258: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:20:02.91 ID:7K73HWKCO
昼食のあと、皿洗いや雑事をすませ、ふたりは居間でテレビを見て過ごした。BSのチャンネルではむかしのアメリカ映画(『男性の好きなスポーツ』というタイトルだった)が放送されていて、なんとなしに眺めていたが、スクーターを運転する男が突如出現してきたクマとぶつかると、なぜかクマが人間と入れ替わりスクーターを運転するというシーンを見て、永井はおもわず吹き出した。
映画がおわったあと、チャンネルを地上波にかえる。この時間帯はたいていワイドショーしかやってない。話題は厚生労働省前での集会。集会に参加する人間はまったくいなかった。永井は厚労省前の空いた空間を見ながら、亜人は集まっているのだろうな、と思う。黒い幽霊をつかえば、カメラに映る心配もない。佐藤は亜人の仲間を集め、研究所襲撃より大規模な事件を起こすだろう。おそらく、より多くの人間が死ぬことになるだろう。
259: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:21:30.49 ID:7K73HWKCO
永井はあくびをする。冷たい麦茶を一口のんで、手のひらで畳の感触を確かめる。永井は平和だなあ、とほっと一息つく。佐藤が何をしようが、何人殺そうがそんなことはどうでもよく、可能な限りこのセーブゾーンに長く留まりたいと思う。
研究所から脱出するため河に飛び込んだあの日から丸一日かけて、永井はいまいる山村のちかくまで流されてきた。山中のおばあちゃんと出会ったのは偶然であり、幸運な出来事だった。なぜならおばあちゃんは、永井の正体を知ったうえで自宅に招き食事と寝床を提供してくれたからだ。永井はおばあちゃんの善意と提供してくれるものに感謝の気持ちをおぼえた。このふたつはとても大事だ。
260: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:22:47.38 ID:7K73HWKCO
永井「あ」
永井は不意に研究所で遭遇した星十字の幽霊の正体に気がつく。テレビでは厚労省前の集会に関連して、新田美波についてコメンテーターやゲストがてきとうに持論や予想を展開している。画面にはシンデレラプロジェクトの一員としてライブしているときの映像が映っている。永井の眼は美波ではなく、その横で歌っているーーライブの音声は聞こえないーー別の少女を注視している。研究所で耳にした星十字の幽霊が発した声は、子音に強い訛りがあった。
261: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:25:12.45 ID:7K73HWKCO
翌日、山中のおばあちゃんは永井に頼まれたものを買ってくる。小腹をすかせた永井はちょうど煎餅を齧っているところだった。永井は煎餅を口の中に入れたまま、それーースマートフォンーーを操作して動画サイトで目的の動画を検索する。検索欄に名前を入力し、検索結果からインタビュー動画を探し再生する。十秒ほどで動画をとめ、キーパッドに死の前日ーー七月二十二日ーーに偶然見て記憶していた番号を打ちこむ。
呼び出し音を黙って聞いていると、聞き覚えのあるすこし訛った声が答える。
262:名無しNIPPER[saga]
2017/06/10(土) 22:25:55.51 ID:pzaYUQq+0
黒服のおじちゃん達の死は悲しかったな…
263: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:27:25.15 ID:7K73HWKCO
レッスンを終えたアナスタシアは膝に両手をあて、下を向いて息を整えようと努力する。床に汗が滴るにまかせておくと、そのうち呼吸が落ち着いてくるが、それともに身体を動かしていたあいだは感じないでいられた苛立ちと自己嫌悪が復活してきてしまう。
無力感も。
264: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:29:16.20 ID:7K73HWKCO
さらに悪いことが続く。厚生労働省前の亜人虐待への抗議集会への参加者は、ほぼゼロだったと判明した。世間は亜人に関心がないのだろうか? いや、関心はある。だが、行動を起こすつもりがないだけだ。国内に三人しかいない亜人のために行動を起こす者はいなかった。それは永井圭の亜人発覚後の周囲の様子から、うすうすわかっていたことだった。
美波はいま、義理の母親から相談を受けた精神科医の診療と、医師が処方した精神安定剤によって、すこしは持ち直しているようだ。しかし、このことを知ったらどうなるだろう? また、絶望が彼女を襲うのではないか? 今度こそ、救いの可能性は潰えてしまったと思うのではないか? そうなってしまったら、美波は一体どうなってしまうのだろう?
265: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:30:44.08 ID:7K73HWKCO
この事実を美波に伝えることは、アナスタシアには許されていない。アナスタシアだけでなく、シンデレラプロジェクトの他のメンバーにも、プロデューサーにも現時点での通達は許可されなかった。当然のことだろうとは思う。いまこの段階で、美波にさらなるストレスを与えることは、どう考えても精神状態を悪化させる効果しかない。
しかし、いつまでも秘密にしておけるわけではない。治療のため、テレビやラジオや携帯を禁止して情報から遮断したとしても、いずれ美波はこのことを知るだろう。そのとき、わたしはどうすればいいのだろうか? 秘密にしていたことを謝罪するのか? それとも、虐待について抗議の声をあげなかったことを? プロダクションの意向に従い、ラブライカとしてではなくプロジェクトクローネとしてレッスンを受けていることを?
266: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:31:54.23 ID:7K73HWKCO
奏「ひどい汗よ」
顔を上げると、プロジェクトクローネのリーダー、速水奏がタオルとミネラルウォーターをアナスタシアに差しでいている。アナスタシアはお礼を言おうとするが、酷く乾いた喉が言葉を詰まらせる。結局頷くだけして、タオルとペットボトルを受け取る。タオルには熱中対策用のスプレーがかけられ、よく冷えている。ミネラルウォーターも同様だ。アナスタシアは顔の汗を拭ってから、ごくごくと水を飲みひと息つくと、ようやく奏にお礼の言葉を言えるようになる。
267: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/06/10(土) 22:34:00.73 ID:7K73HWKCO
奏「午後からもレッスンを続けるの?」
アナスタシア「もうすぐ、お仕事ですから」
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