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晴れ空に傘
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156 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:55:00.34 ID:hGQxuJiNo
その後、俺と凪は二人で塾に向かって歩き出した。
凪は未だに涙目だったけど、少しだけ希望が見えたのか――。
時折、笑ってくれた。
俺はきっと、それが何よりも嬉しかった。
凪には涙なんかより笑顔の方が似合う。絶対にだ。
俺の持っていたビニール傘を渡すと、凪は「ありがとう」と優しく受け取った。
男「今日はささないの? ……傘」
凪は「うーん」と悩んだあと、「ささない」と首を振った。
男「どうして?」
凪「今日は……濡れて帰りたい気分」
157 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:58:21.33 ID:hGQxuJiNo
凪はそう言ったけれど、もちろん雨は降っていなかった。
頭上には満天の星――とまではいかずとも、都会で見るそれよりは遥かに多くの星々が瞬いている。
凪「私ね。もしもお父さんが元気になったら、一つだけ訊いてみたいんだ」
男「お、いいね。何を訊くの?」
凪「お父さんは、雨が好きなの? ……って」
男「へえ……」
凪「お父さんの世界ではいつも雨が降ってるから……」
凪「もしかしたら、何か雨に意味があるのかなって」
凪「それが、知りたいんだよね」
凪は「どう思う?」とでも言いたげに、上目遣いで俺の方を見た。
158 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 00:55:28.03 ID:XG0CueYvo
男「何か理由があるのかもね。……分からないけれど」
凪「そうだね。だから訊いてみたいなって、ずっと思ってるんだ」
凪「まあ、お父さんは……もう私の名前すら覚えてないんだけどさ」
そう言うと、凪は頭上を見上げて「星、綺麗だね」と呟いた。
凪「昔、社会のクラタ先生が言ってたんだけどさ」
男「――なに?」
凪「私たちが住んでるこの町は、海抜300メートルの高さにあるんだって」
凪「信じられる? こんなどう見たって0メートルの地面が、東京タワーくらいの高さにあるんだよ?」
男「へえ……それは知らなかったなぁ」
159 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/24(金) 01:17:47.99 ID:n47gzjn4O
雨が降ってないのに濡れて帰りたい気分…
いいね、すごく素敵
160 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 02:04:25.37 ID:XG0CueYvo
凪「――そしたらさ」
凪「目に見えてるものなんて、実はなんにも信じられないのかもって思った」
凪「今だって、星の綺麗なよく晴れた夜だよ」
凪「でも……お父さんには、私たちには見えない虹色の雨とか、オーロラの雨が見えてるのかなって」
凪「きっとそうだったらいいのにな……って思ってる」
凪は透き通るほど雲ひとつない夜空を見上げて、言う。
男「ああ、それはいいねぇ。今日だったら、星の雨かもしれないね」
凪「ふふ、そうかも」
凪はそう言うと小走りで駆け出し、俺の数メートル前でくるりと振り向いた。
凪「星が降る夜なんて、なんだか素敵だね」
161 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 04:37:58.48 ID:XG0CueYvo
そんな風に笑う凪を見て、本当に星が降ればいいのになと思った。
凪と剛先生の二人のもとに、数え切れないほどの綺麗な星が降り注げばいいのに。
そしてその輝きの中で、いつまでも笑っていてほしい。
夢物語でも絵空事でもない。
そんなことすら有り得てほしいと思うくらい――俺は凪の幸せを願っていた。
この優しい子が心から笑える日が来ることを――
願っていた。
