35:名無しNIPPER
2020/11/08(日) 09:28:25.12 ID:FQVp12gN0
Y イッツ・ソー・イージー
世界はいつだって美しくて雄大で、汚くて儚くて、そしてやっぱり素晴らしい。
(ヘレン/アイドル)
「夜分に失礼致します」
声の主はエージェントだった。まだ日が落ちてほどなくとはいえ、あまり人通りの多くない路地裏である。不審者でないことを示すためか、街灯の下で表情を見せようとする彼。
「おお、こんばんはでございますね」
ペコリと一礼。
ライラの中で彼を警戒する気持ちがなくなったわけではない。それでも、協力的な姿に対し幾らか信頼を置くようになっていた。もっとも、状況どうあれ挨拶はきちんとするのが彼女だし、それがらしさでもあったのだけど。
「少しお話をできればと思いまして。僭越ながらここで待たせて頂きました」
ちょうど自身も、故郷への発信についていろいろ思っていたところだった。わたくしも、と言いかけたが、プロデューサーたちのいないところで彼と接触するのがいいのかなという気持ちもよぎり、言葉をためらった。そんな空気を察してか、手短に済ませますから、とエージェント。ライラ様のお気持ちを今一度伺わせて頂きたくて、と。
「気持ち、でございますか」
「はい」
そうして、端的に質問を寄越した。
「ライラ様ご自身は、いつか故郷に帰るおつもりでいらっしゃいますか」
それと、帰りたいと思っていらっしゃいますか、と。
宵の刻、家からほどなくの距離にある小さな公園は、昼間とは違う佇まいを見せてくれる。夕焼けとともに長く伸びる影がいつもなら帰宅の合図で、この時間帯にここにいるのは珍しい。少し赤みがかった月がきらめくその下で、そっとブランコに腰を降ろしていた。すぐそばで話に応じるエージェント。
彼は本当に長話をするつもりはなかったようで、先の質問にしても答えは後日で構わないと言った。ただ、考えるようにしておいてほしいと。しかしライラが彼を呼び止めた。
《何か状況に変化がございましたか》
いえ、あいにく何も、と彼。
《国の方で動きがあればそれはもちろんご報告しますが……当面はないと見ていいでしょう。そこは安心してください。それよりも大切なのはライラ様が、そしてこちらの皆様が、どう動かれるかですよ。だから質問に来たのです》
そうして、先の問いかけに戻った。
《こちらの皆様としてはライラ様が急に国に帰られるのは望ましくないでしょう。しかし故国にはやっぱり戻ってきてほしいと願う方も少なくない》
そっとうなずくライラ。意味はわかる。
《一方でライラ様の気持ちを汲み、連れ戻すべきではないと思っている方は故国にもいるでしょう。あるいはもっと泥臭い諸般の事情込みで、戻られるのを望んでいない者もいるかもしれません》
ぐっ、と飲み込むように受け止めたライラ。それはそうだ。こんなドタバタをやって迷惑をかけている自分を快く思わない者も少なくないハズだ。いっそ、いなければいいのにと思う者もいるかもしれない。それは自身の立ち回りによるところもあれば、社会的な地位や権利に伴うことだってあるかもしれない。父くらいの権力者の周りとあれば、それは不思議ではない。ひょっとしたら、結婚の話を進められていた相手やその親族方とかも、今となってはそうかもしれない ―― などと。真相はわからないけれど。
《人間関係とは悲喜交々、いろいろあります。よい関係ばかりではないでしょう。それは日本でも、そしてドバイでもそうです。だからどちらが、ということはありません。そのうえでもう一度、よく考えてください。ライラ様、あなたは故郷に帰りたい気持ちはございますか。あるいは、帰らざるをえないものだと思っていらっしゃいますか》
《……わたくしは》
わたくしは、帰るわけにはいきません。少なくとも今は。ライラはそっと、しかし確かにそう答えた。
《それはなぜですか?》
《わたくしは、……わたくしはこちらでたくさんの方にお世話になりました。たくさんのことを教えて頂きました。今もそうです。わたくしはそんな毎日が好きですし、宝物ですし、……そしてみなさまにまだ、恩返しが何もできていません》
それはほんの少しの語りにすぎない。だがライラにとっては、自分の気持ちをきちんと述べることができたという喜びがあった。
だが。
《ふむ。少し残念な答えですね》
エージェントかの望むところには届かなかったようだ。
《……それはなぜですか》
《恩返し。素敵な言葉ですね。ですがそれを言うなら、故郷の皆様の中にだって恩返しすべき方はいらっしゃるでしょう。……義務感のように恩返しなどと語るのはあまり好ましくありません》
使命から逃れこの東洋に来て、そしてここでまた新たな使命感に囚われるがゆえに離れ得ないというのならば、それはあまりに残念な返答ですと。
それは端的で、そして核心を突いた説明だった。
《もっとライラ様の言葉を聞かせてください》
うつむくライラ。うまく話せたと思ったのだけど、まだまだ自分は未熟だ。
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