Helleborus Observation Diary 

Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

237 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:44:30.24 ID:QkS64LeQ0




 午前最後の授業は体育で、着替えは休み時間に教室で行う。
 この着替えっていうのが、わたしはどうにも苦手……得意じゃない。

 自分が下着姿である状態そのものが落ち着かない。
 中学校のときは、みんな肌を見せないように器用に着替えていたはずだったけど、
 いま視界に入る人たちはそのままの姿で廊下に出たり、友達同士でくっついたり触り合ったりしている。

 そういうものなのだと、一年生の初めに理解した。理解はしたけど、わたしはどうにも慣れない。見られていると思うと落ち着かない。

 これって、自意識過剰なのかな。
 きっとそうだ。
 でも一人だけわざわざ教室から遠い更衣室を使うわけにもいかないし、誰かからなにかを言われたとしても、それは社交辞令とかお世辞の類で、過剰に反応するのもおかしい。

 それに今の季節は、制服の下に何枚も着ているものがあるから、まだ大丈夫だ。
 脱いで、着る。それだけのこと。
 終わったと息を吐くと、後ろから視線のようなものを感じる。

 慌てて振り向く。けれど、誰もこちらを見てはいない。

 後ろに目が付いてるわけではないから、当然だ。
 換気のためと開けられている窓から、カーテン越しにお昼時にしては冷えた風が吹きつけてくる。そうだ、今日は曇りだった。

238 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:45:28.03 ID:QkS64LeQ0

「どうかした?」

 着替え中のふゆが、向き直ったわたしに訊ねてくる。
 体育の時間の、ひとつ結びにしているふゆもかわいい。……じゃなくて、問いかけに反応する。

「わたしって、自意識過剰だよね?」

「なに、なにそれ」

「ふゆはそう思わない?」

「……いや、私は、そう思ったことはないけど」

 ふゆが怪訝そうに眉を寄せる。

 なんだか言わせてしまったみたいになる。実際言わせているようなものだけど。

「なら、いいの。ちょっと気になっただけ」

「そう? そっかー。まあ、そういうときもあるよね」

 ふゆはこういうとき、いつも踏み込んでこない。わたしだったら理由とか、どうしてそう思ったのかを聞いてしまいそうなのに、ふゆはそうしない。

 そういう距離感の取り方が、もどかしくもあって、嬉しくもある。

239 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:47:13.99 ID:QkS64LeQ0

「ふゆはやさしいね」

「……やさしさ感じる要素あった?」

「うん。いつもやさしい」

 見つめると、居心地悪そうに目を伏せられる。
 そういう反応もまたかわいいと思う。だからなのか、ついつい困らせたくなってしまう。ふゆには悪いけど。

 近くの二人は机にもたれるようにして、話をしていた。

「今日も仲良しこよしね」と栞奈ちゃんがこくこく頷いて、駆けるように歩いていく。
 それに続いたつーちゃんは、わたしたちを交互に見たまま後ろ歩きで教室から出ていく。

「なぜ先に行く。……遅れるし、私たちも行こう」

 上の体操着を羽織ったふゆが、一歩進んでわたしの隣に並んでくる。
 そこから走って二人に追いついて、四人で体育館に向かった。

 体育はここのところいつも自由時間で、今回もそうだった。が、クラス委員の子の提案で、全員でドッジボールをすることになった。
 チーム分けは出席番号の奇数偶数で、三人とは別々のチームになる。

240 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:48:33.41 ID:QkS64LeQ0

 同じチームの子に話しかけられて、コートの中央に向かって数歩前に出る。
 ドッジボールってジャンプボールから始まるんだった。

 タイミングを合わせて跳ぶと、対面している子より早くボールに指先が触れた。

 ボールがコートの中を縦横無尽に動く。それによって、みんなの足も動く。
 キュッキュッという運動靴のスキール音がアーチ型の体育館の高い屋根で反響する。

 つーちゃんと栞奈ちゃんはボールを持つと二人で意味ありげな視線を交わしつつわたしばかり当てようと狙ってきて、何回目かで当てられてしまった。
 ふゆはボールが回ってくると、外野に向けて大きくフライを投げていた。わたしには投げてくれなかった。そしてわたしが外野からふゆめがけて投げるとかわされた。

 わたしの方のチームが勝つと、同じチームの友達が何人か内野から駆け寄ってくる。そのうちの一人の子がわたしの腰に手を回してきて、ぎゅうっときつくハグされる。

 首の近くに顔をうずめられて、身動きが取れなくなる。
 こちらの匂いを嗅ぐような息遣いと、その子の体操着から漂う柔軟剤の甘ったるいような香りに、口の中が渇いていく。
 わたしは誰にも当てていなかったのに、どこか喜ぶところがあったのかな。

241 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:50:13.82 ID:QkS64LeQ0

 体を離されたとき、その子の口がなにかのかたちに動いていた気がしたけれど、わたしも同じように動かせたか自信がなかった。

 次はうまく反応できるといいけど、と数秒目を瞑る。
 そのうちに、ボールの投げ合いがまた始まった。

 一回目は拮抗していた勝負が、今度は短時間で決した。

 三人たちの方のチームが勝ち、わたしの方のチームは負けた。目の前の喜び合いを眺める。
 その途中、目がある一点で止まる。
 ふゆとの距離を詰めて、笑顔で手を握る子がいた。

「あっ」と弾かれたように声が出る。どうしてそういう反応になったか、それは単純に珍しいと感じたからだと思う。

 ふゆはクラスの人たちとあまり関わりを持とうとしていないから、こういうふうに誰かと仲良さげにしているのはめったに見ない。
 つーちゃんと栞奈ちゃんもそういう傾向があって、他のグループの人たちと、授業とかで必要なこと以外の会話をしている印象はない。

 ……ああ、けど栞奈ちゃんは、他のクラスの同じ部活の人とは仲良さそうにしているかな。
 今のクラスにはいないけれど、廊下や学食でバスケ部の人と会ったりすると楽しく会話している。

242 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:53:16.97 ID:QkS64LeQ0

 突然手を握られて、ちょっと驚いたり、困ったりしないのかなと思ったけど、ふゆはなんでもないような様子で、その子と目を合わせて話をしている。

 もしかして、けっこう仲良いのかな……。まったく知らなかった。

 でも、まあ、ふゆと仲良くしたい子がいるというのは、なにも不思議なことじゃない。
 わたしだって最初はそうだったのだから、気持ちはわかる。

 だから、よかった、と素直に思う。
 それはきっと、いろいろな意味でだった。

 無意識に頭を振ると、「ね」と斜め前から声がかかる。

「あれは瑞樹ちゃん。吹奏楽部所属で、生徒会の会計。
 一年生のときのクラスは私とつーと同じで……って、そんなの同じクラスだし普通に知ってるか。そもそも桃は友達だよね?」

 線一本隔てたところにいた栞奈ちゃんが、授業で教科書の文章を読み上げるときのようにわたしに言って、それからふゆの方を向く。

243 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:54:02.83 ID:QkS64LeQ0

「うん、知ってる。友達だよ。……でもどうして?」

「見てたから、その見てる桃を私は視界で捉えた」

 なんだか、英語の翻訳みたいな言い方だと思った。

「……そういうふうに見えてた?」

「いや、ただ見てたからって、それだけだよ。桃がどう思ってるかとかは、知らないしわからない」

 と、わたしに体の向きが戻る。
 そして、つーちゃんに冗談を言うときみたいに笑いかけられる。

「あ、もう始まるみたい。次もちゃんとずばーんと当ててあげるから、覚悟しといてよ」

 次の試合、栞奈ちゃんになにかを耳打ちされたふゆが、若干面倒そうに、小さく「おりゃー」と声を出しながら、わたしの方めがけてボールをゆるく放ってきた。

244 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:55:00.18 ID:QkS64LeQ0




 放課後になって、ふゆと二人で園芸部の部室に向かう。

「文集を書くから残ってく」とふゆがファイルを片手に告げてきて、ならわたしも一緒に勉強していようと思った。

 ばいばいまた明日と廊下ですれ違う友達に挨拶をする。
 その中には体育の時間にハグをしてきた子もいて、でも、手を振りつつ目を向けたら逸らされた。

 わたしたちの教室と園芸部の部室の間には職員室があって、そこでふゆはなにかを思い出したように足を止めた。

 そして、テスト期間につき生徒入室禁止(ノックの後に元気な声で用件をお伝えください)、と張り紙がなされている扉をノックして、
「二年の冬見です。辻井先生いらっしゃいますか」と声をかける。

「はいはーい。冬見さん、と、本橋さん。どうしたの?」

 担任の藤花先生が出てきて、訊ねられる。先生のことはみんな藤花先生と呼んでいるから、辻井先生って一瞬誰のことだろうと思った。
 腕にはこれから二者面談で使うと思われる、ぶ厚い本を抱えている。そういえば、ふゆは進路調査票になんて書いたのだろう。

「文集用の写真を撮りたくて……カメラをお借りできるって、前に先生が言っていたので、借りられたらなと」

「あー……でも冬見さん。いまテスト期間中だけど、大丈夫?」

245 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:55:43.82 ID:QkS64LeQ0

「すぐ終わります。なんていうか、テストよりもそっちの方が気になってしまって」

「なるほどねー、テスト前にふと気になって部屋の掃除とかしちゃう感じ?」

「そうですね。そんな感じです」

「んー、わたしもあったなぁ、そういうこと。うんうん、ちょっと待っててね?」

 バタンと扉が閉まる。そうだ、先生は園芸部の顧問をしているんだった。
 ……いや、そうだっていうか、初めて知った。

 すぐに戻ってきた先生は、「わたしの私物なので、気をつけて。まあ、冬見さんなら大丈夫か」とふゆにカメラケースを手渡した。

 ふゆが一通りカメラの使い方や撮り方などを教えてもらっている間、手持ち無沙汰を覚えて、側にある四角く小さい窓の外を眺める。
 人のいない放課後の校庭を見るのは珍しい。耳を澄ますと、体育館の方からはボールの弾む音が響いてきていた。

「本橋さんは、付き添い?」という先生からの問いかけに、
「のような感じです」とわたしが答える前にふゆが答える。

246 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:56:33.17 ID:QkS64LeQ0

「そう。もしよかったら部活、入らない? あ、こんなときだけ顧問ぶりたいとか、そういうんじゃないからね? 冬見さん」

「あっはい。思ってないですよ?」

 薄く反応したふゆと藤花先生の目がわたしに向く。

「え……っと、でも、いいんですか?」

 自然とそう訊き返していた。
 いままで考えたことがなかった。ふゆと同じ部活。

「いいんですかっていうか、ねえ、冬見さん?」

「あぁその、活動はほぼしていないから、入っても入らなくても変わらないと思うよ」

「そう、悲しいことに。名簿に名前が載るくらいで。部員数でどーこうはないから、特に勧誘もしてこなかったんだよねー」

「部員が多くても、それはそれでなので、私としてはやりやすいですけど」

「そうよねぇ。冬見さんが入ってくれて、部長してくれて助かってるよ」

 またしてもわたしを見て、ふゆと先生は控えめに笑う。
 誘われているのかそうでないのか、つまるところどっちなのだろう。

247 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:58:07.92 ID:QkS64LeQ0

「あぁもうこんな時間。二人ともテスト勉強も頑張ってね。特に数学、今回はわたしじゃないから難しいよー。あと、カメラは明日返してくださいね」

 と先生は朗らかな調子で言って、コツコツと靴を鳴らして歩いていく。

 廊下の一本の道のりだけで、いろいろな学年の生徒に話しかけられて、その度に止まって話を聞いている。
 やっぱりみんなに好かれているんだ。わたしも先生が担任でよかったと思っていたから、納得かもしれない。

 ていうか数学、難しいんだ。理系科目は苦手だから、頑張らないといけない。中学での貯金はとうに尽きていた。

「先生って、ちょっと変わってるよね」

 という隣からの呟きに、うんと軽く頷いた。

 今日は曇天ではあるけれど、これ以上暗くなってもいけないし、ということで、部室に荷物を置き、先に屋上へと写真を撮りにいくことにした。
 
 鉄扉の鍵を開けたふゆに続いて、外に出る。
 屋上に来るのは、これで三回目だった。

248 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:59:04.65 ID:QkS64LeQ0

 カメラの設定をしているふゆを横目に、前に進んで手すりをつかみ、東側の校庭の様子を眺める。
 やっぱり人はいない。中庭にも人はいない。少し遠くでは、新幹線が線路を通過していっている。