162 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/24(金) 04:46:49.60 ID:bcfIaPLQO
めちゃくちゃロマンチックな文章だなぁ
163 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/24(金) 06:12:58.78 ID:ZQ7/J/s4O
中学の頃、たまに他校の野球部に女の子がいたんだけど妙に可愛く見えたな
そういう子に限って肩は強いしバッティングも上手かったりするんだよな
164 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/24(金) 16:33:41.11 ID:/oUONPCVO
俺も死のうとしたらこんな素敵な子が見つけてくれないかな
とか思って読み耽ってしまったクリスマスイブであった…orz
いや、実に引き込まれる話だよ 完走まで頑張ってよね
165 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 21:57:17.50 ID:XG0CueYvo
二人でゆっくりと歩いて……20分くらいしたら、塾へと帰ってきた。
授業開始が15分後に迫っていたので、俺はそのまま塾舎へ向かおうと思った。
凪は一度家に戻るというので、家の前で別れを告げようとしたその時――
凪が出し抜けに「あ、やばい」と言った。
家の玄関先に剛先生がいて、こちらを睨んでいた。
剛「なあ君、私の財布がないんだ。知らないか?」
凪「いや? 知らないよ。それより外は危ないから、家の中に戻ろうね」
剛「そうかい……まあ、天気も良くないし戻ろうか……」
166 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 22:29:04.55 ID:XG0CueYvo
衝撃的だった。
見た目はかつての剛先生だったが、声色も喋り方も、何もかもが違う。
昔はもっと――なんというか優しげな雰囲気だったし、こんな刺々しい感じではなかった。
それに、剛先生の口ぶりから察するに、彼は本当に凪のことも認識できていないようだ。
その事実に呆然として、しばらく動けずに二人のやり取りを眺めていると――。
剛「おい、お前! なんだ? なんの用だ! なにしてんだここで!」
まずい、と思った
目が合ってしまった剛先生が、俺に向かって話しかけてきたのだ。
この状態の剛先生に何を言っても無駄であろうことは俺も分かっていたし、
なにより授業直前のこのタイミングで、騒ぎを起こしてはいけない。
167 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 22:32:37.36 ID:XG0CueYvo
男「いや、なにもしてないです。僕は塾で講師をしている者で……」
剛「バカを言うなぁ!!」
剛先生の怒号が一帯に響き渡る。
目の前で大の大人の怒声を浴びた俺は、身体が石になったように固まり、動けない。
剛「あそこで教えてるのは陽子だろ! ふざけるんじゃない! お前誰なんだ!?」
何か喋って弁解しようとしても、ぱくぱくと口が動くだけで何も言えない。
それほどまでに剛先生の剣幕は凄まじく、
また”かつてとのギャップのひどさ”も相まって……俺はもう頭が真っ白になった。
凪も同じなのか、剛先生の隣で口を開けたまま固まっている。
168 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 22:37:04.74 ID:XG0CueYvo
剛「おい、お前なんだろ?」
剛「お前が私の財布を盗ったんだな?」
男「え? いや、違います! そんなことは……」
剛「バカにしやがって……おかしいと思ったんだ」
剛「おいお前、返せ。今すぐ返せよ!!」
激昂する剛先生の腕をつかみ、凪が必死になだめようとする。
凪「お父さん、違うよ。その人は全然関係ないんだよ」
剛「うるさいんだよ!」
そう叫んで、凪を思い切り振り払うと、凪はそのまま植木にぶつかった。
169 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 22:51:24.92 ID:XG0CueYvo
男「ちょっと、危ないですよ!」
