことだろう。
 瑠奏さんは二十歳くらいで、その頃にはもう、大学を辞めてしまっていたのだろうか。

 毎日会っていたはずなのに、鮮明に覚えていることは少ない。
 きっといろんなことを忘れている。忘れたくないようなことも。逆に忘れたいようなことの方が覚えているのかもしれない。

「おばあさまなら、霞さんに何て言うんでしょうね」

 瑠奏さんはささやくような声音で言う。

 今まではその時のことを話して来なかったから、その言葉が少なからず意外に思える。

「それは……自分で決めなさい、じゃないですかね」

379 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:20:07.29 ID:l6qqBTUa0

「そうですね、お嬢さま」

 自然な流れで発された言葉に目が開く。
 からかうような表情で、瑠奏さんは私を見ている。

「懐かしくていいじゃないですか」

「……あれって何だったんですか?」

「あれは、おばあさまとの戯れですよ」

「あの、よく分からないです」

「ふふっ、たまには昔話もいいですね」

 ちゃんと答えてくれなさそうだし、そもそも深く訊ねる意味もないので諦めた。
 どうして急に昔のことを話そうとしたかは、十中八九気まぐれかな。

 動いているうちはそれほど寒く感じないのだが、こうして長い時間立ち止まっていると途端に冷えてくる。
 会話が途切れると尚のことそれを感じて、自分の腕を抱くようにしてさすると、瑠奏さんはふっと口角を上げて、私の動きを真似した。

「もう閉めちゃいましょうか。着替えてきていいですよ」

「あ、はい。分かりました」

 早く帰そうとしてくれるのはいつものことだけど、今はテスト期間だからか更に早い。

380 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:20:48.61 ID:l6qqBTUa0

 事務所に戻って帰りの身支度を整えていると、ロッカーに置いていたスマートフォンがブルブルと小刻みに振動していることに気付く。
 通知の内容からして、つかさと栞奈が桃と私を含む四人のグループで金曜のことについて話しているようだ。

『明後日は走るので動きやすい服を持ってきて』

『あいよー』

『あと荷物も軽めに』

『はーい』

『つーはスマホ見ずに勉強してなさい』

『はあ? 今もやってるし! なめんな!』

『はいはい怒らないでー』

『栞奈きーらーいー』

『はいはい、とりあえず明日明後日頑張ろー』

『うん!』

 既読を付けたので、適当なスタンプを押す。
 すると、つかさから、

『ふゆゆバ終?』

 と間髪入れずレスポンスが返ってくる。

381 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:23:00.22 ID:l6qqBTUa0

『そう』

『おつかれい』

『ありがとう』

『わたしはさっっっすがに今日は休んだよ』

『そっか』

『うん。そんな楽勝そうなふゆゆも明日明後日はりきっていこー』

『楽勝じゃないけど、おー』

 つかさが何かのキャラクターのスタンプを送ってくる。
 同時に「ありがとなのー」と音声が流れてひえっと心臓が跳ねる。

 何がありがとうなのか。私と同じで適当かな?
 と思っているうちに、栞奈が「どういたしまして」とデフォルメされたパンダが舌を出しているスタンプを送ってきた。

『栞奈のそのスタンプかわいいな』

『そうでしょ。いる?』

『え、ほしー』

『ポイントあるからあげるよ』

『わーいやったー栞奈だいすきー』

 すぐにグループ内にパンダのスタンプが何個も連打されてくる。

382 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:23:36.19 ID:l6qqBTUa0

 桃はまだ見ていないっぽいけれど、もしかして勉強中だろうか。
 いや、もしかしなくてもテスト前日であれば勉強していて当たり前な気がする。

 それにしても、本気で走るのか。冗談だと思ってた。滝から温泉まで、何キロって言っていたかな。

 そこそこの距離を走るとなると、桃のことが少し心配になる。
 運動は得意なのだと勝手に私は思っているけど、桃は結構体力がない。

 九月のマラソン大会でも、ひと目見てわかるくらいへろへろだった。
 折り返し付近でリタイアしようと私から言い出そうと思ったほどで、走り終えた後もしばらくぼけーっとしていた。

 ちなみに栞奈はぶっちぎりで校内一位。すごい。体力おばけっていうのはこのこと。
 途中まで一緒に走っていたつかさもそこそこ高い順位だったらしい。帰宅部なのを考えると、つかさもすごい。

 なんとなく今回も二人はいつもの如く競争し始めそう。
 私は競争する気概なんてないし、それとなく伝えて桃と走って(歩いて)いこうと思う。まだ二人が競争するかは分からないけど。

 友達とどこかに出かけるとなれば、こういう風にいろいろ先回りして考えてしまいがちなのは、これまでに出かけた回数が少ないからだろうか。

383 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:24:07.88 ID:l6qqBTUa0

「桃さんはどうなんですか?」

 レジ締めを終えて戻ってきていた瑠奏さんが、ふと思いついたように訊ねてくる。
 ちょっと考えて、さっきの話からいって進学するかどうかだと察する。

「大学進学って言ってましたよ」

「そうなんですね。この前から気になっていたんですけど、桃さんとは親友なんですよね?」

「親友と友達って、何が違うんですか?」

「ええと……さあ? 自分で言っておいて何ですが、親友がいたことないのでわからないです。霞さん次第じゃないですか?」

「そうですか。まぁ、そうですよね」

 そもそも、親友っていうか今は……。
 いや、そんなに簡単に分けられるものではないか。

「おばあさまにも教えてあげたいですね」

 優しげに小さく笑みを溢した瑠奏さんは、シュシュを外して眼鏡をかけ、パソコンの画面へと目を向ける。
 いつものことだけど、まだ仕事が残っているらしい。

「そうですね」

 と少し遅れて頷きを返しながら、この繋がりは出来ることならいつまでも切れてほしくないと、心の一番外側で思った。

384 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/12/11(土) 19:24:44.67 ID:l6qqBTUa0
今回の投下は以上です。
間隔が空いてしまい申し訳ないです。
385 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/12(日) 17:27:36.15 ID:LGSWAupt0
おつです
386 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:36:32.18 ID:7JNODmEA0




 一日目の試験をまあまあな感触で終え、独特な脱力感を覚えながら教室を出る。
 ちょっとだるい感じの私と違い、いつものように涼しい顔をしている栞奈と二人で向かったのは体育館。

 学校指定の体育館シューズの靴紐を結んでいる私をちらっと見ながら、

「じゃあ、さっさと終わらせちゃうから」

 と栞奈はカゴに入ったボールを両手で掴む。

 半円の外側に立った栞奈の手を離れたボールは、綺麗な弧を描き、リングに吸い込まれていく。
 連続で何本か放ると、その度にネットがシュッと高い音を立てる。

 入った本数を指で数えてみる。十回シュートを決める度に次の場所に移動しているみたいだ。
 一つの場所はだいたい十三、四本で終えていて、十本で終わるところもあった。

 なんというか、素人だから分からないけど芸術的だ。
 一切乱れない規則的なフォームで、まるで機械のようにシュートを決めている。
 ぱちぱち拍手したくなる感じ。ていうか今している。