 不意にパシャリと音が聞こえて振り返ると、わたしにカメラが向いていた。

「なんだか、似合うね」

「似合うって?」

「花と、空と、桃がかな。でもこれは消さなきゃね」

 ふゆがカメラを操作する。言葉通りにわたしが映った写真を消しているみたいだった。
 ファインダー越しのわたしは、お花と曇り空が似合うらしい。前にふゆが「晴れより曇り空の方が好き」と言っていたことを思い出す。

 好きな空模様に似合うと言われて喜ぶのは、さすがに論理が飛躍しているだろうか。

「さてと、ちゃっちゃと撮っていこう」

 場所を移動しながら、お花を写真に収めていくふゆの背を追いかける。
 ここにあるお花はすべてふゆが育てたもので、お気に入りのお花たちなのだと思う。

249 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:00:00.73 ID:QkS64LeQ0

 ひとつひとつを撮りながら名前を言って、わたしに教えてくれる。
 その声音が、表情が、撮っている姿がとても楽しそうで、思わず「ふふ」と声が漏れる。

「もっと詳しく聞いてみたいって言ったら、ふゆ、教えてくれる?」

 前にここに来たときに、ひとつのお花のことは聞いた。
 でも、そのほかのお花についてはまだだった。

「まあ、うん。でも、そんなに気になる?」

「気になる」

「どうして?」

 どうしてって。

「わたしもお花が好きだから。それに、ふゆが育てたものなら、なおさら気になる」

 そう言うと、ふゆははっとしたような表情になって、カメラを持っていない方の手で眉間に触れる。

「この間の自然公園も楽しかったよ。紅葉が綺麗で、咲いているお花たちも色鮮やかで……」

「そっか。桃は、そうだったね」

「うん……うん?」

 桃はの"は"という部分が気になって視線で問いかけると、ふゆはカメラを下ろして苦笑する。
 まとっていたやさしげな雰囲気に、少しだけ影が落ちた。

250 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:00:53.23 ID:QkS64LeQ0

「たいしたことじゃないんだけどね」

 記憶の中から言葉を見つけるように、一拍置いて、

「けっこう前……もう何年も前に友達にね、『花なんて、見ても貰ってもなにも嬉しくないでしょ』って言われたことがあって。
 そのとき、ああ、たしかにそうだよねって、思った。
 贈り物をされるなら形に残るものの方がいいって人もいるし、形に残らないものなら、まだ食べ物とかの方がもらって嬉しいかもしれない。
 枯らしたら相手になんとなく申し訳ないし、枯らさなくともすぐに捨てることになる」

「うん」

「だから、あんまり話すことに慣れていないっていうか。
 もし花のこと嫌いな人だったらどうしようとか考えて、自分からは話してこなかったから」

 理由を訊かれても困るし、とふゆは笑う。

 なにについての理由だろう、と考えているうちに、ふゆは次の言葉を並べていく。

「でも、話さないだけでさ、どう思っているかなんて、ほんとはどうでもいいの。嫌いなら嫌いで、興味ないなら興味ないで。食べ物の好みとかと同じでさ、良いとか悪いとかってないでしょ? 
 けど、なんていうかね。つまりさ」

 つまり、と今までの言葉とうまく繋げるようにもう一度言って、話の終着点を探すような間が空く。
 ふゆがこうやって、長く話をしてくれるのは珍しいことかもしれない。

 やがて、なにかいい言葉がひらめいたみたいに、ふゆはひとつ頷いて顔を上げた。

「桃が花を好きなの、勝手だけど私はうれしいなって」

251 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:05:03.70 ID:QkS64LeQ0

 予想外の言葉にわたしが黙ると、この場所にしんと沈黙が流れた。目を合わせようとしたら、ふゆの顔がふいっと横に逃げる。

 風は吹いていなかったけれど、その動きでふゆの髪が揺れる。耳元のベージュカラーの髪が、曇り空からのわずかな明かりで、つやつや光っていた。

 意味を考えながら、足を動かして横顔を追いかける。照れたみたいに目の下を赤くしたふゆを見て、どきりと心臓が一度大きく跳ねた。
 話しすぎた、とその表情が告げてきていた。

「わたしでよければ、いつでも話してくれていいよ」

「……そ。まぁ、そもそも桃以外には……」

「……わたし以外には?」

「話せる友達がいないから、桃が聞いてくれるなら、それも、うん」

 うれしいよ、とふゆは足元に咲くお花を見てはにかむ。

 途切れ途切れだった言い始めにしてはさらりと言った、その最後の言葉が、頭の中で鳴り響く。

 ふうん、そうなんだ。
 わたし以外の友達には、話さないんだ。

252 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:06:40.06 ID:QkS64LeQ0

「やっぱり、すごく素敵だと思う」

 思ったことを考えないまま言うと、ふゆは「ん?」と普段通りの表情で、首を傾げた。

 ふゆが、と言いかける。でも、
 お花を育てることが、と喉から出かかる前に言い直す。

 その方が、ふゆを困らせないかなと思ったから。
 いまはなんとなく、困らせたくなかった。

「そっか。なら、そうだ。桃も育ててみる?」

 ふゆは歩き出して、塔屋のすぐそばにあるプランターの前にしゃがみ込む。
 そのお花の名前──クリスマスローズは、この前教えてもらったから、ちゃんと覚えていた。

「お花を育てたの、小学生以来だよ。大丈夫かな?」

「まぁ大丈夫。そんときは、なに育てたの?」

「ひまわりとあさがお」

253 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:10:26.15 ID:QkS64LeQ0

「学校でみんなに配られるやつ?」

「そうそう」

「そっか。ちゃんと育てられた?」

「うん。たしか、種まで」

 わたしもふゆの隣にしゃがむ。距離は十五センチ。
 肩が触れそうなくらいまで近いのに、もっと近付いてみたくなる。

「なんか前まで来ちゃったけど、種類はこれでいい?」

「ふゆの一番のお気に入りでしょ?」

「まあ、そうだね」

 このお花にひときわ強く向ける、やさしい表情。
 わたしも育てたら、ふゆはもっと喜んでくれるかな。

「だったら、これがいい」

 視線を合わせてから、まっすぐ前に手を伸ばし、プランターの縁にかけていたふゆの手にそっと重ねる。

 ふゆの好きなお花をわけてもらって、育てる。
 それは、なんだかとても素敵なことのように思えた。

254 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:11:56.89 ID:QkS64LeQ0
本日の投下は以上です。
255 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:20:03.56 ID:QkS64LeQ0
訂正
252
「お花を育てたの、小学生以来だよ。大丈夫かな?」

「お花を育てるの、小学生以来だよ。大丈夫かな?」
256 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/22(水) 14:22:11.08 ID:N5AwWJYZ0
おつ
257 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/23(木) 21:14:57.02 ID:qABIjVxm0
おつです
258 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/23(木) 21:26:11.08 ID:ZJvwiSTX0
乙。女子校だったのか。
259 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/25(土) 17:22:54.17 ID:1DxniCdi0




 それから園芸部の部室に戻り、下校時間ギリギリまで勉強して家に帰ると、お母さんがリビングのコタツで溶けていた。
 お父さんはまだ帰ってきていなくて、お母さんに訊いてみたら、今日は泊まり込みだという。

 ひなみはお母さんの隣でノートを広げていて、集中するためなのかイヤホンを耳にかけている。

 近寄って手を振ると、「姉さんおかえりー」とすごく小声で言われた。音楽を聴いていると、声の音量調節が難しいらしい。

 真面目に勉強しているひなみを見ていると、自分の不真面目さというか、意識の低さを突きつけられるような思いになる。
 中学生の頃は、学校自体がそういう校風だったというのもあるけど、勉強しないと周りに置いていかれると思って、もっと計画的に勉強をしていた気がする。

 今は焦りが足りていないのかな、やる気が眠気に負ける。前だってテスト期間でも寝ていたわけだけど。

 部屋に行き制服から着替え、ベッドに倒れ込む。
 そして今日あったことを思い出す。すぐに眠気がやってきて、それをスマホを開くことで阻止する。そしてスマホを操作しているうちに時間が過ぎる。悪循環。

 しばらく寝転がってからリビングに戻ると、お出汁のいい香りが鼻をくすぐった。

260 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:23:29.09 ID:1DxniCdi0

「今日はおでんだよ」とお母さんがキッチンから声をかけてきた。

「わー、美味しそうだね」

「……あれれ? 流行ってるんじゃなかったの?」

 お母さんは不思議そうな顔でちらっとひなみを見る。
 その見られたひなみは、「わーい」とキッチンに向かって、漬物の乗った小皿をテーブルへと運んでくる。

「この季節はやっぱりおでんだよねー。はい、姉さんの」

「ありがと。わたしも運ぶよ」

「あーいいよ。姉さんは座ってて座ってて」

 ひなみに言われるままに、椅子に座る。
 座ってから、いいのかなぁと思う。いろいろと。

 テレビのバラエティ番組からする音に耳を傾ける。
 するとまた眠くなってくる。ゆらゆらーと首が揺れる。

「どうしたの、ぼーっとして」

 席についたお母さんが、箸を片手に首を傾げる。
 その視線の先はわたし。……あ、わたしのことか。

「ぼーっとしてたかな?」

「してたよ。白目剥いてたよ」

261 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:24:22.87 ID:1DxniCdi0

「えー?」

「いや白目は嘘よ。で、どしたの?」

 ちょっと信じてしまった。
 どうしたもこうしたも。眠気に理由はあるのかな。

「ママ、ちがうよ。姉さんがぼーっとしてるのはいつものことだよ」

「あらそうだった。桃はパパと同じぼんやり族だった」

 対面の二人がうふふと楽しそうに笑い合う。
 たしかに、うちの家族を二つに分けるとしたら、わたしとお父さん、ひなみとお母さんになると思う。

「そうねー。なにか外で買い食いしてきた?」

「んーん、食べてきてないよ」

「そう……いつでも腹ぺこの桃ちゃんはどこに行ってしまったの」

「……どこに行ったのかな?」

 わたしがいつでも腹ぺこだったときって何年前の話なのかな。
 今よりも活発に動いていたとき、とすると、三年前くらい。そんなに昔の話ではなかった。

 食べる量が減ってもなかなか終わらない成長期。
 遺伝にしては、もうお母さんの身長を軽く越してしまっている。

262 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:25:23.62 ID:1DxniCdi0

「うーん、寝不足?」

「ではないと思う」

「じゃあ、テストが嫌で現実逃避?」

 お母さんがテレビを見ながら、質問を重ねてくる。
 なんだか取り調べを受けているみたいだ。

 テストが嫌……そう言われるとそういうふうに思えてしまうけど、口を軽く引き締めて首を横に振る。

「ちゃんと勉強してるの?」

「まぁ、ぼちぼち」

「そう。ま、したくないならしないでも、お母さんはいいと思うけど」

「勉強は、そこまで嫌いじゃないから大丈夫」

「そう? なら、うぅーん……それならもうなにも思いつかないなぁ」

 会話が途切れたタイミングで、ずっとテレビの方を見ていたひなみの顔がこちらを向く。

「…………」

 その表情で、いろいろと察する。
 どうやらわたしはいま心配されているらしい。

263 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:26:33.27 ID:1DxniCdi0

「そんな、心配しなくてもいいよ。たしかにぼーっとしてたけど、理由は本当になにもないから」

 浮かぶことはそれなりにあったものの、特にこれと決められるような心当たりはなかった。

「なら、いいの。昔から嫌なことがあっても、内側に溜め込んでなかなか言わないじゃない? だから、たまに訊いておかないといけないわねー、っていうのが今」

「ありがとう。でも、ほんと、なにもないよ」

 そもそも、わたしはなにか溜め込んでいるのだろうか。

 その心当たりもない。なんとなくのもやもや、じわぁーっとなる気持ちならあるけど。
 それは、ここ最近になって頻度が多くなってきたように思える。けれど、それにしても、特に溜め込んでいるという自覚はない。