剛「黙れ! おい、お前舐めてるのか?」
剛先生が、ものすごい剣幕で俺の方に迫ってくる。
剛「早く返せ! この野郎! 分かってんだぞ!」
剛先生は、俺の胸ぐらを掴んで凄む。
俺の顔を凝視するその濁った双眸には……もはやかの日の面影など、微塵もなかった。
病気のことを知らなければ、鬼にでも取り憑かれたのかと思うほど……
そこにいた剛先生は、かつてとは別人だった。
怖いんだか、悲しいんだか、もはや何の感情かも分からないものが俺の心を支配し……。
両足がガクガクと小刻みに震えた。
170 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 22:55:55.08 ID:XG0CueYvo
男「知りません……僕は、盗ってないんです」
そう答えた瞬間であった。
”ガゴッ”という鈍い音が脳の奥に響き、視界がぐるりと回って……。
気づくと俺は、空を見上げて地面に倒れ込んでいた。
凪が大声を出して、塾舎の方へと駆けてゆく――。
剛先生はいまだにギャアギャアとなにかを叫んでいる――。
左頬がじんじんと熱くなり、痛み出した――。
口の中が切れて、血の味が広がる――。
そうか、俺は……”殴られた”んだ。
剛先生に。
かつて”恩師”だった人に……。
171 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 22:59:15.80 ID:XG0CueYvo
その後は、大騒ぎであった。
すぐさま陽子先生が飛んできて剛先生をなだめたものの、
彼の興奮は収まらないようでしばらく暴れていた。
すでに塾には何人かの生徒が来ていたため、もちろん一部始終を見られたし、
心配した近所の人たちが何人も集まってきた。
一時、警察を呼びそうな流れにもなったが、俺が懸命に無事をアピールしたため、
なんとかそこまで大事にはならずに済み、事態は一旦収束した。
剛先生は、これまで母親(凪のお婆ちゃん)と陽子先生で面倒を見ていたが、
もはや家での管理は不可能なところまで来ており、
陽子先生とお医者さんで相談して、『医療保護入院』することになった。
治療の方針を変えたり、投薬の種類を変えたりして、
もっと平穏に暮らせるようにしていくためだという。
もしも警察沙汰になっていた場合、
強制力のある『措置入院』になっていた可能性もあったらしい。
172 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:04:10.35 ID:XG0CueYvo
陽子先生は今回の件で、激しく憔悴していた。
俺は「不幸中の幸いというか、全然知らない人じゃなくて殴られたのが僕で良かったです」
などと言ってみたものの、そんなことは焼け石に水だった。
今までも騒ぎを起こすことはあったものの、誰にも危害を加えずに暮らしていた。
それなのに、まさか男くんに手を上げるなんて……と泣き崩れていた。
そして、凪は……。
あの日以来、三日以上”部屋から出てこなかった”。
目の前で父親が人を殴る瞬間を目撃し、なおかつ俺が殴られたということが……。
本当に本当にショックだったようで、
学校はおろか、塾にも参加せず、部屋から一歩も出てこなくなった。
173 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:10:49.83 ID:XG0CueYvo
これには、俺も本当に悲しい気持ちになった。
いや、俺だけじゃなく……陽子先生はもっと辛かったろう。
旦那である剛先生の症状が悪化したうえ、一人娘の凪が心を閉ざしてしまった。
その心労は、想像を絶するものだ。
しかしそれでも、陽子先生は気丈に授業に立ち続けた。
ただその表情は疲れて切っており、俺だけでなく、生徒からも心配されるほどだった。
正直、陽子先生もいつ倒れてもおかしくないような状態であった。
これまでの幸せな時間が……これからの未来が……音を立てて崩れ始めていた。
俺の大好きな家族――七瀬川一家のみんなが――崩壊する寸前にあった。
「凪は……いつになったら部屋から出てきてくれるんだろうね」
陽子先生のその悲痛な言葉を聞いて……心から思ったよ。
なんとかしたい。なんとかしてあげたい。
俺に、なにかできることはないのか……?
