7:名無しNIPPER
2020/11/08(日) 09:02:54.05 ID:FQVp12gN0
* * * * *
《ライラ、忘れないで。生きていくために大切なことは二つ。受け入れる柔軟さと、揺るぎない想い。その両方なの》
記憶の中をたゆたう声とともに目が覚めたライラ。あたりはまだ薄暗い。カーテンを少しだけ動かすと、おおらかな輝きの月が見える。オボロヅキヨ、でしたっけ。いやあれは春の言葉でしたっけ。
そんなつぶやきとともに、ぼんやりお月様を眺めながら、ライラはつい今しがた見たはずの夢を思い出す。故郷を離れる直前に、母からもらった言葉。相反するその二つを持つこと。それさえ失わなければ、天はあなたを見放さないから、と。ライラはそれをしっかりと心に刻んでいる。だけど、具体的に何をどうすればいいのかというのは簡単なようでいて、難しい。
届いた手紙をもう一度開く。メッセージはライラの母からのものだった。
彼女の身を案じていること、異国への旅路を選択させてしまったことへの責任。もろもろ。居場所は最近になって、仕事で日本に行っている側近者が確認したということ。父にもその知らせは入っているが、現状静観を続けているということ。どうアプローチするか考えているのかもしれないということ。また連絡するとのこと。
ライラの父もさすがに、愛娘がいなくなったことは堪えているようだという。けれど父にもいろんな思いがあるし、立場もある。素直に手を差し伸べてくれるかはわからない。まだ会うべき状態ではないと思う。それでも会いたいという気持ちは募っている。そんな内容だった。
母は板挟み状態だ。
旅立つ時からずっとそう。別れを惜しむ気持ち、旅させることへの不安、でも国に居続けさせるわけにいかなかったという事情、彼女を応援したい気持ち、などなど。
「……」
ライラは思う。キッカケは自発的なものでなかったとはいえ、こうして旅立ったことで故郷に残るいろんな人に少なからず迷惑をかけてしまっただろう。その意識はあるし、そうした自己嫌悪の念は波のように、こうして時を置いて繰り返し押し寄せる。
十六歳にして己の業のようなものを自覚する彼女は儚くもあり、皮肉にも美しかった。
迷惑、という言葉から部屋の隅に視線を移すライラ。今日は綺麗に畳まれたままの、もう一組の布団。運命共同体ともいえる、メイドの分である。
「次は月曜の夜に帰宅致します。必要なものは全て机とカバンに ――」
昨日の丁寧な説明を思い出す。律儀でマメで、献身的で努力家。それが彼女だった。一緒に日本にやってきて、手続きや諸々の段取りから日常生活に至るまで、ライラ一人では難しいことを精一杯フォローしてくれた。メイドも決して人生経験が豊富というわけでも、日本や日本語に長じているわけでもなかったのだが、旅立ったあの日以降、ライラからは全幅の信頼を受けている。
もともとこの旅を計画してくれたのも、故郷でライラの側仕えをしていたこのメイドであった。そういう意味でも、彼女はライラの運命共同体といえた。
日本に到着して以降、いくつかの仕事を転々とする中で一つの縁があり、家政婦のお仕事にたどり着いたのが数ヶ月前のこと。故郷の屋敷で働いていた経験を活かせることもあり、メイドも「これだ!」と勇んで頑張っている最近。東京郊外のある邸宅にてのお仕事で、基本は通っているものの、時折こうして泊まり込みでの仕事が入ったりもする。
経緯どうあれ、端から見ればライラの件は人生を懸けての逃避行。それもうら若き十代半ばの少女。まして故郷ではそれなりに名の知れた富豪のひとり娘である。いかなる事情があるにせよ、旅立ちをおいそれと許可したり助けたりしてくれるほど世間も家族は甘くはない。
それでも、決断が迫られていたこと。母がその密かな理解者だったこと。そして、一人の若いメイドが彼女に寄り添って生きると決断してくれたこと。それにより、この運命の歯車は動き出して現在に至っている。
なかなかすぐにはいい仕事が見つからなかった去年。悲観に暮れそうになるメイドを支えたのはライラの優しい笑顔であり、そんな彼女のために、という己の決意や執念であった。実のところライラは、貧しくも寝食をともにして、会話をして過ごすという当たり前の毎日だけでも純粋に幸せだったのだけど。
都心はずれの古いアパート。ここに共に住まい、そして働きに出て。なにより、故郷の屋敷生活を捨て異国の地に赴き、ほとんどゼロの状態から生きる道を見つけていくという途方もない旅路を選んでくれたこと。支えてくれていること。いろんな意味でライラはメイドに頭が上がらない。迷惑はたくさんかけたし、きっとこれからもたくさんかけてしまうだろうと思うと、心苦しくもなる。
「いえ、そんな。そもそも言い出したのは私です。ライラ様こそ大変な中を生きてくださって、……そして笑顔を見せてくださって。本当にありがとうございます」
私はライラ様が好きですし、この運命が好きですから。そんな彼女の言葉を思い出すライラ。生きれば生きるほどに、自分がまだまだ未熟な子供であることを思い知らされる最近の日々。みんなそれぞれ一生懸命で、みんな生きる様がとても素敵だ。
では自分は、どうなのだろう。
《月は無慈悲、ですね……》
ふふ、と自嘲気味に笑う。たぶん、月は少しも変わらなくて、あの日も今日も輝いている。でも柄にもなく感傷的になっているライラがいて、それは向こうにいた頃の彼女自身のようでもあった。そんなことを思い出したのが、なんとも可笑しかった。
63Res/192.16 KB
↑[8] 前[4] 次[6]
書[5]
板[3] 1-[1] l20