 でも、お母さんが言うなら一理あるのかもしれない。
 必ずしも自分のことを自分が一番よく知っているわけではないと思う。

 人に言われて気付くことだってある。わたしは、そういう言葉に振り回されたり、影響されやすいから、鵜呑みにしすぎるのはいけないことだと思うけど。

「ママ、ひとつ忘れてるよ」

「なあに?」

264 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:27:35.25 ID:1DxniCdi0

「姉さんがぼーっとしてる理由。それは、好きな人ができた、とか!」

 ひなみが箸で大根をつかみながら、難問の答えを導き出したときみたいにキラッと目を光らせる。お母さんは目を細めてくすくすと笑う。

「あらあら、それはそれは。……で、ひなみは? 最近どうなの?」

「え、どうしてこっちに飛ぶの? なんもないです」

「なんもないってことはないでしょう? ほら、なんでもいいから話してみんしゃい」

「なんもないです。とりあえずお勉強頑張ってますー」
 
「そりゃいい子いい子。で、ひなちゃんは学校でなんかあった?」

 ごまかしのような言葉をするっと聞き流すお母さんに、ひなみはむうと唇をとがらせる。
 そんな様子をすぐ隣で見たお母さんは、にやーっと頬を緩めて、ひなみの髪を撫で回した。

 わたしと二人でいると少し背伸びしている感じがするけど、お母さんお父さんの前では等身大の中学二年生なんだなぁ、と感心なのかよくわからない感想を抱く。

265 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:29:08.08 ID:1DxniCdi0

「ひなちゃんかわいい」

「姉さんはひなちゃんやめて」

 今の流れではバレないと思ったのに、顔が一瞬でツンっとしたものに戻った。
 わたしはだめなのか。いったいなぜ……。

 ひなみの学校トークを聞いたあと、お母さんはコタツに入ってすぐにすやすやと寝息を立てて眠り始めた。

「お母さんとてもお疲れみたいだ」

「だね。心配」

「心配するなっていつも言われるけど、心配だよね」

「うんうん。それだし、姉さんのことも心配してるからね」

「そっか」

「成績とか」

「あ……うん。これからちゃんと勉強しますとも」

 そんなに成績悪いってわけでもないけどなぁ。

266 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:29:51.05 ID:1DxniCdi0

 それから二人で洗い物をして、わたしは自室に戻った。
 すぐにベッドに倒れ込みたい気持ちはあったけれど、我慢して学習机に向き合う。

 提出課題用のノートを開いて、数問解き進めているうちに段々と集中してきた。

 暗記科目はギリギリに詰めていけばいいから、まずは数学二つを重点的にかな。

 一時間くらい経って、ふとつーちゃんの言っていたことを思い出す。頭に浮かんでくる空想の波によって、一瞬思考が数式とは別のものへと移り変わる。

「クリスマスは、ふゆとデートできたらいいなー……」

 となんとなく声に出したけれど、一ヶ月も先のことで、ちょっと気が早い……早すぎるかもしれない。
 空想が広がっていくうちに、目の前の視界がぼやけてきて、また眠くなってくる。授業中はそうでもないのに、どうしてだろう。

 追試にかかりたくはないし、補習にかかってしまうとさらに面倒らしいし、やれることはやっておこう、と気を取り直して再びペンを握った。

267 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:30:32.74 ID:1DxniCdi0




 コンコン、とわたしの部屋のドアをノックする音によって、すうっと意識が浮上する。

 スマホの画面に映っている時刻は午前九時。遅刻だ。
 え、どうしよう、と目の動きだけであわあわする。
 いやでもアラームが鳴っていないから、今日は平日ではないはず……あ、やっぱり、土曜日って表示されてる。

 ひとりで一喜一憂していると、ドアの向こうからお母さんの声がする。

「起きなさーい。下につかさちゃん来てるから」

 その言葉で眠気が一気に飛ぶ。
 ついでに体もベッドから飛び出した。

「つーちゃん? ちょっと待って待って」

「待たない。早くしなさい」

「あ、うん。十分だけ、いや十五分待ってって」

「はーい、伝えとく。十分ね」

「えっ、十五分って……」

 ドアの向こうからの返答はなく、代わりに廊下を歩く足音が聞こえる。ええ……。

268 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:31:38.63 ID:1DxniCdi0

 急いで着替えて顔を洗って歯を磨いて髪を整えて下の階に降りる。
 洗面所に置いていたはずのヘアピンが見つからなくて、その場にあった洗濯バサミで代用しようとしたけど、さすがにと思って部屋に戻ったから時間を少しロスした。

「ももちゃんやほー」

 なにか用事でもあったかなとリビングを眺めると、つーちゃんはひなみとコタツに入ってスマブラをしていた。
 コタツの上に目を移すと、学校の英単語帳が置かれている。わたしのではないから、多分つーちゃんのだ。

「おはよ。お待たせしました」

「うん。まぁ、ももちゃんママにどうせだからあがってって、って言われたから、待っていたわけだけども」

「あ、うん。そうなんだ?」

 リビングにお母さんの姿はなく、寝室にでも行ったのかなと思ったところで、廊下から歩いてくるのが見える。
 ちゃんとお化粧していてスーツ姿だった。今日はお昼から出勤のようだ。

「そうそー。柚子がいっぱい届いて……えいっ、うちのお母さんがももちゃんちに持ってけって、えいやっ」

 コントローラーを操作しながら、片手で器用に指差した場所には、ダンボール箱が一つあった。
 近寄って中を開けてみると、本当に柚子がびっしり入っていた。美味しそう。

269 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:32:20.83 ID:1DxniCdi0

「つかささん、なかなかやりますねー。ソフト持ってるんですか?」

「最近スイッチ買ってねー」

「そうなんですねー。ジュース賭けましょう」

「いいよー。次ももちゃんも混ざる?」

 誘われて、なぜか「たまにはやってみよう」とお母さんが入ってきて、四人で三回対戦した。
 順位については割愛する。ひなみが強かったとだけ。

 つーちゃんは午後からアルバイトがあるみたいで、成り行きに午前中はうちで勉強していくらしい。
 ひなみは近所の友達の家に出かける、と足早に家を出ていった。
 わたしも部屋に一度戻って、勉強道具を持ってくる。ここ数日はほんとに特定の教科しかやっていなかったので、気晴らしに別の教科に目を向けてみることにした。

 立ったついでにお母さんに頼まれて三人分の飲み物を準備する。
 キッチンでケトルのお湯が沸くのを待っている間に、ひそひそとした会話が耳に届いてきた。

「つかさちゃん。あの子、授業ちゃんと受けてる? ぐーぐー寝てたりしない?」

「いや、寝てるとこなんて見たことないですよー?」

270 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:33:36.08 ID:1DxniCdi0

「あ、やっぱり。わりと内弁慶な性格してるから、そうじゃないかとは思ってたのよねぇ。だから家ではおねむなのかしら」

「そうなんですかね? でもあの、安心してください。ももちゃんは体育以外だいたい寝てるわたしよりは全然真面目なので」

「あら、それはつかさちゃんママに報告しないと」

「やーめてー、くーださーい」

 わたしが近付くと、ぱっと会話が止んだ。
 ばっちり聞こえていた。……でも、悪口ではないし、聞こえていないふりをしておいた。

 時計の長針短針がてっぺんで重なるくらいまで、時折話したりしながら、まぁまぁ集中した時間を過ごした。
 普段のわたしならこの時間くらいまで寝ていただろうから、ちょっと得したような気分になる。

 コタツにだらんと身を完全にあずけていたお母さんは、たまに「わかんなかったら教えてあげる」と言ってきたけれど、
 ためしに聞いてみると「そうね。これは……自分で考えなさい」と梯子を外してきた。……ええ、まぁ。その通りだ。

271 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:34:40.87 ID:1DxniCdi0

 つーちゃんはというと、うぐぐぐと眉間を寄せて唸りながら、栞奈ちゃんが作ってくれたというテスト対策の問題を解いていた。
 なにそれわたしもほしい、と思いつつ、つーちゃんは今も昔も頑張り屋さんなんだなぁと、うれしくなった。

 ペンを置いて柚子をいただいていると、立ち上がったお母さんが、

「じゃ、アフタヌーン出勤しまーす」

 と言って、財布からお札をぴらっと出して渡してきた。

「これで二人でランチでも行ってきなさい」

「え! いいんですか?」

「いいのよー、息抜きと、柚子のお礼だと思ってー」

「まじですかー。ありがとうございます。うちのお母さんにも言っときます」

「うん。では、いい午後をー」

 手をぶんぶんと速く振って、良い笑顔で部屋から出ていく。仕事のこと、そんなに好きなのかな。
 ワーカーホリックという言葉が頭に浮かんだ。

272 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:35:32.19 ID:1DxniCdi0




 コートを着て、家を出る。わたしたちの家周辺は高台に一軒家が並ぶ住宅街になっていて、お店はほとんどない。
 なので歩いてバスに乗って、つーちゃんがアルバイトをしているお店の近くの駅まで向かう。

 そういえばわたしたちはそこそこ家が近いのに、わたしは地下鉄通学で、つーちゃんはバス通学だった。
 定期だとどっちが安いんだろう、とか、栞奈ちゃんもバス通学だったかな、とかそういうことを考えながらバスに揺られる。

 天気は二日連続の晴れ。風は弱め。
 バスの中は暖房でだいぶ暑くなっていた。

「なに食べようね」

 駅に着いて、つーちゃんに訊いてみる。
 土曜日のお昼時だけあって、ぐるっとその場でまわって目に入るお店には並びの列が出来ている。

「ビッグマック食べたい」

 もらったお金から考えると、もう少しお高めなところにも行けるように思えたけれど、つーちゃんはアルバイトの前にがっつり食べたい気分なのかな。

 同意の意味で頷いて、お店に入る。セットを二つとナゲットの注文を済ませると、結構いいお値段だった。残ったお金は、あとでお母さんに返そう。

273 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:36:19.94 ID:1DxniCdi0

 二階の四人席に向かい合って腰掛ける。高校生っぽい男女の団体が近くの席で大きな声で話している。それを見て、つーちゃんがちょっと嫌な顔をしていたので、窓際のカウンター席に移動した。

「アルバイト、何時までなの?」

 とトレーの上のポテトをつまむ。塩が偏っていて舌がびりびりとしびれる。

「今日は七時まで。明日もある」

「わー大変」

「まぁ楽しいから。お金も稼げるしー」

「そっか。んー、わたしもバイトしてみようかなー」

「えー……えー、反対。ももちゃんぜったい変な客に絡まれるよ」

「つーちゃん絡まれるの?」

「連絡先渡されたことなら何度か。受け取れませんよーって言ってもしつこく渡してくる人いるよ。怖いよ」

 怖いよ怖いよー、とつーちゃんは脅かすような低い声で五本の指を動かす。
 連絡先、と考えを巡らせる。うーん……。

274 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:36:59.71 ID:1DxniCdi0

「ふゆももらったことあるのかな?」

「そりゃあ、わたしはカフェだから多いのかもだけど、ふゆゆだってお花屋さんでしょ? 接客業なら当然あるんじゃない?」

「……うん、たしかに。そうだよねー」

「……あぁ、そっか。彼女としては心配?」

 つーちゃんが首を傾げて、問いかけてくる。
 漠然ともやっとする気持ちがあって、溜め息が出てしまいそうになるのを、口を結んで堪える。

 それから遅れて、彼女というワードに、たしかにどっちも彼女になるのかなと、そういうことが一瞬だけ頭の中を掠めた。

「心配というか、えっと、渡されたときのふゆはどんな感じなんだろうなって」

「いや、まー愛想笑いしかないっしょ。マジであの手の輩はメンタル鬼強いから、会計終わっても勝手に自分の話ずっとしてくるよ。ほんとに怖いよ、ももちゃん」

「……わ、わかったわかった。わたし、バイトはしないから。そもそもする気ないけど、しないから」

 ずいっと前のめりになった、つーちゃんの大きな目に気圧された。

275 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:38:04.39 ID:1DxniCdi0

「それがいいと思う。ていうか、まず、ももちゃんはバイトする必要ないじゃん」

「うーん……でも、それを言ったらつーちゃんだって」

「いやぁー、わたしは趣味多いから出費多いし、お小遣いあんまり多くないから。旅行とかも行きたいしー」

 ゲーム、漫画、おしゃれ、ディズニー、アイドルのライブ──と、つーちゃんは指を一本また一本と倒していく。

 その姿を眺めて、わたしって無趣味なんだなと思った。

 服や靴といった身の回りのものは買ってもらえるから、お小遣いの使い道は食べものくらいしかない。
 だけど、それについても今はそこまで食べなくなったし、前もって外で食べてくると伝えておけば、今日みたいにお母さんとお父さんはお金を握らせてくれる。

