エミリーが忘れた日

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51 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:36:47.15 ID:9pdDfgPfo
 
だんだんと掠れ声になっていった歌声は一番のサビが終わるか終わらないかでついに聞こえなくなった。
「止めましょう」と伊織は言ったが、なんとか口だけでも動かしているのがかすかに見えたのと、
振り付けはまだ続いていたのでもう少し待つ。手足の動きも少しずつ弱々しく、小さくなっていく。

──最後にはエミリーは踊りも止め、両手をだらんとぶら下げて口を固く閉じ、その場に立っているだけになってしまった。

「……もういいでしょ、止めないの!?」

自分も思考が停止してしまっていたのを、伊織の叫び声でハッと我に返る。手でサインをしてようやく音を止めた。

ステージをよじ登り、共にエミリーの元へ駆けつける。

「エミリー、無理をさせてしまったなら謝る……ごめん」

そのときのエミリーには表情などなかった。焦点の合わない両目でただ地面をみつめて──脱力状態のままじっとしていた。

「エミリー……」

伊織が優しく抱きしめながら背中をさすっている。

「《大丈夫よ。 良くできてた。 あんたは十分頑張ったわ》」
「《……わからないんです》」

エミリーが抑揚のない声で言った。
52 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:38:33.74 ID:9pdDfgPfo
 
「《分からないって……何が?》」

伊織が問いかける。

「《自分がこの曲をもらってから……すごく頑張って歌の練習をしていたこと……それは覚えています。
歌詞だって、いつでも譜を持ち歩いて読んでいました。 そのことははっきり覚えてるんです、この頭で》」

力のこもらないエミリーのぼんやりとした言葉が、だんだんと俺の理解を超えていくような気がした。

「《きっと私にとって、この曲はとっても大事な曲だったんだと思います…………なのに……》」

──だった?

「《私がこの歌の何に感動していたのか、どういうところが好きだったのか……どうして大事にしていたのか、今の私には、何も分からないんです》」
「……どういうこと……?」

同じく異変に気がついた伊織も、事態が飲み込めないのか俺の目を見た。

「その……エミリー。 この「はなしらべ」は、エミリーの日本を愛する心、エミリーの持つ“和”の心をよりいっそう引き出すために用意した曲なんだよ」
「《…………ワ、って何ですか……?》」

足りるか分からないこんな説明で精一杯だったのに、エミリーはさらに不穏な疑問を投げかけてくる。
彼女が何を言いたいのかまだよく分からないのに、明らかに血の気が引いていくのを感じた。

「《エミリー、どうしちゃったの? この曲、大好きだったんでしょ?
 あんたが目指す、大和撫子の雅さに溢れた素敵な曲って、いつも言ってたじゃない》」
「……ヤマ、ト、ナデ……」

無気力なまま少し考えて、エミリーは問い返した。








「《ヤマトナデシコって……なんですか?》」
53 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:39:29.99 ID:9pdDfgPfo
 
「ちょっと……」

冗談言わないでよ、と伊織がエミリーの肩を揺さぶる。

「《…………覚えてません》」

そうして最後に放った彼女の返答に、俺も伊織もついに言葉を失った。



「《私……“それ”に、なりたかったんですか?》」



裏手からステージを出ると、こっそり様子を覗いていたのか、まつりやジュリア、風花と千早が待ち構えていた。

「プロデューサーさん、エミリーちゃんの様子はどうなのです?」
「ステージ、いけそうなのか?」

どう返そうか迷った挙句、俺はゆっくりと首を横に振った。

「……エミリーにはまた休みを取らせる」
「そんな……復帰は無理ってことですか?」
「曲を途中で止めていたようですが、何かあったんですか?」
「みんな、すまない」

足早に四人の真横を通り過ぎ、そのまま振り返らず背中の向こうへ乱暴に言葉を投げた。

「もうしばらくあの子抜きで続けてくれ」
54 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:40:25.21 ID:9pdDfgPfo
 


何故エミリーは日本へやってきたのか。
何故エミリーはアイドルになったのか。
彼女が“大和撫子”という在り方に憧れを抱いていたからだ。それは俺だけではなく765プロの全員がとうに知っていることだった。

だからエミリーが頭を打ったせいで日本語が分からなくなったとき、俺には一つの懸念があった。
その尋常でない日本語へのこだわりが、エミリー自身を大和撫子へ近づけるための、彼女にとっての最大の拠り所であること。
イギリス生まれの彼女が感じているであろう、国籍という最大の壁を少しでも打ち破るための手段であること。
すなわち言葉を失えば、それはとてつもなく深い傷になるのではないかということ。

それなのに──彼女の立ち直りがやけに早いことにわずかな引っ掛かりを感じていたはずなのに、俺は気にしようとしなかった。
礼儀を何より大事にしていた彼女が、誰かと出会ったときにはいつでも深々とお辞儀をする彼女が、
まるでそれを忘れていたかのように慌てて振舞っていた瞬間も、見ていた筈なのに何とも思えなかった。

自分の曲の好きなところが分からなくなったと話す彼女の表情にはなんの感情もなく、一つの悲しみすら見受けられなかったことも。


にわかには受け入れがたい。もっとも、そんな考えははじめからなかった。考えたくもなかった。

エミリーが“大和撫子”を忘れてしまったという可能性など。
55 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:42:14.74 ID:9pdDfgPfo
 
「十年ほど前、アメリカで実際にあった症例です」

二日後、エミリーを再び家で休ませることにしてから、俺と伊織で再び医者の先生を訪ねる。
彼女についての話──日本に強い憧れがあったこと、
そしてそのことをまるで覚えていないかのような反応を示したこと──を伝えると、先生は静かに話しだした。

「音楽家であった一人の女性がいました。 彼女は類い希なる才能を持った奏者で、また熱心な努力家でもありました。
 音楽を始めてから楽器に触れなかった日がないほど……それだけ、音楽を愛していたということでしょう」
「はぁ……」
「あるとき、彼女はウイルス性脳炎にかかってしまいまして。
 治療の末回復こそしたものの、後遺症により過去の記憶の大半をなくしました。
 ただ何もかもを思い出せないというわけではないのです……
 母親や家族のこと、自分が音楽をやっていたこと。 そういうことは覚えていました」

伊織も黙ったまま話を聞いている。

「回復してからしばらくはまた音楽を続けようとしたそうです。
 完全に元通りとは行かないものの、楽譜の読み方、演奏技術、そうしたものは練習を重ねるとある程度思い出すことができたとか」
「そんなことが……」
「しかし、結局彼女は音楽を辞めてしまった」
「……なぜです?」

先生は一息置いて言った。


「以前のように、音楽へ関心を向けなくなってしまったそうです」
56 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:43:26.53 ID:9pdDfgPfo
 
冷静に、頭の中で少しずつ、先生の話をエミリーに置き換えてみる。

「もう少し正確に言うと──彼女が発症以前に語っていた、音楽を始めたきっかけの記憶。
 音楽を通して感動した記憶。 音楽を続けていて良かったと思う記憶。 
 そういう思い出について尋ねられたところ、彼女はそうした過去の出来事について全く思い出すことができなかったそうです」
「それと同じことがエミリーにも起こっていると?」
「……日本の文化が好きで、日本人らしい立ち振る舞いに憧れていた。
 そこにはきっと、彼女の日本への憧れに関連した何らかの記憶があるはずです。
 日本語能力の喪失はあくまで副次的な症状で、もしもスチュアートさんが本当になくしたのがそうした思い出だったとしたら──」
「──そのせいで今のエミリーは、大和撫子の憧れを思い出せないでいるってことですか」
「……ちょっと待って」

伊織が話を遮った。

「どういう話をしてるのか何となくは分かったわ。 けど、それと日本語を思い出せないのと、どう関係があるの?」
「伊織、どういう意味だ?」
「日本語を日常的に使っていたエミリーだから、勉強しなおせば自然と言葉も思い出していく、って話だったわよね。
 だからあの子に昔の教材を使わせて、できるだけ過去の思い出とリンクできるようにってことだったじゃない」

そのまままくし立てるように続ける伊織。

「実際、ちょっとした読み書きや会話はすぐにできるようになったのよ。 どうして途中で何も思い出せなくなったの?」
57 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:44:14.69 ID:9pdDfgPfo
 
「……ここまでくると、もはや推測でしかありませんが」

先生が俺のほうを見て言った。

「意味記憶に付随するエピソード記憶、というお話をしましたよね」
「えぇ、はい」
「スチュアートさんの思い出せない過去の記憶、それが元々の彼女にとって非常に大切で、
 彼女が常日頃その記憶を想起しながらこれまで日本語の勉強を続けてきたとしたら」
「……あ……」

その瞬間、以前のここでの会話がフラッシュバックした。意識がふわりと浮いてどこかへ落ちてしまいそうな感覚が襲う。

「……意味記憶と強烈に結びついたエピソード記憶をそれごと忘れてしまえば……手繰り寄せる紐がなくなるから、思い出すのはより困難になる……」
「……何のことよ、ちょっと……しっかりしなさい!」

伊織が俺の肩を揺さぶるのを感じた。
58 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:45:01.86 ID:9pdDfgPfo
 
「……ごめん」

深呼吸をして頭を一旦落ち着かせてから、先生に問い直す。

「……そのエピソード記憶を思い出させてあげれば、日本語の記憶も元通りになるかも知れないってことですか?」
「……それは分かりません」

先生も小さくため息をつく。
結局、ぼんやりしたヒントだけ手に入って解決の糸口は掴めないままだ。

「──できれば」

どうすればよいかもはっきりしないまま病院を去ろうとする俺と伊織に、先生が最後に声をかけてきた。

「お気の毒ですが、スチュアートさんには……なくした記憶を思い出すよう、あまり強要しないであげていただきたい」
「どうして……」
「本人は自身の思想の変化に気がついているはずです。
 なぜなら、保持している過去の言動の記憶と現在の思考が一致しないという体験が自然と増えてくるからです」

先生の言葉に今日のエミリーの姿が思い浮かばれる。
好きだったはずの歌の良さが分からないと放心状態で力なく話していた寂しそうな眼。

「つまり……自分の性格が変わってしまったという自覚があるんです。 スチュアートさんには、きっと」
「…………」
「その場合の精神的なショックは、我々には計り知れません」

