1: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:36:57.22 ID:CDwt0mRk0
隅にひびの入ったテレビでは、「アナと雪の女王」の再放送が映し出されている。見たことはなかったけれど、主題歌くらいは聞いたことがあった。「アナ雪2」の公開を間近に控え、最近、街頭でもよく耳にする。
ぼくはなにをするでもなしに、ただただ再放送を眺めていた。見ていたんじゃない。ただぼんやりと、何世代も前の薄型テレビの画面に目をやっていた。
ソファは経年劣化でスプリングが弱っている。座っていると、そのうちずるずる落ちていってしまって、殆ど座面がぼくの背もたれみたいになる。あまりにもすることがないぼくは、けれど、位置の修正すら億劫で、そのまま息をつく。
「ねぇー、Pサマー」
「なんだ?」
ぼくのマネジメントをしてくれているそのひとは、部屋の中だと言うのに薄汚れたコートを羽織ってデスクへ向かっていた。かたわらにはアイコス。画面を睨みつけているけれど、手は動いていない。
「ありのままの自分になったら、なんにも怖くないもんなの?」
「……」
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2: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:37:36.99 ID:CDwt0mRk0
Pサマはちらり、ぼくと、そしてテレビを一瞥すると、またすぐにモニターへと視線を戻した。
「なんかさー、ぼく、ディズニー映画ってそーゆートコが嫌いなんだよね。綺麗ごと言ってれば全部丸く収まる、みたいなさー」
3: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:38:14.39 ID:CDwt0mRk0
「うぎゃー!」
ぴんぽんぴんぽん通知がスマホの画面にポップアップしていく。1、2、3……その数は最初こそゆっくりだったけれど、次第に、加速度的にその速度を増して、40を超えた時点でぼくはスマホをソファに放り投げた。
4: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:39:16.33 ID:CDwt0mRk0
地下アイドルのライブが終わってほくほくしていたぼくの目の前に彼が現れたとき、正直、それこそどこかのアイドルがハコにやってきたのだと思った。薄汚れたコート、その内側から名刺入れを取り出して、一枚の紙切れをぼくに見せてくるまでは。
正気の沙汰じゃない、っていうのが最初の感想。だし、なんなら今でも思う。頭の螺子がぶっ飛んでいるひとはどんな世界のどこにでもいて、片隅でひっそり暮らしているとは限らない。
確かに、ぼくは顔のことで褒められることは多かった。不摂生が祟って腹回り、足回りは少しぶよぶよしているけれど、おっぱいだってかなりある。どたぷん、ってくらいには。
5: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:40:47.37 ID:CDwt0mRk0
口説き文句は、正直、あんまり覚えていない。ただただ唐突なできごとに混乱して、「は? このひと頭がおかしいんじゃないか」って思って、「顔がめっちゃカッコいい」とも思って。
……あぁ、そうだ。確かPサマはこう言ったのだ。アイドルになんかなれないって、尊くなんかなれないって断ろうとしたぼくに「だからこそ、いまだ嘗てないアイドルになれる」なんてことを。
そんなはずがない。ぼくのことはぼくが一番よくわかっているし、アイドルっていう存在だって、目の前の男よりもずっと詳しいんだから。
6: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:43:08.34 ID:CDwt0mRk0
「ねー、Pサマ、暇だよぉ、構ってよぉ」
ソファに不自然な体勢で体を預けているせいか、シャツの裾がだるんだるんになっている。それももう気にならない。
7: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:44:23.70 ID:CDwt0mRk0
まぁ、駆け出しのアイドルなんてそんなもんなんだろう、という達観も確かにあった。ぼくが稼いでるお金より、ぼくに使ってくれているお金のほうが全然多いはずだ。
そもそもこの事務所、母体は中堅どころのそこそこ有名な会社だけれど、その一部門としては極めて零細。ぼく以外のアイドルだって片手で数えられるくらいだから。
8: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:46:25.47 ID:CDwt0mRk0
ぼくのアイドル論とは全く無関係に、ぼくはそもそも面食いで、可愛いアイドルが好きだった。当然カッコいいアイドルも。そういう意味では、Pサマの存在は、なんていうか、こう……非常にモチベに繋がっている。そして毒でもある。心臓に負担が、が、が。
「千川ァ。俺の代わりに、こいつの教育すっか?」
9: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:48:21.68 ID:CDwt0mRk0
「た、食べる!」
「そうか。なら、俺も休憩にすっかな」
10: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:49:54.93 ID:CDwt0mRk0
* * *
「……」
11: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:52:18.84 ID:CDwt0mRk0
現在時刻は夜の八時半を回っていた。事務所に始発で来たから、かれこれ十四時間、アイドル活動をやっていたことになる。
今日は朝からテレビの収録があったのだ。
12: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:54:45.28 ID:CDwt0mRk0
だって仕方がない。仕方がないじゃん! 本当のことなんだもん!
