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晴れ空に傘
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256 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 06:19:35.54 ID:DNcSflKQo
男「凪、グラブは持った?」
凪「持った」
男「万力公園に行くよ。自転車はあるよね?」
凪「うん。裏から取ってくる」
凪はもはや、「どうして?」と訊くことはなかった。
俺と田向くんを信用して、これから「何か」があると分かりつつ――
付いてきてくれることを、決めたんだ。
少しだけ小雨になった空を見上げると、
相変わらず履き潰した上履きみたいな、淀んだ灰色をしていた。
凪は家の裏から自転車を引いて歩きながら「もうめっちゃ濡れちゃったよ」と笑っていた。
257 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/27(月) 06:50:40.02 ID:mUqUIp1RO
これ、割とレベチのSSだよね
毎日更新してくれて本当にありがたい
青春っていいなぁ…
258 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/27(月) 07:10:18.38 ID:G0JHhHMEO
キャプテン、来るのか…?
259 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 21:35:35.94 ID:DNcSflKQo
俺が先陣を切って走り出し、雨水の溜まった農道を自転車で勢いよく滑っていく。
時折、桃の木の枝が視界を掠めていった。
通り過ぎる3ナンバーの乗用車は、凄まじい勢いで水しぶきを上げていく。
後ろに続く凪がどんな顔をしているかは分からなかった。
何度か振り返ろうかと思ったけれど、なぜだかそれが……できなかった。
気づくと視界の端に、「万力林」と呼ばれる雑木林が見えてきた。
凪の家から万力公園は決して遠くないが、
夢中で走っているうちにあっという間に着いた気がした。
260 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 21:38:03.63 ID:DNcSflKQo
万力公園は、かつて武田信玄が防水林として植えた赤松が発祥となっている――
という、由緒正しい公園である。
市が管理する大きな都市公園であり、いつもは学生や家族連れで賑わっているのだが、
今日はこんな天気ということもあってか、
入り口の売店にも、駐車場にも、まったく人はいなかった。
まるで世界の終わりのような公園内を走り抜けて芝生広場にたどり着くと、
その中心に”だれか”がいた。
しとしとと雨が降りしきり、すっかり水浸しになった誰もいない芝生の真ん中に、
ポツンと一人――あの少年が佇んでいた。
261 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 21:42:17.05 ID:DNcSflKQo
田向「あ!」
その人影に気付いた田向くんが、自転車を転がすように置き去りにして駆け出した。
男「ちょっと――」
田向くんを追おうとしたものの、すぐにやめた。
後ろにいた凪が、唇を噛んで辛そうな顔をしていたからだ。
凪も、あの少年が誰なのか……気付いたんだろう。
俺は優しく「大丈夫だよ。いこう」と声をかけた。
俺と凪は自転車を降り、田向くんと”彼”のもとへ――ゆっくりと近づいた。
262 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 21:46:20.59 ID:DNcSflKQo
キャプテン「……七瀬川」
雨のなかずっと立ち尽くしていたのか、濡れ鼠のようになった彼はぼそりと言った。
気のせいかもしれないが、その瞳は少しだけ赤らんでいるようにも見えた。
凪「どうしてここにいるの……?」
キャプテン「呼ばれたんだよ」
凪「え……?」
凪は困ったように俺の方を見る。
男「キャプテンを呼び出したのは俺と田向くんだ」
男「……キャッチボールをするためにね」
キャプテン「は? キャッチボール?」
263 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 21:55:12.56 ID:DNcSflKQo
男「キャプテン、グラブは持ってる?」
キャプテン「持ってきてないですよ」
男「ま、そうだと思った」
俺は田向君に向かってグラブを渡すようにジェスチャーする。
田向君は背負っていたエナメルバッグの中から黒いザナックスのグラブを取り出し、
そのままキャプテンに投げ渡した。
男「凪、グラブを出して」
そう伝えると凪は小さく頷き、バッグから鮮やかな赤茶色のグラブを取り出した。
凪はミズノのグラブなんだな……とかそんなことを考えていると、
目の前にいるキャプテンが大声を出した。
キャプテン「七瀬川、投げてこいよ!」
264 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 21:57:15.75 ID:DNcSflKQo
きっと、なにか吹っ切れたのだろう。
さっきの学校での姿とは打って変わり、やる気に満ちた彼を見て、少しだけ嬉しくなってしまう。
さあ、ここからは……手出し無用だ。
凪とキャプテンの大好きな――その”白球”にすべてを託すとしよう。
キャッチボールをしていれば、自ずと心は通い合うはずだ。
凪「…………」
凪はその場で、握った白球を見つめたまま動かなかった。
キャプテンが何度か「投げてこい!」と声をかけても反応しない。
田向君が「先輩、いいんですよ! 思い切り投げて!」と言うと、
凪は顔を上げてキャプテンを数秒見つめた。
そして軽くステップを踏み、キャプテンに向かってボールを投げた。
雨を切り一直線に伸びた球は、勢いよくキャプテンのグラブに収まった。
265 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 22:06:52.37 ID:DNcSflKQo
さすがだ。良い球を投げる。
そんなことを思っていると、キャプテンも負けじとこれまた良い球を投げ返した。
そしてしばらく無言で、ボールの往復が始まった。
キャッチボールを見ればどのくらいの技量か分かる……なんて言うことがあるけど、
この二人が普段からどれだけ野球を愛し、真摯に向き合ってきたかが伝わってくるようだった。
俺はふと、横で見ていた田向君に訊ねてみた。
男「凪もキャプテンも上手いね。キャプテンはどこを守ってるの?」
田向「キャプテンは、ショートですね」
男「なるほど……」
きっと彼は、技術的にも精神的にも、チームの柱なんだろうな。
266 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 22:13:24.72 ID:DNcSflKQo
二人が何度ボールのやり取りをした頃だろうか――
数回だった気もするし、数十回だった気もする。
ふと、キャプテンが口を開いた。
「七瀬川。俺、ずっと言いたかったことがあるんだ」
白球が、凪の胸元のグラブに収まる。
「……なあに?」
白球が、キャプテンの胸元のグラブに収まる。
「その、なんというか……」
白球が、すこし逸れて凪のグラブに収まる。
「大丈夫だよ。ちゃんと聞くから」
白球が、キャプテンの胸元のグラブに収まる。
「……泥かけて、ごめんな」
白球が、ワンバウンドして凪の後方へ抜けていった。
267 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 22:15:14.57 ID:DNcSflKQo
田向「俺、取りに行きます!」
すぐさま、田向くんがボールに向かって走っていった。
凪とキャプテンは、見つめ合ったまま固まっている。
キャプテン「ずっと伝えたくて、でも言えなくてさ……」
キャプテン「今更こんなこと言っても遅いかもしれないけど……」
キャプテン「ごめんなさい」
キャプテンはそう言うと、深々と頭を下げた。
凪「……どうして」
キャプテン「え……?」
凪「謝るなら、どうして私にあんなことしたの?」
キャプテン「そ、それは……」
268 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 22:55:45.05 ID:DNcSflKQo
凪「分からないよ」
凪「そんな風に言われたって、私、全然分かんない……」
ずっと降り続けていた雨はいつの間にかやんでいたが、
空は相変わらず、重々しい鈍色のままであった。
ボールを拾い、戻ってきていた田向君が口を開く。
田向「先輩、それには理由があるんです」」
凪「理由……?」
田向「そうです。キャプテンは自分の意思じゃなくて……」
キャプテン「タム、いいよ。俺が自分で説明する」
言いかけた田向君を制し、キャプテンは意を決したように「うし」と言ったあと、
凪の方を真っ直ぐに見つめた。