ってさ。
174 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:21:05.51 ID:XG0CueYvo
ただ、現実は甘くない。
俺なんかがそう願ったところで、何も変わりはしなかった。
凪を元気づけるために家の外から声をかけようとも、手紙を書こうとも、
彼女が部屋から出てくることは一向になかった。
なにか、勘違いしていたんだろうね。
俺が頑張って行動を起こせば、凪はこたえてくれるとか、現実は変えられるとか、
そんな、都合の良い勘違いをしていた。
でも結果として分かったのは――。
俺は無力だということ。
ただそれだけで、俺が毎日塾で授業を続けようが、凪に戻ってきてほしいと願おうが、
まったく変わらない現実が目の前に横たわっているだけだった。
175 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:29:49.76 ID:XG0CueYvo
あの日、あの根図橋の上で……。
俺は凪と、「一緒に部活へ行こうね」と約束をした。
それは、一縷の望みともいえる”最後の光”だった。
もう二度と凪を泣かせない、ずっと笑顔にしてあげるんだ、と誓った。
あの子が笑顔になるためなら、あの子の日常を取り戻すためなら、なんでもするとまで思った。
俺と一緒に、凪のすべてを取り戻すための日々が……始まるはずだった。
なのに。
それなのに……。
今目の前にある現実は、ただただ空虚で、一切の慈悲はなかった。
176 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:32:28.05 ID:XG0CueYvo
ああ、そうか――。
思えば……これが”世界”ってやつだった。
そこには、ドラマティックな救済も、ヒロインへの祝福も、存在しないんだ。
これが……クソな世界。
俺の手は……凪に届かないのか。
177 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:37:32.42 ID:XG0CueYvo
そんな絶望の状態にあっても、日々というのは気を抜けばあっという間に消化されてゆく。
なんの変化も、解決の兆しも見えないまま、一週間以上が経過した。
凪は相変わらず家から出てくることもなく、陽子先生とも一言も喋っていないらしい。
陽子「もう、あの子がどこか遠くへ行っちゃったような気さえするの」
陽子先生は力なく笑ってそう言っていたが、その表情の奥には深い悲しみの色が見えた。
どうにかして凪に元気を出してもらいたい。戻ってきてもらいたい。
願わくば、もう一度部活にも行って、元通りの楽しい学校生活を送ってほしい。
あの子には――そんな”当たり前”の毎日を謳歌してほしかった。
そんなことを願うのは、行き過ぎたことだったんだろうか?
178 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/24(金) 23:38:03.85 ID:rlHjklpJO
ここから凪がハッピーになる展開かと思ったらさらに落ちるんかーい
胸がきゅっとなるわ…
179 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:42:19.14 ID:XG0CueYvo
きっと凪は限界だったんだ。
大好きだったお父さんが、突然変わってしまったこと。
それをきっかけに、学校で理不尽ないじめを受けていたこと。
先の見えない辛い日々を送る中で、
遂には心の支えであった野球部まで奪われてしまった。
そして……あの日の一件で凪は限界を迎えた。
考えたら考えただけ、15歳の女の子がひとりで背負いきれるようなものではなかった。
どうして凪だけが、普通の中学生と同じような生活を送ることが許されないのか?
毎日毎日、凪が閉じこもったままの隣の家を見て、
悲しみとも怒りともとれない、やり場のない感情が渦を巻いた。
180 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:47:10.40 ID:XG0CueYvo
それからまた数日あって――。
その日もいつも通り、19時から中学生の授業を行っていた。
本来であれば凪も苦手な数学のテキストを抱え、にこにこと笑いながらやってくるのだが……。
当然、彼女の姿はなかった。
誰も座ることのない凪の席を見て、寂しい気持ちになる。
あの日から、凪の時間は止まったまま動いていない。
陽子先生と俺で、いつも通り授業を進めていると……。
突然入り口のドアが開き、「こんちはー!」と威勢の良い声が響いた。
181 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:51:02.18 ID:XG0CueYvo