387 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:37:21.44 ID:7JNODmEA0

「すごいね」

 コートの外からそう呟くと、私たち以外に誰もいなかったせいか、声が体育館内に大きく響く。
 すると栞奈がリングの下から私めがけてボールを投げてくる。ノーバウンドでキャッチできずにわたわたしているうちに、すぐ近くに栞奈はやってきていた。

「ありがとう。でも外しすぎたから恥ずかしい」

「え、アレで?」

「うん」

 手でぱたぱたと顔を扇いで、栞奈は苦笑する。
 毎日のように放課後練習を頑張っているのは知っていたけど、実際にバスケをしている栞奈は初めて見る。

 このところ多い体育の自由時間でも、人数の関係でバスケはしていなかった。

「いつもどれくらいやってるの?」

「はっきりとは決めてないけど、シューティングは朝と練習後に五百本くらいかな。今日は朝に四百やったから、もうすぐ終わり」

「へぇー、すっごい」

388 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:38:37.88 ID:7JNODmEA0

「ま、日課なのよ。勉強もそうだけど、こういう再現性を高める作業は嫌いじゃないから」

「栞奈ってやりこみタイプだよね」

「そうだよ。知らなかった?」

「うーん、そんな感じっては思ってた」

 トランプとかオセロとか、前にみんなでやったゲームなんかも、めっちゃ手練れだったし。
 もっと正しく言うと、やりこみタイプというよりは、勝負事では積極的に勝ちにくるタイプかな?

 さっきもそうだったが、何かに取り組んでいる時の栞奈の表情は真剣そのものだ。
 言うなれば目がマジってやつ。私は逆立ちしてもそうはなれなさそうだから、すごいなと常々思っていた。

「まぁそこが、私の良いところであり悪いところ……とは分かってるのよ」

「うん……そうなの?」

「周りを引っ張っていけるタイプじゃないからね」

 困ったような顔をして私からボールを受け取った栞奈は、もう一度リングの方へと走って向かっていき、シュート練習を再開する。

 やっぱり運動部は大変だ。それが団体競技なら尚更。栞奈みたいにキャプテンならより一層。
 水飛沫のようにネットを揺らし続ける栞奈を見ながら、そんなことを考えた。

389 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:41:27.73 ID:7JNODmEA0




「なんかノってきたから、もう少しやっていこうかな」

 黒色の長袖Tシャツを捲って、栞奈はコートの外にいる私にそう告げてくる。
 何本も連続でシュートを決めていて、すごい全然止まらないなーと思っていたところだった。

「長くなりそうだから、霞は戻って勉強しててもいいよ」

「んー、でも今日ちょっと疲れたから」

「そしたら遊んでればいいじゃない」

「邪魔になるかなって」

「なるほどね」

 教室では、桃とつかさが明日の数学のテストに向けて勉強しているはずで、邪魔にはなりたくない。

「霞は数学得意だから、心配しなくていいか」

「まぁ赤点はないと思うし」

「とか言いつつ、ちゃんと家では高得点取るために勉強しているって私にはバレてるぞ」

390 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:42:22.87 ID:7JNODmEA0

「えー、バレてたかー」

「不真面目そうに見えて中身めっちゃ真面目だよねっていうのが、霞に対しての公式見解」

「なんの公式だそれは」

「秘密の公式」

 とかなんとか、胡乱な会話をしている時に、ガラッと体育館の扉が開く音がした。栞奈が鳴らしているのと同じ運動靴の音が廊下から耳に届く。

「やっぱりキャプテンでしたかー」と栞奈を見つけるなり駆け寄っていくのは、いつぞや廊下で見たことがある一年生。

「誰かと思えば、渡辺じゃない。何しに来たの?」

「えー、シューティングですよー。キャプテンいるかなーって思って、ほらほらちゃんと着替えてきましたし」

「ふうん、そう」

「もー。あたしが来て嬉しいですか? 嬉しいですよね? やったーあたしも嬉しいです! 来てよかったー」

「私まだ何も言ってないよ」

「またまたー、キャプテン素直じゃないんだからー」

「はいはい」

「あ、パス出ししますよ? ていうかしちゃいますよ」

「いやしなくていいから」

391 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:43:30.51 ID:7JNODmEA0

「なんでですかー、しますよー」

 渡辺、と呼ばれた子はぐいぐいと栞奈に迫っていく。
 見た目の印象通り明るい子だ。語尾の全てにハートマークが付いていそうな話し声は、聞いているだけで胸焼けしそうなようなくらい甘い響きをしている。

「あのね、渡辺」

 と栞奈が露骨に面倒そうな口調で言って、こちらを指差す。

 私の姿を確認したその子は、遠目で見て分かるくらいに「わひゃっ」と肩を跳ねさせる。お化けを見た時のような反応はやめてほしい。
 そして栞奈に連れられてこっちにやってくる。なぜかしょんぼりとしていた。

「これはすぐ調子に乗る問題児の後輩」

 栞奈はその子の背中を押して、頭を下げさせる。

「どうもー、こんにちはー……」

「こんにちは」と微妙な気持ちで挨拶を返す。私には普通の喋り方なんだ。

「いきなりうるさくして申し訳ないです」

「あ、いや体育館だし」

「ほんと、ほんと申し訳ないですー」

「はあ」

392 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:44:13.22 ID:7JNODmEA0

「その、キャプテンのお友達さんですか?」

「あーえっと、そう」

 私の返答に、何かを感じ取ったのかもしれない。
 渡辺さんは途端にさっきの勢いを取り戻し、上目遣いで見つめてくる。

「もしかして、キャプテンの彼女さん?」

 私との距離をじりじりと詰めようとする渡辺さんの後頭部を、栞奈が「こら」と素早くチョップする。
「あいたー」とオーバーに頭をおさえる渡辺さんは、痛がっているのになぜか嬉しそうにしている。