エミリーは、今の自分をどう思っているのだろうか。
59 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:47:39.82 ID:9pdDfgPfo
 


「……一応、心当たりはあるんだ。 分かるよな」

事務所への帰りがけ、車の中で伊織に考えを吐き出してみる。

「というか、そうとしか考えられない。 あの絵が鍵だ……
 エミリーにとって、“よりちゃん”との思い出こそが日本に憧れるきっかけになった大事な記憶なんだよ」
「…………」
「お父様の話とも辻褄が合うだろ?」
「……一理あるかもね」
「だからなんとかエミリーに、“よりちゃん”のことを思い出させてあげられれば……けど、どうすれば……」

会話が途切れ、しばらく無言のまま車を走らせる。五分ほど互いにだんまりを貫いた頃、ふと思い浮かぶことがあった。

「……ちょっと待った」
「今度は何?」
「エミリーは日本に憧れて、大和撫子になりたくてこっちへやってきた。
 そして、神社で行われていた舞を見かけて、それを踊っていた女の子が“アイドル”っていうものだと知って765プロに……」
「そうなの?」
「オーディションであの子を採ったとき、そう言ってた」

伊織がこちらを向き、結論を急がせる目つきをしてみせた。

「つまり──そもそもエミリーがもし大和撫子に憧れていなかったら、日本には来なかったかも知れない」

ハンドルを握る両の手のひらから分かるほどに汗がにじみ出る。

「もし大和撫子に憧れていなかったら、きっと神社での舞を見たところで感銘を受けなかったかも知れない。
 どんな人が踊っていたかなんて、気にもしなかったかも知れない」
「なにが言いたいのよ……!?」
60 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:49:00.06 ID:9pdDfgPfo
 
「──大和撫子に憧れていなかったら、日本でアイドルになんてならなかったかも知れない」
「……ちょっと、それ」


「憧れを失ったエミリーは……まだ日本にいたいと思うのかな?」
「待ってよ──」


伊織が続けて何かを言いかけた瞬間、携帯電話が着信音と共にポケットの中で震えだした。
取り出して発信元を確認してみると高木社長からだった。「出てくれ」と合図をし、伊織に手渡す。
伊織は少しの間光る画面を見つめて、ようやく通話アイコンをタップした。

「もしもし、伊織です。 ……今、プロデューサー運転中だから、代わりに」

伊織は途切れ途切れに何回か相槌を打つのみだった。
向こうの音声が微かに聞こえるものの、どういう話をしているのかまでは分からない。
落ち着かないこの時間が何分、何十分にも感じられる。

「……嘘でしょ……?」

伊織の反応を聞いて、心臓が少しずつ鼓動を早めた。

「……わかった。 とにかく……行くから」

そう言って通話を切った伊織の声は少しだけ震えている。

「……すぐ事務所に戻って」
「ちゃんと向かってる──」
「飛ばしなさいったら!!」

訳も分からずアクセルを踏み込んだ。

「何の話だったんだって! エミリーのことなのか!? そうなんだろ!?」

開けた窓から入り込む風と轟音に掻き消されないように、隣に座り込んで顔を両手で覆う伊織に叫び続けたが、返事はない。
61 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:49:40.89 ID:9pdDfgPfo
 
ビル前の路地に強引に車を停め、そのまま二人して二階の事務所玄関へと駆け上がり、飛び込むようにドアを開けた。

「エミリー! エミリー!! ちょっと待って!!」

しばらくの沈黙があったのち、無人かと思われた事務所の奥──応接スペースの間仕切りの隙間から、
自宅にいたはずのエミリーがおそるおそるこちらへ顔を覗かせた。

「エミリー! よかった、まだいた──」

続けて、エミリーと同じく金髪の、背の高い男性が立ち上がってこちらを見た。
──エミリーの父親だ。そして、高木社長。

「あぁ、君たち来てくれたか……! スチュアート君なんだが、その……」
「《ごめんなさい》」

高木社長の声を遮るように、エミリーが口を開いた。

「《社長と、お話しました》」
「待って……ダメ……」

エミリーはずっと俯いたまま、覇気も起伏もない、感情を読み取れない声で、ブツブツと、言葉を切りながら告げた。





「《私──帰ることに、なりました》」
62 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:50:32.17 ID:9pdDfgPfo
 


「エミリーのお父様、何て?」
「……だめだ。 いくら説得しようとしても取り合ってくれなかった」

俺は日がな一日頭を抱え、仕事にも手付かずのままでいた。
エミリーの父親の決意は思った以上に固い。もう少し待ってほしいと何度頭を下げても無駄に終わった。
すでにロンドン行きの飛行機の手配も済ませているらしい。

「最初に約束したんでしょ、二週間様子を見るって。 まだ二日あるはずじゃない……」
「エミリー本人が、イギリスに帰りたいって言い出したからだ」
「そうなの?」
「本人に残る意思があったとして、二週間待つって話だった。 今となっちゃ意味のない期限だ」

届いたときと同じように、再びカッチリとテープ止めをされた巨大な段ボール箱を眺め、またため息を漏らす。
あの大荷物も今日中にご実家へ送り返されることになった。

「……やっぱりもう、嫌になっちゃったのかな、こっちにいるの」

次の手を考えたいが、今は何も思いつかない。手詰まりだ。

「どこまで話したの? エミリーの状況」
「分かってることは全部話したよ……先生とのことも」

伊織の質問には自信なさげに答えるしかなかった。
推測の域を出ないものの──一応、今の時点で考えられる事の顛末をエミリーの父親には全て伝えたつもりだ。
63 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:51:55.02 ID:9pdDfgPfo
 
結局のところ、エミリーは頭を打って記憶喪失になってしまったのだ。

ただし彼女が失ったのはほんの一部の特定の記憶──つまり日本語の言語知識だった。
これについて、俺たちはエミリーが幼い頃に使っていた昔の教材を用意した。
勉強を続けていた頃の記憶とリンクさせて、言葉を思い出させようとしたのだ。
一部分においてそれは功を奏した。ただその後で、エミリーには言語知識の他にも失った記憶があることが分かった。

それはエミリーが常に抱いていたはずの日本への憧れ、そして“大和撫子”への想い。
そして先生の話を参考にして考えたのが、これらを引き起こした原因として──
エミリーが今忘れてしまっている、彼女を日本好きにした最初の思い出があるはず、ということだ。

765プロの誰もが知らない、失われたエミリーの過去。
手探りでは見当すらつかなかったはずのそのヒントになったのが、エミリーが大事に保管していた一枚の絵だった。

そこにいたのが“よりちゃん”だ。

その絵はおそらく、エミリーに初めて日本人の友達ができた日に描かれたもの。
父親の話によれば、その友達と出会ってから豹変したエミリーの血の滲むような努力のおかげで、今のおしとやかで慎ましい彼女がいるということだ。
すなわち“よりちゃん”こそがエミリーの失った記憶。
“よりちゃん”と出会ったその日のことを……エミリーが忘れてしまったその日のことを思い出させることができれば、彼女は今度こそ元に戻るかも──

ただ、情報の断片を繋ぎ合わせて出来た結論に確信は持てやしない。
64 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:52:40.95 ID:9pdDfgPfo
 
「確かにエミリーが子供の頃の話を忘れてしまってることは確かなんだ。
 だから思い出させるために何とかやってみる価値はある、ってとこまでは理解してもらった」
「じゃあ、何でそれを試す前に帰らせるのよ?」
「肝心なその子についての情報が全くないから。 どうやってエミリーに思い出させるかのアテが何もないせいだよ」

俺たちの持っている“よりちゃん”の情報はたった二つ。
エミリーが六歳の頃に出会った日本人だということ、そして前髪がパッツンな、日本人形さながらの容姿だったことだけ。

「今どこにいるのか、何をしているのか、そもそも居所が分かったとして、本人が昔のことを覚えてるのかとか──そんなの、調べようがない」

だからお手上げなんだ、とだけ言って、俺はデスクに向き直りまた頭を抱えた。

「エミリーのご両親は、そのときのことを少しは覚えているらしいけどな」
「…………そうなの」

伊織はそれだけ言ってしばらく考え込んだのち、静かに歩き出してソファに投げ捨てていた自分の荷物を手に取った。

「用ができたから帰るわ。 また明日、プロデューサー」
「えっ? あ、あぁ……またな」

よく分からないままに伊織を見送る。いきなりだったので何が何だか分からないが、それ以上深く考えることもなかった。
65 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:54:18.32 ID:9pdDfgPfo

 

 
翌日、朝一番で事務所にやってきた伊織は俺を見るなり言った。

「昨日、エミリーのお父様と話をしたの」
「何だって?」

反射的に声を上げてしまう。

「説得しに言ったのよ、最後にチャンスをくれないかって」
「……だからどう言ってもダメだったんだって。 エミリーを帰らせることはもう決まっちゃったんだ」
「ええ、それについては私も賛成よ。 ただ、私が連れて行くことになった」
「えっ、何で……」
「エミリーがその日本人と出会ったのが、あの子のご実家でのことだからよ。 だから向こうで過ごせば、思い出すきっかけがまた増えるってこと」
「それ……お父様から聞いたのか?」

伊織は少し濁すように「まあ一応」とだけ答えた。

「だから、しばらく休みをもらいたいの。 エミリーと一緒にロンドンへ行って──その後は、どうなるか分からないけど」

あまりに急な話に理解が追いつかない。

「まず……一体どうやったんだよ? 何を言ったんだ? あれだけ俺たちが頼んでも折れなかったのに……どうして」
「どうだっていいでしょ。 お父様も仕事の都合でもともとスケジュールが厳しかったみたいだし、話し合って私がちょうどいいってことになったの」
「ちょうどいいって……何が」
「うるさい、とにかく決まったことなの。 ざっと10日くらいは大きな仕事もなかったでしょ?」

理解が追いつかない。が、今回ばかりは「はいそうですか」と、素直にOKを出せないことだけははっきりしている。
66 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:55:23.14 ID:9pdDfgPfo
 