 休みの日にはお父さんに釣りとかキャンプに連れていってくれて、それも楽しいけど、趣味かというと……あれは同行してるだけなように思える。

 あ、でも……と、自然に思い至る。
 ふゆからもらうお花を育てているうちに、ガーデニングが趣味になるかもしれない。

「なに急にニコニコして」

276 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:38:45.38 ID:1DxniCdi0

「え? ニコニコしてる?」

「してるしてる」

 自分の顔を摘むと、ほんとに頬が上がっていた。
 下に引っ張るとすぐに戻った。が、隣から笑われる。

「ま、それはいーとして……ちょっと待ってて」

 つーちゃんはコーラをずずっとストローで飲み干し、席を立つ。ポーチを持っているから、お手洗いかな。

 待っている間にガーデニングについて調べてみようと、コートのポケットからスマホを取り……家に忘れてきた。
 ポテトのかけらを口に放り込んで、窓の外を眺める。カメみたいな雲がカメのように空を流れていく。
 反射している背面から、二つの影が近付いてくるのが見える。

 振り返ると、さっきの高校生集団のうちの男女二人組だった。
 なんか明らかにわたしを見ている。わたしはこのお店の店員さんではないし、連絡先渡されたりしないよね。

「桃ちゃん? 久しぶりー」

 女の子の方がにっこり微笑みながら話しかけてくる。男の人の方はスマホをいじりながら、ちらちらとわたしの顔を見たり見なかったりしている。
 名前を知られている。どうやら人違いではないらしい。

 ていうか、店員さんでなくても連絡先は渡される。

277 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:39:27.00 ID:1DxniCdi0

「えっと、久しぶり」

 言いながら、目の前の二人が誰であったかを考える。

 悩むまではいかず、すぐに思い出す。中学校が同じだった人たちだ。
 女の子の方は、たしか三年間ちがうクラスだったけど、一回か二回くらいは話したことがあったと思う。

「元気してた?」

「うん。この通り元気ですよ」

 苗字も下の名前も思い出せなくて、なぜか感じた申し訳なさからか敬語になってしまう。

「さっきのって、つかさちゃんだよね?」

「そうです……だけど……、どうして?」

「ん、一緒の学校なの? っていうか、そうだったね」

「うん、よくご存知で。いま同じ学校だよ」

 知っているのにわざわざ訊いてきたってことは、なにか意味があるのかな。
 という深読み。ただの世間話かもしれないけど、普通、他のクラスの人の進路状況まで知っているのかな。

278 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:39:56.35 ID:1DxniCdi0

 男の人の方が初めて口を開く。

「元気なの?」

「そりゃ元気でしょ」と女の子が答える。

「だってほら、噂がさぁ……」

「あーね。でも逆に元気になりそうじゃん?」

「あーあー、なるほど。まぁたしかに?」

「あんたさっきからキョドっててキモいよ」

「うるせーよ。そら緊張するだろうがよ」

 目の前で二人が暗号のような会話を始めて、置いてけぼりにされる。
 いや、最初から意図がわからないのは変わっていない。宇宙に来てしまったような感覚。午前中に見たthatが五個並んでいる英文を想起する。

「噂って、なんのこと? わたしは聞いたことないけど」

 聞き流し続けてもよかったけれど、話しながらちらちらとわたしを窺う二人の様子に、わたしの中のセンサーが反応して、勝手に口が動いていた。

「いや、も……本橋さん。知らないってことは」

「ないでしょ」

 と連携プレーを見せてくれた二人の目が、わたしを探るように向く。

279 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:40:51.71 ID:1DxniCdi0

 なんか、なんていうか……なにをしているんだろう。

「んー、でも、わたしは知らないよ」

 言いたいことがあるなら、はっきり言うべきだと思う。
 迂遠な会話は嫌ではないけど、それが今の状況に適しているかというと、適してはいないから。

 なおも怪訝げな顔がこちらを向いている。……それで終わり、ではいけないのかな。

「ほんとに知らないよ」

 念を押すように言って、つーちゃんの荷物と、二人分のトレーを持って立ち上がる。
 ばいばい、と手首を上向ける。つーちゃんのリュックがとても重くて、なにが入っているのか気になった。

 ちょうど良いタイミングで、つーちゃんがお手洗いから出てくるのを見つけて走り寄る。

「あ、ももちゃん片付けてくれたんだ。あざまー」

「うん。どいたまー?」

 そうしてお店の外に出る。
 カメのかたちの雲は東の方角にまだ見えた。

280 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:41:21.82 ID:1DxniCdi0
本日の投下は以上です。
281 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/27(月) 09:08:11.01 ID:nSrMUWU+0
おつ
282 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:21:15.58 ID:u+6cRxYp0




「ももちゃんこれからどうすんの? 帰る?」

 お店から出てすぐに、つーちゃんはリュックの肩紐をつかみながら、わたしの顔を覗き込んできた。
 さっきの二人について訊いてみようかと思ったけれど、わたしとしても忘れた方がいいと思ってやめた。そもそも、つーちゃんは感知していないのだ。

 駅前の大きな時計台の示す時刻は午後一時半。帰って勉強だと思うと、もう少しだけ外にいたいかもしれない。

「どうしよ。なにも考えてなかった」

「勉強道具は? って、訊かんくても手ぶらじゃん」

「そう。なにも持ってない」

「カラオケでも行きたい気分だけど、あいにくわたしもう時間あんまないんだよね」

 二時からなんだよねー、と指をくるくる回す。
 家での出勤前のお母さんと同じように、楽しげな表情になっている。
 つーちゃんも労働が好きなんだろうか。

 なんとなく疑問に思ったけど、アルバイトって何分前くらいにお店にいかなければならないんだろう。
 なにかしらの準備や着替えとかもあるはずだし、十五分前くらいかな?

283 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:21:56.77 ID:u+6cRxYp0

 だとすると、つーちゃんのお店の場所は知らないけど、ここで油を売る時間もそこまでないんじゃないかと思う。

「特に見たいお店もないし、帰ろうかな」

「そっかー。ならまた、月曜に学校で」

「うん」

「ももちゃんママにお礼言っといてね」

「わかった。わたしの方も、言っておいて」

「おっけー」

 つーちゃんが腕を空にぴんと伸ばして、駅とは反対方向に歩いていく。

 さて、家に帰ってなにをしよう。古典かな。
 とぼんやり考えながら、わたしも歩き出す。

 不意に背中に大きな声がかかって、それがつーちゃんの声だと思って振り返る。

「会いにいったら?」

「え?」

「わたしのバイト先から近いし、ここからも近いよ」

 ちょっとなに言ってるかわからないと思ったけれど、すぐにふゆのことだと考えが及ぶ。

284 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:22:34.48 ID:u+6cRxYp0

「でもふゆ、今日バイトなのかな?」

「知らないの?」

「知らない」

 はっきり答えると、つーちゃんは口をぽかんと開けた。
 そしてそのままなにかを言おうという感じに、細くした目を横に流した。

「でも、前に土日はたいていバイトって言ってたよ。会えるよ、多分」

「でもいいのかな? ……あ、いいって言ってた」

「のか。ていうかそもそも行ったことない感じ?」

「うん。迷惑かなって、思ってて」

 いつでもいいよ、とたしか言われたけど。

「や、ふゆゆって迷惑とか言わないでしょ」

「まぁ、うん」

 そうなんだけどね、と心の中でつぶやく。

 そうなんだけど、なんとなく、ふゆが相手だと思考の中に抵抗……ハードルのようなものが付いてまわってくる。
 それは、出会ったころからのことで、ふゆの性格をちょっとずつ知るようになってからも、変わっていない。
 今までの友達が相手ならこんなことはないのに。なかったのに。

285 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:23:25.15 ID:u+6cRxYp0

 行動を起こすためには、頭を叩かれたときのような衝撃か、緩い水の流れのようなものが必要だけど、今の状況ではそれがない。

 つーちゃんはわたしの表情をじっと眺めてきていた。
 それにようやく気付いて、取り繕うように笑う。

「行ってみようよ。ていうか、行こう!」

 すると、つーちゃんは明るい調子でそう言って、わたしの後ろにまわり、背中を両手でドンと押してきた。
 その衝撃で、足が一歩前に出る。

「せっかくだから、ね?」

「えっと……」

「もー。行かないならわたし一人で行くよ。ふゆゆと両手でハート作ってツーショット撮っちゃうよ。めっちゃ顔面盛ってインスタのストーリーにあげちゃうよ?」

「わたし、インスタやってないよ」

「いや知ってるけど。そういうことじゃなくてだね……」

「……ほんとにするの?」

「いや、しないよ。でも、もしかしたら、天文学的な確率でするかもしれない」

 つまりしないってことでは。
 それに、べつにつーちゃんなら……。

 ……なら?

286 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:24:04.54 ID:u+6cRxYp0

「わかった、うん。行こう」

「じゃあほら、早く行こ」

 つーちゃんはわざとらしく肩をすくめてきて、わたしはなんだか申し訳ない気持ちになった。

 駆け足で先を行くつーちゃんに追いついて、多くの人が行き交う駅近くの道を、並んで進む。

 カメのような雲はこの数分で見えなくなっていた。
 あの雲はもうゴールしてしまったのかもしれない。
 どこに? それはわからないけれど、多分上の方に。

 信号を渡って、短いトンネルを抜け、駅の西側に出る。
 そしてまた信号を渡って大きい通りに出ると、灰色のコンクリートの上にある、お花の絵が描かれた黒い看板が目に入ってくる。

「じゃ、わたしもう時間だから」

 といつの間にかわたしの数歩後ろにいたつーちゃんが、ニコっと……いや、にやにやっと笑いながら敬礼のポーズで走り去る。

「えっ一緒に行くんじゃないの……」

 とぼやいたけれど、多分つーちゃんには届かなかった。

 綺麗に皺無くラッピングされた二本の黄色いバラを持った女の子が、立ち止まっているわたしを追い抜かしていく。
 場所はここで間違いないらしい。聞いてはいたけど、駅からほんとに近かった。

287 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:24:40.30 ID:u+6cRxYp0

 少し迷って、でもまぁここまで来たからには、と覚悟を決める。
 いったん自分の中で納得してしまえば、続けることにある程度は抵抗が薄れてくる。
 ただの思いつきだけど、わたしはそういう性格だった。

 軽く髪を梳いて身だしなみを整える。
 ふゆに会うならもっとちゃんとした装いをして来ればよかった。でもそれは後の祭り。

 お店の方に向き直ると、黒いエプロンを着けている女の人が店先で屈んだ姿勢でいた。
 ぱっぱっとエプロンをはらう仕草をして、立ち上がったその女の人と目が合う。

 長い黒髪を、白色の大きなシュシュでサイドに結んだ、小柄な店員さんだった。

 わたしを見上げたその店員さんに、一瞬だけぎょっとしたような顔をされて、わたしもびっくりする。
 けれど瞬きの間に、その表情は少女的で柔らかなものに切り替わっていた。

「あら、こんにちは。あいていますよ」

 と会釈される。さっきのはなにか、見間違いだったのかな。
 わたしも倣ってお辞儀をする。

「どうぞ、お店の中に。ここ、少し段差になっていますので、お気をつけて」

 と流れるようにお店の中に導かれる。

288 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:25:35.67 ID:u+6cRxYp0

 一呼吸おいて、開け放されているドアの内側に足を踏み入れる。
 多種多様なお花に気を取られながら、挙動不審にならないようにゆっくりと百八十度見回したけれど、お店の中にふゆの姿は見当たらない。

「ごゆっくりご覧になってください。お探しのお花などがございましたら、どうぞお呼びください」

「あ、はい。その……」

「はい、どうされましたか」

 わたしが答えるよりも先に、「あっ」となにかに気が付いたように口元に手をやって、くすっと微笑まれる。

「待っていてくださいね。いま呼んできますから」

 え、察してくれたのかな……?
 頷くと、わたしの横を屈みがちに通ってカウンターの奥へと歩いていく。

 その拍子に胸のあたりのネームプレートに、店長と書かれているのが見えた。

 店長さんだったんだ。
 ふゆが楽しそうにラインしていた人だ。

 お店の中にわたし以外のお客さんはいなかった。
 改めて見てみると、すごく雰囲気のあるお店だ。

289 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:26:39.44 ID:u+6cRxYp0

 ちょっと待っていると、カウンターの奥の扉の向こうからエプロン姿のふゆがやってくる。

「えっと、いらっしゃい、ま、せ?」

 ちらちらと隣の店長さんを窺いながら、ふゆが挨拶をしてくる。わたしの顔を見て、肩が僅かに跳ねる。
 様子からして驚いているみたいだけど、それもそうだよね。驚くよね。うん。