「なに訊いてるの。彼氏いるって渡辺に何度も言ってるじゃない」

「でもそれは非実在カモフラ系彼氏なんじゃないかって、本当は校内に彼女がいるんじゃないかって、あたしたち一年の間では噂なんですよ?」

「いないし、どうしてそんなことする必要があるのよ」

「だって、キャプテンに訊いても彼氏さんとのこと惚気ないしー。部活ばかりでデートとかもしてないみたいだし、インスタだってお友達との写真ばかりじゃないですかー」

「ちゃんといるから、変な噂を流すのはやめて」

「あたしが言ってるワケじゃないですよー」

「渡辺しかいないでしょ。それにこの先輩にだって相手がいるのよ。冗談でもそういう質問はやめなさい」

393 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:44:47.86 ID:7JNODmEA0

「えっ……それはそれは、大変失礼しました」
 
 急にかなり萎れた様子で、また頭を下げられる。
 会ってすぐだけど、感情の上下がジェットコースターな子だというのははっきりと分かった。

「いいよ、全然」

 そう言うと、私の目をじっと見た渡辺さんは、背丈と同じく小さめな唇を弓なりに曲げた。

「ありがとうございます、冬見先輩。やはりお優しい」

「……私、名前言ったっけ?」

「ふふふ、あたしたるもの、この学校の見目麗しい人のことは大体把握しているのですよ」

 ドヤァと効果音が聞こえそうなくらい得意げに胸を張る渡辺さんに、「うわぁ……」と栞奈が頬を引きつらせる。
 本気ではないにしろ、だいぶ引いているっぽい顔だ。

「わ、キャプテン。ジョークですからね。ほんとはキャプテンと仲の良い方たちを把握しているだけですからね」

「そっちの方がきもいけど……ていうか、それならさっきの霞への質問は何だったのよ」

394 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:45:21.23 ID:7JNODmEA0

 そうだ、たしかに何だったのだろう。
 二人で目を向けると、渡辺さんは一瞬表情を途切れさせて、

「えへ」

 と甘えるように舌を出した。

「渡辺?」

「あ、あっほんとごめんなさい!」

 叫びながら、脱兎の如く逃げる渡辺さん。
 栞奈が付き合わずに追いかけないでいると、ちょっとしたら戻ってきた。

「こんな感じでも、一年生の中だったら一番上手なの」

「はーっ、キャプテンに褒められると照れますねー」

「こんなところで練習してる暇あれば勉強しなさいってくらい、毎回追試にかかってるんだけどね」

「うぐっ、それを言われると弱いです……」

「でもそれが渡辺の判断なら、私は何も言わないよ」

「そっ、そうですよねー。あたしは一日でも早く愛するキャプテンと一緒に試合出たいですし、練習しないと」

 一瞬たじろいだ渡辺さんは、すぐに取り直したようにへらっとした口調で言葉を紡ぎ、栞奈を二の腕を取ろうとする。

395 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:45:52.87 ID:7JNODmEA0

 それを一歩後退して躱した栞奈は、ちょっと悔しそうにする渡辺さんにふっと笑いかけながら、体育館の照明によっててかてかと光っているボールを渡した。

「まぁあんまり気負う必要はないよ。渡辺とはどうせそのうち一緒に出ることになるから」

「えー? そうなんですかー?」

「うん、多分ね」

「そいじゃ、出たらいっぱいアシストしちゃいますよー。ほかの先輩より、あたしのパスの方がいいに決まってますし」

「はぁ、またそうやってすぐ調子に乗る……」

 テンポのいい掛け合いの後、栞奈は自分の練習を終わりにして、渡辺さんのシュート練習に付き合い始めた。

 議論の余地なしに、栞奈はめっちゃいい先輩だ。
 さっきまでの調子の良い顔ではなく真剣な面持ちになる渡辺さんも、多分めっちゃいい後輩なのだろう。

 これぞ運動部の青春、という感じがする。
 比喩じゃなくまとう空気がきらきらしている。これが俗に言う青春の輝きなのだろうか。

 そんな二人に飲み物でも買ってこようかなと思い、体育館からすぐの場所にある自動販売機に行ったところで、

「霞ちゃん」

 と、横から声がかかった。

396 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:46:27.45 ID:7JNODmEA0

 顔を向けると、淡いピンク色の長財布を手に持ったクラメスメイトの子がこちらを覗き込んできている。

 きっちりと左右対象に結ばれたリボンに、膝丈より少し長めのスカート。
 あるのか分からない校則を一つも破っていなさそうな見た目からは、彼女の真面目さがうかがえる。

 彼女は最近友達になってほしいと言ってきた子で、最近よく視線を感じる子。
 視線を感じるのはこの子だけじゃなくて、この子の友達らしい人からもだけど、今はその話はいい。

「瑞樹ちゃん」

 そう呼んでほしいって、月曜日に言われた。

「自習室で勉強してたの。で、喉渇いて。冬見さんは何してたの?」

「私は体育館でバスケ」

 をする栞奈を見ていた。
 と言おうとしたが、瑞樹ちゃんが途中で「へー」と頷いたので、最後まで言わずに言葉を止めた。

「桃ちゃんと一緒に?」

「ううん、栞奈と一緒に」

「あぁ、栞奈ちゃん。たしかバスケ部だもんね」

「そうそう」

397 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:47:30.07 ID:7JNODmEA0

「霞ちゃんは何買うの?」

 話が途切れると、間を置かずして質問をしてくれる。
 途切れさせるのはほぼ百で私だから、毎回負担を強いてしまっている。

「決めてなかったけど、お茶にしようかな」

「なら霞ちゃんに会えたことに運命感じたから、一緒のお茶にしよ」

「運命ね」

「ふふっ。そう、運命」

「そっか、うん。どうぞ」

 また会話が終わる。何も分からない会話だ。自動販売機の駆動音と、ピッというボタンの音。
 お茶に口を付け、はぁと白い息を吐いた瑞樹ちゃんは、「そういえば」と体を反転させて自動販売機に背中を預け私に正対した。

「霞ちゃんって一人っ子?」

「うん」

「へー、やっぱり」

「……というと?」

「んー、なんかそれっぽい?」

398 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:48:22.34 ID:7JNODmEA0

「そっか。瑞樹ちゃんは?」

「お兄ちゃんが二人いて、末っ子だよ」

「へえ、お兄さん。大学生?」

「二人とも大学生」

「上の兄弟がいるって、なんかいいね」

「うんうん」

「優しくしてくれそう」

 自傷ダメージにならないように気を付けながらだと、それ以上の話の広げ方が思い浮かばなかった。

 また次の話題を振ってくれるから、話自体は続いた。同じことを問い返すことはあっても、基本的には私の話。
 それで瑞樹ちゃんは楽しいのかなぁとは思ったけれど、価値観は人それぞれで、彼女からしてみたら楽しい楽しくないの物差しではないのかもしれない。

 けど、もしかしたら次はないかも、と思う。

 今まで私に興味を持ってくれた友達(になりかけた人)もこういう感じで、
 あまり仲良くなれたとは言えずフェードアウトしていったことを考えると、既視感を覚えずにはいられない。

「次からはなんとかしよ」

 そう呟いてみたはいいが、具体的に何をとまでは考えないあたり、また同じようになるのは目に見えている。

399 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:50:24.75 ID:7JNODmEA0

 まあ、でも、そうなったらそうなったで……。

「……いいと思ってるんだろうな、きっと」

 口にするつもりのない言葉が、意図せずこぼれる。
 追って、溜息が出た。頭の中で思うのと言葉にしてしまうのとでは、意味がまるで違ってくるように思えたから。

「独り言きーちゃったー」

 そこに校舎の影からつかさがひょこっと出てくる。

 なにかやってるなと思ったら、頭を左右に振り低い位置で結ったポニーテールを揺らしながら、顔の前で手を丸めて双眼鏡を作っている。
 聞いた、というよりは見たことを表すポーズ。

「見てたなら、話しかけてくれればよかったのに」

「垣間見は楽しい」

「なにそれ古典?」

「うむ。それにわたしは知り合いではない」

「それはそうだが」

「まーわたしも苦手だから、気持ちはわかるわかる」

 つかさは跳ねるような足取りで私の隣に並び、肩をぽんと軽く叩いてきた。

400 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:51:13.12 ID:7JNODmEA0

「苦手ではないよ。話してて、いい子だと思うし」

「ん? んー、いや、苦手ってのは、人付き合いの方」

「……あー、それは苦手」

「だよね。どうにも苦手なんだよなー。学校の人付き合いとかは特に」

 手を離して、つかさは制服の外ポケットから小銭を取り出し、おしるこを買った。
 ホットドリンクの温度は五十五度付近、という雑学を披露してきた後に、その場にしゃがみ込む。

