31: ◆AsngP.wJbI[saga]
2019/06/10(月) 21:03:47.33 ID:9pdDfgPfo
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いつの間にか傾いた日差しがデスクを黄色く照らしていた。
今日は朝方に劇場へ顔を出した後、昼間からは事務所に移って仕事をしている。
しばらくエミリーのことにかかりっきりで少々溜まってしまっていた事務仕事を片付けている中、思い出したように時計を見上げた。
気づけば定時を──もっともそんなものは有って無いような職だが──もうすぐ迎えようという頃合だ。
そのままソファのほうに視線を移すと、エミリーは先ほどから長いこと集中を切らさないまま“ひらがな”の書き取りに勤しんでるままだった。
真横でぴたりとついてそれを見守っていた伊織が、「へぇ……」とちいさく声を上げたかと思えば、
今度はこちらへ向かってこっそり耳打ちしてきた。
「ものすごく覚えが早いわ。 全部一回で書けるようになってる」
俺は以前医者の先生から聞いたことを思い出した。
先生のいう事は概ね正しかったという事なのかもしれない。
エミリーの体はちゃんと今までどおり読み書きも会話も全部覚えていて、きっかけ一つで思い出せるようになるというあの話を。
「その前は会話の練習もしてみたの。 基本的な挨拶とかね……それも、一度教えたらちゃんと覚えてくれたもの」
「それはすごいな。 ……エミリー」
黙々と新しいノート相手ににらめっこを続けているエミリーに、軽く声をかけてやった。だが返事はない。
「…………エミリー?」
「What?」
もう一度呼ぶと今度はようやく気づいたのか、打つように体を起こしてこちらへ顔を向けた。
「すごい集中力だな……」
「《邪魔しちゃってごめんなさいね》」
「《いえ、平気です》」
エミリーはようやくペンを置き、グッと背筋を伸ばして事務所をキョロキョロ見回している。
「Wow, it's already this time?」
そのエミリーを黙ったまま見つめる伊織の表情には、どこかにひっかかりを感じているような、すっきりしない色が浮かんでいる。
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