269 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 00:29:56.92 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「俺があの日泥をかけたのは……広瀬と約束してたからだ」
凪「広瀬さんと……?」
キャプテン「七瀬川を野球部から追い出したら、いじめをすぐにやめるって言うから……」
キャプテン「俺は……いじめをやめさせるために」
凪「ちょっと待って! 全然分かんないよ。どういうことなの……?」
田向「広瀬はキャプテンに、七瀬川先輩を野球部から追い出したらいじめをやめると……持ちかけたんです」
凪「なにそれ? それで、私を辞めさせるために泥をかけたってこと?」
田向「そのとおりです」
凪は目を見開き、震える声で「うそでしょ……」と漏らした。
270 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 00:45:29.59 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「俺は、いじめられてる七瀬川を見てるのが本当につらかったんだ」
キャプテン「毎日毎日苦しそうで、なのに一人で戦ってて……」
キャプテン「どうにかしてやりたいって思ってた。でも何もできない自分がいて……」
キャプテン「それが、本当に嫌だった」
凪は表情を崩すことなく、口を真一文字に結んでキャプテンの言葉に耳を傾けている。
キャプテン「広瀬の言う通りにすれば、七瀬川を救えるかもって思ったら……」
キャプテン「俺、後先考えずにあんなことしちまってた」
キャプテン「それが七瀬川のためになるんだって信じ込んでた」
キャプテン「でもさ。俺、間違ってたんだよな」
次第に、凪の肩が小刻みに震え出した。
近寄ろうとしたが、田向君が黙って近づいたので、俺はそのまま見守ることにした。
271 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 00:47:51.44 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「七瀬川からしたら、野球を奪われることの方がずっとずっとつらかったんだよ」
キャプテン「俺、ずっとお前を救った気でいてさ……」
キャプテン「一週間以上学校に来なくなってから、やっと気付いんだよ」
キャプテン「俺は、取り返しのつかないことをしたんだって……」
キャプテンがそこまで言い終えると、しばらく沈黙が広がった。
どれくらいの沈黙だっただろう。
一瞬の気もしたし、永遠のような気もした。
とにかく、ぴたりと世界の空気が止まったかと思うと、それが勢いよく破裂したんだ。
凪「当たり前だろ!?」
これまでに一度も聞いたことのないような、凪の渾身の叫びであった。
俺だけじゃない、田向君もキャプテンも唖然とし、その場を動けなかった。
272 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 00:56:51.31 ID:rYOC6gBvo
凪「当たり前じゃん。そんなこと……」
凪「今まで一緒に頑張ってきた仲間だろ……? チームメイトだろ……?」
凪「ずっと一緒に、楽しく野球やってきたじゃんかぁ……」
ぼろぼろと大粒の涙を流し、凪は「ひっぐ」と嗚咽を漏らす。
凪「みんなで夏の大会に向けて、頑張っててさ」
凪「キャプテンはショート、田向はキャッチャー。誰ひとり欠けちゃいけない仲間でしょ?」
凪「私は……野球も、野球部のみんなも、大好きだったんだよ?」
凪「それがなくなったら――いじめより、もっとつらいよ……」
きっと答えなんて、最初からシンプルなものだったんだろう。
要は”それ”を見ようとするか否かというだけで、
キャプテンも田向くんも……最初から分かっていたのかもしれない。
それでも彼らを包んでいた暗雲はそれほどに分厚く――
一時の気の迷いであっても、”縋らずにはいられなかった”のだろう。
それこそ、それが”悪魔の囁き”であったとしても……。
273 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:00:37.74 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「七瀬川。俺は……お前と一緒に、また野球がやりたい」
キャプテン「野球部に……戻ってきてほしい」
凪「うう…………」
とめどなく溢れる涙を、少し大きなパーカーの裾で何度も拭う凪。
しかしそれでも追いつかず、一粒、二粒と、雫が落ちていく。
キャプテン「勝手なこと言ってるのは分かってる」
キャプテン「一方的に出てけって言っておいて、今更戻ってきてくれなんて、虫が良すぎる」
キャプテン「でもな、七瀬川。俺は……俺は………」
凪「なんだよぉ……?」
涙まみれの紅潮した顔で、凪はキャプテンをじっと見つめる。
274 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:03:44.10 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「お、俺は、お前を………」
キャプテン「お前を…………」
二の句は継がれない。
キャプテンは歯ぎしりし、苦しそうに呼吸を整えた。
その様子を見て、俺は――
『頑張れ』
自然と、そんなことを思っていた。
なぜだかは分からない。
この少年が、かつての自分と重なって見えたのか、あるいは――。
275 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:05:30.27 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「次に学校でいじめられたら、俺がお前を守ってやる」
凪「えぇ……?」
キャプテン「もう、何かに頼ったり、他人に任せたりしない」
キャプテン「もしまた七瀬川がいじめられたら、俺が絶対に……守ってやる」
キャプテンは、透き通るほど混じりけのない瞳で凪を見つめる。
そしてまた、しばらくの沈黙が訪れた。
広場を吹き抜ける湿った風が頬を撫で、むわっとした草の匂いが鼻腔をつく。
足元には、松葉色の芝生に混じって、シロツメクサの白い花が顔を出していた。
この中に四葉のクローバーは……あるんだろうか?
276 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:06:34.21 ID:rYOC6gBvo
凪「それ、ほんと……?」
凪はこぼれる涙を右手でぬぐいつつ、言った。
潤んだ瞳には、微かに光が宿っていた。
キャプテン「本当だよ。何があっても、どんな時でも……七瀬川の盾になる」
キャプテン「俺は……心に決めたんだ」
キャプテンがそう言った時だった。
凪「ぅううああ……」
凪はまた派手に泣き出し、座り込んでしまった。
これには俺も心配が勝ち、すぐに近づいて話しかけていた。
277 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:08:32.28 ID:rYOC6gBvo
男「凪、大丈夫……?」
そう問いかけると、凪は口元を押さえてこくりと頷いた。
凪「う、うれしいよぉ……」
凪「今までずっと心細かったから……すごくうれしいよぉ……」
キャプテン「七瀬川……」
凪「じゃあ私、戻ってもいいの? 学校に行っていいの?」
凪「もう一度みんなと……野球、していいの?」
すると、キャプテンは今にも泣き出しそうな微笑みを浮かべて……。
「もちろんだ」と嬉しそうに言った。
278 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:14:14.85 ID:rYOC6gBvo
「わあああぁぁ………」
凪が、声を上げて大泣きする。
”喜びの慟哭”は辺り一面に響き渡り、湿っていた萌葱色の芝生を震わせた。
田向「先輩、俺も同じ気持ちです」
田向「俺も七瀬川先輩の味方ですし、戻ってきたらなんでも力になりますよ」
田向「また一緒に、みんなで野球……やりましょう」
凪「あ、ありがとう……」
凪「ありがとう―――!!」
そしてまた、「ああああ……」と泣きじゃくる凪。
濁っていた雨模様の空気が、一気にはじけて霧散していくような、
そんな晴れ晴れしい錯覚を覚えた。
279 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:22:59.59 ID:rYOC6gBvo
凪「私、また学校へ行く。……みんなと野球がしたい」
凪「だって私は……もう”ひとりじゃない”もんね?」
凪は顔を上げると、笑った。
塾の前に咲いていた、あの鮮やかな桃の花のように。
根図橋から見た、あの煌めく笛吹川の夕暮れのように。
この世界に落ちる影すべてを、一つ残さず消し去るほどの、眩しい笑顔だった。
俺は、そんな”馬鹿げた”想像をするほどに……。
凪のその笑顔が心と瞳に焼き付いて……離れなかったんだ。
たぶん、一生忘れることはないだろう。
凪……よかったね。
だから言ったろ?