「ふゆゆにさ、わたしの中学の時の話ってしたっけ?」

「聞いたことないと思う」

「そ。聞きたい?」

「つかさが言いたいことなら」

 普段はあまり合わない目線を合わせると、二重瞼の大きな目よりも、長い睫毛に目がいく。
 あまり見ていても話しづらいかなって視線を下ろしたら、つかさのイメージに似合うハイカットのスニーカーが存在を主張してくる。
 つかさは何でもないような素振りで言った。

「わたしさ、中学三年の夏休み前から卒業まで学校に行かなかったんだ」

401 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:51:41.03 ID:7JNODmEA0

「それって、いわゆる」

「不登校だな。理由はまぁいろいろだけど、でかかったのは人間関係とか人付き合いをミスったことでさ。だから、今でもちょっと苦手なんだよ」

 私の返事を待つように、つかさは閉口して視線を手元の缶に向ける。

「そうなんだ」

 頭の中で五秒数えてから言うと、

「いや、反応薄いな……」

 と、つかさは困ったように頬を掻いた。

「わたしの百八個はある秘密のうちのひとつを教えてあげたのに」

 煩悩の数、あるいは除夜の鐘の数。とツッコミを入れる場面かと思ったけど、なんとなくスルーする。

「私の秘密も言った方がいいかな」

「ってなるのを、へんぽーせーというって栞奈が教えてくれた」

「なにそれ。秘密を明かすと、相手も明かしてくれるってこと?」

「相手のことを知れば知るほど仲良くなれるらしいよ」

402 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:52:45.70 ID:7JNODmEA0

「じゃあ今仲良くなれたんだ」

「なにをー。わたしとふゆゆは元から仲良いだろー」

「そうだね」

 うん、とつかさはニコニコ笑う。
 二年になったばかりの頃には、こうして普通に話せるほどに仲良くなれるとは思っていなかった。

「さっき言ってたけど、ふゆゆって一人っ子だったんだ」

「がっつり聞いてたんじゃん」

「耳がいいからなー。ちなみにわたしも一人っ子」

「ん、知ってる。前に桃に聞いた」

「へー……あ、んで栞奈はお兄さんがいるな。イケメンの、医学部の」

「それは知らなかった」

「栞奈は家族のことを話す時はちょっと不機嫌になる」

「そうなの?」

「なんか地雷っぽいから、気を付けた方がいいよ」

「そういう話はしないから大丈夫」

「ま、そうだよねー」

 けらけらと笑うつかさに釣られて、私の口元も緩む。

403 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:53:58.00 ID:7JNODmEA0

 覚えている限り、栞奈の不機嫌な様子なんて、私は見たことがない。
 機嫌の管理が上手い印象を勝手に抱いていたけど、つかさと二人の時はそうでもないのだろうか。

 つかさの言った通り、相手のことを知れば知るほど仲良くなれるのだろう。
 瑞樹ちゃんが立て続けに質問してきてくれるのはその一環で、私のことを知ってくれようとしている。

 価値観もそうだけど、友達の距離感も人それぞれ。やはり私は傍から見てガードが固いんだろうか。

 ひとつ言えるのは、私には相手のことを知りたいという欲求が不足しているのかもしれないということ。
 ……かもしれないっていうか、そうだ。知らなくてもなんとかなることなら、積極的に知りたいとは思わない。

「教えてくれた秘密のお返しはどうしたらいい?」

「やー、いいって。わたしが勝手に話しただけだから」

「でもそれじゃフェアじゃない気がする」

「たしかにそうかもだが……」

「じゃあ貸しいちで」

404 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:54:35.85 ID:7JNODmEA0

「あー、わたしそういうの普通に忘れるタイプ」

 首を振りながら言ったあと、不意に何かを思い付いたように、つかさはおしるこの缶の底を、ぽーんと手のひらに押しつけた。

「そんじゃ明日までにふゆゆに訊くこと考えとくぜい」

「私から言わなくてもいいんだ」

「あっそれもそっか」

「……いや、それでいいよ。明日までね」

「ちなみに何についてでもいいの?」

「うん。まぁなんでも」

 お手柔らかに、と付け足そうとして、別にいいかと口を閉じる。
 つかさの中での秘密の程度は分からないが、比肩するようなものを持ち合わせてはいないような気がしたから。

 明日は数2と日本史のテスト。終わったら滝と温泉。
 加えて、つかさからの質問に答える。そのほかにも細々とだけどやるべきことがある。

「明日は楽しみだね」

 缶の内部に残った小豆をどうにか飲もうと悪戦苦闘しているつかさに、そう努めて明るく声を掛けた。

405 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/01/12(水) 00:55:11.86 ID:7JNODmEA0
今回の投下は以上です。
406 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2022/01/15(土) 09:06:34.01 ID:h8r6W+Ar0
おつです
407 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2022/01/18(火) 00:17:01.66 ID:PR5xRyYm0
おつ
408 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:40:05.74 ID:1PHlNXOB0




 はいそこまで、という先生の言葉で、二日目のテストを終える。
 感触は一日目と同じくまぁまぁ。数学は先生が言った通り少し複雑な問題が多く、日本史は記述式は少なく記号を選ぶ問題が多かった。

 回答用紙の回収から戻ってきたつかさは、「答え合わせしよーぜっ!」とテンション高く栞奈に声をかける。

 その様子を見るに、どうやら今日のテストは何とかなったみたいだ。
 昨日は下校時刻まで教室で勉強をして、その後は栞奈と二人でカフェに行って遅くまで確認をしていたらしい。

「いいけど、まだ半分だから調子に乗らないように」

「わかってるって」

「あ、ここ違ってるよ」

「え、マジ?」

「ここも」

「うわ」

 ……大丈夫なのかな。序盤の方のはずだけど。

「わたしたちも答え合わせする?」

 桃がつかさたちを眺めつつ、日本史の問題を手に椅子を寄せてくる。
 日本史は特に自信があったみたいで、明るめな表情でそれを何となく察する。実際、私が迷って外した問題も正答していた。

409 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:40:51.60 ID:1PHlNXOB0

 そういうわけで、誰一人としてテストの手応えに落ち込むことなく、遊びに向かうこととなった。

 行き先へはてっきりバスなどで向かうのかと思っていたけれど、つかさのお母さんが車を出してくれることになっていたようだった。

 そして桃と栞奈はつかさのお母さんと面識があったようで、待ち合わせ場所で会うなり気さくに挨拶を交わしていた。
 私も車に乗り込む際に挨拶をすると「あなたが写真でよく見るふゆゆちゃんね」となぜか握手を求められる。
 応じようとしたら、つかさが「いーからいーから」と助手席から腕を伸ばしてそれを遮った。

「これからも娘と仲良くしてあげてください」

 そう続けたつかさのお母さんに対して、つかさはちょっと苛立ったように肩を叩くことで対抗していた。

 車内では最近じわじわと人気が出てきているらしい(つかさ談)アイドルの曲が延々とかかっていた。

 つかさもつかさのお母さんも、意外なことに栞奈もそのアイドルが好きらしく、お気に入りの曲やメンバーについてのトークを聞き流しているうちに、目的地に到着する。

 生活圏以外の地理には疎くて知らなかったが、桃とのデートの際に通った道から、一本分岐したところに滝があるらしい。
 そうすると、走って向かう温泉も、帰りのバスで団体客が降りていった温泉地のことのようだ。
 車窓からの田畑や低山が並ぶような風景には見覚えがあって、隣に座る桃に視線を飛ばすと、意図が伝わったようですぐに頷きが返ってきた。

