2: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/12(水) 00:15:04.98 ID:BdiXsnKQo
風にのって微かに香る潮の匂いが鼻腔をくすぐるなか、彼女はまた資料を読み進めていく。
「…………。」
彼女が一週間ほど前から向き合っているこの資料は、近々行われる演劇の公演のオーディションに関するものだ。
3: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/12(水) 00:15:34.22 ID:BdiXsnKQo
演劇のモチーフは「鶴の恩返し」である。
4: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/12(水) 00:18:29.79 ID:BdiXsnKQo
鶴を助けた青年のもとに、道に迷い雪に降られた娘が泊めてほしいと訪れる。
吹雪で外へ出られない日が続くが、やがて青年は娘の人となりに密かに好意を抱くようになる。
ある日娘が「布を織る間部屋を覗かないでほしい」と言い部屋にこもり、数日かけて一反の美しい布を織りあげた。
青年が詳しい話を聞いても、娘は「言えない」というばかり。
やがて娘が布を織るために頻繁に部屋にこもるようになり、それゆえ次第に二人が顔を合わせて話せる機会が少なくなっていった。
5: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/12(水) 00:19:21.91 ID:BdiXsnKQo
馬場このみが再び意識を外に向けた頃には、すっかり氷も解け、グラスの汗はローテーブルを濡らしてしまっていた。
資料が濡れてしまわぬように台拭きで拭ってから、彼女は息を吐いた。
「悲しいお話ね……。二人は、どうして別れなくちゃいけなかったのかしら……。」
6: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/12(水) 00:20:45.91 ID:BdiXsnKQo
彼女がアイドルとして活動する中で、最近はドラマ「セレブレーション!」や先述の「屋根裏の道化師」をはじめとした演技の仕事も増えてきた。
自身の二十余年の経験も助け、「想い合う二人のすれ違い」そのものについては、いまではある程度具体的なイメージを持てている。
しかしその一方で、物語の幕引きにどこか彼女の中で役に落とし込めない部分があった。
なにも誰もが救われる話であってほしい、ということではない。
7:名無しNIPPER[sage]
2019/06/12(水) 22:18:44.51 ID:PfnMtZAgo
ええぞええぞ
8: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/16(日) 20:48:03.76 ID:aN661FRYo
「はいほー!なのです。」
事務室のドアが開く音がしたと思えば、直後に特徴的な声が聞こえてきた。
談話スペースの奥側に座るこのみにはパーテーションが死角となり直接見ることはできないのだが、声の主が誰であるかは特段迷うこともなかった。
9: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/16(日) 20:48:52.99 ID:aN661FRYo
このみは当人を確認するために腰を浮かし背中を伸ばした。
……のだが、思いのほか死角が大きいようだった。
ローテーブルに軽く手をつくようにして前のめりになり、それでも姿が確認できなかったため、さらにもう少しもう少しと。
体重を前に移すたび存外つらい体勢となっていく。
10: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/16(日) 20:50:59.36 ID:aN661FRYo
まつりは撮影の仕事を終え、劇場へ今しがた戻ってきたとのことだった。
小脇に抱えた小さな荷物を置き、慣れた手つきで自分の飲み物を準備して談話スペースに戻ってきた。
先ほどのこともあり、まつりが戻ってきたころにはこのみの集中は完全に途切れ、反動でローテーブルに突っ伏すような状態になっていた。
11: ◆Kg/mN/l4wC1M
2019/06/16(日) 20:52:25.59 ID:aN661FRYo
このみは、はぁ……、とため息とも返事ともつかない微妙な声を上げつつ、
ちょうど目の前の位置にあった件の資料の束を、まるで紙の感触を確かめるようにそっと指先で転がした。
「『鶴の恩返し』って、悲しいお話よね……。」
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