君は必ず……また楽しく仕方ない”当たり前の日常”に戻れるってさ。
280 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:24:39.00 ID:rYOC6gBvo
ふと空を見上げると、分厚い雲の切れ目から一筋の光が差し込み、きらきらと光っていた。
「あ、晴れた」
俺がそうこぼすと、全員が同時に空を見上げた。
それがなんだかおかしくて、ついみんなで笑ってしまった。
凪の笑顔が太陽を連れてきた……。
そんなことを言ったら、笑われてしまうんだろうか?
いや、でも。
きっとそうだよね。
凪の未来は、あの雲の向こうに広がってる。
……そんな気がした。
281 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:28:11.31 ID:rYOC6gBvo
その日の夜、まだ授業開始までしばらく時間のある頃。
凪は久しぶりに塾へと顔を出した。
男「よく来たね」
少しだけ赤面し、恥ずかしそうに振る舞う凪を見て、胸が一杯になった。
凪の日常が、少しずつだけど戻り始めている。
陽子先生は入り口に立っていた凪を思い切り抱きしめると、
「えらい」とだけ言って、何度も凪の頭を撫でた。
凪「お母さん、ごめんね。私……ずっと……」
陽子「いいんだよ。私の方こそ、何もしてあげられなくてごめんね」
凪「んーん、ちがうの。本当は私も、もっともっとお母さんに色々言うべきだったの」
凪「ずっと一人で閉じこもって、心配かけて……」
凪「だから、ごめん……」
282 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/28(火) 01:28:29.48 ID:cOVSjomCO
ぼろぼろ泣いてる
283 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/28(火) 01:35:08.43 ID:Z14JCHlcO
凪ちゃん…!
よかった…ほんとによかったよ…
284 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:36:59.56 ID:rYOC6gBvo
それだけ言うと、凪はまたぽろぽろと涙をこぼした。
本当に、君は泣き虫な子だよ。
俺と会ってから、一体何回泣いた?
そんなことを思いながら――二人のやり取りを眺めていた俺も、
いつの間にか泣いてしまっていた。
嬉しかった。
本当に、心の底から、ただただ嬉しかった。
俺は、この親子が幸せそうにしている姿が――きっと何よりも好きだった。
どうか、こんな時間がいつまでも続きますように。
俺は溢れた涙を隠すように右手で拭って――”凪専用”の数学のテキストを開いた。
285 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:43:17.29 ID:rYOC6gBvo
久々の授業は概ね問題なく、凪もブランクがあったとはいえ熱心に授業を聞いてくれた。
「遅れた分は、ちゃんと取り返すよ」
「野球もそうだけど、ビハインドからの巻き返しが一番燃えるからね」
凪は楽しげにそう語った。
今の状況をそんな風に捉えられるくらい、凪は前向きになれてきている。
良かった……と思う一方で、
凪は元来こういう子だったんだろうな、とも思った。
芯があって、したたかで真っ直ぐな子なんだ。
だからこそ、色んなものをずっと一人で抱えてきてしまった。
運命というのは……ときに残酷だ。
286 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/28(火) 01:45:04.81 ID:Z14JCHlcO
俺もキャプテンみたいな男になりてえな…
287 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:49:04.13 ID:rYOC6gBvo
塾舎で事務作業をしている陽子先生を残し、一足先に帰ろうとすると、
家の玄関先にいた凪に呼び止められた。
凪「ねえ、ちょっと時間ない……?」
男「どうしたの?」
凪「ちょっと、お話があって」
男「お話?」
凪は透明な傘を広げると、「歩きながら話そ?」と水を向けた。
頷いて承諾すると、俺たちは小さな歩幅で歩き出した。
真っ黒な空には、綺麗な三日月がぽっかりと浮かんでいた。
夕方のあの荒天が、まるで嘘のように思えた。
288 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:50:40.73 ID:rYOC6gBvo
凪は俺の引いている自転車を見て、「ごめんね、歩かせて」と言った。
男「いや、いいよ。大して変わらないし」
凪「……それでも」
男「大丈夫だよ。気にしないで」
凪はきまり悪そうに傘をくるくると回すと、しばらく押し黙った。
言いたいことがあるのに言い出せない、そんな気配を悟ったので、
こちらから助け舟を出してあげることにした。
男「それで、お話って?」
凪はこちらを見たかと思うと、「うーん……」とすぐに俯いてしまった。
289 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:52:46.41 ID:rYOC6gBvo
男「どうしたの? らしくないね」
男「大丈夫だよ。なんでも言ってみなよ」
凪「あのね……」
凪「今日はありがとう」
男「なんだ、そんなこと? 全然いいって」
そう答えると、凪は大げさにかぶりを振って「そんなことなんかじゃないよ!」と言った。
凪「だって、田向とキャプテンが来てくれたのは、男さんのおかげだよ?」
凪「そりゃ、あの二人にもいっぱいありがとうって気持ちはある。でもね……」
凪「私は一人じゃなかったんだって、こんなに味方がいるんだって気づかせてくれたのは」
凪「男さんが……いたからだよ」
290 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 02:01:00.83 ID:rYOC6gBvo
男「……そっか」
男「そんな風に思ってくれてるなら、俺もうれしいよ」
そう言うと、凪は満足したのか、嬉しそうににこりと笑ってくれた。
凪「男さんには、本当に何度ありがとうって言っても足りないくらい」
凪「……けど」
凪「最後にひとつだけ、わがまま聞いてほしい」
男「わがまま?」
凪「あのね……明日、一緒に部活に来てくれない?」
男「部活に? 俺が……?」
291 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 02:03:11.69 ID:rYOC6gBvo
凪「私ね。最初は部活だけ行こうと思うの」
凪「それで大丈夫そうだったら、学校の授業にも行こうと思ってて……」
男「いいと思うよ。無理なく馴らしていくのが一番だもんね」
凪「うん。それでね……やっぱり最初は怖いから。一人は嫌なの……」
男「それで、俺が……?」
凪「うん、男さんと一緒がいい」
凪はじっと俺のことを見つめた。
その吸い込まれそうなほど円かな瞳には、俺はどんな風に映っているのだろう?