五人でグループを組んでた時のほうが活き活きしてた。いまもパフォーマンスは凄いしファンサービスだってめっちゃだけど、だけど、だけど、……ステージで踊る彼女たちの汗と笑顔が、なぜだか尊く見えない。心でも魂でもなくて、技術でアイドルをやっている、そう思えちゃったのだ。
それが残念でしょうがない。泣きたくなるくらい悔しい。
13: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:56:05.75 ID:CDwt0mRk0
Pサマは怒っていたけれど、どこか嬉しそうな、楽しそうな顔をしていた。だからぼくは、やってしまったという自己嫌悪よりも、よっぽど自慢気が勝っているのだ。
初テレビ出演のお祝いに餃子も買ってもらったし!
薄汚れたコートを着たまま、Pサマは餃子を電子レンジに突っ込んだ。
14: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:57:04.84 ID:CDwt0mRk0
電子レンジが「チン」と音を立てる。呆れ顔のPサマ。扉を開け、餃子を取り出し、パックの蓋をとる。
安っぽいにおいがした。だからこその親しみやすさだとぼくは思う。
15: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:58:06.62 ID:CDwt0mRk0
* * *
蓋を開けてみれば、わかっていないのはPサマのほうだった。
16: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 00:58:49.94 ID:CDwt0mRk0
* * *
先日ぼくが大失敗してしまった初めてのテレビ撮影、ぼくは当然あんな映像使われないと思っていて――そしてそれはPサマも同じだった。だからぼくたちはその番組の放映日なんてすっかりと忘れてしまっていたのだ。
17: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 01:00:19.46 ID:CDwt0mRk0
その声が、声たちが、いったい何についてぼくへと奔流を浴びせかけているのかわからなかった。やってしまったという後悔も、みんなが注目してくれているという昂揚もそこにはない。起き抜けの頭は火花が散るばかり。
そうして次第に明晰していく中で、ようやくぼくは気付いたのだった。
どうやらあの日の主張はボツにはならなかったらしい。
18: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 01:01:05.60 ID:CDwt0mRk0
スマホはしつこく鳴っている。
正直、このまま電源を落として、布団被って、寝たい。惰眠を貪りたい。ぼくのせいであって、ぼくのせいじゃないのだと、世界のすべてに叫びたい。
だってそうだ。そうじゃない? ぼくはアイドルへの愛を叫んだだけなのだ。そりゃあ確かにちょっと批判みたいなことはしちゃったかもしれない。でもそれは愛ゆえであって、決して喧嘩を売ったわけじゃあない。
19: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 01:01:34.09 ID:CDwt0mRk0
「ううぅ……」
シャツの裾を掴む。
世界は針の筵だ。その中にあって、掛布団だけが、なによりも優しい。柔らかくぼくを抱きしめてくれる。
20: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 01:02:57.75 ID:CDwt0mRk0
絶望していてもお腹は膨れない。し、冷蔵庫だって満たされない。とりあえずコンビニへと選択をするのは現代人の美徳。
手櫛で髪を梳く。桃色と水色のコントラストがちらつく。もちろんすっぴんのままにぼくはお日様の下へと躍り出た。
「よぉ」
21: ◆yufVJNsZ3s[saga]
2020/02/10(月) 01:03:25.00 ID:CDwt0mRk0
「……燃えてる?」
恐る恐る尋ねる。いつものような炎上騒ぎなら、Pサマのお小言と拳骨だけで済んでいる。そうでないということは、……そうでないということなのだ。いつものような炎上騒ぎではないという。
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