「近くまで来たから、寄ってみたんだ」

「あ、うん。でも、来るなら連絡してくれればよかったのに」

「スマホ家に置いてきてたから……」

「スマホを? なら、仕方ないか」

 いつものように、ふゆが小さく笑う。
 よかった。来てよかったんだ。

 そう安心すると、意識せずとも、目が下に移っていく。

「やっぱりかわいいね」

「ありがとう。このエプロン、かわいいよね」

290 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:28:17.37 ID:u+6cRxYp0

「そうだけど、着ているふゆもかわいい」

「そっか、ありがとう。……って、ちょっと、瑠奏さん、なんで笑ってるんですか」

 急に恥ずかしそうに身をよじるふゆの視線を追う。
 その先の店長さんは、わたしたちを見て、目尻と頬を緩めていた。

「いえ、お仲がとてもよろしいようで」

「はぁ、そうですか」

「お二人を見て、わたしも自分の若かりしき頃を思い出しました。十代のオーラにあてられて、消えてなくなりそうですね……」

 店長さんは、よよとわざとらしく泣き真似をする。

「瑠奏さんだって全然若いじゃないですか」

「でも、高校卒業したのもう十年前ですよ?」

「ピチピチの二十代じゃないですか」

「いいえ、もうこんなにヨボヨボです。それに、ぜんぜん! ぜんぜん……ぜんぜんって! 霞さんヒドいです!」

「……いや、思ってないですよね」

「あ、はい。思ってないです。思ってないですよ?」

「ですよねー」

「と、ここでの霞さんはこういう感じなんです」と店長さんはわたしを見てにこっと微笑む。

291 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:29:04.98 ID:u+6cRxYp0

 それを聞いて、はっと気付いたようにふゆが目を伏せる。
 ふゆと店長さんは仲が良さそうだった。というか、仲が良いのだと思う。とても。
 つーちゃんと栞奈ちゃんみたいな。わたしでは、ちょっと難しいことかな。

 こういうふうに誰かと軽口のようなものの交わし合いをしているふゆを見るのはあまり見なくて、だから新鮮に映った。

「つかぬことをお訊ねしますが、今日は霞さんが呼んだわけではないんですか?」

 そのままわたしに訊いてきているみたいだった。
 ふゆはなんとなく居心地悪そうにしている。若干迷いながら、口を開いて言葉を紡ぐ。

「そうです。わたしが勝手に……」

「あ、いえいえ、そういうわけではないんです。お友達を連れてきてくださいと、以前お願いしたんですよ。
 でも、そうですね……わたしは退散しますので、ごゆっくりどうぞ」

 店長さんはエプロンのポケットから手袋を取り出して、わたしたちに背を向けた。
 けれど、その一歩目で足がぴたっと止まって、きらきらとした表情でわたしに首を傾げた。

「大事なことを忘れていました。お名前を伺ってもいいですか?」

292 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:29:33.51 ID:u+6cRxYp0

「桃です。この子の名前は」とわたしの前に手のひらをかざして、間髪入れずにふゆが答える。

 言われてしまったから、わたしもはっきりと首肯する。
 紹介してくれたみたいな様相だと思った。

 そしてそれは、なんとなくうれしかった。

「桃さん、ですか。わかりました。では、ごゆっくり」

 深々と四十五度に頭を下げて、軽い足取りで、今度は本当にお店の外に向かっていった。
 姿が見えなくなると、ふゆはわずかに地面の方を向いていた顔を上げた。その表情には、申し訳なさそうな苦笑いが浮かんでいる。

「なんかごめんね。瑠奏さん、私の学校生活のことすごく心配してくれてるみたいで、たまに訊いてくるんだよね」

「わたし……友達のこと?」

「そうそう。あ、大丈夫。桃のことはそんなに話してないから」

「そっか。そっかー、そんなにって?」

「そんなに。たまに。だって、桃かつかさか栞奈のことしか、言うことないから」

「わたしも妹とか、お母さんに話してるから、同じだね」

293 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:30:08.61 ID:u+6cRxYp0

「変なこと言ってないよね?」

「いや、わたしたち、変なことしてないじゃん」

「うん、それもそうか」

 会話が一段落して、またふゆのことを眺める。

 厚手の黒のニットに、細い脚の形がくっきり出るジーンズ。
 お店だから仕方ないのかもしれないけど、もうちょっとかわいい服装の方がふゆには似合うと思う。
 でも、これはこれで、似合っている。ふゆはどんなタイプの服でも似合うのだ。

 普段と唯一違うところは髪型で、サイドの染められている部分と右耳の翡翠色のピアスをはっきり隠すように、旋毛からストレートに下ろしていた。

 いつもとそれほど変わらない。変わりなく、でも、会う場所で大きく変わることを知った。
 背中を押してくれたつーちゃんに、心の中で感謝する。

 実は一人でお花屋さんに来るのは初めてだった。
 それが視線などのあれこれで伝わったのか、単にお客さんとして扱われたのか、ふゆが店内を案内してくれる。

294 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:30:42.29 ID:u+6cRxYp0

「ふゆ、勉強してる?」

 鉢入りのお花を見ながら、手頃な話題を振る。
 コートを着ていても肌寒い店内で、ニットとはいえ上着を着ていないふゆは寒くないのだろうか。冷凍庫に入ったことはないけど、冷凍庫みたいだ。

「まあしてるよ。さっきまでも事務所でしてた」

「休憩時間だったの?」

「ん。さっきちょうど休憩終わりだったの。桃の方は? ちょっと眠そうだけど、もしかして徹夜してるな」

「え、してないしてない」

 素早く手を振って否定する。
 眠そうって。ここ数日で何回も言われている気がする。

「隠さなくてもいいのに。ここに来たのは息抜き?」

「本当だよ。今日はお昼くらいまでつーちゃんと勉強してたんだ。それで、ここの近くでお昼食べて、その流れで」

「へー。つかさと? 頑張ってるんだね」

「うん。つーちゃん、今回は気合入れてるから」

「だね。私もバイト終わったらやらないとなー」

 屋上にいるときみたいに、この前のデートのときみたいに、ふゆは明るい調子だった。
 この前に屋上で言われたことを思い出す。今日は二回もそのことについて考えていた。

295 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:31:54.76 ID:u+6cRxYp0

 生花、観葉植物と場所が移り変わる。ふゆが左手を出したときに、小指と薬指の間にしている無地の絆創膏が、色白の肌とのコントラストで目立っていた。

 白くて触ったら冷たそうな陶器に、雪のように白い花が五輪挿されている。アネモネは赤やピンクのイメージが強かったけど、これはなんだか今の季節にマッチしていて、他のものよりも早く目を引いた。
 その隣には、化学講義室で見るような、目盛りの付いたフラスコにお花が生けられていた。「へえー」と声に出すと、ふゆが「結構売れるんだよ」と教えてくれた。

 おにぎり一個分ほどの大きさのサボテンが淡い色の木目の木箱の中に並んでいて、二百円の値札がテーブルに付いている。意外と安いんだ、と思った。

 観葉植物コーナーの右脇には、上階への階段があった。
 上にもなにかスペースがあるのかな? と前まで行く。

「二階は教室。瑠奏さんが、フラワーアレンジメントとか、ハーバリウムとか、生け花とかを教えるところになってる。今日はなにもないから、電気消えてるでしょ?」

「たしかに……そうなんだ。ふゆも教えてるの?」

「いや、私は一階の店番だけだよ。専門的なことは、少しずつ勉強はしてるけどあんまり分からないから」

「え、その勉強もしてるんだ。すごいね」

「実際は免許とかがいるから、出来ないんだけどね。暇つぶしに本とか読んでるだけ」

296 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:33:20.43 ID:u+6cRxYp0

 それでもすごいよ、と言おうとしたところで、ふゆが先に言葉を継ぎ足した。

「でも、ありがとう。褒めてくれて」

 褒めようとしたわたしが褒められたみたいで、自然にちょっと笑うと、ふゆもつられたように笑った。

 階段の前から移動すると、今度はわたしたちの腰ほどの高さのテーブルに、いくつもの雑貨が置かれている。

「わ、きれい」

 大きな松ぼっくりや、流木という商品名の流木? 花柄のカップが並んでいるテーブルの一帯に、際立ってきれいなものを見つけた。

「それは、ハーバリウム。さっき上で体験教室やってるって言ったやつ」

「ふうん、ハーバリウム……え、かわいいね。かわいくて、きれい」

「あはは、語彙力小学生か。ま、ハーバリウムってきれいだよね」

 一番大きな角型の瓶に入ったものを見ていたけれど、隣にはボールペン型のものや、変わった形をしたものが何種類もあった。

「買おうかな。体験、って言ってたけど、これって自分で作れるものなの?」

「んーどうだろう。小学生くらいの小さな子でも作ってるから、出来ないことはないと思うけど、この売り物くらいのレベルにするのは難しいんじゃないかな」

297 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:33:51.19 ID:u+6cRxYp0

「なら買うことにする。ふゆって好きな色は何色?」

「うーん、緑色かな。桃は橙だっけ?」

「え、話したことあった? よく覚えてたね」

「いや、普段桃が身につけてるものに、橙系多いから」

「そっか。そうだった」

 多くの選択肢の中から、話しているうちに、これだというものを見つける。

 底が入り口と比べて少し広がっている瓶の下半分に橙色のお花が、上半分に緑色のお花が線対称に詰められている。
 その二色が混じり合っているような中央では、一本の長い茎に、一枚ずつの橙と緑の花びらが、蝶の羽のようになっていて、手を触れて動かしたわけではないのに、ひらひら舞っているように錯覚した。

「ふゆの好きな緑色と、わたしの好きな橙色。いいと思わない?」

「そう。いいんじゃない?」

「てきとう?」

「ううん。桃がいいと思ったものなら、それを選べばいいと思うよってだけ。店員はお客さまの意見を尊重して見守る姿勢が大切だって、瑠奏さんが」

298 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:34:41.15 ID:u+6cRxYp0

「そっか。うん、わたしが気に入ったから買います」

「じゃあこっちに。あとは他に買ってく?」

 首を横に振ると、正面のレジカウンターに案内される。
 そこでは店長さんが、気付かぬうちにいたお客さんに、お花を丁寧にラッピングしている。
 清涼感のある、少し前に教室で見たお花。隣のふゆに視線で問うと、「トルコキキョウだよ」と小声で教えてくれた。

 そのままの流れで、店長さんが会計をしてくれた。
 カウンターに商品を出すと、お店の前で見たような、少女的で自然な笑顔を向けられた。

「桃さん。お買い上げありがとうございます。ラッピングはお付けいたしますか?」

「いえ。自分用なので大丈夫です」

「かしこまりました。瓶はガラスとなっておりますので、お気を付けてお持ち帰りください」

 店長さんがふゆに目を飛ばすと、ふと思い至るようにわたしの隣から動き始める。
 その様子を目で追っていると、体の正面からの視線に気付く。いたずらっぽさの比率が増したような、それでも真剣さも感じる表情がわたしの顔をとらえている。

「霞さんのこと、よろしくお願いしますね」

 紙袋を取るために、レジカウンターの奥側にいるふゆには聞こえないような、小さくて、でも芯の通った声で、そう言われた。

299 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:35:17.08 ID:u+6cRxYp0

 不意を突かれるような言葉に、思わず普段喋りよりも大きな声で「はい」と返事すると、あっけに取られたような顔になったふゆが前に出てくる。

「瑠奏さん。いまなんて言ったんですか?」

「また来てくださいねって、言いましたよ?」

 店長さんは「ね?」と言わんばかりに、わたしにウインクをしてくる。
 それを見て、ふゆは怪訝そうに眉を寄せる。

「桃は、なんて言われたの?」

「え、えー……っと」

 と、なんだか少し怖いふゆの目から逃げるように店長さんを見ると、ぱっとすぐに逸らされる。
 ちょっとでも渋ったのだから、本当のことを言うしかない。そもそも、隠す必要性は微塵にもないのだけど。

