84: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:52:11.53 ID:hoMUvMIQo
「じゃないっすか、じゃあないだろ。ほら」
彼は呼吸を整えようともせずに、左手を差し出した。
私はそれを受け取って、酷く濡れている髪の上にとりあえず乗せる。
85: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:52:37.16 ID:hoMUvMIQo
もう一度振り返って、私の視界は再びそれを捉える。
――ここにあるのは、だから、たったこれだけだ。
86: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:53:28.48 ID:hoMUvMIQo
すぅ、と小さく息を吸いこむ音がした。
そのあとを追いかけるようにして、でも、とやけに掠れた声が雨脚の隙を縫って私の背を叩く。
「でも、本当のことなんだ」
87: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:54:00.25 ID:hoMUvMIQo
それっきり私は何も言わなかった。そして、それは彼も同じだった。
私たち二人が抱えたどうしようもない沈黙を、予定調和の夕立が綺麗に流し去っていく。
薄い耳鳴りのような雨音は酷く心地がよくて、とても拭いきれないその感覚が、だけど、だから、堪らなく嫌だった。
88: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:54:29.28 ID:hoMUvMIQo
――ずっと雨が降っている。
その始まりは、最早思い出すことが出来ない。
いつの日からかずっと、今日に至るまで、私の空には雨が降り続いている。
いつかの私は雨の冷たさを嫌って、だから傘を欲しがって、だけどいまはもうその感情の行方さえ不確かで曖昧だ。
89: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:54:57.91 ID:hoMUvMIQo
「あさひ」
90: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:55:34.55 ID:hoMUvMIQo
と、不意に。
彼が私の名前を呼ぶ。
無理に沈めたような調子で響いた声は、沈黙を破るためのものではなく、むしろこの雨音から沈黙を取り返すためのものみたいだった。
91: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:56:09.88 ID:hoMUvMIQo
そう尋ねる彼の言葉がなんだかひどく的外れに思えて、私はつい笑う。
「プロデューサーさんにはそうみえるっすか」
92: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:56:43.44 ID:hoMUvMIQo
「強がるなよ」
「強がってなんかないっすよ」
「強がってるだろ」
「違うんす。本当に、覚えがなくて」
93: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:57:14.75 ID:hoMUvMIQo
プロデューサーさんはそこで一旦言葉を区切る。
踏み出すことを躊躇うような途切れ方だった。
彼の表情はいまも見えないままだ。
94: ◆J2O9OeW68.[sage saga]
2020/01/04(土) 20:57:41.13 ID:hoMUvMIQo
不自然に空いた私たち二人の隙間を、通りすぎる雨の音がいっぱいに満たしていく。
胸が苦しかった。
まるで深い海の底へ沈んでいくみたいで、上手に息ができなくなる。
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