ちょっと前まで、本気で死のうとしていた社会の出来損ないの俺が、
今この子の目には、どう見えているのだろう。
292 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 02:06:17.50 ID:rYOC6gBvo
そういえば前に、凪と約束をしていた。
あの星が落ちそうな夜、根図橋の上で、”二人だけ”の約束をした。
『今度部活に行く時は、俺も一緒に行く』
なら今こそ、その約束を果たす時だ。
男「分かった。それで凪が少しでも楽になるなら……どこへだって付いて行くよ」
凪「ほんと?」
男「ああ、もちろん。明日は塾も休みだし、それに……前にそう”約束”したじゃない」
凪「ふふ。そうだったねぇ――」
凪は笑った。
凪が笑うと、俺の心の中はたちまち美しい”花いかだ”でいっぱいになる。
今まで何にも感動せず、ただ世の中に対する失望だけを重ね、
もはや波打つことすらなかった俺の”心の水面”は、
凪という子が笑うだけで、鮮やかな花びらでいっぱいになってしまう。
293 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 02:11:19.34 ID:rYOC6gBvo
確信する。
俺はやっぱり、この子が笑っているのが好きだ。
そのためだったら、なんだってしよう。なんにだってなろう。
できることなら、この子から笑顔を奪うすべてのモノを……消し去りたい。
凪「先生には、私から説明するし」
凪「キャプテンと田向も話を合わせてくれるから、大丈夫だと思う」
男「そっか……それなら全然大丈夫そうだね」
凪「それに今日、田向と一緒に行ったんだもんね?」
男「うん、大体の部員には顔を見られたと思うし、なんなら俺、ノックくらいするぜ」
凪「あは。それはいいかもね!」
凪は楽しそうに笑う。
その無邪気な笑顔が……きっとたくさんの人に好かれてるんだ。
間違いない。君は素敵だよ。
294 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 02:14:39.36 ID:rYOC6gBvo
とにかく、明日は凪と一緒に”部活”だ。
凪が元気になり、こんな日が訪れて……本当に良かったと思う。
俺がずっと願っていたこと。
凪が元気になり、また元通りの楽しい生活を送っていくこと。
凪「わあ、明日楽しみだなぁ」
こんな風に、楽しそうに笑ってくれる凪が目の前にいることが、小さな奇跡のように思えた。
文字通り、”塗炭の苦しみ”を味わっていた凪が……
折れずにここまで戻ってきて、笑ってくれている。
あの日。
俺、死ななくて良かった。
だって、俺がいなくちゃ……俺がいなくちゃ。
凪は戻ってこれなかったかもしれない。
295 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 02:19:53.71 ID:rYOC6gBvo
次の日。
雲一つない快晴のなか、俺は凪と二人で学校に向かった。
凪は徒歩通学なので、家から一緒に歩いて行こうと思っていた。
しかし、凪が気を遣って「それは申し訳ない」と言うので、
南中の近くにあるローソンに集合した。
久しぶりに制服を着ている凪を見て俺は、
「よかった、泥は綺麗に落ちたんだね」
と間抜けな感想を漏らしてしまった。
凪は「もうすっかり真っ白だよ」と目を細め、「どう?」とくるりと回ってみせた。
純白のセーラーと濃紺のスカートがふわりと風に舞って、
六月末の西日が、レンズ越しのゴーストのようにキラキラと散っていった。
「綺麗だね」
そう言ってみたけど、それは一体どんな意味だったんだろうか。
296 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/28(火) 06:34:39.63 ID:d4+cypjgO
万力公園、笛吹川…
調べてみるとどこなのか大体わかる
いいところなんだろうね、行ってみたい
297 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/28(火) 18:17:59.15 ID:fQL138QRO
映像になって浮かび上がる文章に圧倒される
岩井俊二の映画を彷彿とさせるような光の表現と、少女への執着
少し歪んでそうで怖いのだが、不思議と惹きつけられる魅力がある
偶然こんなSSに出会えて嬉しい
298 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/28(火) 21:56:45.03 ID:g59zBXv1O
いい話だねこれ……
凪が本当にかわいい
299 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 22:51:34.09 ID:rYOC6gBvo
学校に着くと、授業が終わった直後なのか、やけに賑やかだった。
校庭と校舎に挟まれた前庭には、これから部活に行くであろう、
部活カバンを背負った運動部と思しき生徒が無数に往来している。
こんな晴天でビニール傘をさしている凪はやはり目立つのか、
通り過ぎる生徒たちはじろじろと凪に視線を向けた。
中には、「あれって七瀬川先輩じゃない?」「戻ってきたんだね」
と興奮した様子で会話をする生徒もいた。
田向君が言っていたように、やはり凪は校内でもよく知られている存在なのだろう。
300 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 22:56:17.57 ID:rYOC6gBvo
昨日と同様、校庭ではすでにサッカー部やハンドボール部が準備をしていた。
一番奥のバックネット付近には、野球部員の姿も見える。
男「やってるね」
凪「そうだね……」
凪の表情が強張ったので、俺は背中を軽く叩いた。
きょとんとしてこちらを見た凪に、俺は優しく声をかける。
男「大丈夫。今日はただ”野球を楽しむ”日だよ」
凪「うん……」
男「なにも心配ないよ。みんな温かく迎えてくれるさ。それに……」
男「俺もいるから」
凪はしばらく校庭を眺めると、さしていたビニール傘を勢いよく畳み、
「行ってくるよ!」と部室へ着替えに向かった。
301 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 23:08:45.73 ID:rYOC6gBvo
勢いよく駆け出して行ったので、思わず笑ってしまう。
あれだけ元気なら、きっと大丈夫だ。
凪がソフト部の部室で着替えているあいだ、
俺は先に野球部の根城である、バックネット付近へ向かうことにした。
すでに何人もの部員が思い思いに準備をしていたが、
その中にキャプテンと田向君もいた。
キャプテンが俺に向かって「こんにちはー!」と元気よく挨拶をすると、
他の部員も次々に「こんにちは」と声を上げた。
昨日とは打って変わって、今日はちゃんと”OB”をやっている気分だ。
302 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 23:32:45.63 ID:rYOC6gBvo
田向「男さん、来たんですね」
ジョギングをしていた田向君が近づいて話しかけてきた。
男「おう、凪を連れてきたよ」
田向「やっぱり七瀬川先輩も一緒だったんですね」
男「うん。今は部室で着替えてるみたい」
男「それと、俺のことなら気にしないでいいよ、あくまで凪の付添みたいな感じだからさ」
田向「分かりました」
そんな風に話していると、キャプテンが会話に混ざってきた。
キャプテン「そうはいかないですよ」
男「……え、なんで?」
キャプテン「そりゃ、一応……みんなからしたら何でいるのって感じですし」
キャプテン「七瀬川が来たら一度集合して、ちゃんと全員に説明します。いいですよね?」
303 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 23:36:11.50 ID:rYOC6gBvo
俺は思わず苦笑いしてしまい、「そっかそっか、わかったよ」と了承した
田向君はこっそりと「キャプテンは、そういうのしっかりしたい人なんすよね」と俺に耳打ちした。
なんだか可笑しくて、田向君と二人してくすくすと笑ってしまったが、
チームにはそういう人が必要だし、それが彼のキャプテンたる所以なんだろうと思った。
しばらくすると、小脇にグローブを抱えた凪がやって来た。
野球の練習着姿は初めて見たが、凛々しくて、よく似合っていた。
頭にかぶった白の野球帽も、すごくさまになっていてカッコいい。
ああ、凪は本当に野球部で、ピッチャーなんだなぁと、
当たり前のことに妙に納得してしまった。
304 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 23:40:10.32 ID:rYOC6gBvo
その存在に気づくと、野球部はたちまち色めき立ち、
そこかしこから「七瀬川先輩だ!」「来たんだ!」と歓声のようなざわめきが起こった。
少し離れたほかの部――サッカー部やハンドボール部の生徒もそれに気づき……
こちらを指差してざわついているようだった。
”凪は校内でも目立つ存在”――それは田向君からも聞いていた事実だが、
まさか凪がひとたびグラウンドに現れるだけで、ここまで空気が変わるなんて。
仮に一週間ぶりに学校に現れたから……だとしても、
ここまで注目を浴びるのはすごいなと思った。
その理由が、純粋に凪がいい子だからなのか、
はたまた”いじめられている悲劇のヒロイン”だからなのか――
あまり考えたくはないな、と思った。
305 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 23:49:17.15 ID:rYOC6gBvo
あっという間に、沢山の仲間が凪のもとに集まる。
同級生・後輩を問わず、その表情は一様に明るい。
対照的に、その中心で申し訳無さそうにはにかむ凪がおかしかった。
やっぱりみんな、凪が帰ってくるのを心待ちにしていたんだ。
だってすごく、楽しそうだもの。
でもさ、そりゃそうだよ。
こんなに素敵な子なんだ。