「……伊織」
「何?」

俺はここ最近の伊織に対してずっと抱き続けていた疑問を、思い切って投げかけてみた。

「──どうしてお前はエミリーのためにそこまでするんだ?」
「…………」

伊織はぐっと押し込まれるように黙った。

「エミリーがああなってからほとんどずっと横についてくれてるし、今まで沢山手助けしてくれた。
 それについてはもちろん感謝してる。 けどさすがに、ロンドンにまで行ってもらうわけにはいかない」
「──何か文句でもあるの? じゃああの子をあのまま放っておけってこと?」
「そうじゃない。 そうじゃないけど……」
「確かに仕事に穴をあけるという点では、私はプロ失格ね。 それについては謝る」
「……それも今は別に大した問題じゃない」

伊織はなんだか悩みに悩んだような素振りで、そして観念したようにハァと息を吐き出した。

「──あるわ。 理由なら」
「何だ?」
「……それは言えない」
「何だよそれ……」
「無茶苦茶言ってるのは分かってる。 分かってるわよ……けど……」

伊織が何かものを頼むときに、ここまで言いづらそうにしていた場面を俺は初めて見た気がした。

「行かせて。 ……お願いします」

俺に頭を下げる。
67 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:56:18.41 ID:9pdDfgPfo
 
「伊織……」

じっと動かない彼女に、やめてくれとだけ伝えた。今度は俺の目を見つめて返事を待っているようだった。
ここまでされてしまえば、流石にこちらが折れるしかないようだ。

「……そこまで言うなら分かった。 都合はつける」
「ありがとう、プロデューサー……このこと、みんなには黙っといて」
「すぐバレるだろ……」

それもそうね、と伊織はこちらから目線を逸らす。

「今日の仕事が終わったらそのまま発つわ。 できるだけ早く戻るから……それと」

そして少しの間言葉を止め、一呼吸置いてから付け加えた。

「エミリーを無事に連れて帰ってこられたら、全部話すわ」
「…………」
「……わがまま言ってごめんなさい。 ……じゃ、行ってくる」

伊織はそのまま踵を返し、部屋を出て行こうとした。


どうしてやるのが正解か何にも分からない。伊織だけに任せて大丈夫なのかどうか分かるはずもない。まして社長にも相談せずに。
ただ俺自身には他に何の手の打ちようもみつからない以上、藁をも縋る思いで待つしかなかった。

伊織が事務所のドアノブに手をかけた瞬間、そっと引き止める。

「伊織。 ……頼んだ」
「ええ」



心配を隠しきれないプロデューサーを背に、私は事務所を出た。
68 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:57:17.32 ID:9pdDfgPfo
 
──────

ヒースロー空港から地下鉄で一時間ほどの場所にある、ロンドン北部の高級住宅街──エミリーの実家はその一角にある。

この街に来るのは随分と久しぶりだったから迷ったらどうしようかと心配もしたものの、エミリーが道案内をしてくれてすんなりとここまでやって来れた。
私が付き添いに来ることを最初は驚いていたし、行きの飛行機ではあまり話をしてくれなかったエミリーだけど、
こちらに着いてからは安心感が勝ったのか少しずつ元気を取り戻してくれている。
最後には久しぶりの故郷の景色を楽しむ余裕も出てきたようだった。

霧の都という異名正しく、どんよりした曇り空がこの日も広がっていた。

呼び鈴を鳴らしてしばらく待つと、大きな扉の正面玄関が開かれる。

「Emily...!」

久しぶりの帰宅を一番に出迎えたのは彼女のお母様だった。
両手を広げ娘をそっと抱きしめると、エミリーは少し笑って甘えるように体を預けていた。

「《パパから事情は聞いたわ……大変だったわね》」
「《ううん……平気。 ありがとう》」

やがてお母様がこちらに気づいたので、ペコリとお辞儀をする。

「《エミリーさんの友人です。 お父様の代わりに付き添いでやってきました》」
「《遠いところからわざわざご苦労様でした……ゆっくりなさってください》」

ありがとうございます、とお礼を添えて私はスチュアート家の敷居を跨いだ。
69 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:59:09.29 ID:9pdDfgPfo
 
用意してくれた客間へキャリーバッグを置き去りにし、居間でお母様と話をしていく。
エミリーは長旅で疲れたのか、自室で少し休むといって鍵を閉めてしまったのでそっとしておいた。

「《私も夫も、今回のことは本当に残念に思います》」

用意してくださったストロベリー風味の紅茶とスコーン──緑茶と抹茶菓子をたまたま切らしていて、と謝罪されてしまった──を頂いていると、
エミリーの母親はゆっくりと切り出した。

「《私たちと同じように日本を好きになってくれて本当に嬉しかった……元に戻ってくれるなら、それが一番なんですけれどね》」
「《そのことなんですが》」

こちらも一応、わざわざやって来た理由を改めて話しておくことにする。

「《エミリーさんが日本に憧れるきっかけになった、日本人の女の子がいたと伺っています》」
「《まあ、ご存じだったんですね……》」
「《お父様から、色々と》」
「《もうずいぶん小さい頃の話だから、あの子もすっかり忘れてるんだと思っていました》」

お母様がふと天井を見上げる。その方向の先にエミリーの部屋があるのだとなんとなく察せられた。

「《けれど昔は私たちにしょっちゅうその子の話をしてくれましたよ。
 『難しい漢字を書けるようになった。知ったら喜んでくれるかな?』とか、
 『いつまたあの子に会ってもいいように、日本語をもっと喋れるようになりたい』とか……それはもう、毎日のように》」

「《そうだったんですか……》」
「《エミリーが私たち以上に日本語が上手になったのは、きっとずっとその子のことを思いながら毎日一生懸命勉強を続けてきたからなんでしょうね》」
「《……それが“よりちゃん”ですか?》」
「《ええ。 確か、そんな名前の子》」

父親同士が一緒に仕事をしたことがあるので夫のほうが詳しいと思います、とお母様は付け加える。
70 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 22:59:53.13 ID:9pdDfgPfo
 
「《何日か一緒に遊んだりしたんですけど、
 エミリーったらいつの間にかすっかりその子に懐いちゃって……帰国するときにお別れを言うのが大変でした》」
「《初めて会ったのは、エミリーのお父様が仕事のお付き合いで日本人の客を招いてパーティーを催されたときですよね?》」
「《そういえばそうだったような……よくご存じですね?》」
「《……もし》」

確かめておきたかった肝心な部分を、私は慎重に尋ねた。

「《エミリーがいつか何かの拍子に今までのことをきちんと思い出して、
 また日本でアイドルをやりたいと言ってくれたら……お母様もお父様も、反対はされませんか?》」
「《それはもちろん……それがあの子の意思なら、尊重します。 日本に行かせますよ》」

それを聞いて一安心した。
ただ、おかげで何かが進展するわけでもなく──結局は、エミリーが思い出を取り戻せなければご両親の気持ちすら無駄になってしまう。
この家に居られる時間は長くない。それまでにエミリーときちんと話をつけてやらなくちゃ。

紅茶のおかわりを勧められたのでお言葉に甘えることにした。お母様がキッチンへ向かい私から目を離したことを確認し、ふぅとため息をつく。

「せっかくエミリーがそこまで想い続けてくれていたってのに知らんぷりしてただなんて、薄情な女よね」

他の誰にも聞こえないようにそっと呟いた。
71 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:01:24.91 ID:9pdDfgPfo
 


「──思ったより早く届いたのね」
「《せっかく送ったのに、こんなに早く帰ってくるなんてね……》」

私たちに一日遅れてやってきた大荷物を前に、お母様が寂しそうに言った。

「《エミリーにも手伝ってもらいましょう。片付けなくちゃ》」

二階へ足を向けるお母様しばらく眺め、また視線を戻した。765プロの事務所でも見た巨大なダンボールに、送りつけ伝票が乱雑に貼られている。
三人でエミリーの自室へ運ぼうとしたが上手くいかず、結局玄関で箱を開けて中身を順番に持っていくことになった。
古びた数々のノートに混じって、日本で使った比較的新しいそれも何冊か入っている。
一冊ずつ取り出していくうちに、私は箱の隅に隠れるように突っ込まれていた絵筒を見つけ、おもむろに取り出してみた。

「……おかえり」

何度見ても変わらない、無邪気な子供の絵。

「《その絵……》」

しばらく動かないでいると、エミリーが横から覗き込んでまじまじとその絵を見てくる。

「《プロデューサーも言ってたけど、あんたが小さい頃に描いた絵よ》」
「《そうなんでしょうね……》」

エミリーは表情を曇らせた。

「《やっぱり思い出せないかしら》」
「《右にいるのは私、もう一人は……》」

エミリーはしばらく考え込んで、やはり首を傾げた。

「《すみません、やっぱり分かりません》」
「《……そう》」

今のこの子にとっては、何の思い入れもない小さい頃の絵など、もはや気味の悪い品にすら映っているのかもしれない。

「《あんたにとっては大事なものなのよ。 ちゃんと取っておいて》」

そっと渡すと、エミリーは渋々といったように、他の本たちと一緒にそれを持って階段を上がっていった。
72 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:02:33.24 ID:9pdDfgPfo
 
その後エミリーの自室にお邪魔して二人で部屋の整理を手伝っていると、エミリーは私に訊いてきた。

「《どうして、こんなところまで私と一緒に来たんですか?》」
「《お父様が仕事の都合で付き添いが難しくなったからよ》」
「《……そういう事を訊いているのではありません》」

エミリーの口調にはかすかな棘棘しさすら感じられる。765プロで接していたような、ふわふわと優しい印象のあのエミリーとは思えないほど。

「《私自身ですら今の自分が分からないというのに、どうして元に戻るなんて今でも思っているんですか?》」
「《戻りたくないってこと?》」
「《……ただ、あなたにここまでして頂く義理がないから》」

少し間を空けて返事があった。

「《個人的な感情だけじゃないわ。 私は765プロの代表としてここにいるの》」

文法書のみを別の箱にアルファベット順で並べしまいながら答えていると、エミリーの手の動きが止まったのが音で分かった。

「《正直言って、あんまりいい形でこっちに来なかったでしょ。 だからきちんと見送る係を任されたってわけ》」
「《……私は、事務所を去ろうとしているのに──》」
「《仮にそうであっても、エミリーが日本のことを好きじゃなくなっても、みんなのことはずっと好きでいてほしいから……》」
「《日本人というのは、親切すぎますね》」
「《それはあんたもよく分かってることでしょ?》」