 橋の上にある駐車場に降り立つ。外気はかなり冷え込んでいて、もう十二月ということもあり、見頃だとかなり綺麗だという紅葉はほぼ見られなくなっている。

410 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:41:42.90 ID:1PHlNXOB0

 つかさのお母さんの車が走り去るのを見送り、南の方角からする激しい水音に耳を傾けていると、

「ふゆゆ、ももちゃん、栞奈。こっちこっちー!」

 と、つかさが数メートル前方から手を振ってくる。相変わらず動き出しが速い。

「つー、そんなに急がなくても滝は逃げないって」

「知ってる。しかしわたしが速いのではなく君たちが遅いのだ」

「ちゃんとした返事になってない。減点二十点」

「いやなんのテストだよ!」

 つかさと栞奈は、二人でハーフマラソンの大会に出た時に買ったというお揃いのジャージを着ていた。
 ベースカラーは同じで、差し色やフードの紐が、つかさは鮮やかなブルー、栞奈は暗めのグレーと色違いになっている。
 その配色はそれぞれのイメージ通りなように思えるし、逆なようにも思えた。

「この先はかなり段差あるみたい」

「わ、ほんとだ。しかも濡れてるね」

「転ばないように気を付けて」

 なんて喋りながらとぼとぼ歩く桃と私を先導するように、二人が滝壺へと続く遊歩道を進んでいく。

411 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:42:17.76 ID:1PHlNXOB0

 その遊歩道の入口には、滝の詳細な説明や、落石注意、熊出没注意の看板が立っている。

 地面を埋め尽くすような落ち葉や、岩に生えた苔は見て分かるほどに湿っている。
 立ち並ぶブナの樹皮が異様に白く見える。侘び寂び。幽玄。そんな言葉が浮かぶ。

 進んだ先にある石段は幅が狭く、一人通るのがやっと。
 シーズンが終わりかけで人がいなくて良かった。

 滝が見え始める。高低差が凄くて白くて勢いがあって迫力がある。以外あんまり言葉で言い表せない。
 来た道を振り返ればかなり急な登り坂。斜めに生えた木々の隙間から見える空は初冬に映える淡い青色。

「夏だったら飛び込みたいくらい綺麗ね」

 滝壺に着くなり、栞奈は水面を見ながらそう言った。
 たしかに、さまざまな形をした小石がはっきりと見えるほどに澄んでいる。

 全体を俯瞰するように広く周りを見ると、岩肌に飛沫によって出来たミストが煙のように降り掛かっていて、小さな虹を形作っている。
 晴れていることや清流の反射も影響してか、辺りはきらきらと神秘的な輝きに包まれていた。

 滝の上には、一本だけ黄葉している木があった。

412 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:43:04.72 ID:1PHlNXOB0

 雪が積もったらここはどうなるのだろう。来る途中の道路に赤と白のポールが立っていたから、ここはたくさん雪が降るのだと思う。
 これだけ大きい滝は凍らないだろうけど、近くの岩には氷柱がぶら下がってそうで、今よりも荘厳な雰囲気になっているのかもしれない。

 示したわけではなかったが、四人同じタイミングでやや濡れた岩場に腰を下ろした。
 私のすぐ隣で、流れる水に触れた桃の指先がびくっと跳ねる。

「冷たい?」

「かなり……手が凍りそう」

 水飛沫ですら冷たいのだから、直に触れたらめっちゃ冷たいということは容易に想像出来る。

 桃が私の手の甲を濡れた指でなぞる。

「……なに?」

「えっと、なんとなく」

 なんとなくらしい。しばらく手の甲で遊ばせてあげた。

 水を飛ばしあっているつかさと栞奈の様子を見て、私も桃にしてみようと思って、でもやらずにおいた。
 飛ばすには水に触れなきゃいけなくて、バイトで冷たい水には慣れているとはいえ、指が寒くなるのは嫌だった。

413 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:43:46.00 ID:1PHlNXOB0

 最近は水仕事をしているうちに指の間が切れていたりする。今もそのかさぶたがひとつやふたつ。それに染みたら痛いに違いない。

「スキありっ」

 急に足元に水をかけられる。なぜか栞奈に。
 履いているのは運動靴で、メッシュ生地をつたって靴下や皮膚へと一気に水が染み込んでくる。

 声を出すより先に、とりあえず私はやり返した。

「おっと、やるねぇ霞」

「ぎゃー! ガチで濡れたし!」

 割と勢いが出てしまって、栞奈の向こうのつかさまで、いや、栞奈は後ろにジャンプしてほぼ避けたからつかさだけかなり濡れた。

「ふゆゆ許すまじぃー!」

 ラケットを振るようにビシャっと打った飛沫が、私のジャージの腰から下を直撃する。
 撥水加工された生地でよかったが、まぁ多少は濡れた。普通に寒い。

「あはは、ウケるウケる」

 そんな私を見た栞奈が珍しく手を叩いて爆笑する。
 今もまたあっさり避けていたけど、部活で敵を避ける時の経験が活かされているのかな? 反射神経を分けてほしい。

414 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:44:21.45 ID:1PHlNXOB0

 つかさはその栞奈を狙ってもう一度水を切り、桃はなぜか私に物欲しそうな目を向けてくる。

 状況から考えて、どうやら水をかけてってことらしい。みんな濡れているし仲間はずれは嫌ってことかな。

 両手で掬った水を隣の腕に溢すと、桃は「ありがとう」と小さな声で言って満足気に口元を綻ばせる。嬉しいならいいけど。

「おーい栞奈、ジャン勝ちで靴下脱いで水に入ろうぜ!」

 それはさすがに季節を間違えている気しかしない。
 どう考えても真夏にする遊び方だろうに。

「えぇ、それはバカとしか」

「なに? ビビってんの?」

「そんな安い挑発には乗りません」

「ふうん?」

「あ、霞と桃ももちろん参加で」

 いや乗ってるじゃんか……なぜか私たちも入れてるし。
 この凍えるような冷たさの水に足を浸けることを想像して、ぶるっと肩が震えた。

415 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:44:55.47 ID:1PHlNXOB0




 三十分から一時間ほどの間、滝壺でわいわい遊んだ。
 結局みんな水の中に入ることになったのは言うまでもなく、五年分くらいのマイナスイオンを経皮吸収した。

 それから来た道を戻り、更に進み、神社や屋台のある場所で休憩を取る。

 境内をぐるりと周る傍ら、つかさと栞奈はリュックから御朱印帳を取り出して、季節限定だという銀杏の刺繍入りの御朱印をもらっていた。

 来年のお正月は神社で短期のバイトをする、とつかさが団子を頬張りながら少し自慢するように言っていた。
 口ぶりから察するに、巫女服に憧れがあるようだった。

 私たちが滝壺にいる間は誰一人として降りてくる人はいなかったのだが、神社の横の滝見台には疎らに人がいた。
 やはりあの急な坂を登り降りするのはキツいってことだろうか。年齢層を見るに、恐らくそうなのだと思う。