「えっと、霞さんをよろしくお願いしますって」

 ふゆがエプロンの裾を掴んで、呆れたような溜め息を吐く。
 けれどあっさりと流すように、居住まいを正して、

「まあ、また来てよ。テスト期間終わったあとにでも」

 ハーバリウムの入った茶色の紙袋を受け取る。
 おまけです、と店長さんからレモン味ののど飴もいただいた。

 ふゆに手を振って、店長さんにぺこっと頭を下げる。

300 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:36:49.92 ID:u+6cRxYp0

「今度は学校での霞さんのことを教えてくださいねー!」

 と店長さんがお店の外のわたしに向けて元気な声を出すと、ふゆはさすがに「ちょっと!」と焦ったような声を上げていた。

 その様子を見て、勝手な心配事がひとつ減った。
 余計なお世話かもしれないけど。心の内に秘めておくなら、いいよね。

 でも、店長さんは、ふゆとどういう関係なんだろう。

 それが少しだけ気になったから、また来ようと思った。

 駅まで歩いて、地下鉄に乗って、そしてまた歩いて家の前まで着くと、玄関横のガレージで、お父さんが青色の大きなバイクを洗車していた。

 流され損ねた泡が平坦なコンクリートに留まっている。
 それを避けながら駆け寄って道端の自動販売機よりも身長の高いお父さんと並ぶと、自分がとても小さく感じた。

「おー、お帰り。出かけてたのか?」

「うん。友達に会ってた」

「そうか。その袋は?」

301 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:38:04.22 ID:u+6cRxYp0

「お花屋さんで、ハーバリウム買ったんだ……わかる?」

「へぇ、ハーバ? わからんな。お菓子ならもらおうと思ったが。これから水飛ばしに走りに行くけど、後ろ乗って夜飯でも食べに行くか?」

「んーん、遠慮しとく」

「そうか残念。まあいいや。いまテスト期間だって? ほどほどに頑張れよ」

 濡れるぞ、とホースを持ったお父さんに手でしっしっと傍に追いやられる。
 バイク気を付けてね、と言いながら家に入る。お母さんもひなみもまだ帰ってきていなくて、家には一人だった。

 リビングに入ってすぐに、紙袋をあける。
 そして箱の中から丁寧に、ハーバリウムを取り出して、こたつ机の上に置く。

 きらきらしている。スマートフォンのライトをつけて照らすと、さらにきらきらが増して輝いていた。

302 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:38:33.19 ID:u+6cRxYp0

 もぞもぞとコタツに入って、コントローラーを探り掴むと、電気がついたまま……お父さんかな。お母さんに怒られるよ、とガレージのお父さんに向けて呟く。
 でもそのおかげで、すぐに体が温まる。

 ふゆに帰ったら勉強すると言ったので、眠くならないうちにお昼のまま出されていた勉強道具に手をつける。

 今日はふゆに会えたからかな。なんだか頑張れそうな気がした。勉強に頑張るって、考えてみたら変なのかもしれないけど。
 ふゆに会う前にあった、わたしには身に降りかかったわけではないが少し嫌だったことも、今ふと思い出すまで忘れていた。

 そして今思い出して、でも、ふゆとのひとときで上書きされたように、それか教科書の古文の随筆を見ているうちに、もう見えなくなっていった。

 夕暮れ時になって、ひなみが家に帰ってきた。
 わたしの体の左前に置かれているハーバリウムを見ると、

「なにそれー、かわいい。どこで買ったの?」

 と嬉々としたような反応を示して近寄ってきた。

 ふゆがアルバイトをしているお店で買ったことを伝えると、ひなみは「へー、ふゆさんの!」と笑顔で頷いていた。

303 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:39:04.95 ID:u+6cRxYp0




 次の日、昨日と同じ時間に起きてリビングに降りると、そこには誰もいなかった。
 テレビの電源を入れて、コタツにもぐりこむ。電源がまたついている。

 ふと外の様子を眺めると、窓の外にひなみとお父さんの姿が見えた。
 気になって窓を開ける。なんか食べてる。

「姉さんおはよ。パパとチーズフォンデュしてた」

「朝から?」

「うん。野菜美味しいよ。姉さんも食べたら?」

 玄関からスニーカーを持ってきて、外に出る。
 風が少しあって肌寒かった。どうして外で?

「外で食べるからいいんだよ」

 とお父さんがわたしの質問に先回りする。

「それ、釣りに行ったときも言ってたね」

「言ってたか? まあ、沢山あるから食べな」

 上着を取ってきてから、竹串に刺された野菜や魚介類たちをチーズの海で転がした。
 ちょっと時間が経つと、お母さんが起き出してきて、やや呆れた様子でわたしたちに加わった。

 それから午後になると、お父さんとお母さんは出かけてしまったので、コタツでひなみと勉強を始めた。

 聞いていなかったけれど、どうやらテストは明日と明後日の二日間らしい。
 話しかけたりして邪魔してはいけないなと、すぐに自室に戻ることにした。

 理由はないけど、今日も勉強が捗った。無心で過ごすうちに、休日の時間があっという間に過ぎていた。
 ひなみが夜ご飯だと呼びにくるまで、そんな具合でペンを握っていた。

304 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:39:51.20 ID:u+6cRxYp0
本日の投下は以上です。
305 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/10/03(日) 17:07:08.29 ID:vIw67lkr0
おつです。
あたたかい雰囲気だけど、こっから進むのか?
306 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/10/04(月) 14:05:11.44 ID:Q2IJhMG50
おつ
307 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:25:55.01 ID:YtCrmlzu0




「どうだったん? ちゃんと行ったの?」

 月曜日の朝、校舎裏の自動販売機の前でリュックを背負ったつーちゃんに遭遇して、そう訊かれた。

 つーちゃんは一番下の段のホットレモンを買っていて、迷わずわたしも同じボタンを押した。
 筐体の中で温められたペットボトルは飲むには適していたけれど、冷えた手には熱いくらいで、キャップの上の方を持つのがやっとだった。

「行ったよー。すごくいいお店だった」

「へー、ふゆゆはどうだった?」

「どうって?」

「様子とか。接客とか?」

 もともと訊いてきた側のつーちゃんが、首を傾げた。

「いつも通り、かな。二人でいるときの感じ」

「ふーん。ふゆゆと二人でいるときの感じって?」

「え、なに。どうしたのつーちゃん」

308 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/10/09(土) 01:29:18.13 ID:YtCrmlzu0

「いや気になって。わたしらいるときと、けっこーちがうもんなの?」

「……どうかな? 変わらないと思うよ」

 なんていうか、答えに困る質問だった。
 でもよく考えると、わたしが言い方を間違ったせいのように思えた。

 そのことに気付く前にした要領の得ないようなわたしの回答に、つーちゃんは淡々とした様子で頷いた。
 そこで会話が切れたので、求められている答えではなかったのかな? と思ったけれど、そのうちに次の話題に切り替わる。

 他の人たちが自動販売機の前まで来たので、立ち話をやめて教室に向かって歩き出す。

 階段をのぼったり、廊下を歩いている最中に何人かの友達に話しかけられる。
 いや、話しかけられるというか、朝の挨拶とちょっとした世間話を振られて、なんとなくそれに言葉を返す。
 その間つーちゃんは黙ったままだった。

「ももちゃんやっぱ友達多いね」

「去年と今年で、同じクラスになった人けっこう多いから」

309 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:30:25.64 ID:x7VE9nDA0

「わたしはー、去年のクラスメイトともー、まったくー、話さないけどー」

 なぜか急に抑揚のない言い方。
 せっかくなので真似してみる。

「たしかにー。栞奈ちゃんとー、だけだねー」

「いや乗らなくていいから」

「そっかー。乗らなくていいかー」

「乗ってんじゃん。乗らなくていーから。まーももちゃんわりといつもそんな感じだけどさ」

「そうかな?」

「いや、そこはそうかなーー? くらいしないと」

「そうかなーー?」

「あ、うんうん。そんな感じそんな感じ」

 つーちゃんが言葉とともにぱちぱち手を叩くと、わずかな沈黙が訪れて、同じタイミングで笑った。

「ていうかさー、家で勉強してたらさぁ、ママンにめっちゃ驚かれたの。逆にどうしたんだって心配されてさー、困った困った」

「これまでそんなに勉強してなかったんだ?」

「やーもうそれはゼロよ。ちゃんと通ってるだけいいって口では言ってるけど、ほんとはちゃんと頑張って勉強している娘の方がいいよね」

 はーっと息をついて、物憂げな表情でつーちゃんは廊下の突き当たりへ目を向けた。

310 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:31:35.96 ID:x7VE9nDA0

「いい成績取ったら、もっと驚かれるんじゃないかな」

「あーいいねそれ。赤点三つくらいに抑えよう」

 つーちゃんがそう言ったときに、わたしたちの後ろからつーちゃんの頭めがけて手が出てきた。

「あだっ」

 二人で振り向く。栞奈ちゃんが貼り付けたような笑顔で、つーちゃんを小突いていた。

「赤点一つも取らないようにね。やるからには徹底的にやるよ」

「げっ栞奈、叩くなし! 言われなくても、昨日の分はちゃんとやったぞ」

「よしその調子。まあ別に、私が手綱を握る必要なんてないんだけどね」

「つんでれー?」

「ツンはしててもデレてないわ。ほら、わからないところあったらホームルーム前に教えるから、さっさと教室入るよ」

「はぁーい。栞奈まじやっさしー」

 教室の扉を潜り抜けると、先週と同じく多くのクラスメイトが机に向かっていた。
 テスト期間は教室の空気がどことなく重い。そんなに普段と変わることなんてあるのかなと、あることはわかっているのに頭の中で思った。

311 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:32:11.55 ID:x7VE9nDA0




 昼休み。いつものように四人で学食に向かう。
 今日の学食は三学年の生徒が券売機とテーブル席に所狭しと並び座っていて、普段より盛況だった。

 教室の静寂さとはちがい、幾分かがやがやとしている。
 栞奈ちゃんに席の確保を頼まれて、日替わり定食の代金を渡して、ふゆと二人で空いている席を探す。

 今日みたいに混んでいると、四人で固まって座ることのできる席を探すのは難しい。
 テストの範囲まで終わらないかもしれないという四限の授業が長引いたこともあって(五分オーバーで間に合った)、席確保戦線からは遅れをとっていた。

 ぱっと見て空いているところはあるけれど、そこにはたいてい水の入ったコップが置かれている。

 通路側を中心に見渡している間に、ふゆが先に窓際の席を見つけてくれた。

「うーん。最近なんか見られてる気がするんだよね」

 四人分の水を汲んできて、向かい合って席に腰を下ろしたときに、ふゆが呟くように言ってきた。

312 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:32:51.40 ID:x7VE9nDA0

「わたしそんなに見てるかな」

「あぁごめん言葉足らずで……桃のことじゃないよ。教室にいるときとか、移動教室のときとか、そういうときに、どこからか視線を感じるんだよね」

「そっか。誰かはわかってるの?」

「うーんと、一人……二人、いや三人?」

「それって、わかっていないのでは」

「まあね。だから、普通に気のせいかもしれない」

 この前わたしも同じようなことを思っていたな、と思ってきょろきょろ周りを確認してみる。
 すると、今のことじゃないよ、というふうに正面のふゆがくすっと微笑んだ。

「ふゆもそういうこと気にするんだ」

「まあ、人間誰しも……ってわけでもないかもしれないけど。一度気にすると、無駄に気にしちゃったりするよね」

「わかる。そうだよね」

「たいていは考えても仕方ないことなんだけどね」

313 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:33:37.88 ID:x7VE9nDA0

「しかし、ここでちゃんと考えなかったことこそが、あの惨劇の原因となることに、二人はまだ気付いていないのであった……」

 いきなり斜め前に現れた栞奈ちゃんが、怪談話を読むときのようなテンションで、静かに食べ物の乗ったトレーをテーブルに置いた。

「変なナレーション入れないでよ栞奈」

「あはは。なんの話してたの?」

「最近スナイパーに狙われる妄想をよくしてるって話」

「えー、なにその設定。シリアスだね」

 もともと、ふゆなりのジョークだったのかな? 仔細には訊かなかったけど真面目に反応してしまった。
 微妙なツボに入ったみたいに笑い合う二人を見ているうちに、つーちゃんがやってくる。