エミリーは詰まるようにしばらく黙って、それから何事もなかったかのようにまた作業を再開する。

「《そっちは屋根裏にしまうので、そんなに丁寧に並べなくても大丈夫ですよ》」
「《……そう。 分かった》」

すこしだけ胸がちくりとする。ひとまず彼女の言うとおりに、屋根裏行きの本たちを作業的にまとめていく。
エミリーはそれっきり話すのをやめ、繰り返し小さなため息ばかりついていた。
さきほど見せた“よりちゃん”の絵は、どの箱にもしまわず、部屋の片隅にそっと隠すように置いてやった。

今の冷め切ったエミリーに何をしても意味がないのではと、時間が過ぎれば過ぎるほど強く思わされていく。
73 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:03:19.03 ID:9pdDfgPfo
 


すっかりイギリスでの日常に溶け込もうとしているエミリーに、私は何もできなかった。
折を見て幼い頃の、つまり“よりちゃん”の話を持ちかけてみるも、やはりどこか心ここにあらずで手ごたえがない。
お母様と話をしてみても、エミリーの考えていることはいまいち分からない。
エミリーはもう、思い出なんてどうでもいいと思っているのかも知れない。
帰りの飛行機は明日──。

自室で一人過ごしている彼女を訪ねると、エミリーは「《どうぞ》」といって招き入れてくれた。
少しの間他愛のない会話で間を持たせてから、ようやく私は最後に言葉を繋ぎ始める。

「《エミリー。 知ってると思うけど、私、明日で帰っちゃうの》」
「《……はい》」

途端にエミリーはこちらから目を逸らした。

「《これからあんたはこのままこっちで暮らすつもりなの?》」
「《…………》」
「《このまま私が帰っちゃったら……もう二度と会えないのよ。 私だけじゃなく、765プロのみんなとよ。 分かってるの?》」
「《……分かってます……》」

消え入るような声に、これ以上このことは考えたくないというような苦い表情。
74 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:04:36.44 ID:9pdDfgPfo
 
「《最後にひとつだけ聞かせて》」

俯いているエミリーに向かって、私は構わず続けた。

「《あんたは、アイドルが嫌になっちゃったの? 765プロにはもういたくないの?
 一緒に頑張ってきたみんなとの思い出や、アイドルの楽しさも全部忘れちゃったって言うの?》」
「…………」
「《大和撫子を忘れた今……日本で過ごしてきた思い出なんて、エミリーには何の価値もないってことなの!?》」

ずっとずっと黙ったままさらに深く下を向くエミリーの次の言葉を待っているうちに、私は気がついた。
座り込んでいるエミリーが両手でぎゅっと握りつぶしたスカートの皺になっている部分に──滴が落ちていた。
顔を横から覗くと、エミリーはくしゃりと顔を歪ませながら、

「《そんなわけ、ありません……!》」

まるで震えているみたいに、小さく首を横に振った。

「《エミリー……?》」
「《みなさんのことが大好きです……! 離れたくありません……! 本当はアイドル、もっとやりたかった……っ……!》」

ここにきてようやく本音を漏らしてくれたことに驚き──我に返って、私はエミリーの両肩を掴んだ。

「《だったら……だったら、何で辞めるなんて言ったのよ!》」
「《だってっ……! こんな状態で居座っても、きっと迷惑にしかならないから……!
 私は、みんなが、元気で、一生懸命に、毎日頑張ってる姿が好きなのに……
 こんな私がいたら、きっとみんながっ……気を遣って……私なんか、邪魔にしかならないんです……!》」
「《そんなわけないじゃない。 みんなあんたの為に協力してくれる……》」
「《私が嫌なんです……! そんな状態で、みんなに負担なんてかけたくないんです……! 私が苦しいんです……っ……! 》」
「《エミリー……》」
「《どうすればいいか分かれば……私だけ、こんなに辛い思いしなくていいはずなのにっ……!》」

何と返せばいいのか分からなくなってしまう。エミリーは溢れてくる涙を手のひらで乱暴に拭いながら小さく嗚咽を漏らし続けた。
75 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:05:55.54 ID:9pdDfgPfo
 
「《そうね……エミリーが一番辛いってこと、忘れてしまっていたわ。 ごめんなさい》」

ゆっくりと肩をさすって落ち着かせながら、できるだけ優しく話しかけていく。

「《ただ私は、エミリーが全部思い出して元に戻れるようにって……》」
「《思い出すことなんてありません……結局言葉もきちんと話せないままなのに……》」

少し冷静さを取り戻したエミリーが鼻声で訴えた。

「《あのね、それは……あんたがもっと大事なことを思い出せないからなのよ》」
「《これ以上何を思い出せって言うんですか……?》」」
「《あんたが小さい頃に会った女が……日本人の友達がいるでしょ》」
「《何度言われても、そんなの……わかりません》」

私は部屋の隅に置いておいた絵筒を、また目の前に持ってきてやった。
もう見たくないとでも言いたげに眉を曲げるエミリーはお構いなしに、また絵を広げて見せてやる。

「《ほら、この絵の……》」
「《だからっ……分からないんですっ……!!》」

全部広げきる前に、エミリーは私の手からそれを弾き飛ばした。もう一度拾って、また見せる。

「《ほら、こっちがエミリーで……こっちの、パッツンの……!》」
「《もうやめてください……!》」

エミリーはとうとう叫びだした。

「《そんなこと私が思い出せなくても……あなたには、何の関係もないでしょ!?》」
76 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:07:01.59 ID:9pdDfgPfo
 
視界が狭くなってうっすら暗くなったような気がした。
エミリーの言葉が頭の中でグルグル回り、だんだんとそれが胸まで下りてきて蔦のように心臓を締め付けてくる。
エミリーも言いすぎたと思ったのか、一瞬息を呑んで私の反応を伺っているように見えた。

なんで──こんなに言ってるのに、なんで分かってくれないの?
そんなのあんまりじゃない。

「……関係あるのよ……っ」

絞り出した一言をきっかけに、やるせなさが次から次へと溢れてきて止められなくなるのを感じた。

「……いい加減に、してよ……!!」

視界がじわりと歪んで、ぼやけて、目元が熱くなる。もうだめだ。

「関係おおありなのよっ!! どうしてっ……思い出してくれないのよっ!!」
「《お願いだから……もうやめて……》」
「《やめない!!》」

エミリーの体がビクリと跳ねた。

「《思い出すまで何度でも言ってやるわよ!!》」

私はまっすぐ見つめているのに、頑なに目線を合わせようとしない。

「《あんたが大和撫子を目指すきっかけになった女よ……いたでしょ……!?》」

エミリーはぐしゃぐしゃの顔を横に振った。

「《ここで……この場所で初めて出会った、あんたの大事なお友達じゃなかったの……!?》」

両目をぎゅっと瞑り、涙を絞り出してまた横に振った。

「《あんたがいつまでたってもちゃんと名前を覚えない、日本人の美少女がいたでしょ!?》」
「《……だから……分からないの……っ》」

弱弱しく顔を横に動かして、エミリーはついにかすれ声で泣き出した。
77 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:08:25.72 ID:9pdDfgPfo
 
「……なんでよ…………ここまでしてるってのに…………バカ……バカ……バカバカバカバカっ……!! ばかぁっ!!」

力の入らない両腕でエミリーの肩をわずかに揺する。

「《思い出してよっ……!! どうすれば思い出すのよっ……!!》」
「《ごめんなさいっ……ごめん……なさいっ……》」
「こんなの嫌よっ……バカ……バカばかばかっ……こんなことで大和撫子を諦めるんじゃないわよっ……!! どうしたらいいのよっ……!!」

お互いに止まらなくなって、しばらく泣きじゃくった。
そのままどのくらいいただろうか、ようやくちょっとだけ頭が落ち着いてきたとき、目に入ったものがあった。

部屋の反対側、ベッドサイドテーブルの上に置かれていた、大きなハサミ。

しばらくボーっと眺めた後、ふと、ひとりでに言葉が口をついた。

「──そうよ……パッツンなのよ……」
「《……えっ……?》」

自分自身の台詞に誘われるようにゆっくりと立ち上がって、吸い込まれるようにそちらへ向かった。
滲んだ視界を頼りにそれを手に取ると、冷えきった金属の感触だけが鮮明に指へと伝わってくる。
そのまま一歩ずつ、もう一度エミリーへ近寄った。
彼女は不可解なものを目撃するような目つきをしていた。

「…………エミリー、見なさい。 ……こっち見て……!!」
「《何を……》」


こうなりゃ──ヤケよ。
78 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:08:59.61 ID:9pdDfgPfo
 
綺麗に分けた前髪をグシャグシャと崩して、だらんと顔の前に垂らしてから、ハサミを開いて額に当てる。

「《何して……!?》」
「あんたがいつまで経っても忘れたまんまだからでしょうがっ……!」
「《だめ……何してるんですか!? だめ…………っ!!》」

私の右腕を抑えようとするエミリーを振り切って、あてがった刃をこめかみからこめかみまで横切らせた。

「これでも──」

そのまま勢い任せに、

「これでも……思い出さないのかって──」

右手に思いっきり力を加えて、

「言ってるのよぉっ──!!」
「《だめええぇぇっ!!》」


一思いに握り込む。
79 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:09:44.45 ID:9pdDfgPfo
 






ジャキン、と擦れた金属の小気味良い音が響いた。
同時に視界がいっぺんに明るくなる。

ふわふわと落ちていったまっすぐな前髪の残りをバサバサと振り払って、私はもう一度エミリーを見た。

「……ァ…………ァ、ァ……」

エミリーは小刻みな息遣いの隙間から言葉にならない声を必死に上げようとして、口をパクパクさせているばかりだった。
私も荒げた呼吸を落ち着かせるだけで精一杯だったけど、それでも彼女から目線を離そうとしなかった。


「《……な、ん、で…………》」


大きくて睫毛の長い、真っ赤に染まった両目をこれでもかと大きくあけて──
80 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:10:25.69 ID:9pdDfgPfo
 










「── ヨリ、チャン……?」











 
81 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:11:17.48 ID:9pdDfgPfo
 
引きつったような声を吐き出したエミリーは、次の瞬間フッと力が抜けたように肩をカクリと落とし、頭を後ろへ投げ出すように、向こう側へ倒れていく。

「ちょっ……エミリー!?」

すんでのところで背中に手を回し、なんとか支えてやった。

「エミリー? エミリー!?」

目を閉じて、停電したようにぐったりしている。何度揺さぶり起こそうとしても反応がない。



「《……お母様! お母様! エミリーが……!》」

必死になって抱えあげた彼女の体をベッドに横たわらせ、助けを求めに階下へ走った。
82 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:15:56.32 ID:9pdDfgPfo
 
──

────

────────


パパはどこ?


