18:名無しNIPPER[sage saga]
2023/09/07(木) 21:41:32.48 ID:I2AyKHWk0
「あれは……2月の終わりくらいでしたか」
問題集を広げて、授業中にとったノートを見返して、せっせとペンを動かしていた。
私にとっては見慣れない姿。でも、ずっとずっと見ていたくなるような、そんな懐かしい背中。
気付けば、その隣に立って。
「櫻子」って、名前を呼んでいる自分がいた。
私のことはとっくに帰ったと思っていたんでしょう。
櫻子は驚いたようにまんまるに目を見開いて、こちらを見上げて。
こんなにしっかりと目が合ったのは何日ぶりだろうってくらい、ずっとずっと見つめ合っていた。
かけたい言葉はたくさんあるはずなのに、何を言っていいかわからなくて。
「わからないところとか、ありませんの」って……そんなつまらないことしか言えなかった。
でもそれだけで、心が満たされていくのを感じた。
愛しい気持ちが……湧き上がって抑えられなかった。
「でも……あの子の胸の内は、私と同じではありませんでしたわ」
手を伸ばして櫻子の頭に触れようとしたとき、櫻子は突然がたりと椅子を引いて、わずかに距離をとった。
その目は申し訳なさそうに虚空を見つめていて、ゆらゆらと揺らめいていた。
「……めて」
「え……」
「やめてよ……」
「櫻子……どうして……」
「やなんだよ……もう、優しくしないでよ……」
首を振りながら不安気な声を絞り出すと、櫻子は突然立ち上がって問題集やらペンやらをひっつかみ、乱暴にカバンにしまった。
呆気にとられている向日葵は、身動きが取れなくなる。
それでも、荷物をしまい終わった櫻子が教室を出ていこうとするときには、無意識にその腕をつかんでいた。
「櫻子っ」
「やめてってば!」
「どうして……!」
「嫌なのっ!!」
「!」
櫻子は向日葵の手を乱暴にふりほどき、肩を震わせながら息を整えていた。
「もう……嫌なの。向日葵のこと……裏切るの……っ」
「え……」
「私に優しくしないで……私を甘やかしたりしないでよ……」
ふるふると首を振り、自分に言い聞かせるように小さく呟きながら、うつむきがちに教室を出ていく。
うすら寒い廊下へと消えていく小さな背中を、向日葵はただ見送ることしかできなかった。
しばしの静寂ののち、櫻子のいなくなった机を指先でつっとなぞる。
言葉の意味はうまくわからなくても、櫻子の気持ちは痛いほどに伝わってきた。
期待に応えられないかもしれないことに、これ以上裏切りを重ねてしまうことに、櫻子は恐怖していた。
けれどその中に、もうこれ以上傷付けたくないという “優しさ” のようなものを、向日葵は感じずにはいられなかった。
そして、翌日。
生徒会室で事務仕事をしていると、突然ドアががらりと開いた。
入口に立ち尽くしていたのは、自分があげたマフラーに鼻先まで顔をうずめてうつむく櫻子だった。
その手には、紙が一枚握られている。
それは……七森中生徒会からの、退会届だった。
「ごめん、向日葵」
「櫻子……」
「私……もう、ここには来ない」
「……」
「今までずっとさぼっててごめん。今までずっと、押し付けちゃっててごめん」
深々と頭を下げ、櫻子はそのまま踵を返し、生徒会室を後にした。
あの冬休み前の日からずっと、櫻子は生徒会に来ていなかった。
こんなものを出さなくても、もう櫻子は来てくれないだろうということは、薄々わかっていた。
最近では後輩も、「大室先輩はどうしたんですか」と聞いてくることはなくなっていた。
それでも、こんな紙を出してきたのは、なぜなのか。
「あの子は本当に……怖いんでしょう」
自分の努力が実を結ばないことが。このまま勉強を続けても、一緒の高校に受からなかったときのことが。
(私を……もう一度裏切ってしまうことが)
やや折り目の付いた、かさついた紙を撫でると、櫻子の気持ちが伝わってくるようだった。
期待に応えられない可能性があるから、期待してほしくない。
もう自分には、結果を出す以外ない。
櫻子のことを遠ざけようとしていたとき、櫻子の方も自分から遠ざかっていこうとしていた理由が、やっとわかった。
その方が、都合がよかったのだ。
私が近くにいると、あの子は困るのだ。
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