56:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:42:37.47 ID:6NLLeJ5C0
やたら真に迫った声がおかしかった。見れば、頬など染めている。まさか、文香にとってこれが重大かつ恥ずべき悪徳だったのだろうか。千夜は笑いを堪えた。
「それくらいのことなら、」
私が教えますよ、と言おうとして、先の中庭で、文香の読書が妨害された際のいきさつを思い出した。彼女はちとせが耳元に接近するまで、全く気付かなかったのではないか。
「少々、没頭してしまう方で……」
「成る程」
57:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:43:12.05 ID:6NLLeJ5C0
「一度など、あまりに熱中しすぎて、ご苦労をお掛けしたプロデューサーさんに、怒られてしまいました…… 《男がいる時は何も読むなよ》と」
「では、今こそ言いつけを守らなくてはいけませんね」
「はい…… それで、私は、聞いたのです。《男性というのでは、では、プロデューサーさんは?》」
「聞いていませんが」
「いえ、確かに聞きました。プロデューサーさんは…… 《じゃ、僕が守ってやれる時だけな》と」
58:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:45:30.16 ID:6NLLeJ5C0
嬉しそうな文香には悪くとも、千夜は話題を変えなければならなかった。≪プロデューサー≫という単語はいかにも、窓の外を過ぎ去っていくビックカメラやマクドナルドの看板よりも余程、乗客の注意を引くようだ。
「あー、その、……そう」とっておきの言葉に飛びついた。「『アリババと四十人の盗賊』」
59:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:46:15.43 ID:6NLLeJ5C0
渋谷だ。電車が止まり、ドアが開く。人が降り、乗る。
「先日、お話しましたね」
文香が微笑んだ。ドアが閉じる、電車が動く。
60:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:46:54.10 ID:6NLLeJ5C0
「はい、それなのですが。……例えばの話、決まった解釈、というのは無いのですよね」
「解釈、というと、幅がありますね…… 文化的背景に基づく考察、ということでしたら」
「ん…… そう大袈裟なものでもないような」
千夜は訥々と、現状を語った。初っ端の読み合わせに躓き、モルジアナについての解釈、最後の台詞の創作を求められた事、稽古が始まって三週間だが、まったく雲を掴むような心地である事、あまり時間が残されていない事。
61:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:47:24.34 ID:6NLLeJ5C0
「そう、ですね……」
文香は聞き終えると、暫く考え込む様子を見せてから、遠慮為い為い口を開いた。
「あらゆる物語に共通することではありますが…… 決まった解釈というのは、やはり難しいですね。作者個人についての研究をもって、生い立ちや交友、思想や信条を知ったうえで、ひとつの文章に思いを馳せようというのなら、それはよい試みだと思いますが……
ご存知のように、千夜一夜物語は、一人の作者の手になるものでは、ありません。古くから多くの語り手によって、脈々と受け継がれてきた物語の、集合体なのです。『千夜一夜』としての原型の成立は、九世紀頃とされます。
62:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:48:01.27 ID:6NLLeJ5C0
文香は滔々と語る。千夜は頷いた。
「『アリババ』の物語や『アラジン』は、千夜一夜物語の中でも特に有名で、ガラン版にも収録されているものなのですが…… これらは、ガランが底本とした写本には存在しないのです」
「存在しない? 原典には書かれていない物語なのですか?」
「はい。千夜一夜物語は、語り手シェヘラザードが、王に様々な物語を聞かせるという構成で、一夜一夜の区切りがあります。一夜に一つの話、ではなく、三十夜を費やして語られるような物語もあるのですが、こういった構成から、ガランは、物語が『千夜一夜』の文字通り千と一夜の分、存在するものだと考えたのです。しかし、ガランの持つ写本には、二百八十三夜の分しか、ありませんでした。
63:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:48:26.65 ID:6NLLeJ5C0
外典とされる、『孤児の物語』。その言葉が時間を止めてしまった、と思った。少なくとも電車は動いていなかった。遠くで事情を説明するアナウンスが流れている。線路内の安全がどうだとか……。
「アラブ出身かフランス出身かも曖昧というのでは…… ますます、ナンセンスなようですね。この物語の背景だの、モルジアナの気持ちを考えてみよう、などと」
「面白い試みだと、思います。それこそ、読むということ、というような」
「あの男こそ、何を考えているのだろうな」
64:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:50:10.15 ID:6NLLeJ5C0
「はあ、モルジアナがここにいたらな。……ここにいたら、話を聞かせてもらうのに」
「はい…… ふふ、そうですね」弾ませて言う。「……小さな真珠。美しき奴隷。叡智と武勇、献身の人」
「そう言われてみると、つくづく役者不足ですね」
「そのようなことは、ないと、思います。……話がしたい、ものですね」
65:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:50:57.49 ID:6NLLeJ5C0
電車は動き出していた。車窓に区切られ、灰色の空が、街並みが、高架橋が、マンションが、後へ後へと流れていく。信号の点滅に急かされ、横断歩道を渡る人が居た。あれぐらいの幅は、千夜なら二十歩は掛かる。あの場にいれば必死になって繋ぐだろう距離を、今はただ座ってやり過ごしている。
66:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:51:28.12 ID:6NLLeJ5C0
ぼうっとしていると、文香が囁いた。
「……灰色は、お嫌いですか」
目を遣ると、彼女はまた、千夜に読めない表情を浮かべていた。大きく見開いた瞳は、探るというより、読み解こうとしているような。締まりきらない唇は、閉じ忘れたというより、微笑み忘れているような。
「……いいえ。好きも、嫌いも」
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