 そして温泉まで走っていくという段になると、これもまた言うまでもなく二手に分かれることになった。
 今回は風呂上がりのアイスをかけての戦いらしい。かなり速めなペースで走る二人の後ろ姿は、あっという間に見えなくなる。

 隣を歩く桃は、少し足取りが重い様子だった。
 それもそのはずで、滝壺から神社までの距離はそこそこあって、体力自慢の二人のペースについていけば疲れもするだろう。

416 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:45:31.83 ID:1PHlNXOB0

 歩みを止めた桃が靴紐を緩く結び直している間に、何か言うことがあったなとそれを思い出そうとする。
 足を動かすのを再開して、少し経って思い出す。

「そういえばね」

 と私より先に、桃がこちらを覗き込んでくる。

「ひなみがまた会いたいって言ってたの」

「ひなみちゃんが?」

「ふゆのこと気に入ったみたいで、また家に連れてきてーって」

「気に入られることなんてしたかな」

「あと、お母さんも会いたいって」

 ひなみちゃんと、桃のお母さん。
 家へのお誘い。

「へぇ、それって……」

「え?」

「あ、ううん何でもない。この土日?」

「ふゆに予定がないなら、うん。忘れないうちに」

「日曜の午後なら空いてる」

「ほんと? じゃあ日曜日にしよっか」

「次の日テストだし、勉強道具持っていっていい?」

417 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:46:04.06 ID:1PHlNXOB0

「わたしも勉強するつもりだったから……その、時間が余ったらベクトル教えてほしいな」

「いいけど、まさかそっちが真の目的?」

 私の冗談に、桃はふふっと笑うだけで答えなかった。
 まぁ勉強ではないにしろ、決まった目的なんてないのだろう。

 歩いていくうちに地域の学校やスーパーなどが見えてきたが、昼下がりの微妙な時間帯だからか人の気配はあまりなかった。
 シャッターの降りた喫茶店の外にある室外機の上に、猫の親子が寝転んでいる。反対の車線では、何か分からない鳥が囀っている。

「私もね、そういえばなんだけど」

 今の流れだとさっき言おうとしていたことにちょうど繋げられると思い、そう切り出す。

「前に、桃も花を……クリスマスローズを育ててみたらって話になったじゃん。覚えてる?」

 桃はすぐにはっきりと頷く。
 忘れられていなくて、ちょっと安堵する。

「それで、どうしようねって考えていたんだけど、うちに鉢植えのクリスマスローズがあるから、日曜日に桃のお家に持っていくのはどうかなって」

「でも、持ってくるのって大丈夫なの? その、鉢植えの重さとか……」

「大丈夫。地下鉄で行くし、そんなに重くないから」

「そっか。それなら、うん。よろしくお願いします」

418 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:47:06.17 ID:1PHlNXOB0

 妙にかしこまっているなとは思ったけど、私が提案したからではなく、本心で言ってくれているようだった。
 私の趣味に興味を持ってくれたことや、屋上で話を聞いてくれたことを含めて、それが素直に嬉しかった。

「あと六キロだって。走ろっか」

 温泉郷まであと六キロメートル、と書かれた看板を桃は指差す。割と距離を歩いていた。

「いいけど、疲れてない?」

「ううん。むしろ元気になった」

 桃は私に見せるように腕まくりをして、力こぶを作る。
 腕全体がかなり細いのに、その部分には意外と筋肉があった。
 それから前に数歩進んで、振り返った桃が言う。

「痩せたら体力まで落ちちゃったの」

「てことは、昔は体力あったんだ」

「うん。それでも今よりは、ってくらいだけどね」

 朝に走っている時よりは遅くて、ジョギングよりは速いくらいのまあまあな速さで走り始める。

 十五分ほどで息が切れてきていた桃に話しかけるのは少し躊躇われて、
 マジシャンズセレクトや、私のものより柔らかそうな桃の太ももについてなど、ぼんやりと頭に浮かんだことについて考えながら走った。

419 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:48:01.65 ID:1PHlNXOB0

 武家屋敷を思わせるような厳かな見た目の旅館に着いてからスマホを確認すると、グループトークに「先に温泉入ってるよ」と栞奈からメッセージが来ていた。
 受信した時刻は五十分前で、分かっていたが今回も本気で走ったらしい。

 白い提灯が吊り下げられた、掃除が行き届いていると感じられる入口から中へ入り、フロントで日帰り入浴の手続きをする。
 地下の大浴場がオススメですよ、と受付の人が教えてくれたので、そっちに向かう。

 途中には金屏風や、錦鯉が泳いでいる池があり、日帰りとはいえ値段より豪華じゃないかと半ば感動する。

 赤い暖簾をくぐった先の脱衣場は広く、鍵付きのロッカーは空いているものが多い。
 二人からの返信は来ていないから、いくつかの温泉のうちのどれかに入っているのだろう。

 汗で湿った服を脱ぎながら、誰かと一緒にお風呂に入るのっていつ振りだろうと考えたが、そもそも温泉自体が中学校の修学旅行以来だった。
 でもその時も、誰かと一緒に入った気はしなかったと思う。転校したばかりで友達がいなかったからだろう。

 すぐ隣にいるはずの桃の動きは鈍く、音一つしない。
 バレないように様子を窺うと、まだ着たままのTシャツの裾に指が中途半端に掛かっている。

420 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:48:45.51 ID:1PHlNXOB0

 無意識に出かかった言葉を喉奥に押しとどめて、

「先に行ってるから」

 とだけ告げて、タオル一枚だけ持って大浴場への引き戸を開ける。

 するとすぐに、廊下を通ってくる時にも感じた檜の匂いが鼻をくすぐってきた。
 全体的に薄暗いが、格子上の檜が窓の役割を果たしていて、そこから陽の光が差し込んできている。その奥では川が流れているのが見える。

 頭と身体を洗っているうちに、桃がやってくる。
 シャワーを片手に手を振ると、控えめに手を振り返してきてくれた。

 桃は髪が長いから洗うのは大変そうだ。あそこまで綺麗だと、手入れなどにかなり時間をかけているのだろうと容易に想像できる。

 洗い終えて、吹き付ける風に肌寒さを感じながら湯船へと足先を付け、温度の具合を確かめてから浸かる。
 家だとシャワーで済ませることが多いから、こうして熱いお湯に足を伸ばして浸かるのは本当に久しぶりだった。

 一つ左の湯船に何か浮いている、と思って目を凝らすと、様々な色のバラだった。"薔薇風呂"と案内板のようなものに文字が彫られているのが目に入る。
 それに書かれた文を読むにそちらの方がお湯の温度が少し低めなようで、一度上がって移動する。

「となり、入るね」

 後ろから桃の声がしたので、見ないまま頷いて、一人分くらいの間隔を空けて湯船へと足を進める。

421 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:51:23.77 ID:1PHlNXOB0

 入ってみると、こっちの湯加減の方が丁度良かった。
 でも長湯は体質的なものなのか無理なので、肩まで浸かっているとだんだんと身体に熱がまわって視界がぼやけてくる。
 おそらく摘み立ての花弁からする甘い香りは、檜と喧嘩していなく、良い感じに調和している。