好かれこそすれど、嫌われたり仲間外れになるワケがない。
そんなこと、絶対にありえないんだよ。
色々と強引な部分もあったけど、田向君とキャプテンの力を借りて、
もう一度凪を学校に連れてきて本当に良かったと思った。
306 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 23:54:35.81 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「よっしゃ! 集合!!」
隣にいたキャプテンがそう叫ぶと、部員たちは高揚した様子で、
「集合っす!」と復唱し、勢いよく駆け寄ってきた。
目の前に並んだあどけない顔の少年たちは、どこか活気に満ちていた。
ひと目見て、昨日とは全然違うと分かった。
それもこれも、キャプテンがやる気を取り戻し、凪が戻ってきたからだろう。
単純明快なことだけど、じつに分かりやすいなぁと感心した。
キャプテン「えーと。まず、気になってる人もいるかもだけど」
キャプテン「今日は、OBの男さんが来てて、軽く練習を見てくれるから」
キャプテンが「何か言って」という視線を俺に向けたので、すかさず挨拶する。
307 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 00:08:30.32 ID:XR2bVOTMo
男「えーと、OBの男です」
男「俺がここにいたのは……もう10年くらい前になるかな」
男「今は……そこにいる、七瀬川さんの塾で先生をやってまして」
男「今日はその繋がりで来たって感じです。よろしく」
そう言うと、部員たちは一瞬ざわつき、凪もきょろきょろと周りを見たあと、
恥ずかしそうに俯いてしまった。
「そういうワケなんで、みんな頼むなー」
キャプテンがそう水を向けると、部員たちは声を揃えて「おす!」と元気に返事をした。
いいなあ、この感じ。なんだか本当に懐かしい。
みんな、瞳が輝いていて素敵だ。
なんて、そんな……"25歳"らしい感想を持ってしまう。
308 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 00:34:55.04 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「せっかくだし、あとで男さんにノックとかもやってもらおう」
キャプテン「いいっすよね?」
キャプテンがちらりと横目でこちらを見る。
なんだかすっかり”男”の瞳だなと思った。
別に変な意味ではなく、昨日の一件があって完全に意識が改まったのか――
とても頼りがいのある、覚悟を決めた顔つきになっていた。
男「ああ、全然構わないよ。けど、今日は先生は来ないの?」
キャプテン「今日は職員会議なんで来ないっす」
男「そうか――」
先生が来ないなら、それは好都合かなと思った。
今の顧問は当然俺の時とは違う人だし、
一から事情を説明するのも億劫と言えば億劫だったから。
309 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 00:39:35.18 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「それで、最後にひとつ」
キャプテン「七瀬川が戻ってきたから、みんなよろしくな」
一同「おっす!!」
全員、嬉しそうに大きな返事をする。
その様子を見ていると、
やはり凪がチームでどれほどに不可欠な存在だったかということが伝わってきた。
そしてそのさなかにいる凪も――嬉しそうに笑っていた。
本当に無垢で、無邪気な……"15歳"の笑顔だった。
キャプテン「よし、じゃあジョグいくぞー! 並べ!」
十数人の野球部員たちは、キャプテンと凪を先頭にして駆けていく。
笑顔混じりの掛け声が、校庭全体に響いた。
310 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 00:44:54.61 ID:XR2bVOTMo
澄み渡った天色の空には少しずつ黄金色が混ざってきて、夕刻の訪れを感じる。
キャッチボールをして駆け回る部員たちの影も段々と伸びてきて、
相変わらずここのグラウンドは西日が眩しいな、と思った。
いわゆる田舎の中学校なので、周りにはいくつかの民家がある以外、何もない。
この大きな空も、太陽の光も、透き通る風も、すべて独り占めだ。
そうそう今思い出した、このグラウンドでするキャッチボールは、最高に気持ちよかったんだ。
そんな遠い日の記憶が、古ぼけたスライド写真のように心の中をよぎった。
凪は、田向君を相手にして熱心にキャッチボールをしていた。
もうすっかり元通りだね、良かったな――。
なんて思った時だった。
311 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 00:52:20.78 ID:XR2bVOTMo
校庭の向こう側から、なにやら女子生徒の一団が近づいてくる。
運動部なのは間違いないが、何人かはサンバイザーを着けているので、
もしかしたら女子テニス部だろうか……?
先頭を歩く女子はやけに険しい表情をしているが……。
すると、近くにいた男子がぽろっとこぼした。
「あっ。やばいあれ、広瀬先輩じゃん……」
広瀬?
あいつが? あの?
”すべての元凶”か……?
312 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 00:59:56.31 ID:XR2bVOTMo
広瀬率いるその一団は一塁線の上で止まったかと思うと、「おい!」と大声を出した。
広瀬「なんで七瀬川が部活にいんだよ? 話が違うんだけど!?」
前後関係などまったくお構いなしに、一方的に喚き散らす広瀬。
それまで和やかにキャッチボールをしていた野球部が、一瞬にしてピリついた空気になる。
(お、おいどうすんだよ……)
(なんだよアイツ……)
そんなささめきがどこからともなく聞こえてくる。
凪の方を見ると、しゃがみこんでうずくまっており、田向君がそばについていた。
キャプテンは……だめだ。固まったまま、動く気配がない。
もういいよ、ヤケだ。
どうせ俺は”部外者”で――失うものは何もないからな。
そう覚悟を決めて、一塁線へと踏み出した。
313 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:06:33.52 ID:XR2bVOTMo
男「ちょっと君、今は部活中なんだけど。なんの用?」
広瀬「はあ? 誰アンタ?」
男「俺は野球部のOBです。今日は指導に来てるんで」
広瀬「ふーん、まあなんでもいいんだけどさ」
その表情は悪辣そのもので、他人を小馬鹿にする気持ちが滲み出ていた。
広瀬「ってかさぁ、早く中村呼んでくんね?」
男「中村ぁ……?」
広瀬「キャプテンだよ、キャプテン」
男「ああ、キャプテンね……」
広瀬「つかなんで知らねーんだよ。本当にOBなん?」
そして広瀬は、癇に障る笑い声を上げた。
何が可笑しくて笑ってんだ? お前。
314 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:09:37.55 ID:XR2bVOTMo
広瀬「つーか早く呼んでよ。おせえよ」
男「あ、ああ………」
この女が……! 凪をずっと……!!
目の前にいるこいつがすべての元凶かと思うと、はらわたが煮えくり返り、
おびただしいほどのどす黒い感情が湧き上がってきた。
本当に、怒りで今にも挙措を失いそうだった。
こいつがずっと、凪を苦しめてきた。笑顔を奪ってきた。
もういいや。俺が今、この手で殴り倒してやる。
いや、いっそのこと――ぶっ殺してやろうか?
315 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:12:42.64 ID:XR2bVOTMo
そんな、究極の魔が差したときだった――
後ろから、キャプテンが駆け寄ってきた。
キャプテン「おい広瀬、なんでこんな所に来てんだよ」
その声で我に返り、自分がとんでもなく物騒なことを考えていたことに気付いた。
危なかった。本当に。
たとえ殺しはしなくても、あのままなら……間違いなく殴ってはいた。
後先なんて考えず、その”無駄に”整った顔面に――
一発ぶち込んでいたのは、間違いなかっただろう。
316 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:19:52.52 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「部活にまで来るなよ。今日は先生がいないからって」
広瀬「は? うるさいんだけど? ってかお前がいけないんじゃん」
キャプテン「……何が?」
広瀬はしゃがみこんでいる凪を指差し「あれだろ?」と唾棄するように言った。
広瀬「なんで七瀬川さんが部活に来てるのかな? 話が違うよね?」
キャプテン「それは……」
広瀬「何か言うことある? んん?」
キャプテン「ッ…………」
317 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:36:57.74 ID:XR2bVOTMo
キャプテンが言葉を詰まらせたので、すかさず割って入る。
男「それはな……」
広瀬「やめてください!」
突然、広瀬が甲高い声を上げた。
その”奇声”は校庭じゅうに響き渡り……
遠くのサッカー部やソフト部の子たちも、こちらに視線を向けていた。
広瀬「お前は部外者じゃん? 関係あんの? 先生でもないくせに」
男「な………」
広瀬「なんだか知らないけど、どうせ七瀬川の肩持つんだろ?」
男「当たり前だろ、君なんか……」
すると、広瀬はにやりと不敵な微笑を浮かべた。
広瀬「あのさぁ……今私がここで叫んで、先生を呼んでさ」
広瀬「お前を一発で”不審者”に仕立て上げることもできるんだよ?」
318 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:40:13.08 ID:XR2bVOTMo
背筋が凍る。
この女は……一体何を言ってるんだ?