ママとお兄様たちがしばらく留守にするらしいから、あたしとパパもどこかへ遠出して、新堂やメイドたちをしばらくお休みさせるって聞いた。
それでロンドンに行こうって誘われたんだもん、てっきりパパと二人っきりで過ごすんだと思ってたのに……
やって来たのはだれかの家。うちほどじゃないけど、まあまあ大きくてキレイなおやしきだった。

「大事なお話があるから、伊織は向こうで大人しくしていておくれ」
「……うん」

着いたとたんにそれだけ言って、パパは人がいっぱいいる方に行っちゃった。あーぁ、やっぱりお仕事だったんだ。
しかたないのは分かるけど、こんな場所でどうしてろって言うのよ。いるのは大人ばっかり。
ずっとむつかしいお話して何が楽しいんだろ。ジュースのおかわりももらいにいく気がしないわ。
ほんっと、つまんないパーティー。

「あたしの相手をしてくれるのはあんただけみたいね、うさちゃん」

この子も退屈そうにしていたので、ぎゅっと一回だけだきしめて、そのままいっしょに何もせず過ごしていた。
83 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:16:41.18 ID:9pdDfgPfo
 
「こんばんは。 ミナセ・イオリちゃんだね」

しばらく一人でぼーっとしてたら、声をかけられた。ふりかえると、金ぱつのおっきな男の人がいた。

「あ……えっと……グッドイブニング」
「あぁ、大丈夫だよ。 おじさんは日本語話せるから」
「……そうなの?」
「スチュアート家へようこそ、日本のかわいいお嬢さん」

おじさんはしゃがみこんであたしに目線を合わせながら言った。

「ごめんよ、君のお父さんは人気者だから忙しくて。 代わりにと言ってはなんだが、うちの娘と遊んでやってくれないかな?」
「……女の子がいるの?」
「ちょうど君と同じくらいの歳でね、部屋でおとなしくさせてるんだが退屈しているらしいから……君が良ければ、でいいんだけど」

どうしようかと思ったけど、ここにいたってどうせおしゃべり相手なんていないし。

「じゃあ、連れてってくださる?」

それだけ伝えると、おじさんは中へあたしをエスコートしてくれた。
84 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:17:43.65 ID:9pdDfgPfo
 
おやしきをしばらく歩いて二階へ上がると、おじさんはある部屋の前で立ち止まってコンコンとノックをした。

「...Who is it?」

かわいらしい女の子の声が返ってくる。

「It's dad, Emily. May I come in?」
「Sure.」

おじさんがゆっくりとドアを開いていく。

せなかごしに部屋をのぞくと、私よりも少し小さい外国人の女の子が真ん中にポツンとすわっていた。

ドールハウスでままごと遊びをしていたその子は、まるで昔ママに買ってもらったヨーロッパの人形にそっくり。
目はまんまるでとっても大きくて、アメジストみたいなひとみがキラキラかがやいていて、
頭の動きに合わせて金色のツインテールがふわふわとゆれていて。


くやしいけど、すっごくきれいな子だと思った。
85 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:18:48.11 ID:9pdDfgPfo
 
「I'm so boring to dye, daddy.」
「Sorry, sweetheart.」

おじさんと英語で少しだけお話しているのをながめていると、その子もあたしに気がついた。
びっくりしたのか、おびえるような目をしておじさんの後ろにサッと隠れちゃった。

「《大丈夫だよエミリー、この子はパパのお客さんの子なんだ》」

おじさんは笑いながら女の子を抱きかかえて、あたしの近くにストンとおろして立たせた。

「《日本から来たんだよ。 お友達になってくれるってさ》」
「《日本……?》」
「《ほら、お話してごらん》」

女の子はおじさんの後ろにかくれたまま、ちょっとだけ頭を出してこっちをのぞいてきた。
近くでみるとやっぱりすごくかわいくて──もちろん、あたしも負けてないけど──ちょっとドキドキする。

その子はあたしの顔をじっくり見つめて、それから少し考えてから、口を開いた。

「ハジ……メ、マシテ」
「わっ……この子も日本語話せるの?」
「少しだけね、まだ勉強中なんだ。 《そうだよな、エミリー》」

おじさんに返事をするように、女の子が小さくうなずく。
86 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:19:54.54 ID:9pdDfgPfo
 
「Emily Stewart...デス。 アナタ、ハ、ナント、イイマス、カ?」
「エミリー……っていうの?」

今度はあたしの声に反応して、コクコクとうなずく。なんだかちょっと照れくさい。

「えっと、あたしは……伊織……」
「?」

ちょっとおっかなくて声が小さくなっちゃってたのか、エミリーは首をかしげた。
自分もちょっとだけなら英語できるわよ、って言いたくて、思い切って話してみた。

「マ……マイネームイズ、イオリ。 ミナセ、イオリ」
「ヨーリ?」

聞きまちがえられた。

「いおり」
「ヨリ?」

またまちがえられた。

「ヨリじゃない、イオリ。 伊織ちゃん!」
「ヨリチャン?」
「ちがう!」
「Nice to meet you, Yorichan?」
「だからちがうったらーっ!」

思わずさけんじゃった。何なのこの子!あったまきちゃう!
女の子はビックリしちゃって完全におじさんの後ろにかくれちゃうし、おじさんはそんなの気にしないでアハハって笑ってるし。
そもそも言葉もろくに通じないのに、どうやってなかよくしろって言うのよ!?
87 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:21:58.91 ID:9pdDfgPfo
 
そのまま部屋に置き去りにされたあたしは、エミリーっていうその子がひたすらお人形遊びをしているのをただ見ているしかなかった。
さっきよりは退屈じゃないけど、それでも退屈。

両手に持った人形が二つ。色違いのドレスを着た、そっくりな双子みたいな人形。

「……それ、なんて名前なの?」

いちおう話しかけてみるとエミリーがこっちを見た。
言葉分かってるのかしら?まだあたしのことをちょっとだけこわがってるみたい。
さっきはどなっちゃって悪い事したわね。……何て言えばいいんだろ。

「えと……フー、イズ、ディス?」

片方を指差すと、エミリーは自分のしていることにきょう味を持ってくれたと思ったのか、ようやくあたしの相手をしてくれた。
88 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:22:32.26 ID:9pdDfgPfo
 
「...This is Charlotte.」
「うん」
「And this is Charlotte.」

同じじゃない。

「あんたも一人っきりでこんなとこに閉じ込められて、かわいそうにね」
「?」

今のはよく分からなかったみたい。どのくらいの日本語なら通じるのかしら。

「……ん」

とりあえずエミリーに向かって片手をさし出した。

「あそんで、あげる」

区切ってしゃべってあげるとエミリーはちょっと驚いたような顔をしてから、

「ハイ、アソビマス、ヨリチャン!」
「よりちゃんじゃなくて伊織ちゃん」

ようやく初めてあたしに向かって笑って、人形の片方を貸してくれた。
89 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:23:16.69 ID:9pdDfgPfo
 


次の日もパパはお仕事で忙しいからって、泊まっていたホテルからまたスチュアート家におじゃましてあずかられることになった。
どういうこと?あたし“ホームステイ”しに来たんじゃないのよ?

「せっかく来てくれたのにごめんなさい。 エミリーは今お稽古中なの」

今日はエミリーのおばさんが出むかえてくれた。

「そうなの? 何の?」
「日本舞踊よ」

へえ、やるじゃない。あたしも日本舞踊はちょっとだけ習ってたことあるし、せっかくだから見せてもらおうかしら。

「娘は練習中で……日本の方に見ていただけるほどのものではないですけれど」

おばさんはそう言っていたけど、何も日本人全員が日本舞踊やるわけじゃないんだから気にしなくていいのに。
90 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:24:15.92 ID:9pdDfgPfo
 
昨日までパーティーの会場だった広間はけいこのためにすっかりかたづけられていた。
エミリーはその広い部屋の真ん中で着物に身をつつんで、先生らしき人の手拍子に合わせてふり付けをくりかえし練習しているらしかった。

「《エミリーさん、もっと腰を落として》」
「《はい、先生……》」

エミリーはがんばってるけど、あれは多分あたしよりへたくそね。
まあしかたないか、まだ小さいし。それに……あんまり楽しくなさそう。

「《ママ……やっぱり、ブヨウはむずかしくてイヤ》」

きゅうけいの時間にさしかかると、エミリーはおばさんにかけより抱きついてそう言った。

「《キモノもおなかが苦しいし、セイザも足がいたいし……》」
「《駄々こねないの。 昨日のお友達が来てるわよ》」

それを聞いて真っ先に後ろを向いてあたしを見つけたエミリーは、
うれしそうに「ヨリチャン!」とさけびながらブンブンと大きく手をふって来た。
昨日ちょっと遊んであげただけなのにすっかりあの調子。しょうがないわね、とあたしも手をふり返してあげる。

「おけいこ、がんばってね」
「ハイ!」

こらこら、そんな大マタで走ろうとしたらこけちゃうから。
91 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:25:40.89 ID:9pdDfgPfo
 
けれど練習がもう一度始まるとエミリーのさっきの元気はどこへやら、またいやいやそうにおどっていた。おばさんに質問してみる。

「あの子日本舞踊、きらいなの?」
「Hmm...」

どうやらおじさんとおばさんに言われて始めたみたい。

「……そうだ、良かったらお手本を見せてもらえないかしら?」
「えっ、あたしが?」

おばさんは急にそんなことを言いだした。
だから日本人だって舞踊はめったにやらないわよ、たしかにあたしはちょっとならできるけど……

「それに、着物もないし」
「いいえ、あるわ。 たぶんあなたにちょうどいいのが」

いきなりそんなこと言われても……むずかしいことは大して覚えてないのに。

「……しょうがないわね」

だけどなんだかすっごく期待されちゃってるみたいだから、水瀬のむすめとして、ここで「できません」なんて言えないような気がした。



おばさんが持ってきてくれた着物は運よくあたしにぴったりのサイズだった。

「《エミリー、よりちゃんがブヨウを踊ってくれるそうよ》」
「《本当に……?》」

それらしい会話をこっそり聞きながら、部屋のはしっこでスタンバイ。おばさんにまで名前まちがえられてるし。
それに今さらだけど、どうしてあたしがこんなことしなきゃいけないのか……いちおう、お客さんでしょ?