 お昼の席順はいつも固定で、わたしの隣には毎日きつねうどんのつーちゃん。
 斜め前には今日はカツカレーの栞奈ちゃん。前には小ランチのふゆだった。

「つーって、面談もう終わったんだよね」

「うん終わったよ。とーかちゃん、マジで怖かったー」

314 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:34:34.25 ID:x7VE9nDA0

「それは普段の行いが悪いからだ」

「うっさい。栞奈はいつ? 二人もまだ?」

「私と霞は水曜。桃は今日だったよね」

「そうそう。今日なんだよねー」と答える。

 いつもなにかと忘れがちなわたしだけど、さすがに今日が二者面談であることは覚えていた。

 それにしても、栞奈ちゃんってすごい。
 プリントで日程が配られたとはいえ、自分以外の日程まで把握しているなんて。

「つーちゃん、どういう話したの?」

「まあいろいろ。学校の話とか、文転しないかとか?」

「え、文転? するの?」

「いやしないしない。選択肢として言われただけ。担任はとーかちゃんがいいし」

「そうなんだ」

315 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:35:04.67 ID:x7VE9nDA0

「あとは、困ってることないかー、とか」

「聞いてる分には、とても怖いようには思えないけど」

「まぁ。雰囲気だよ雰囲気。いつもみたいな軽いノリで行ったら、教室の中がすげー真面目オーラだったから」

「なるほど」

「それにわたし、その場に進路の紙もってったから」

「それが原因じゃん」とふゆと喋っていた栞奈ちゃんの顔がこちらを向く。

「まーそうなんだが。栞奈も出し渋ってたくせに」

「私は行ける学校の選択肢が多すぎて悩んでただけ。期限には出したよ」

「それ、わたしが馬鹿で悩んでいないとでも?」

 横列の二人がいつものような会話を始めると、正面で焼き魚を口に運んでいるふゆと目が合う。
 ターン制みたいな会話方式だ、と思った。会話はまだしていないのだけど。

 二秒、三秒と目が合ったまま時間が流れる。金縛りにあったみたいに、なぜか掴んでいるスプーンが止まる。

316 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:35:46.39 ID:x7VE9nDA0

 ふゆはゆっくりと大きな瞬きをした後に、目を落として小さく二回瞬きをして、止めていた箸の動きを再開した。

「今日はバイトないし、終わるの待ってるよ」

「うん」

 わたしが頷くとほぼ同時に、つーちゃんと栞奈ちゃんのやり取りも一段落ついたようで、そこからは四人での会話が始まった。

 話題は、日常生活で地味に嫌なことについて。
 脈絡なくつーちゃんが言い始めて、それでもその話題は話題名の通り地味に盛り上がった。

 ふゆとわたしはかなり抽象的なことばかり言っていたけど、つーちゃんと栞奈ちゃんはどんどん地味じゃなくなっていって、その様子もまた面白かった。

 四人で順番に意見を出していって、教室に戻ってからどれが一番地味に嫌か投票するまでに至り、
『定食メニューについてくる味噌汁のなかなか外れてくれない蓋』がふゆとわたしの二票で一位となった。

「楽しかったので次回の開催まで各自ネタをためておくように」とつーちゃんが大真面目な顔で言って、
「地味に嫌なことはない方がいいじゃない」と栞奈ちゃんが冷静に話をまとめたところで、昼休みは終わった。

317 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:36:54.59 ID:x7VE9nDA0




 放課後。教室の外の椅子に座り待つこと三十分。
 扉から出てきた前の順番の子に声をかけられて、教室の中に足を踏み入れる。

 掃除のときのまま、多くの机は後ろに下げられていて、教室の中央に四つの机が合わさって置かれている。
 その机の上には、わたしが書いた進路調査票。いくつか重なったファイル。それからこの間に職員室の前でも持っていた厚い本が並べられていた。

「長引いちゃって、待たせたよね。うん。どうぞ、掛けてください」

 つーちゃんが言っていたこととはちがって、藤花先生の醸し出す雰囲気はいつものように和やかだった。

「面談をする全員に訊いていることが、大きく分けて六つあります。今回はそれに従って進めていきますね」

 と藤花先生は記録用らしい白紙のメモを取り出す。

「まず一つ目は、進路について。本橋さんは、四年制の大学進学を希望ということで、これを書いたときから気持ちは変わっていませんか?」

「はい、変わってないです」

318 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:39:08.07 ID:x7VE9nDA0

「うん。ここに書いてある五つを見る限り、県内か、遠くても隣県希望で、学部はいまいち定まっていないと。
 将来やりたいこととか、叶えたい夢があるってわけではない?」

「そうです。今のところは、はい」

「親御さんと進路についての話はした?」

「少しですけど、しました。お父さんもお母さんも、進路は自分で決めなさい、って言ってくれました」

「うんうん、そっか。まあ、高二のこの時期ではっきりと定まっている人は少ないから、まだまだ考えていて大丈夫だよ」

 ふふふと笑いかけられて、自分の肩が張っていることに気付く。机の下で握りしめていた腕をスカートの上に下ろして脱力する。
 一対一で先生と話すことは稀なことで、緊張していた。

「二つ目は進路と被るけど、成績について。本橋さんは一年生からの成績を見るに、理系科目よりも、文系科目の方が得意なんだよね。力を入れて勉強している感じかな?」

「いえ、えっと、わたし普段はぜんぜん勉強しないので……えっと、テスト前の詰め込みの結果だと思います」

319 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:41:12.69 ID:x7VE9nDA0

「そっか。今回のテスト勉強はちゃんとしてる?」

「はい。その、追試はちょっと、と思ったので」

 わたしの答えに対して、藤花先生はにこやかに笑って、手元のファイルの中から進路調査票の横に、白紙に青文字の紙を出した。
 どうぞ、と示されて手に取る。ささっとメモに文章を書き込み終えて、先生は再び口を開いた。

「これはこの間の模試の結果です。今からなら、もうちょっと上のレベルの大学を目指してもいいと思うけど、そうなると数学は結構頑張らないといけないかな」

「数学……は、やっぱりちょっと苦手で」

「そうね。うちの学校の定期テストのレベルと模試では、また一つちがうからねぇ。あ、今回は難しいけどね」

 前にも聞いたけれど、先生の言う今回は難しいって、相当なのでは。
 わたしにとっては、「わたしの作る問題は簡単だよ」と言っている先生の作った問題ですら、結構解きあぐねている。

「わかりました。頑張ります」と頷く。そう言ったからには、今日家に帰ったらまず数学の問題集を解かないと。

 そこから他の科目の成績についての話を少しして、数学や理系科目の勉強方法について書かれたプリントを受け取る。
 本橋さん、と上の方に書かれているので、生徒一人一人に向けて準備されたものだと思う。

320 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:42:38.99 ID:x7VE9nDA0

「うん。では三つ目。友人関係について。本橋さんは、冬見さん、山口さん、つかささんの三人と特に仲が良いみたいだね。
 そこについては、うん、それ以外の友達についても、なにか問題があったりするかな?」

「ないですよ。みんな、やさしいので」

「思うことがあれば、なんでも言っていいんだよ」

「えっと、ほんとうにないですよ」
 
「そっか。ま、すごく仲良さそうだもんね。今はなくても、このさきになにかあれば、先生に相談してね。話聞くから」

 次の質問は、部活やアルバイトについて。わたしはどちらもしていないので、話すことはなく省略。
 藤花先生も学生時代は帰宅部だったと言っていた。

 その次の質問は、冬休みの過ごし方について。
 冬休み、というワードにあまり現実感を持てなかったけれど、たしかに冬休みまであと一ヶ月くらいだった。

「最後の質問は、言っちゃうとフリーなんだけど、学校生活とか、家のこと、学校の外のこととか、なんでも、相談したいことや困っていることはあるかな」

 なにかはあるかもしれない、と考える。
 でも、ここで言うようなことは何一つ浮かばない。

「いえ、ありません」

321 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:43:38.67 ID:x7VE9nDA0

「そっか。重ね重ねになるけど、なにかあれば、先生に気軽に声をかけてね」

「はい。そうします」

 藤花先生が頷いて息を吐いたところで、最後の質問ということはもうこれで面談が終わりだということに気付く。
 一年生のときも早かったけど、今回はもっと早かった気がする。

「みんなは、どういう相談をしているんですか?」

 時間があまってしまって、なんとなく気まずい空気感になることを避けようと、あたりさわりのない質問をする。

「んー、そうだね。個人情報だから、具体的には話せないけど。今までは部活動の人間関係とか、友達同士のいざこざ、恋愛相談とかが多かったかなぁ」

「そうなんですか。みんな、たいへんですね」

「うん。だからこそ、先生がそれを聞いてガス抜きしてあげないといけないんだ。
 歳が近い方が話もわかるでしょうって、わたしだってもう十個くらい離れているのに、他のクラスとか他の学年の生徒がたくさんやって来るのは、ちょっと困るんだけどね」

 そう言って藤花先生は、いろいろなことを思い出すような遠い目で微笑んでから、「いまのは秘密ね」と柔らかな声色で、唇の前に人差し指を立てた。

322 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:44:22.02 ID:x7VE9nDA0




 教室を出ると、ぐっと疲労感が押し寄せてきた。

 面談中は終始和やかに会話していたつもりだったけど、緊張の方も終始解れていなかったみたいだ。
 組んでいたりしたわけでもないのに、足が痺れていた。

 でもふゆを待たせているのだから、と感覚が正常になっていない両足に鞭打って、すぐに廊下を歩き始める。

 わたしの前に面談を受けていたクラスメイトたちは、悩みがたくさんあったみたいだ。
 人数と面談に要していた時間を頭の中で計算する。わたしは他のクラスメイトと比べて二十分近く短かった。

 園芸部の部室は、一階の下駄箱とは反対側の突き当たりにある。
 この前の木曜日と同じく、職員室の前を通って向かう。

 十七時過ぎの校内はしんと静寂に包まれていて、自分のそろそろと歩く足音だけが響いている。

 教室を出てから、誰とも出くわさないまま進む。
 職員室からするコピー機と思しき機械音。それも通り過ぎれば聞こえなくなる。

 だから、部室へ続く曲がり角に至ったときに、その曲がった先からする話し声に、すぐに気付いた。

323 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:44:56.35 ID:x7VE9nDA0

 ふゆの声だ、と思った。
 相手の声は……うまく聞き取れない。
 でもそれが誰なのかは、なんとなくわかる。

 その子がなにかを言って、それにふゆが頷いている。

 コンクリートの壁に背中をあずけて、目を瞑って時が過ぎるのを待つ。
 無意識のうちにそうしていたけど、なぜだろう。盗み聞きはよくないからかな。

 やがて、角の向こうからしていた声が止む。
 その代わりに、たったと駆けるような足音が耳に届く。

 その子はわたしを見つけると、にっこりと会釈して、それから前髪を直すような仕草をしながら、わたしの前を通過していく。
 ちらりと見えたその表情には、明らかに笑顔とは別の感情が籠っていた。

 その子の後ろ姿が見えなくなるまで待って、部室に入ると、ふゆが「遅かったね。もう帰ろっか」と机の上の荷物をまとめ始めた。

 よくない想像がじわじわと広がり、頭の中で渦巻く。

 ただ話していただけだなんて、どうにも思えない。
 だって、あんな表情をしていたのなら……。

 下駄箱で靴を履き替えて、自転車を取りに行ったふゆを待って、並んで校門を抜ける。

324 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:45:23.26 ID:x7VE9nDA0

「ねえ、さっきのって……」

 気付かぬうちに、わたしの口は動いていた。

「さっきの? えっと、あぁ、瑞樹ちゃん?」

 ふゆはなんでもないように問いを返してくる。

 わたしの表情も、声音も、きっといつも通り。
 崩れたりはしていない。動揺しているときほど、外に出る態度は変に冷静になってしまう。

「部室のほうから歩いてきたから、ふゆとお話してたのかなって」

「そうそう。勉強してたら部室のドアが開いてさ、桃かなーって思ったらちがくて、私と話がしたいって言われて」

「そうなんだ。……どういう話?」

「なんか、友達になってくださいって」

「なんて答えたの?」

「うん。まぁその、いいよって」

 その言葉を聞きながら、赤信号の前で立ち止まる。
 次と、その次の信号も赤になっている。メモリはあと二つ。

325 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:45:55.48 ID:x7VE9nDA0

「ここ最近何回か、朝に話してて。それで、言ってきてくれたんだと思う」

「そっか」

 頷いて、それで終わりにすればよかった。
 もう遅いのは自明だったけれど、そう、今みたいに信号が青に変わるタイミングで、別の話題に切り替えて、空想が悪い針路へと向かわないようにすればよかった。

