62: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:37:22.52 ID:hoMUvMIQo
扉を開くと、まるで芳香剤の残滓を絡めとるみたいに、雨上がりに特有のむんとした匂いが鼻を突いた。
頬を掠めていく風は、まるで薄い水膜を通した布のように冷たく湿っていた。
身体を若干屈めて外へ出る。
63: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:38:12.35 ID:hoMUvMIQo
樹木の陰に隠れた白いアスファルトの坂を上っていく。
私以外には他に誰もいないようで、木々のさざめきと小鳥のさえずりだけが濡れた大気に揺れている。
経路を切り取るように組まれた石垣は、まるで何百年も前に建てられたもののようだ。
異世界にでもやってきたみたいだと思った。
64: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:38:59.63 ID:hoMUvMIQo
飽和した空の下、雨の残り香がそこら中に満ち満ちていた。
以前、プロデューサーに教えてもらったことがある。
この匂いには名前が与えられていて、たしか、ペトリコールといったはずだ。
65: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:39:33.88 ID:hoMUvMIQo
三段ほどの小さな階段を上り、左へ折れる。
腕と同じくらいの太さの丸木が等間隔に打ち立てられている。
それらにロープを括りつけて繋げただけの簡素な柵に沿って、私はなおも前に進む。
66: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:40:05.37 ID:hoMUvMIQo
――その二つに大した違いなんてない。
古びた記憶のどこかにいるプロデューサーが答えた。
67: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:40:57.09 ID:hoMUvMIQo
私にはその言葉の意味が分からなかった。分からなくて、それでも尋ねた。
どうしても知りたかったんだ。内側に抱えてしまった感情の正体を。
68: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:41:42.36 ID:hoMUvMIQo
――何者かになりたいと思ったことってある?
69: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:42:15.43 ID:hoMUvMIQo
あれから色々と考えた。
もっともらしい答えのようなものを手にしては、やっぱり違うだなんて言って手放して、そんなことを何度も繰り返した。
その中には、もしかしたら正解があったのかもしれないし、あるいは全部間違っていたのかもしれない。
70: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:43:07.50 ID:hoMUvMIQo
「もっと早くに見つけられていたらな」
目の前に高く聳え立った送電塔に向かって零す。
過ぎたことを嘆いても仕方がない。小さく首を横に振って、私は手元の地図に目を落とした。
71: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:43:50.03 ID:hoMUvMIQo
視界の開けた傾斜を上る。
左後方から右へ向かって斜めに送電線が全部で八本架かっている。それ以外に空を遮るものは何もない。
一面の灰に塗れた空は、あるいは悪趣味な色をした天井のようにもみえる。
なのに、息が詰まるような閉塞感は不思議となくて、そのことがちょっとだけ癪だった。
72: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:44:19.11 ID:hoMUvMIQo
第二区と称された空間に一歩足を踏み入れる。
ここだけは丁寧に石畳が敷かれていて、私は濡れた足元に注意を払いながら歩いた。
普段より足早になっていることにはちゃんと気がついていた。
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