88: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:54:29.28 ID:hoMUvMIQo
――ずっと雨が降っている。
その始まりは、最早思い出すことが出来ない。
いつの日からかずっと、今日に至るまで、私の空には雨が降り続いている。
いつかの私は雨の冷たさを嫌って、だから傘を欲しがって、だけどいまはもうその感情の行方さえ不確かで曖昧だ。
89: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:54:57.91 ID:hoMUvMIQo
「あさひ」
90: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:55:34.55 ID:hoMUvMIQo
と、不意に。
彼が私の名前を呼ぶ。
無理に沈めたような調子で響いた声は、沈黙を破るためのものではなく、むしろこの雨音から沈黙を取り返すためのものみたいだった。
91: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:56:09.88 ID:hoMUvMIQo
そう尋ねる彼の言葉がなんだかひどく的外れに思えて、私はつい笑う。
「プロデューサーさんにはそうみえるっすか」
92: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:56:43.44 ID:hoMUvMIQo
「強がるなよ」
「強がってなんかないっすよ」
「強がってるだろ」
「違うんす。本当に、覚えがなくて」
93: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:57:14.75 ID:hoMUvMIQo
プロデューサーさんはそこで一旦言葉を区切る。
踏み出すことを躊躇うような途切れ方だった。
彼の表情はいまも見えないままだ。
94: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:57:41.13 ID:hoMUvMIQo
不自然に空いた私たち二人の隙間を、通りすぎる雨の音がいっぱいに満たしていく。
胸が苦しかった。
まるで深い海の底へ沈んでいくみたいで、上手に息ができなくなる。
95: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:58:28.91 ID:hoMUvMIQo
「それは、気づいていないだけだ。あさひだったら分かるだろ」
彼はそう言った。
私は首を縦にも横にも振らなかった。
96: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:59:02.34 ID:hoMUvMIQo
「あさひは本当に強いよ。俺は、あの人だって、そのことを痛いほどに知っている。だけどさ、あさひ。この世界には、道の途中に置いていったって構わないものが幾つもあるんだ。全部を背負って生きていくなんて、普通は出来ることじゃない」
「プロデューサーさんの言いたいことは分かるっすよ。ちゃんと分かってるつもりっす。でも、そんなの、仕方がないじゃないっすか。わたしだって、望んでこうなったわけじゃない」
捨ててしまえば楽になるなんて、そんなことは分かりきっている。
97: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:59:43.54 ID:hoMUvMIQo
「時々、分からなくなるんす。何が本当で、何が嘘なのか。こう表現するのが正確なのかは分からないっすけど、わたし、多分プロデューサーのことが好きだったんす。それについては、どうみえてたっすか?」
「俺も同じように考えていたよ」
「そうっすよね、よかったっす。でも、なんだか、いまとなってはそれも全部嘘みたいで。いつかの自分は、全く別の感情のことを好意と錯覚していたんじゃないかなって」
「それは、きっと自然なことだと思う」
98: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 21:00:35.20 ID:hoMUvMIQo
冬優子ちゃんが泣いていた。普段は明るく振る舞う愛依ちゃんも、あのときだけは涙を浮かべながら、私のことを強く抱きしめてくれた。
事務所にいる他のみんなも共通の何かを悲しんで、私のことをまるで憐れんでいるようだった。
プロデューサーさんは泣いてこそいなかったけれど目元が若干赤くて、それに酷く疲労困憊した様子で、私にすべての事情を話してくれた。
153Res/110.09 KB
↑[8] 前[4] 次[6]
書[5]
板[3] 1-[1] l20