一応俺はこいつよりも十歳も年上で……こいつからしたら”大人”のはずだ。
なのに、その大人相手に全くビビることもなく、
食ってかかるようにこんな”恐ろしい”ことを言えるなんて……。
こいつは、本当に普通の中学生ではない。
さすがに面食らってしまい、何も言えずにいると、キャプテンが口を開いた。
キャプテン「お前……いい加減にしろよな」
広瀬「あ? ……なんて?」
319 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 01:45:34.12 ID:hCwvRfRkO
最悪だなこの女…
でもこういうカーストてっぺん女っているよな〜
320 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:54:55.80 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「いい加減にしろって、言ってんだよ」
広瀬「え? 嘘でしょ? 中村君、それって私に言ってるの?」
キャプテン「他に誰がいんだよ。お前に言ってるんだよ」
広瀬「え、マジー? こいつ、私に言ってるらしいよ」
そう言うと、広瀬は取り巻きの女子たちとゲラゲラ笑い始めた。
無駄に見た目が良い分、その醜悪さがより目立つような気がした。
広瀬「いい加減にすんのはお前じゃん」
キャプテン「……なにがだ」
広瀬「約束守ってないのはそっちだろ? いけないんだ、人のことばっかり悪く言ってさ」
キャプテン「あんな約束は、もうナシだ」
広瀬「……はあ?」
321 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 02:01:35.72 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「あんな一方的でクソみたいな取引は、もうナシだって言ってんだ」
キャプテン「……分かったら帰れ」
広瀬「はぁ〜〜〜〜?」
広瀬は大げさに首を震わせてそう言うと、キャプテンに勢いよく近寄った。
広瀬「何言ってんのお前? 何がナシだよ?」
広瀬「そんな決定権はお前にはないんだよ」
広瀬は、キャプテンの肩を思い切り押して威圧する。
かなりの体格差があるというのに、広瀬はそんなこと全くもってお構いなしだ。
広瀬「ねえねえ、大好きな七瀬川さんがどうなってもいいの?」
広瀬「好きで好きでたまらない七瀬川さんがさ〜!」
そう吐き捨てると、広瀬はキャプテンの前でにやりと、
それはそれはいやらしい笑みを浮かべた。
322 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 02:03:20.88 ID:XR2bVOTMo
正直もう、俺だって頭が真っ白だった。
ふさぎ込む凪、動けない田向君、脅しをかけられている俺、
そして、目の前で”ボコボコにされている”キャプテン。
八方塞がりだって思ったよ。
俺たちは、この広瀬というたった一人の存在に……どうすることもできないのかって。
――でも、その時だった。
323 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 02:06:54.75 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「俺は七瀬川が好きだよ!!!!」
キャプテンの全身全霊の雄叫びが、まるで稲妻かのごとく、
校庭に、いや、校舎にまで響いてビリビリと反響した。
予想外の返しにさすがの広瀬も当惑したのか、何も言えずに立ち尽くしている。
うずくまっていた凪も顔を上げ、涙目でキャプテンの方を見ていた。
その大声に気づき、「なんだ?」「告白?」と色めきだった他の運動部の連中が、
次第に野球部の周辺に集まり始める。
キャプテン「ああ、大好きだよ。お前の言うようにな、本当に好きだ」
キャプテン「だからこそ、もうこれ以上お前の言う通りにはしないし」
キャプテン「俺は……七瀬川を守るんだ」
324 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 02:11:52.85 ID:hCwvRfRkO
うおおおおおおキャプテン!!!
お前男だよ!!!
325 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 02:16:38.69 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「俺は……そう決めたんだ。だから絶対に退かない」
広瀬「はあ……? お前、何言ってんだよ……」
キャプテン「だから、七瀬川を守るって、そう言ってんだよ!」
広瀬「き、きもいんだけど……なにわけ分かんないこと言ってんの……?」
キャプテン「単純だろ? お前が七瀬川をいじめるなら、俺がそうさせないんだよ!」
広瀬とキャプテンが話しているこの間にも、
色恋沙汰だと勘違いした生徒たちが、群れを成してどんどん集まってくる。
「中村が告白したって?」
「野球部でなんか起きてるらしいから急げ!」
職員会議で、各部に先生の監視がないことも拍車をかけていた。
気づけば、校庭にいたサッカー部やハンド部、陸上部やソフト部だけでなく、
外練をしていたであろう男バスや吹奏楽部の子たちまで集まってきており、
「え、なになに?」「なにが起きてんだ?」と、随分賑やかになっていた。
一連の広瀬とキャプテンのやり取りが引き金となって、
普通ならあり得ないくらいの人だかりが、野球部の周りに形成されていた。
326 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 06:24:49.32 ID:mAi/zi33O
タイトルが気になって試しに読んでみたら夢中になってた
凪ちゃんほんまにええ子やで…
>>6
の絵もなんつーかラノベじゃなくて文芸っぽい絵ですげーいい
327 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 15:39:31.42 ID:aYmqoDnJO
確かにSSっていうか文芸だね
というか映画に近い
毎日追ってるけど本当に読むのが楽しいよ
途中から野球部の後輩とキャプテンが出てきて群像劇っぽくなってきたのも面白い
328 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 16:04:19.27 ID:SITGL4eOO
俺の中学にもこういう暴君みたいな女がいた
何人もの女子のメンタル壊して不登校に追いやってたわ。
そんでそういうやつに限ってそれなりに美人だったりするんよな…
329 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 16:05:10.63 ID:SITGL4eOO
俺の中学にもこういう暴君みたいな女がいた
何人もの女子のメンタル壊して不登校に追いやってたわ。
そんでそういうやつに限ってそれなりに美人だったりするんよな…
330 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 17:38:43.37 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「俺はもう……絶対にお前の言いなりにはならない!」
キャプテン「もうお前の好き勝手はさせない!!」
キャプテンが、そう高らかに”宣言”をすると……。
周りの人だかりにいたサッカー部の男子がそれに乗じた。
「そうだぞ! 広瀬はやりすぎなんだよ!」
これが口火となり……。
ただの野次馬だった烏合の衆は、徐々に一体感を得ていく。
「ずっと思ってたけど広瀬はおかしいよ」
「確かに、ちょっと考え直しな〜」
「そうそう、もう見過ごせないよねー」
331 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 17:43:35.69 ID:XR2bVOTMo
広瀬「ちょ、ちょっと待ってよみんな!」
広瀬「悪いのは中村! 約束を破ったコイツが悪いんだよ!?」
広瀬は、すぐさま声色を変え、さも媚びるように周りの人間へとアピールを始める。
なんて小賢しいヤツなんだ。
こうやって、今までもずっと上手いこと世を渡ってきたんだろう。
キャプテン「約束ってなんだぁ!?」
またしてもキャプテンが怒声を上げる。
完全に腹が括れたのか、その瞳が広瀬からぶれることはない。
キャプテン「”七瀬川を野球部から追い出したらいじめをやめる”っていうクソみたいな取引のことだろ?」
キャプテン「あれのなにが……約束だ?」
集った生徒たちに流布するような形でキャプテンが言い捨てると、周囲からは、
「なにそれ……」「ひっでぇ〜」といった声が上がった。
332 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 17:46:28.47 ID:XR2bVOTMo
広瀬はすぐに「いやいや、違うんだよ? コイツが勝手に言ってるだけだよ?」と
猫撫で声を出すが、もはやそのメッキは”剥がれかけ”だ。
キャプテン「お前なぁ………」
キャプテン「もういい加減、七瀬川をいじめるのはやめろ!!!!」
キャプテンのその”咆哮”は、天高く突き抜け……
やがて全校生徒を巻き込んだ”胎動”となる。
「そうだよ! いつまでも七瀬川さんをいじめんなよ!」
「凪ちゃんが可哀想だよ、いい加減やめろ!」
「ってかさ、これからはみんなも見て見ぬフリやめね?」
そんな声が、野球部と広瀬を囲んでいた生徒たちの群れから……次々と飛んでくる。
広瀬「なにこれ……? どうなってんだよ……」
キャプテン「おい、広瀬。誓えよ。今日限りで七瀬川をいじめるのは辞めるって」
広瀬「は、はあ〜? ってか私、そんなの知らないんだけどぉ……?」
キャプテン「誓えよこのクソ野郎!!」
333 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 17:51:37.80 ID:XR2bVOTMo
「そうだ、誓え!」
群衆の、どこからともなく上がる声。
広瀬「は? な、なに……?」
「もう今日で終わりにしろ!」
「お前のやってることはみんな知ってるんだよ」
「ここでやめるって誓えよ!」
「中村! 俺たちはお前と七瀬川さんの味方だぞ!」
キャプテン「み、みんな……」
嘘だろ?