 小さい頃はよくのぼせていたなぁと思いつつ、段になっている部分に腰を掛けると、桃もそうしていたみたいで顔の高さが同じになる。
 お湯のせいか火照ってピンク色に変化した頬や、お団子にまとめた髪が新鮮だった。

「桃も温泉得意じゃない感じ?」

 ばっちり目が合ってしまったので、そう訊ねてみる。

「……ふゆもそうなの?」

「こうやってたまに来るくらいならいいけど、まぁ落ち着かないよね」

「うん」

「それに、熱いの苦手なの。あーあつい……」

 熱くなった首から上を手のひらでぱたぱた扇ぐ。
 血流が活性化されているのはいいことなんだろうけど、それによる心地良さは長くは続かない。

「意外な弱点だ」

 硬かった表情を崩して、くすっと桃は微笑む。
 ほんの一瞬だけ目が揺らいだ気がしたけど、まあ気のせいだろう。

422 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:52:11.54 ID:1PHlNXOB0

 湯船に再度浸かって、体力ゲージが秒を追うごとになくなっていくような感覚を味わう。

 すると不意に、首筋に冷たい何かが触れる。

「ひゃあっ」

 と思わず高い声が出て、身体が跳ねた。

「二人ともここにいたんだ」

「遅いぞー。わたしらもう上がるよー」

 首をめぐらせて見れば、栞奈とつかさが床にしゃがんでいる。
 冷たいのはつかさの手だった。なんなんだ。

「ふゆゆ、わたしなんか変わってない? わかるぅ?」

「んーわかんない」

「もぉー、ちゃんと見てくれよなー」

 身体の向きを変えて見てみたけど、いつも通りのつかさで違いがないように見える。
 言わせたいことじゃないんだろうけど違うのは、顔全体が茹で上がったように上気していて、目がとろんと潤んでいること。

423 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:53:03.34 ID:1PHlNXOB0

 そんなつかさを見て、栞奈は口元に手をやって笑っている。保護者的な笑い方だ。

「サウナで私に勝負を挑んだりするから、この子少しダウン中なの」

 あぁどうりで……。
 テンションがおかしいのはサウナのせいか。

 というかなぜか熱を帯びたような視線が私の身体の一部分に固定されている。
 ……これもサウナのせいかな?

「で、どう? 霞は気に入ったんじゃない?」

「あ、うん。この薔薇風呂のことでしょ?」

「そうそう。何かで聞いたことあってね、霞と来るならここかなって、前々から目星はつけてたのよ」

「それはまた、どうも」

424 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:54:00.10 ID:1PHlNXOB0

「おとなりの桃は?」

「うん。わたしも……」

「ならよし。外で涼んでるから、気にせずあとはお二人で、ごゆるりと」

 半ば桃の言葉を遮るようにして、栞奈はフラフラ歩くつかさを浴場の外へと引っ張っていった。
 一体いつからサウナに入っていたんだろう。

「……私たちもサウナ入ってみよっか」

 冗談でそう言ってみると、桃の表情は瞬時に微妙なものに変化する。

 桃ってこんなに分かりやすく反応していたっけ。
 まあ誰しも苦手なものは顔に出る……いや、出ない方が希少か。

 てことは、サウナも苦手と。
 入ったことはないけど、それは多分私も同じだ。

「じゃあ五分経ったら上がろう」

「うん。その、ありがとう」

 と、桃は控え目に笑った。マッチポンプみたいだったけど、とりあえず頷きを返した。

425 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:54:34.47 ID:1PHlNXOB0




 髪を乾かして、少し桃のことを待ってから、休憩所のようなところで栞奈とつかさに合流する。
 つかさは既に回復しているようで、アームが弱そうなゲームコーナーのクレーンゲーム機で遊んでいた。

 先客が休憩所を後にして目の前の卓球台が空いたので、なんとなくそこに四人で集う。
「負けた人は飲み物奢りで」と栞奈がラケットを構えた。個人戦だとすれば悪い方の意味で結果が目に見えているので、ダブルスを提案すると、あっさり可決される。

 うらおもてでペアを決めたら、つかさが相方になった。
 ちょっと練習しようという流れになって何回か打ったり打ち返したりをしてみたが、サーブからして覚束ないのは私だけで、他三人は器用に卓球をしている。

 栞奈はピンポン球に回転をかけているし、桃も見よう見真似で同じようなことをしている。
 捻りのないものでも打ち返せるか半々なのに、あんなのされたらひとたまりもない。

「先に言っとくけど、ごめんつかさ」

「ん……いや、わたしは勝つぞ」

 そうつかさは意気込んでいたが、まぁ普通に負けた。
 ちょっとぐらい手加減してくれてもいいんじゃないか、と思うくらいには私が集中砲火で狙われた。

426 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:55:16.94 ID:1PHlNXOB0

 こっちも栞奈との勝負は避けて桃を狙ったけれど、その桃がそつなく返してくるからあまり意味がなかった。
 それにつかさもなぜか急に対戦中に精細を欠き始めたから、もはや一対二どころか〇対二だった。

「いってらっしゃい」と桃が手を振って見送ってくれる。

 桃もいつの間にか普段の様子に戻っていたようだった。
 相当温泉が苦手だったのか。というか、語弊がある表現かもしれないけど、落ち着かないのが苦手なのだろう。

 ……いや、桃「も」じゃなくて桃「は」になった気がする。廊下を連れ立って歩くつかさの様子がおかしい。
 何か深い考えごとをしているように俯いている。

「ほぼ私のせいだから、つかさは自分のだけでいいよ」

「うん」

「栞奈はコーヒー牛乳で、桃はフルーツ牛乳だっけ」

「うん……」

「私は何でもいいや。つかさは何にするの?」

「……」

427 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:56:36.59 ID:1PHlNXOB0

「……つかさ?」

「えっ? え、あ、なに?」

「いや、なんかぼーっとしてるから」

「あ、うん」

 と、何に対しての反応も乏しい。

 エレベーター横の自動販売機の前に着いたところで、ふと昨日の会話を想起する。
 秘密のお返しの件。

「今日までの質問、考えてきてくれた?」

「あー、質問な。質問なー……」

「忘れてたのね」

「いや、うん。質問ね……」

 忘れていたらしい。まぁ私もだけど。

 つかさは顔をこちらに向けたが、目が合うわけでもなく、代わりに妙にじとーっとした視線が私の上半身に注がれている。

 いや上半身っていうか、胸部。服の内側。さっき温泉内で感じたのと同質のもの。
 反射的にその眼差しとの間に壁を作るように腕を抱いた私を見てか見ずか、つかさはごくりと喉を鳴らす。