──けれど、のりかかった船ってやつだし、昔やったことを必死に思い出しながら、めいっぱいやってみた。
自信なかったけど、何とか一曲舞ってみせる。
92 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:26:41.37 ID:9pdDfgPfo
 
ようやく終わったと思って周りを見てみると、おばさんと先生はにっこりしながら拍手をくれた。最後に小さくお辞儀をする。
エミリーはというと──まぶたをぱちくりさせて、目をキラキラさせながら「Wow...!」とか言ってた。

「That was beautiful...!」
「あ、ありがとう……」

とりあえずほめられていることは分かったので、悪い気はしない。

「《ママ……! すごかった! かっこよかった! キモノもすっごく似合ってる!》」

おばさんの服のそでをつかんで、エミリーがこうふん気味に言っていた。

「《エミリーも練習すればあのくらい上手くなれるわよ》」
「《本当に? なれる?》」

先生も日本語が話せるようで、「さすが本場の技ですね」なんて言ったりして。

「……ま、まぁ、この伊織ちゃんにかかればこんなもんよ!」

なんだかさんざんもてはやされていい気になっちゃったもんだから、ついついそんなことを言ってしまった。

「日本舞踊なんてかんたん。 だってあたし、“大和撫子”だもん!」

エミリーは「そんけいのまなざし」をあたしに向けてから、ちょっとずつ顔に「?」をうかばせる。
93 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:27:45.02 ID:9pdDfgPfo
 
「……ヤマ、タナ……?」
「《ヤマトナデシコよ、エミリー》」
「《ヤマ、ト、ナデシ、コ?》」

おばさんのまねをして何度かくり返したあと、あたしにたずねてきた。

「ヨリチャン、ヤマトナ、デシコ?」
「やまと、なでしこ。 ……そうよ」

ゆっくり、お手本をするみたいにもう一度言ってあげる。

「きれいでつつましやかな日本の女の人のことをそう呼ぶの」
「《……きれいでつつましやかな……》」

エミリーはその後何度も何度も、忘れないように同じ言葉をずっとつぶやき続けていた。



「ヤマトナデシコ……」
ときどき、あたしをじっと見ながら。


────────

────

──
94 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:28:42.37 ID:9pdDfgPfo
 


気がついたら朝になっていた。

あのまま私はエミリーの隣について、ベッドに寄りかかるように眠っていたらしい。
焦点の定まらない両目で床のカーペットに視線を投げる。散乱した自分の前髪が嫌になるほど不気味だった。

「……何やってんだろ、私」

目にかかって鬱陶しい残りの前髪をたくし上げて、腕にひっかけていたヘアゴムで適当に縛りつける。
部屋の隅に置かれた姿見に映る自分の姿は、まるでその見た目だけ昔に戻ったような気分だ。
眠っているエミリーに近寄って、顔をよく見てみた。まだすこし腫れぼったい両目をしっかりと閉じて、静かに規則的な呼吸音を立てている。

右頬をそっと撫でてやると──エミリーはゆっくりと目を開けた。

「《あ……ごめんなさい、起こすつもりじゃ……》」




「……伊織さま……?」




エミリーは眠そうな目をこすり、部屋を一通りくるりと見渡し、最後に私を見て、とろんとした声で言った。

彼女の発した言葉を理解した瞬間──心臓を締め付けていた蔦が一斉に解ける。
95 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:29:44.51 ID:9pdDfgPfo
 
「……エミリー……?」
「……あれ、どうして……? ここは……」
「……エミ、り……っ……」

何ヶ月も何年も彼女の声を聞いていなかったような、そんな気がした。
見えるもの全てが水底に沈んでゆらゆらと揺れ始める。
体を起こしたエミリーを手探りで抱き寄せて、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を彼女の寝間着へ押し付けるように目いっぱい抱きしめながら、
わんわんと止まらない泣き声を力任せに上げ続けた。

「伊織さま? どうかされたんですか? どうして泣いているのですか……?」
「ぢがうのっ……よかっ、よがっだ……う゛ぅ……わ゛あぁああぁあぁっ…………!」

はじめは驚いて少しうろたえていたエミリーは、ずっとずっと情けなく泣き喚いている私の頭をそっと包み込むように撫でてくれた。

「え゛みりぃっ……! え゛みりい゛ぃっ……! っぐ、うあ゛あ゛ぁあああぁっ……!」
「……大丈夫ですよ、伊織さま」

私が泣き止むまでずっと撫で続けてくれた。



「私は……エミリーはここにいますよ……」
96 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:31:17.62 ID:9pdDfgPfo
 
──────

夕方、ロンドンにいる伊織から着信があった。

「本当なのか!?」
「えぇ、今はもうすっかりいつも通りよ……上手くいって良かった……!」
「……そうか……」

大きく息を吸い込んで、胸の奥からこみ上げるものをこらえる。

「できるだけ早い飛行機を取ってそっちに戻るから待ってて。 本当に……ありがとう、プロデューサー……」
「何でだよ、礼を言うのはこっちのほうだ……気をつけてな」
「ええ」

通話を切った後、どうしても我慢しきれずに目元をゴシゴシと拭った。

「みんなに知らせないと……!」

事務所を飛び出して、大急ぎで報告に向かう。
97 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:32:05.18 ID:9pdDfgPfo
 


数日後、劇場にようやく姿を現した伊織とエミリーの二人を、控え室でまだかまだかと待ち構えていたアイドルたちはそれはもう盛大に迎えた。

ホワイトボードにはまるで誕生日と正月とクリスマスが同時にやって来たみたく、
まさしく全員からびっしりとエミリーへの喜びのメッセージが書き込まれている。
何の祝いと勘違いしたのか、所々からクラッカーのはじける音さえ聞こえてくる始末。

「パーティーかなんかだと思ってるのか?」
「まあまあいいじゃないですか。 今日は皆で喜びましょう!」

青羽さんも俺の隣でその様子を遠巻きに眺め、ニッコリと笑顔を浮かべている。
今日に限っては社長と音無さんも劇場を訪ね、文字通り765プロ全員集合といったところだ。

「なんだか、ご心配とご迷惑をおかけしてしまったようで……すみません」

控えめに謝るエミリーの周りには順番にアイドルたちが殺到して、すっかり元通りになった仲間の復帰を心から喜んでいるようだった。

ただ──彼女らには、エミリーに伏せておいてほしいこと、それだけはエミリーに絶対言わないでほしいということをあらかじめ伝えてある。



「……仕掛け人さま!」

もみくちゃの人だかりが少しずつ散り、誰が主役か分からない単なるどんちゃん騒ぎにこの場が変貌するいつもの流れになりかけたとき、
エミリーがこちらにやってきた。
98 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:32:53.41 ID:9pdDfgPfo
 
「お帰り、エミリー」
「はい。 私も、何が何だかまだよく分かっていないのですが……仕掛け人さまにも、ご心配をおかけしてしまったようで……本当にすみません」

エミリーはペコリと頭を下げる。

「そんなの気にしなくていいのに」

戻ってきてくれて嬉しいだけだよ、と言うと、彼女は安心したようにふわりと笑った。

「ただな、安心ばっかりしてもいられないんだ。 俺はプロデューサーだからな……エミリーが無事に戻ってきた以上、次のことを考えなくちゃいけない」
「私はもちろん、すぐにでもまた公演に出させていただきたいです」

その熱意がきっぱりと返ってくる。

「じゃあスケジュール調整からだな。 もちろん無理はさせないけど、エミリーの希望ならすぐにでも」
「はい!」

よろしくお願いします、とエミリーはまた丁寧にお辞儀をしてみせた。
99 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:35:12.99 ID:9pdDfgPfo
 


エミリー・スチュアート復帰公演の告知を行ってから、その日のチケットが通常の何倍もの早さで売り切れたことはただの偶然ではないだろう。
誰もが彼女の帰りを待っていたという確かな証だ。

その夜。何曲かで他のメンバーがステージを温め──みんなには申し訳ないが、今日に限ってはどの演目も前座に過ぎない──、
観客たちがいつだまだかと痺れを切らし始めるギリギリのタイミングでついにお待ちかねの時間がやってくる。

照明を全て落とし、真っ暗になった劇場がほんの少し静まったタイミングを見計らうかのように「だってあなたはプリンセス」のイントロが鳴り響いた瞬間、
まさしく劇場全体が震えた。
舞台袖にいた俺も思わず後ずさる。
およそ一ヶ月ぶりの公演。この劇場ではおそらく体感したこともないような、
バックミュージックがかき消されんほどのとんでもない量の大歓声を浴びながらステージに現れたエミリーとまつりは、
いつも以上に息をぴったりと合わせ、まさしく本物の双子のように鏡合わせで踊り、歌った。
100 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:36:16.34 ID:9pdDfgPfo
 
観客席のほとんどはエミリーのシンボルカラーであるバイオレットのサイリウム一色で埋め尽くされ、
そこにエメラルドグリーンの光がちらほら混ざっている。

圧巻の光景だった。

揺れる何百何千の光の中心にいる二人の表情を遠くからチラリと覗いてみる。
エミリーはとても楽しそうでにこやか、まつりは……同じように楽しそうだが、何かをこらえているようにも見えた。

「あー、こりゃあれだな」

しょうがないよなぁ、とこっそり呟いた。彼女はとくにエミリーのことを心配してくれていた一人だから。

『音声さん、終わったらいっぺん二人のマイク切っといてください』

念のため無線で連絡を入れておく。


曲が止まり、一際の大きな歓声に包まれる中、ついにまつりは我慢しきれずに隣のエミリーに飛びついた。
肩をかすかに震わせながら、エミリーの足が浮いてしまうほどにぎゅっと力強く抱きしめていた。
ぎょっとして固まっていたエミリーも──ゆっくりとまつりの背中に腕を回す。

二人はしばらく抱き合ったままその余韻に浸り、歓声と拍手はその間も鳴り止む隙がなかった。
101 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:37:40.76 ID:9pdDfgPfo
 