俺は、馬鹿みたいに口を開けたまま辺りを見回していた。
334 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:20:18.39 ID:XR2bVOTMo
すごい人数だ。学年も性別も関係ない。
部活着の生徒もいれば、制服の生徒もいる。
かと思えば、一見ちょっとやんちゃそうな男子や、折り目正しい地味めな生徒までもが、
一様に応援の声を上げているではないか。
「中村! お前最高だよ!」
「みんながずっと思っていることを言ってくれたぞぉ!」
「七瀬川さんを放っておくのは今日でやめようぜ!?」
「広瀬、いじめはやめろ!」
男「な、なんだこれ……?」
キャプテン「ありえない、っすよね……」
男「まるで、全校生徒がここに集結してるみたいな……そんな熱量だぞ?」
335 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:22:29.93 ID:XR2bVOTMo
奇跡のようだった。
あの凶悪な広瀬に臆することなく、勇気を振り絞って立ち向かったキャプテンの勇気が……
奇跡を呼んだ。
これまで、誰もが”学校一の厄介事”と捉えて、関わることを拒絶してきた広瀬の醜行。
関わったら最後、その標的が明日には自分に向けられるかもしれない。
そんな風にして、ずっとずっと見て見ぬフリをされ、放置されてきた凪へのいじめが……。
今、一気にその”膿み”を出し切ろうとしている。
この瞬間、ここに集まった生徒たちによって、
学校中を巻き込んだ変化の”胎動”が起きているんだ。
そして俺とキャプテンは……それを目の当たりにしている。
336 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:32:54.50 ID:XR2bVOTMo
その時であった。
俺とキャプテンの後方から――あの声が。
凪「広瀬さん」
田向君に支えられ、うずくまっていたはずの凪が、
俺とキャプテンの真後ろに立っていた。
広瀬「七瀬川、さん……」
周囲からはどよめきとともに、これまでで一番大きな歓声が起こる。
「七瀬川先輩!」
「学校来てたんだ……!」
「うっそ、久しぶりに見た!」
337 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:37:09.64 ID:XR2bVOTMo
凪の瞳はひどく充血し涙が滲んでおり、その小さな両肩は小刻みに震えていた。
男「凪―――」
大丈夫か、と言おうとして、やめる。
彼女は自分の意思で立ち上がり、自分の意思で立ち向かうことを決めたんだ。
ならば今は、それを見届けるべきだ。
凪「ひとつだけ、言わせてほしい」
広瀬「な、なによ……?」
凪「もう私は負けない」
広瀬「は、はあ……?」
凪「今日ここで、いじめをやめるって誓わなかったとしても」
凪「今後も、アナタが私をいじめたとしても――」
凪「私はもう、絶対に負けないから」
338 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:40:20.63 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「七瀬川……」
凪「だから逃げも隠れもしないし、私は堂々と学校に戻る」
広瀬「なに言ってんのお前……」
凪「だって私は――」
そう言うと凪は、辺りを見回す。
随分人の増えた生徒たちの群衆。
野球部のチームメイト。
田向君。
キャプテン。
そして、俺……。
凪「もう一人じゃないから」
339 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:44:17.73 ID:XR2bVOTMo
そしてどこからともなくこんな声。
「よく言った――!!」
周囲から、まるで瀑声のような歓声と喝采が起こる。
こうなるともう、集団心理による気持ちの昂揚を止めるすべはない。
「七瀬川さ――ん!」
「私達も味方だよ!」
「みんな分かってるからな――!」
広瀬はもはや為す術もなく、ただただ狼狽してきょろきょろするだけである。
その様子は、まるで出来の悪い傀儡みたいで、じつに滑稽だった。
凪は真剣な眼差しで広瀬を見つめ続けている。
そんな盛り上がりの最高潮に達した瞬間、魔法の解ける合図が。
340 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:46:13.93 ID:XR2bVOTMo
「お前ら何やってんだ――!!」
「今は部活の時間だろ!!」
数名の男性教師が、校庭に向かって走ってきていた。
なんという魔性の勘か、広瀬はどの生徒よりも早く走って逃げ出していた。
「やべえ! 先生来たぞ!」
「みんな散れ――!」
途端に、集まって群れを成していた生徒たちが四方八方に散っていくが、
その表情は皆、不思議と”とても楽しそう”であった。
逃げていく生徒は全員、大声で笑いながら溌剌と校庭を駆けていく。
恐らく逃げる必要のない野球部員までもが、なぜか走り出した。
341 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:47:57.43 ID:XR2bVOTMo
田向「キャプテン! こっちです!」
キャプテン「よっしゃ! みんな走って逃げろ――!」
そして、宛てもなく走り出す。
――全員、とびきりの”いたずら”な笑顔で。
凪「男さんも!」
前方を行く凪が、俺に向かって手招きをする。
俺も……?