428 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:57:26.94 ID:1PHlNXOB0

「それって」

「うん?」

「それって何カップあんの?」

「え」

「あっ」

 つかさは口元を押さえて、まずいという顔をする。
 急に夢が醒めて現実に戻ってきたような、そんな顔。

 一瞬にして、湯冷めするほどにこの場所の空気が凍った気がした。

 まさかそういう路線の質問だとは思わなくて、呆気に取られて口を噤んだ私とは対称的に、

「や、ミス。ミスった。今のなし、忘れて」

 と、つかさはあたふたした様子で声を上擦らせ、いつもっぽくオーバーに両手をすごい速さでわちゃわちゃ動かす。

「……なんでもって約束だから、べつに答えてもいいよ」

「こ、答えなくていい。友達にセクハラしたくない」

「もうしてるのと同じじゃない?」

「ごめん」

 許しを請うような目をされると、ちょっと困る。

429 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:57:57.92 ID:1PHlNXOB0

 私の薄い反応を悪いように捉えたのか、つかさは「うちの学校水泳ないしさ」とか「意外とでかいなーなんて」とかいろいろ言葉を重ねたが、
 驚きはしたけど怒ったりしたわけじゃないから、弁解というより更に深く自白させてしまった。

「謝らなくていいよ。今までも訊かれたことはあるから」

「は、誰に?」

「誰にって。そういうことを訊いてくる人はいるでしょ」

「あーまぁ」

「まさかつかさがそうだとは思ってなかったけど」

「ごめんなさい」

 でも、私たちが特別しないだけで、友達同士の会話としては普通なのかもしれない。
 学校で、特に体育の時間なんかにクラスメイトがしている会話が耳に入ると、そういった話題になっていることは多々あるように思う。

 それに前にもつかさからセクハラめいた何かを言われたことがあるような気がする。

 パンツ見えそうだとか、腹筋触らせてとか、彼氏いたことあるのとか……こうして考えると案外普通寄りなのかな。

430 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:58:27.12 ID:1PHlNXOB0

「で、質問は?」

 とはいえ私にはつかさをイジって楽しむ趣味はないので、打ち切って話を戻す。
 これでまた同じことを訊かれたら、この先つかさを『他人の胸の大きさが気になる人』と意識して過ごすことになるかもしれない。

「あー、えっと……」

 当たり前だがそうはならなくて、つかさは咳払いをする時のように、丸めた手のひらを唇に当てた後、わざとらしくキリッとした表情で頷く。

「ももちゃんとどうなったの」

「……どうなったって?」

「……」

 それくらいわかるだろって言いたげな瞳と唇の動き。

 ……まぁわかる。わかるが、このことについては、意味を取り違えて不用意なことを言うのは避けたい。
 私だけのことだったらいいけど、そうじゃないのだし。

「桃とは、付き合うことになったよ」

 声にしながら思ったことを、間髪入れず付け加える。

「でもわざわざ訊かなくても、もう知ってるでしょ」

431 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:58:59.65 ID:1PHlNXOB0

「うん。……お見通しか」

 別にお見通しとか、そんなのじゃない。
 つかさなら私より先に桃に訊くよね、っていうただの勘だった。

「答えを知ってる質問でよかったの?」

「あー、じゃあもうひとついい?」

「どうぞ」

「いつまでとかって、ふゆゆの中ではある感じ?」

「それは考えたことなかった。でもまぁ、桃が満足するまでじゃないかな」

 つかさが口を開けて、数拍だけ固まった。

「やっぱりふゆゆって変わってるな……」

「そう?」

「まー、そこが良いところか」

「……ありがとう?」

「どいたま。ついでにわたしのことも褒めて」

432 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/23(水) 23:59:42.03 ID:1PHlNXOB0

「えっ。つかさは、目がきらきらしてて綺麗だと思う」

「もう一声」

「涙袋がデカい」

「目ばっかだな。ちなみにこれ天然」

 照れ隠しなのか、ほのかに赤い色が差した頬を両手で包んで、つかさはぱあっと明るく笑う。
 かわいい仕草と笑い方。とても真似できそうにない。

「そのチャームポイントの目で見守っててください」

「おー、言われなくても」

 もうちょっとこう、具体的なことを言えればいいのだが、なにぶんいろいろなことが不透明すぎる。
 では鮮明にしたいのかといえば、それはまた別の話で。

 でもせっかく友達から彼女へと関係が変わったのだから、桃にはそうなって良かったと思ってほしいし、この関係を楽しいと思ってほしい。

 我ながら抽象的すぎるなと思うけど、そのためにまず私がすべきことは、今までと比べてより能動的に、桃という人について知る努力をすることだろう。

 知らないことをどうにかするには、それを知るための努力をするか、もしくは知っているふりをするしかない。
 知っているふりは楽で労力を伴わない。が、楽した分だけどこかで必ず皺寄せがやってくる。

433 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/24(木) 00:00:45.23 ID:yH2WyidD0

 なら努力する、ないしそういう意識を持って相手と接することを心掛ける方が、長い目で見て悪いようにはならないはずだ。

「ね、行きの車の中で流れてたアイドルの曲、つかさのおすすめ教えて」

「なに、もしや興味持ってくれた感じ?」

「まあそんなところ」

「へぇーそういうことなら、あとでMVのリンク送るよ」

 そしてそれと同時に、つかさとか、周りのことについても知っていこうとしなければならないだろう。

 そうでないと、桃とのことも、私自身の在り方も、意図せぬ方向へと進んでしまいかねない──と思う。

「お、栞奈からラインだ。早く戻ってこいって」

「うん。戻ろう」

 頼まれていた飲み物を買って先ほどの場所に戻ると、つかさのお母さんが迎えに来ていた。

 旅館を出る際に隣り合った栞奈が、「長かったけど、つーと何話してたの?」と訊ねてくる。
 そういえば昨日はスルーしたのだったと思いながら、「桃と私の話」と答えると、栞奈は理解がいったように前を歩く桃に目を向けた。

 その栞奈が視線を上向けたのに釣られて、ふと見上げた空は深い群青色に染まっている。
「ブルーモーメント」と呟く声がハモる。中学校の理科の授業で聞いたことを覚えていたのだが、結構有名な言葉だったのか。

434 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/24(木) 00:01:17.71 ID:yH2WyidD0

 この場所から家が一番近いのは栞奈で、大きなマンションの前で車を降りる際に、私が出発時に言われたようなことを、つかさのお母さんから言われていた。
 そして次に近い私が最寄駅の近くで降ろしてもらった時も、また同じようなことを言われる。

 口調は軽いものだったが、つかさのお母さんは、つかさのことを、特に友達付き合いについてかなり心配に思っているみたいだった。

 それにはきっと、つかさが昨日教えてくれたことが関係している。
 人付き合いを間違えたと言っていたし、何かと気にする素振りを見せるのは、それを経てのことだと思うから。

 中高一貫だったということは中学受験をしていて、でも人付き合いの関連する何かを契機として学校に行けなくなってしまって、
 おそらく周りの環境をリセットするために、高等部には進まずに私と同じ高校を受けて……と知っていることと推測を繋ぎ合わせるように考える。

 考えて、なら、つかさと同じく学校を変えた桃はどうだったのだろうと思う。

 つかさと同じように何かがあってなのか、幼馴染のつかさと一緒の高校を望んでなのか、もしくは特に理由らしい理由はないのか。
 普段なら思わないはずなのに、こればかりは少しだけ気になった。

 だって、もし桃がそのまま進学して、今の高校を受験していなかったとしたら、桃と私が出会うことはなかったはずだから。

435 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2022/02/24(木) 00:01:52.14 ID:yH2WyidD0
今回の投下は以上です。
436 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2022/02/24(木) 19:31:54.10 ID:4B+OtogS0
おつです
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