そこには坊主頭で小麦色に焼けた、小太りの男子中学生が立っていた。
制服のワイシャツを見るに、凪と同じ南中の生徒だろう。
そんな彼は、鋭い目つきで室内を見回していた。
中学生「すいません、ここって七瀬川先輩の家っすよね?」
陽子「ええ、まあ、そうだけど……?」
きっと、表の「七瀬川学習塾」の看板を見たんだろう。
中学生「七瀬川先輩っていますか?」
陽子「七瀬川先輩って、凪のことよね……?」
中学生「あ、そうすね。凪さんっす。います?」
俺は立ち上がり、陽子先生に目配せした。
「ここは俺に任せてください」の合図だ。
陽子先生の方が受け持つ生徒数も多いし、授業の流れを止めるわけにはいかない。
話しぶりから察するに塾に用事があるわけではなさそうだし、ここは俺が片付けようと思った。
182 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:53:34.08 ID:XG0CueYvo
俺は担当していた中一の男女二人に、「この題問を解いておいて」と言い残し、
入り口にいた彼のもとへと近づく。
男「凪なら、隣の家にいるとは思うけど……ごめん。君はだれ?」
訝しげにそう訊ねると、中学生は「あー、そうっすよね」と小声で呟いたあと、話を続けた。
中学生「俺、野球部の二年の田向って言います。七瀬川先輩の後輩っす」
男「野球部の後輩……?」
田向「はい、そうっす。今日はちょっと、七瀬川先輩に話したいことがあって、来たんです」
田向君は見た感じガタイもよく、ちょっと”やんちゃそう”な少年であったが、
その語り口には嫌味がなく、純朴な印象を受けた。
単純な第一印象であったが、”悪いヤツ”ではなさそうな気がした。
183 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:56:45.08 ID:XG0CueYvo
男「ごめん。話ってなんなの?」
とは言え、凪が置かれている状況も熟知していた俺は、警戒してそう訊ねる。
この野球部の少年が、どういった了見で凪に会いに来たのかは、
しっかりと把握する必要があると思った。
田向「そうすね。もう先輩、一週間以上も学校に来てないって聞いて。ちょっとそれで、心配になったというか」
田向「大丈夫なのかなって……」
男「それなら、凪にも色々事情があるから、心配しないで」
男「また元気になったら学校に行けると思うから、それまでそっとしておいてあげてほしいな」
俺が少し強めにそう言うと、田向君は若干きまり悪そうに頭を掻いた。
田向「いやぁ……それなんすけど、俺、七瀬川先輩にどうしても伝えたいことがあるんですよ」
男「どうしても……。それは、大事なこと?」
田向「……はい」
184 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:58:25.36 ID:XG0CueYvo
そう返事をして頷いた田向君の瞳が――あまりに”真っ直ぐ”だったので――。
直感的に、この子は”なにか大事なことを知っている”という気がした。
それはきっと、今の凪に変化をもたらすほどの、大事なこと……。
俺は振り向いて、陽子先生に手を振る。
そして、外を指差し「ちょっと、話してきます」とだけ伝える。
陽子先生は無言で何度か頷き、口元だけで笑みを作ってみせた。
恐らく、「OK」ということだろう。
陽子先生も心のどこかで、この少年――田向君が、凪と浅からぬ関係があると分かっているんだ。
185 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/25(土) 00:04:33.39 ID:FeuWjrkUo
男「よし、田向くん。ちょっと外行こうか? ここだと、あれだしな」
田向「あ、はい……外っすか?」
男「ああ、そうだよ。”大事なこと”なら、ここじゃまずいだろ?」
もったいぶってそう言うと、田向君は「そうっすね」と言って素直に従ってくれた。
外に出ると、じめっとした野暮ったい空気が俺たち二人を包んだ。
辺りは真っ暗で、例によって街灯の灯りだけ頼りだった。
男「この時間だっていうのに、ずいぶんと暑くなったもんだね」
田向「もう、六月も半ばっすから。これからますますって感じじゃないすか?」
男「――だねえ」
186 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/25(土) 02:32:41.08 ID:jk3yXzmSO
最初から読んできて追いついたわ
描写が好き。あと人間が本当にいそう。
逆に生々しくてきつい部分もあるけど、それもリアルでいい
187 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/12/25(土) 04:29:29.87 ID:Ncef1LXsO
状況が鮮明に浮かぶな
ヒロインの解像度が高く脳内にイメージされた
