15:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:52:53.65 ID:fM9nM/xA0
『……以上のことから、今回のマッチアップはぎりぎりまで保留しておくのが妥当と考えられます。メディアへのかく乱と情報操作、及び興業の進行、事後処理については全て私の一任で行わせていただく所存であります』
何一つ怯むことなく、海千山千の古狸が揃った上層部を相手に言い放った、十時さんのプロデューサーの姿を思い返す。
それはつまり興行が失敗に終わったり、情報がどこかに漏れたりすれば自分が腹を切るという宣言に他ならなかった。
正直、意外だった。理由はわからない。ただ、彼も今回のマッチアップには積極的で、そしてその働きがなければ俺の要望はいかに手管を尽くしたって通らなかったといっても過言ではない。
16:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:54:06.53 ID:fM9nM/xA0
「ああ、千夜か……そっちは大丈夫?」
「……これほど時間が経ったのです、多少は落ち着きました。お前に心配されるほどではありません」
「ならよかった」
嘘だろう。鉄面皮と仏頂面を保ってこそいるが、缶コーヒーを包み込む、黒いタイツに覆われた千夜の指先は微かに震えていた。
17:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:54:55.75 ID:fM9nM/xA0
『お嬢さまは、価値のなかった私に意味をくれた』
どこかで読んだ本に書いてあった。人生とは今まで積み重ねた過去の総和であると。
だとすれば積み重ねた過去が全て無価値になる、無に帰することがあったのなら、そして更にそこから引き算が成されたら、人間はどうなるのか。
大学時代にキルケゴールの本を読んで、レポートを書けという課題が出たのを思い出す。死に至る病だったか、宗教観が強くて大分癖のある本だったが、それでも多くの人間がタイトルから想起する通りに、絶望は人を死に至らしめるのだと、そういうことが書いてあったはずだ。
18:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:56:01.21 ID:fM9nM/xA0
「……私は」
永遠にも似たその重力を先に振り切ったのは、果たして千夜の言葉だった。
震える唇が微かに紡ぎ出した、たった一言。それは知らない人間が聞いたのなら、いつもと変わらないように怜悧で鋭い響きを持っているようにも聞こえるのだろう。
ただ、そこには絶望があった。きっと過去に戻って彼女の口からもう一度その名前を聞いたときにも同じ事を感じるのであろう、果てのない虚無。
19:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:56:49.02 ID:fM9nM/xA0
「悪くなかった。従者としてお嬢さまと共にある自分以外の自分ができることも、偏屈で、他人が嫌うような私にわざわざ関わりを持とうとした変わり者に囲まれることも。いつしかそう思うようになって……私の中にはもう一つの価値が生まれてしまった」
舞台の上では主人であるちとせと対等の存在として肩を並べる、ヴェルベット・ローズとしての白雪千夜。年少組に囲まれて、困惑しながらも小さな彼女たちの面倒を見る白雪千夜。この事務所に来てから彼女の中に生まれたものを、彼女が価値と言い換えていたそれを数えていけば、枚挙に暇がないだろう。
価値。定量化できるもの。換算できるもの。
20:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:58:20.50 ID:fM9nM/xA0
「……私は。生きたい。私として、お嬢さまと生きたいんだ。少しでも長く、お嬢さまと……舞台に立って、共にありたいと、その為の価値を、自分に求めている。おかしいだろう、お前を散々夢想家だなんだと笑ってきた私がこの有様だ、何よりもそれを最上位に置いているんだ。ここでの日々は悪くない。変わり者だと今でも思う時はあるけれど、私に接してくれた人間を無碍にすることはできない。ただ……そこにお嬢さまがいなければ、私は」
笑ってくれ。自嘲する千夜の瞳からは、絶え間なく涙が注いでいた。
注ぐ。空には満天の星々が輝いているのに、ここだけが地球から切り離されて、雨が降り注いでいる。
21:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:59:13.10 ID:fM9nM/xA0
それでも、俺は。
俺の身体はまだ、涙を流せてはいなかった。できることなんて、ただ三十六度の熱を持った壁になることぐらいだった。
神様に祈ったことは何度もある。だけど、今回は特別だ。
もしも。もしもだ。定量化されることを、価値と無価値に分けられることをあんたが否定するのなら、俺がこうしていることにも、何かの願いや祈りが、そこに込められた意味があってくれるのだろうか。
巷に雨が降るように、と、昔の詩人がどこかで言った。その通りだと、そう思う。なら、俺の心に溢れているものは、どうやったら外に出てくれるのだろうか。
22:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:59:59.33 ID:fM9nM/xA0
月明かりに照らされた病室は、ドラマで見るよりもずっと静かで、背筋に粟立つような怖さがあった。
『……私は祈りました。願いました。お前も……お嬢さまに仕える者であるなら、そうしてはいかがですか』
一頻り泣いた千夜を見送るときに聞いた言葉を思い返す。そういえば仕事の事後処理やら何やらで、まだ一度しかちとせには面会していなかったし、その時間だって短いものだった。
23:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:00:57.96 ID:fM9nM/xA0
誰かの死に目に立ち会うという経験は何度かあった。
縁起でもない話なのはわかっている。それでも今、死という場所に一番近いちとせを見て、それを思うなというのも難しい。
死、という言葉を聞いたとき、人が考えるのは多分ありったけの苦しみとか痛みとか、そういうものであるはずだ。
初めて誰かの死を見送ったのは、飼っていた猫の時だった。
24:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:02:11.96 ID:fM9nM/xA0
正直、今のちとせの側にいて、俺ができることが何なのかなんて、病室にいる今でも見当がつかない。
ただ、千夜の言葉を聞いたとき、俺は弾かれたように飛び出していた。そうしなければいけないという確信が、思考回路の演算を振り切って、両足を動かしていたのだ。
今の俺に、できること。
考える。このまま朝なんて一生来ないんじゃないかと疑いたくなるような沈黙の中で、ただひたすらに思考の海をかき分けて、記憶の引き出しを、おもちゃ箱でもひっくり返すように乱雑に開け放って、答えを探し続ける。
25:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:03:05.75 ID:fM9nM/xA0
それでも。
それでも、そんな夢みたいな奇跡がこの世界にも転がっていることを俺たちは知っている。
天海春香がアイドル・アルティメイトの舞台に立った時、観衆の反応は明らかに冷ややかなものだった。テレビの前で見ていた奴らの中にも、無名の事務所の売り出し中とはいえよくわからないアイドルが画面に映ったとき、チャンネルを変えようとしたのはきっと少なくないはずだ。
それでも、天海春香は奇跡を手繰り寄せた。彼女が話す言葉が、歌い上げた歌詞が、私を見ろと、天海春香はここにいると、そっぽを向いた人間の首根っこをひっつかんで、無理矢理彼女の方へと振り向かせたのだ。
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