 でも、続きの言葉が、どこからか漏れ出た液体のように滲出していく。

「よかったね」

 表面上は問題のない言葉で、
 けれど、その言葉の矢印の方向が問題だった。

 ふゆの方は向かずに、わたしの方を向いている。

 よかったね、ともう一度わたしは口の中だけで呟く。
 どうして? と間髪入れずに自分に問いかける。答えはいくつか思い浮かぶ。

 ふゆに友達ができたから──そういう気持ちがないわけではないけれど、一番の理由にはなり得ない。
 ふゆが隠さずに教えてくれたから──隠すようなことだと思うのは、わたしの捉え方の問題かもしれない。

 どうにか矢印をふゆに向けようとしている。
 そうしたってなにも意味はないのに。……だって、もう何度も同じようなことばかりを考えていて、その答えはわかっているから。

326 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:46:34.41 ID:x7VE9nDA0

 まだ、「友達になりたい」だったから。
 そして、わたしはもう、ふゆと付き合っているから。

 友達になりたいと言われたからといって、必ずしもそれ以上を求めるようになると考えるのは、短絡的な思考だと思う。

 あの子のあの表情も、わたしの見間違いかもしれない。
 あれは悪い方向へと捉えてしまうわたしが作り出した幻覚で、本当はただあの場所にいたわたしに驚いて、表情を崩していただけかもしれない。

 つまり、さっき起きた出来事だけに、過剰に心を乱されているわけではないのだと、そう思う。

 だって、誰かに友達になりたいと言われて、それを無下に断る人なんてほぼいないと思う。
 わたしだってそう言われて断ったことはないし、やさしいふゆなら絶対に断ることはしない。

 だから、わたしが考えているのは、もっと他のことで。

 わたしが躊躇してしまうようなハードルを、簡単に越えていってしまう人たちがいる。
 ハードルだとは微塵にも思わずに、越えている自覚なしに、前へ前へと進んでいく人たちがいる。

 そういう、変えようのない事実についてだった。

327 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:47:37.08 ID:x7VE9nDA0

 ふゆにわたしよりも仲の良い友達ができたら。
 友達よりももっと深い関係の、恋人ができたら。

 ふゆがそういった素振りを見せたことは一度もない。
 去年は仲良くなってからいつも二人でいてくれたし、それは今年もそこまで変わってはいない。
 デートをしたことがないと言っていたから、きっと今までもそういう相手はいなかったんだと思う。

 でも、これからのことはなにもわからなくて。

 もし仮に、ふゆにそういう人ができたとしたら。

 そのときは、わたしのことなんて、気にも留めなくなってしまうのではないか。マフラーを巻いてくれなくなるのではないか。
 そのときは唐突で、気が付いたときにはもう遅いのではないか。

 そしてわたしは、すごく後悔するのではないか。

 そうなる前に、なんとかして繋ぎ止めたかった。
 わたしの存在を、ふゆの記憶に刻んでおきたかった。

 ほどなくして、分かれ道となる駅までたどり着く。

 その間の会話の内容も、相槌を打ったり、質問に対して返答したこともはっきりと覚えている。
 また明日ね、と言われて、それに同じ言葉を返す。

 もっと話したかったけれど、わたしが背を向けたので、ふゆは自転車に乗って行ってしまう。

 ひとりになって、地下鉄に乗って、家まで歩く。
 その道のりが、今日はなぜかいつもよりも長く感じた。

328 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/09(土) 01:51:42.38 ID:x7VE9nDA0
今回の投下は以上です。

訂正
>>302

わたしには身に降りかかったわけではないが少し嫌だったことも、今ふと思い出すまで忘れていた。

わたしの身に直接的に降りかかったことではないが、少し嫌だったことも、今ふと思い出すまで忘れていた。
329 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/10/09(土) 18:31:51.37 ID:FdpCEBDT0
おつ
330 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:41:25.63 ID:Satjfcwb0



〈U〉


 そろそろ朝に走るのをやめにしようと考えていたはずなのに、あと数日で十二月となる今日になっても、いつもの河川敷に足を伸ばしていた。

 どうしてかっていうもっともらしい理由はないけど、走らなくとも起きる時間は変わらないし、雨で走れない日はなんだか落ち着かない。
 寒さはまあまあだけど、軽くストレッチをして走っているうちに慣れてくる。二週間前くらいまではあんなに寒い寒いと思っていたのに、人間の身体って不思議だ。

 ただ外の明かりはまばらな街灯を除くとないに等しくて、ほどよく明るくなるまで待っていると、家を出る時間が後ろ倒しになっていく。
 十二月後半の冬至まで、日の出の時間はどんどん遅くなっていく……のかな? 冬至ってそういう意味だったか、正直覚えていないけど、そういうことにしておく。

 河川敷を走る人たちの数は日に日に減っていた。
 最後になるまで粘ってもいいけど、さすがに一人で走るのは心細いしなぁ、と考えながら速いリズムで動かしていた足を止めて、端の階段を降りる。
 
 あの一羽の白鳥はどうしているかな、と思ったから。

 僅かに泥濘んだ砂利道を歩き、いつもの場所に至る。

「……いない」

 最後に見に来たのは何日前だっただろうか。
 そこまで経っていないはずだったけれど、そこにはあの白鳥の姿はなかった。

331 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:42:23.18 ID:Satjfcwb0

 別の場所に行ってしまったのかな。
 それとも、気の合う仲間を見つけたのかな。

 もう見られないとなると、この場所に来る理由がなくなってしまったことになる。
 変わらず朝に走っている理由でもあったし、勝手にちょっとだけ仲間意識を抱いていたこともある。

 でも、もし仲間を見つけたのだとしたら、それはいいことに違いない。

 石段に腰掛けてしばらく待ってみたけど、開けた水上にあの麗しげな姿が見えることはなかった。
 ふと思ったことを小さく呟いて、元来た方向に引き返す。

「やほー。どったの?」

 振り向きざまに声を掛けられて、閉じていた目を開く。
 そこに立っていたのは、いつもすれ違っている帽子のお姉さんだった。

「……え、私、ですか?」

 挨拶以外で話かけられるのは初めてで、普通に戸惑う。
 お姉さんは帽子を外して、私に一歩近付く。いつもものすごい速さで走っているから、顔をしっかり見るのも初めてだった。

「うん。キミ以外いないっしょ?」

「あ、っと、ですね。……ですね」

332 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:44:04.57 ID:Satjfcwb0

「ん。で、どったの? アンニュイな顔してたけど」

 お姉さんは首をぐーっと傾げる。その動きが滑らかで柔らかくて、放っておいたらそのまま一回転してしまいそうな気がした。

 フレンドリーな感じに、若干びっくりしながら考える。
 アンニュイな顔なんて、自分ではしているつもりはなかったけど。

「ちょっと前から、あのあたりにずっと一羽だけ白鳥がいたんです。でも、今日はいなくて。
 毎朝ってわけではないですけど見にきてたので、どうしたのかなーって、ちょっと心配で」

「白鳥って、鳥の? ほわいとばーど?」

「えっと、そうですよ?」

 私がそう言うと、お姉さんは大仰に頷いて、

「いい子!」

 と半ばわざとらしくぱちぱち手を打ち鳴らした。

「はい?」

「いや、自然派と言うべきか? キミはいい子だねぇー」

 人の良い笑顔で、肩をぽんぽん叩かれる。
 フレンドリーだ、とまた思う。最近はよくフレンドリーな人に話しかけられる。

 ……いや、まずフレンドリーな人しか他人に積極的に話しかけてこないか。

333 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:45:45.89 ID:Satjfcwb0

「キミのことはねー、前から気になってたんだよー?」

「そうなんですか?」

「私よりもすらっとしてておっきいしぃー、走り方はまぁアレだけど、走ってる時のおめめがキリッとしてていい感じだし?」

「はぁ」

 まぁアレって。

「んー……私より年上には、なんとなく見えないな? てことは高校生?」

「……これって、もしかしてナンパとかですか?」

「あは、ナンパ違うよー。で、高校生?」

 ナンパ違うらしい。当たり前か。

「はい、高校生ですよ」と答える。

334 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:46:26.91 ID:Satjfcwb0

「あー、やっぱりそうかー。そうだと思ったんだよ。どこ高?」

 知らず知らずのうちに、独特なペースに乗せられている気がする。

 お姉さんは私から視線を外して、転がっている石で水切りを始めた。
 その様子を目で追うと、左手のサイドスローで放られた石は、何度も跳ねて対岸に到達した。

 なんか今すごいものを見たような。
 ……私の見間違いかな? あ、右手の二投目も対岸に。

 まぁそれはいいとして、お姉さんは良い人そうだし、あえて言わない理由もないので高校名を答える。

「へー、あそこの高校。うちのか……おっと、おっとおっと、んー、へー、制服が県一かわいいとこだよね」

「あ、私はねー──」とお姉さんも高校名を言った。

 頭の良い感じの響きの名前の高校。のが多いな。の、三年生らしい。
 ていうか、お姉さんは高校生なんだ。てっきり大学生だとばかり思っていた。醸し出す雰囲気が、何というか、余裕に満ちていて大人っぽいから。

335 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:47:27.16 ID:Satjfcwb0

「部活とかやってる系?」

「園芸部に入ってます」

「自然派だ」

「自然派ですね」

 自然派って何だろう。

「私は何部に入ってそうに見える?」

「陸上部とかですか?」

「はずれー。正解はクイズ研究会の幽霊会員こと帰宅部でしたー」

「へぇ、そうなんですね」

 笑うタイミングかどうか分からなかったけど、とりあえず口元だけ笑っておいた。

 お姉さんが砂利道の突き当たりへと歩き出したので、私も後ろをついていく。
 疲れてはいなさそうだったし、もう一走りしそうな感じだったけど、階段を上がったお姉さんの身体は、舗装されたランニングコースとは逆を向いていた。

336 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/26(火) 18:48:19.72 ID:Satjfcwb0

 くるっとターンをしたお姉さんが、じぃっと私を見る。
 そして、何かを思い出すように頭を捻ってから、大きく口を開いた。

「なんてゆーか、最近はもうとにっかく寒すぎて、今日出てくる前に温度計見たら氷点下だったんだよ? 氷点下!
 やーばいよね! ほうしゃれいきゃくー、からっかぜーって感じ。あ、カイロ要る? うん、いっぱいあるからもらっといて?
 で、でー、そんなんだからさ、さっすがに今の時間に走るのはおしまいにしよっかなって思っててー、もう会えなくなるかもしれないキミには挨拶しておきたかったんだよね。
 この前なんて帰りにケーサツの人に声かけられて、ランニングですーって言ってるのに、この服装でだよー。
 二十分くらい、まだ明るくないしアナタは若いんだから気をつけなさいだのなんだの口煩く言われちゃってー、キミも気をつけたほうがいいよ?
 何が言いたいって言うと、まぁもう今年の冬はここに来ることはないかなーっていうね。だから歴戦の盟友に別れの挨拶をー、って、これはさっきも言ったっけ?」

 すごい早口。その間にカイロを三枚も受け取る。
 警察、歴戦の盟友と引っかかるワードが多くて、言っていることを理解するまで時間がかかって、反応が遅れる。

「キミにはまたどこかで会えるといいな。またねー?」

 そのうちに、お姉さんはピースをした手を前に伸ばして、帽子を被り直して軽快に走り去っていった。

 文字通り、嵐のような人だった。
 そして、お姉さんがもう来ないとなると、あの白鳥のこともあるし、私もどうしたものかなぁと少し思った。

409.69 KB Speed:0.2   VIP Service SS速報VIP 更新 専用ブラウザ 検索 全部 前100 次100 最新50 続きを読む
名前: E-mail(省略可)

256ビットSSL暗号化送信っぽいです 最大6000バイト 最大85行
画像アップロードに対応中!(http://fsmから始まるひらめアップローダからの画像URLがサムネイルで表示されるようになります)


スポンサードリンク


Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

荒巻@中の人 ★ VIP(Powered By VIP Service) read.cgi ver 2013/10/12 prev 2011/01/08 (Base By http://www.toshinari.net/ @Thanks!)
respop.js ver 01.0.4.0 2010/02/10 (by fla@Thanks!)