26:名無しNIPPER[sage saga]
2023/09/07(木) 21:48:40.67 ID:I2AyKHWk0
その後しばらく目の前の問題に打ち込んでいたが、いつもの三割ほども集中できておらず、言い様のないもどかしさを櫻子は感じていた。
もともとこんな勉強は、ふたりきりの空間で静かにしていては気まずくて間が持たないから、逃げ場を作るために始めたようなものだった。
けれど、窓際に座る向日葵だけはなぜか妙に落ち着き払っていて。
部屋に置いてあった観光地情報の資料をゆっくり読み込んだり、また目を細めて外の景色を眺めたりしていた。
その表情は平静を装っているようだが、どことなく寂し気で、物憂げで。
「今ならまだ、戻ろうと思えば戻れますけど」と言っていた、あの乗り換え駅での姿と重なって、胸の奥がちくんと痛んだ。
「これが終わったら……」
「?」
「これが終わったら……どこか行こうか」
「……いいんですの?」
「いいよ、べつに」
「わかりましたわ」
返答の声色だけで、向日葵が少しだけ嬉しそうになってくれたことがわかる。
どんどん大人っぽくなっていくくせに、そういうところだけはまだまだ子どもっぽい。
櫻子は適当に目処をつけ、このページまではやってしまおうと自分の中で決めてから、カリカリとペンを動かした。
ふたりきりの空間。ふたりきりの時間。
聞こえるのは外の遠い喧騒と、もくもくと動くペンの音と、向日葵がお茶をすする音だけ。
シチュエーションはまったく違うけれど、自分の部屋で向日葵とふたりきりで勉強をしていたときの雰囲気を、櫻子は少しだけ思い出せた。
「……ねえ」
「なに?」
「わからないことがあったら聞きなさいねとか……言わないの?」
「あら、そう言われるのが嫌なのかと思ってましたわ」
「……嫌だけど」
「でしょう。だから私は何も言いませんわ」
「……ふん」
「私は何も言いません。あなたの重荷になるような……応援とかも、べつにする気はありません」
「……」
「何も言いませんけど……でも、見ているくらいはいいですわよね? 今日くらい」
「……向日葵がそうしたいなら、どうぞ」
「ふふっ」
静寂とゆるやかな時間の流れの中で、何かがほつれるように解けていく。
きっとこれは、この半年の間にお互いの間に凝り固まってできた “何か” 。
何をするでもなく、ただ静かに一緒にいるだけで、それは少しずつ少しずつ、しかし着実に壊れていくようだった。
やがて、自分で決めたところまで問題を解き終わり、解答解説を見ながら知識を定着させていくプロセスも終わったころ。
向日葵の髪をぽうっと透き通らせていた外の陽光は、いつの間にかオレンジ色の夕焼けになっていて。
その視線に気づいたように、向日葵も櫻子の方に振り返った。
「終わりました?」
「……ん」
「じゃあ、ちょっと散策に出ましょうか」
向日葵は嬉しそうな声色を隠そうともせず、外に出る支度を始めた。
そんなに行きたかったのなら、やっぱり自分を置いて出かけてくればよかったのにと櫻子は言いたくなったが、その言葉は胸の内に収めておく。
出かけたい気持ちはあるけれど、ひとりで行くのは、嫌だったんだ。
「じゃ、行きましょう」
「ん」
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