その後も数曲ずつ空けてエミリーの出演するステージは大盛り上がりを見せた。

“Princess be Ambitious!!”ときて“Eternal Harmony”、最後にはソロの“はなしらべ”。
どれも割れんばかりの歓声に包まれ、曲が終わればメンバーはエミリーに駆け寄り彼女の復活を祝った。

本人が望んだとはいえまたステージに立たせるのがあまりに急だったのではという心配もなかったわけではないが、
俺の不安を容易く払拭するかのようにエミリーは完全に以前どおりのパフォーマンスを披露してくれる。
結局俺には彼女にしてやれることなどほとんどなかったが、こういう結末を迎えられたのならなにも言う事はない。



『……私エミリースチュアート、ようやく戻ってまいりました。 今までたくさんのご心配をおかけした事をお詫びいたします……』

“はなしらべ”の演奏がおわり、エミリーはステージに一人残って改めてごヒイキ様方への挨拶の言葉を述べていた。
相変わらず、衣装のブーツを脱いで裸足になり、正座になったままでゆっくりと言葉を並べていく。
102 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:38:56.42 ID:9pdDfgPfo
 
「エミリーはしっかりやってる?」

ずっと彼女の様子を眺めていると、後ろから声をかけられた。伊織だった。
前髪を全てたくし上げ、リボンつきのカチューシャで留めている。
その見た目が、この事務所で初めて伊織に出会ったころを思い出させた。

「よっ。 その髪型懐かしいな」
「何よ。 伸びたらまた戻すわよ……」

伊織は恥ずかしそうに一瞬こちらを睨みつけ、視線を逸らした。しばらく二人でエミリーを眺める。

「──全然知らなかったよ、二人のこと」

少し間を置いて、伊織のほうを見ずにそっと話しかけた。

「何で話してくれなかったんだ?」
「わざわざ言うようなことじゃないからよ」
「伊織はいつから気づいてたんだよ」
「エミリーとこっちで初めて会ったときからね」

伊織もこちらを見ずに続ける。

「ただ、エミリーのほうはずっと気づいてなかったみたいだし。 わざわざ打ち明けて、恩着せがましいことはしたくなかっただけ」
「でも、バラしたんだろ? だったら──」
「エミリーは知らないままよ」
「そうなのか?」

尋ねたと同時に、そうだったと思い出す。

「だってあの子、今度は頭を打ってから元に戻るまでの間の記憶が全くないんだもの」
103 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:41:47.91 ID:9pdDfgPfo
 
今のエミリーは、日本語が分からなくなっていたことも、昔の記憶を失っていたことも、何も知らない。
社長とも相談して、その事実は一切彼女に知らせないことにした。

何もなかったことにする──他のアイドルたちに徹底させたのはこのことだ。



「──あの子の中では、自分が一ヶ月近く気を失ってたことになってる」
「それはそれで、ちょっと戸惑っちゃうことだとは思うけどな」

おそらく冷静ではいられなかっただろう。
そんな中、目を覚まして真っ先にまた戻りたいと言ってくれたエミリーの想いをみんなで尊重した結果が、今日のこのステージだ。
大成功に終わってとりあえずは一安心だが、まだまだみんなで支えてやらないといけない。

「当然、私たちや事務所のみんながあの子の為にやってきたことも……本人は知る由もないってことなのよね」
「……不満か?」
「まさか」

伊織はゆっくり力強く否定した。

「エミリーが無事に帰ってきた。 これ以上何を望むって言うの?」
「同感だね」

ステージではエミリーの言葉一つ一つに温かな拍手が送られ、時折彼女を呼ぶ声も聞こえる。
エミリーはその声一つ一つに応えるように手を振っていた。
104 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:42:40.99 ID:9pdDfgPfo
 
「──そうそう」

もう心配はなさそうね、と控え室に戻ろうとした伊織を引き止める。

「この後ちょっとしたサプライズを用意してるから、伊織はこのままここにいてくれ」
「はぁ? 復帰したばかりのエミリーにそんなことするの?」
「エミリーじゃないよ」

どうやらスピーチが終わったようで、長めの拍手が続く。

『──ここで、お呼びしたい方がいらっしゃいます』

エミリーが舞台袖にいる俺たちの方を向いた。

『伊織さま! 伊織さま、どうぞこちらへ!』

伊織の体がピクリと反応した。

「えっ、わ、私?」
「ほら、呼んでるぞ。 行ってやれよ」
「待ってよ、サプライズって私に対してなの!?」
「いいから、ほら行ってこい!」
「ちょっと──」

ポンと背中を押してやると、伊織は渋々ステージの真ん中まで歩いていく。
また大きな拍手と、時折挟まる伊織への声援に笑顔で対応しながら、伊織はエミリーの真横についた。
105 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:44:35.10 ID:9pdDfgPfo
 
『休養中、私はたくさんの方々に支えて頂きました。 事務所で共に活動しているみなさん、仕掛け人さま、そしてごヒイキの皆さま、大勢です』

正座の姿勢を伊織に向けて、エミリーはじっと伊織を見つめた。

『その中でも伊織さまにはとくにお力を頂いたと、皆さんから教えていただきました。 今ここに居られるのは間違いなく、伊織さまのおかげです』
『エミリー……』
『……本当に、ありがとうございます』

ステージに両手をつき、エミリーは深々と頭を下げる。

『…………』

伊織は少し困っていたものの、その次には──自分もゆっくりと、エミリーと同じようにブーツを脱ぎ、
エミリーを正面に膝をついて、同じようにエミリーに向かって礼をしてみせた。

「伊織……」

大和撫子が二人、同じステージにいるようだった。
また拍手が沸き起こり、伊織はすぐさま立ち上がっていそいそとブーツを履き直す。

『あんたも、もうよしなさい』

言われて、エミリーも立ち上がる。とても幸せそうな笑顔を浮かべていた。
106 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:45:25.26 ID:9pdDfgPfo
 
ようやく衣装を元に戻し、エミリーは切り出した。

『──伊織さま。 よろしければ、私と二人組の曲を歌っていただきたいのですが……』
『デュエット……って……アレ? 劇場でやったことなんてないでしょ?』
『はい。 ですが私は、伊織さまと歌いたいんです』
『……振り付けもないのに?』
『仕掛け人さまには、許可をいただいています』
『……全く……こういうときだけ準備いいんだから』

伊織がこちらを睨んできたので、ヒラヒラと手を振ってやった。

『……いいわよ。 伊織ちゃんからの復帰祝いだと思いなさい』

観念したかのように承諾してくれた。

『Yes! ……はっ! つい英語が……』
『……あんたもまだまだね。 にひひっ』

すでにCDでは出している歌なので、知ってくれているファンも多い。
予想を裏切る展開に、観客席からざわめきめいた歓声が沸いた。

『じゃあ、曲紹介してくれるかしら?』
『はい!』

エミリーがまた前を向く。
107 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:46:24.04 ID:9pdDfgPfo
 
『ごヒイキ様方。 この曲は──大切なお友達となら日々の些細な風景も、わくわくと驚きの出来事に変えられる。
 そういう幸せを、いつまでも大事に分け合いたい……そんな想いが詰まった歌です』

二人で目を見合わせ、

『私、エミリースチュアートと』
『水瀬伊織の』
『一夜限りの二人の舞台、お楽しみくださいませ!』
『聴いてください──』

タイミングを合わせたかけ声に続いて、ピンクと紫に照明のカラーが変化していく。


『『“Little trip around the world”』』


リズミカルなピアノの伴奏がご機嫌に走り出した。
伊織とエミリーはただステージの真ん中で、リズムに合わせてピョコピョコと揺れながら、それぞれに特徴的な可愛らしい歌声を交互に音へのせていく。

いつまでも続いてくれるような錯覚さえ与える、緩やかで暖かな時間。
その時間を彩る優しい歌声を、765ライブ劇場の真ん中から、伊織とエミリーは心から楽しそうに響かせていた。



ずっと、二人仲良く手を繋いだまま。
108 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:47:35.34 ID:9pdDfgPfo
 
──

────

────────

今日はおばさんとエミリーのお買い物にいっしょについていくことになった。

エミリーったらウッキウキでよろこんじゃって、そんなにお買い物好きなのかしら。
あたしは自分でしたことないからわかんない。いっつもメイドたちがやってくれるし。

「きっとヨリチャンと一緒だから喜んでるのよ」

へぇ、そう……ま、まぁ、好かれるのは悪い気はしないから良いけれど。

「《ヨリチャン、スーパーマーケット行ったことないの? わたしがおしえてあげる!》」
「張り切っちゃってるわねぇ」
「《まずはね、入るのにメンバーズカードがいるの。 それで……》」

おばさんも困ったようにわらってた。別に教えてもらうことなんてないわよ、もう。
109 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:48:14.29 ID:9pdDfgPfo
 
スーパーマーケットって意外とおっきい。うちのおやしきとおんなじくらい。
お店に入ってすぐ、おばさんが買い物カートをとって押し始める。

「《わたしがおす!》」

エミリーはそう言ってたけど、意外に重かったみたいでぜんぜん前に進んでない。

「……しょうがないわね。 エミリー」
「?」

ちょっとだけ左によってもらって、右の取っ手をつかんだ。

「ふたり、で、おす。 OK?」

エミリーはにっこり顔でうなずいた。あたしもあまやかしちゃってるのかもね。
けど、むじゃきなエミリーは正直言ってかわいい。
110 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:49:15.08 ID:9pdDfgPfo
 
「ふふっ。 だったら、お買い物頼んじゃおうかしら?」

おばさんが言った。

「えっ、二人で?」
「エミリーにメモは渡してるから、一緒に探して来てくれない?」
「《二人で行く!》」

エミリーはまたまたはりきっちゃってる。あたしここのことなんにも知らないんだけど。

「大丈夫なの?」
「大丈夫よ、 ああみえてエミリーは一人でもできるから」

へぇ、そうは見えない。

「二人で楽しんでらっしゃい!」

見送られて、最初のさがしものをエミリーに聞いてみた。
日本語でなんて言うか分からないみたいで、メモの一番上をゆびさした。

「“cucumber”…あぁ、“きゅうり”ね」
「……ワカル?」
「ええ」

エミリーはむこうを向いて、「アッチ!」とだけ言った。
周りを見てみるとたしかにいろんなものがいっぱいあってちょっとおもしろい。
それにエミリーのニンマリした横顔をみていると、なんだかこっちまで楽しくなってきちゃう。ふしぎな子ね。
111 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:50:56.38 ID:9pdDfgPfo
 