凪「走ろう!」
西日の逆光となり、その凪の顔はよく見えなかったが……。
きっと、笑っていたんだろうね。
342 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:52:50.31 ID:XR2bVOTMo
これは祝祭だ。
集まっていた沢山の生徒たちが、訳も分からず、
大声で笑いながら教師たちから逃げ、駆け回っている。
暗い表情をしている者は、誰一人としていない。
全員が、”凪の門出”を祝いながら、走っていた。
これは、全校生徒を巻き込んだ――凪への祝祭なんだ。
俺はそんなことを思い……。
嬉しくて嬉しくて仕方なくて、こぼれそうな涙をぐっとこらえ、
先を走る凪を――笑って追いかけた。
これ以上ないくらいの、全力疾走で。
343 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:54:20.93 ID:XR2bVOTMo
そんな”夢”みたいな出来事のあと……。
凪は――再び学校に通い始めた。
最初の数日はとても怖かったものの、
あれから広瀬のいじめは鳴りを潜め、学校で関わる機会は激減したという。
毎回毎回、笑顔で塾を訪れ、楽しそうに学校での出来事を語る凪は……
心の底から幸せそうだった。
ずっとずっと求めていた”日常”を過ごせているんだなぁと伝わってきて……
本当に嬉しかった。
344 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:56:52.27 ID:XR2bVOTMo
凪が――この素敵な子が、”あるべき場所”に戻れたことは、
俺にとっても本当に大切なことで……
自分の命に代えてでも叶えたいと思っていた悲願だ。
ずっとずっと、この世界はクソだと思ってきた。
でも、捨てたもんじゃないかもしれない。
凪が笑える世界なら。あの日みたいに西日が綺麗に輝く世界なら。
この世界は、最高かもしれない。
345 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:01:22.21 ID:XR2bVOTMo
それから、日々は穏やかに過ぎていき――
あっという間に、凪たちは最後の夏の大会を迎えた。
凪の中学は順調に勝ち進み、無事に地区大会の決勝へと駒を進めた。
そして明日は、ついにその大一番であった。
小学生の授業が終わった19時頃。
帰ろうとすると、薄闇のなかで素振りをする凪と鉢合わせた。
男「やる気だね」
凪「……男さん」
男「明日は決勝だもんね」
凪「うん。だから……なんかじっとしてられなくて」
そう語る汗ばんだ凪の横顔は、真剣そのものだ。
思わず笑みがこぼれる。
俺にも、そんな時があったな。
346 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 19:01:55.13 ID:VuX74jkoO
話は全然違うけど映画の「桐島」みたいな雰囲気あるよな
特に他の生徒巻き込んで笑って走るシーンなんてそれっぽい
347 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:04:34.57 ID:XR2bVOTMo
男「気持ち分かるよ。でもあんまり無理して、どこか痛めないようにね」
凪「うん、ありがとう」
俺はしばらく……熱心にバットを振るう凪を見ていた。
その姿を見ていると、懐かしいような、ちょっと切ないような、
なんとも言えない気持ちが込み上げてきた。
この子にとっては、明日の決勝戦がすべてで……
それ以外には何もなく、ただそれだけを見ている。
なんて純粋なんだろう。
いつもは近く感じる凪が、なんだか少しだけ――遠くにいるような、そんな気がした。
俺と凪は、本来なら住む世界がまるで違う。
今はなんの偶然か、こんな子と親しくなり、こうして話しているが、
それは元の俺であったら……到底考えられないことだ。
348 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:07:38.66 ID:XR2bVOTMo
凪「あのね」
出し抜けに、凪が口を開いた。
物思いに耽っていた俺は意表を突かれて「へ?」などと間抜けな声を出してしまう。
凪「……きいてる?」
男「う、うん。……なに?」
凪は「今、ぼーっとしてたね」と微笑むと、話を続ける。
その何気ない笑顔ですら、不思議と俺の胸を温かくさせる。
凪「すごくいいニュースがあるんだ」
男「え、なんだろう。……教えてくれる?」
凪はまた目を細めてにこりと笑うと「いいよ――」と楽しそうに小首を傾げた。
349 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:10:23.54 ID:XR2bVOTMo
不思議と、凪の一挙手一投足を目で追っている自分がいた。
笑うとわずかにシワが寄る、その目尻をずっと見ていた。
少しだけ胸が弾んでいるのも、もはや無視できることではない。
ずっと考えないようにしていたけれど、俺は――。
凪「明日の決勝、お父さん応援に来れるんだって」
男「え、本当に……!?」
正体不明のもやもやとした思考がどこかに吹っ飛んでしまうほど、
それは素晴らしいニュースだった。
凪「ずっと入院してたでしょ? 最近は合うお薬が見つかってね」
凪「すごく安定してるんだって――それで、外出許可が取れたみたい」
男「わあ、それは良かったねぇ……」
350 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:12:10.82 ID:XR2bVOTMo
凪「私ね、絶対に勝ちたい。……優勝したい」
凪「それで、お父さんとの約束――叶えるんだ」
一生懸命に、熱をこめて語る凪の顔は、とても凛々しい。
南中の前庭に咲いていた真っ赤な百日草のように、気持ちを燃やしている。
凪「もしも優勝できたらさ……お父さん、少しは笑ってくれるかな?」
男「……もちろんさ」
凪「そうだよね……きっと喜んで、笑ってくれるよね」
凪はバットを構えると、勢いよくフルスイングした。
凪「もう、ぜんぶ覚えてないんだ」
凪「私のことも、私と一緒に野球をした日々も、ぜんぶ」
凪「それでも、最後にさ……笑ってほしいな」
351 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:14:20.36 ID:XR2bVOTMo
男「最後?」
凪「うん、さすがにね。高校に行ったら野球はやめちゃうし」
凪「お父さんの外出許可が降りてるのも、明日だけだからさ」
男「ああ、そうか……」
凪はこちらを見ると、少し目を伏せたあとに笑顔を作る。
その瞳の中に、隠しきれない切なさが映り込んでいたのは、俺の気のせいだろうか。
凪「だから私にとって、明日はすごく大事な日なんだ」
凪「たとえ勝っても負けても……二度と来ない日」
凪「お父さんと”一緒に”野球ができる、最後の日だから……」
352 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:17:21.87 ID:XR2bVOTMo
そう言って、凪が全力で振るったバットは……鋭い風切り音を立てて闇を切り裂いた。
男「お、今のはきっとホームランだ」
凪「ふふ。スタンドまで運んだ?」
男「うん。看板に直撃かな?」
凪は「やったぁ」と無邪気に笑ったかと思うと、俺の顔をじっと見た。
そしてしばらく、何も言わずに黙っていた。
男「い、今のスイングは腰が入ってたからね。だから、すごくよかったんだと思う」
なんだか照れくさくなってしまい、問わず語りを始めてしまう。
アドバイスできるほどの大した野球経験も技術もないのに。
凪「……男さん」
男「な……なに?」
353 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:20:55.98 ID:XR2bVOTMo
凪「いつもいつも、本当にありがとう」
男「……急にどうしたの?」
凪「んーん。なんかね、ふと思ったんだ」
凪は「ねえ」と上目遣いで俺を見た。
ほんの少しの秋波と寂寥をはらんだ……そんな瞳だった。
凪「明日は……男さんも応援に来てくれるよね?」
男「行くよ。……必ずね」
凪「……そっか。楽しみにしてるね」
そして凪は、とびきりの笑顔を見せてくれた。
それはきっと、この世界のすべてだった。
354 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 19:21:42.79 ID:JxJzTXTgO
凪ちゃん可愛すぎて草
355 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:24:56.48 ID:XR2bVOTMo
次の日。
凪の試合を見に行くため、俺は再び南中に向かっていた。
決勝戦の会場は、奇しくも我が母校であり、凪の通う――南中であった。
運命の日は、神様がわざわざ融通を利かせてくれたかのような見事な晴天で、
遠くの山際では、真っ白な入道雲がのびのびと手を広げており、
青空とのコントラストがじつに綺麗だった。
猛る真夏の太陽が、海抜300メートルの町を隅から隅まで白飛びさせ、
すれ違う人たちの顔も、車も、何もかもを溶かしていく。
十字路のカーブミラー、風に揺れる桃畑の木立ち、
見るものすべてがプリズムのようにキラキラと光を散らす午前9時。
俺は陽の当たる坂道を、ボロのママチャリで走っていた。
身体をすり抜けていく熱風が、これから始まる大一番を予感させた。
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