「じゃあ、行くわよエミリー……レッツゴー!」
「Let's go!」


まさかこんな外国で出会った女の子とこんなになかよくなるなんて、思ってもみなかった。
だけどエミリーはすっかりあたしになついてくれてるのがわかる。

……あたしも、ちょっとくらいはこの子のこと、友達だと思ってあげてもいいかも。



ゆっくりとそろってカートを押し始めると、まるで小さな世界旅行がはじまったみたいだった。

https://www.youtube.com/watch?v=oO2mHe8jAy0
112 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:55:49.30 ID:9pdDfgPfo
 


パパのお仕事が終わったみたいで、あたしが日本に帰る日が来た。
エミリーのおじさんが空港まで送ってくれるらしいから、パパといっしょに車で連れて行ってもらうことになった。



「すみませんね、ずっと娘の世話をしてもらって。 いろいろ仕事が立て込んで……」

助手席にすわっていたパパが言った。

「いえいえ。 エミリーがずっとイオリちゃんに遊んでもらって、とても楽しいって言ってました」
「そうでしたか、それは良かった」
「《そうだろ、エミリー?》」

後ろの席にとなりあってすわっているエミリーは、おじさんの言葉に小さくうなずいてそのままずっとだまってた。
113 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:56:42.98 ID:9pdDfgPfo
 
空港についても、エミリーはずっとだまったままだった。きのうまではあんなに元気だったのに。



ひこうきの時間までどれくらいあるか分からないけど、そろそろ中に入らなきゃってパパに言われて、本当にお別れの時間がやってきた。

「おじさん、お世話になりました。 おばさんにも伝えてください」
「もちろん。 またいつでも来てね」

おじさんにぺこりとごあいさつをした。

「……エミリー?」

エミリーは今日あたしの顔を見ようともせずに、ずっと下を向いてた。
いつもよりもっと小さくなってるエミリーの正面に立って、パパに教わった英語で、話しかけてみる。

「《楽しかったわよ、ありがとうね。 元気で》」
「《……ヨリチャン……行かないで……》」

エミリーはとたんに顔をクシャクシャにしかめて、ボロボロなみだを流しはじめた。
あーあもう、だめじゃない……
エミリーはそのまま止まらなくなって、わんわん泣き出しちゃった。
114 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:58:17.24 ID:9pdDfgPfo
 
「《エミリー、泣いてても伝わらないぞ。 ほら、お友達になんて言うんだった?》」

おじさんが背中をさすってあげると、ちょっとだけ落ち着いたのか、
エミリーは顔をなみだと鼻水でぐしょぐしょにしながら何とか口を開いた。日本語だった。

「……ワタシ、ヨリチャン、ノ、コト、ワスレナイ……」
「うん」
「ヨリチャン、カッコヨクテ、ステキダカラ……ダイスキ」
「……うん」
「ワタシ……ヤマトナ、デ、シコ、ニ……ナル……ヨリチャン、ミタイニ……」
「……そう。 大和撫子になりたいの?」

また泣き始めるエミリーの頭をなでてやった。

「じゃあ日本舞踊と、日本語の勉強がんばんなさい。 伊織ちゃんの100倍くらい努力すれば、なれるかもね」

エミリーは必死にコクコクとうなずいていた。

「《……これ、あげる》」

かばんからエミリーが取り出したのは、小さな黒いつつだった。

「これ、何?」

ふたを開けてみると、中には一枚の絵が入っていた。あたしとエミリーが描かれた絵だった。

「……あんたがかいたの?」

エミリーがうなずく。
115 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:59:56.61 ID:9pdDfgPfo
 
あたしはしばらく考えて、パパのほうを見た。

「どうしたんだい?」
「パパ、書くものある?」

ペンを借りて、エミリーがくれた絵のはしっこにすらすら書きくわえていく。

「……?」

書き終わって、わかんないだろうけど、いちおうエミリーに見せてあげる。

「……これは、エミリーが持ってなさい」
「……?」
「これがあれば、伊織ちゃんのこと一生わすれないでしょ?
 ちゃんと勉強して、いつかそれが読めるようになったら日本にきなさい! そうすればまた会ってあげる」
「…………」
「わかった?」

おじさんが顔を何度ふいても、エミリーは何が何だかわからないくらいまた顔をぐしゃぐしゃにして、何度も何度もうなずいた。

「ワカ、ッタ……」
「約束よ。 見てて……日本ではこうするの」

エミリーに“指きりげんまん”を教えてあげると、エミリーはようやくニコッとわらってくれた。
そうそう。あんたはその顔がいちばんかわいいんだから。
116 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/11(火) 00:00:55.37 ID:RGC72AKso
 


「じゃあね、エミリー」
「サヨナラ、ヨリチャン」



空港のゲートを通った後も、ふりかえるたび、エミリーはあたしが見えなくなるまでずっと手をふってくれていた。



ようやく見えなくなって、あたしとパパだけになったしゅんかん、あたしはパパにだきついた。

「偉いなぁ、伊織は。 お姉さんだもんな」


パパはあたしが泣きやむまでずっと頭をなでてくれた。






“またね、大和撫子。”
117 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/11(火) 00:02:24.70 ID:RGC72AKso
 
──────



いつだって、あのときのことを忘れたことはありません。



大好きな日本。憧れの大和撫子。それを教えてくれた大切なお友達。
ずっとずっと貴女のことを想ってきました。

今はまだ私に気づいていないでしょうけれど、
いつか私がもっともっと努力を重ねて、本物の大和撫子になれたとき、
今度こそ私は貴女に会いに行こうと思います。
だから、そのときはまたあの頃と同じように私とお話してほしいです。
貴女の気高さと優しさに憧れて、私はここまで頑張って来られました。
日本語上手になったねって褒めて下さい。
私に負けない立派な大和撫子になれたわねって、褒めて下さい。
その日まで私はまだまだ頑張ります。

だからそれまで待っててね。







“よりちゃん”。

──────
118 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/11(火) 00:04:25.56 ID:RGC72AKso
 

https://i.imgur.com/iWom8q0.jpg



【エミリーが忘れた日 ・ おわり】
119 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/06/11(火) 00:08:31.34 ID:RGC72AKso
いおエミ…それは無限の可能性。


長いですがお付き合いいただきありがとう



別のミリオンSS(短い)↓

高坂海美「えっ、待ってこれ母乳!!??」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1552483357/

桜守歌織「元気モリモリ桜守ーっ♪」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1553779924/
120 : ◆NdBxVzEDf6 [sage]:2019/06/11(火) 01:14:49.10 ID:QnJN34LM0
外交官の娘だからと勝手に納得してたけど、こういう過去話があって今の感じになったていう設定好きだわ
あと765プロ英会話教室の話がよりちゃんにつながってるのいいね
乙です

エミリー(13) Da/Pr
http://i.imgur.com/9OpKKgh.png
http://i.imgur.com/NhzSoUN.jpg

>>7
水瀬伊織(15) Vo/Fa
http://i.imgur.com/H5vSE82.png
http://i.imgur.com/b1tfvJd.jpg

>>6
音無小鳥(2X) Ex
http://i.imgur.com/rJCkhta.jpg
http://i.imgur.com/ElSKgHB.jpg

青羽美咲(20) Ex
http://i.imgur.com/N78dpoq.png

>>12
百瀬莉緒(23) Da/Fa
http://i.imgur.com/lA2hT5h.jpg
http://i.imgur.com/K6xrSvf.jpg

真壁瑞希(17) Da/Fa
http://i.imgur.com/z6JtvVt.jpg
http://i.imgur.com/FIy4rBB.jpg

>>13
秋月律子(19) Vi/Fa
http://i.imgur.com/Sa3GLml.jpg
http://i.imgur.com/FUliF1H.jpg

>>15
如月千早(16) Vo/Fa
http://i.imgur.com/QSD17Wq.jpg
http://i.imgur.com/YhhIZrQ.jpg

>>16
徳川まつり(19) Vi/Pr
http://i.imgur.com/gibsFwR.png
http://i.imgur.com/1weF2P5.png

>>39
舞浜歩(19) Da/Fa
http://i.imgur.com/uCJprch.png
http://i.imgur.com/LhM3HZX.jpg

中谷育(10) Vi/Pr
http://i.imgur.com/ckiIlCt.png
http://i.imgur.com/OJziXCQ.jpg

箱崎星梨花(13) Vo/An
http://i.imgur.com/sNvbLWS.png
http://i.imgur.com/bDaf1XU.jpg

大神環(12) Da/An
http://i.imgur.com/5dRXgxU.jpg
http://i.imgur.com/jxS64Ts.jpg

木下ひなた(14) Vo/An
http://i.imgur.com/tOUxOO7.png
http://i.imgur.com/E2sNtCH.jpg

>>11
「Sentimental Venus」
http://www.youtube.com/watch?v=sc61TVMYuEk

>>15
「Eternal Harmony」
http://youtu.be/-dxufzS0ff0?t=86

>>16
「Princess Be Ambitious!!」
http://www.youtube.com/watch?v=do_JVQZGqXE

「だってあなたはプリンセス」
http://www.youtube.com/watch?v=8ThaAND6JTc

>>50
「はなしらべ」
http://www.youtube.com/watch?v=ImGjRmpvvCE
121 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/11(火) 04:45:50.12 ID:TWL7ZiSU0
乙。
シタじゃあまり語られないエミいおが素晴らしかったです!
外交官って新たに出た設定で幼い頃の二人を組み合わせてからの
little trip around the worldに繋げるのがまた好き
122 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/06/11(火) 13:37:16.98 ID:o319uoutO
おつ
方や外交官の娘、方や財閥の娘、確かに幼い頃に会っててもおかしくないな。こういうの大好きです。
123 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/12(水) 00:43:12.35 ID:KFidxtmTo
良いいおエミだった。掛け値なしに。
124 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/13(木) 02:16:08.47 ID:0zmRbUXd0
おつ
125 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/06/13(木) 14:44:06.67 ID:C7oVlqDXO
おつ良かった
126 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/15(土) 17:55:41.80 ID:AaLztLAJo
しゅごいでしゅ!
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