すごいな
188 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/25(土) 18:03:30.23 ID:fnzK3aSCO
めちゃくちゃ好き
「星が降ればいい」とか「海抜300メートル」とか「桃畑の町」とか
189 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:03:16.98 ID:ivjS9/IdO
少しだけ歩いて、近くの桃畑の脇に腰掛けた。
俺は手招きして「座ったら」と田向君に促した。
しかし田向君は座ろうとせず、直立したまま訊ねてくる。
田向「あの……すいません。ってか、誰っすか?」
田向「七瀬川先輩のお兄さん……ではないっすよね?」
男「あ……そういやそうか」
ここはなんと説明すべきか……と悩みつつも、今思っていることを素直に言う。
男「俺は、男。ここの塾で働いてる講師だよ。だから、凪は俺の……教え子なんだ」
田向「へえ……」
そう説明してみても、田向君の表情からある種の”壁”がまだ消えていないと感じ、
俺はもっともっと正直にさらけ出してしまおうと決めた。
190 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:06:56.83 ID:ivjS9/IdO
男「それだけじゃない」
田向「……はい?」
男「凪には深い恩があるし、俺が今あの塾で働けているのは、凪のおかげなんだ」
田向「恩……?」
男「ああ、とんでもない大恩さ。……詳しくは言えないけどね」
田向君は神妙な面持ちで何度か頷くと「へえ……」と呟いた。
男「もちろん、凪のことも色々聞いてる。学校で何があったか、部活で何があったか」
男「きっと、全部。凪本人の口から……聞いてる」
男「つらいことが沢山あったっていうのも……全部ね」
田向「……そうなんですね」
男「ああ。あの子が今までどれだけ”懸命に”頑張ってきたか……俺は知ってるよ」
191 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:10:44.65 ID:ivjS9/IdO
田向「じゃあ、七瀬川先輩が泥をかけられた日のことも……」
男「知ってるよ。キャプテンにかけられたんだろ?」
そこまで言うと、田向君は「ああ……それも知ってるんすね」とため息をこぼした。
そしておもむろに俺の方へ寄ってくると、「よっこいせ」と隣に座った。
男「……話す気にはなった?」
田向「まあ……はい」
男「もちろん、君からしたら俺はただの知らない男だろうし……どこまで信じるかは任せるけどね」
田向「いや……むしろ、話が分かる人がいてくれて、助かりました」
そう口にすると、田向君は「ふぅ」と大きく息をついた。
192 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:13:10.18 ID:ivjS9/IdO
田向「正直、俺がここに一人で来たところで、なんの意味もないって分かってたんです」
田向「家を訪ねたところで、きっと七瀬川先輩は出てきてくれないだろうし」
田向「さっき塾にいたのは、たぶん先輩のお母さんですよね?」
男「うん、そうだね」
田向「まさか、親御さんに直接するような話でもないので……」
男「……そうなの?」
田向「……はい」
田向「だから、来たところで、何にもならないって分かってたんすけど」
男「でも……なぜか来ちゃった、ってわけか?」
そう尋ねると、田向君は「そうなんすよね」と笑った。
笑うと厳つい雰囲気が少し和らぎ、年相応の無邪気さが垣間見えた。
田向「七瀬川先輩の家が塾だってのは知ってたので、来たら何か起こるかなって思って」
田向「そしたら、偶然男さんがいたんす」
193 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:22:50.80 ID:ivjS9/IdO
男「……なるほど。それなら、ちょうどよかったってことか」
田向「そうすね。……本当、よかったっす。来た意味ありました」
男「で……大事なことって、なんなの?」
改めてそう訊ねると、田向君は下を向いて悩んでいる。
男「言いにくいことなの?」
田向「いや……」
俺はこの時、半分くらい「田向君は凪が好きなんだろうな」とか決めつけていたので、
次に出てきた言葉が意外なもので驚いてしまった。
194 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:24:11.97 ID:ivjS9/IdO
田向「その……泥をかけた件は、キャプテンじゃないんですよ」
男「……は?」
田向「あの日、七瀬川先輩に泥をかけたのは、キャプテンじゃないんです」
男「いや、ちょっと待って。凪は『キャプテンにかけられた』って言ってすごく落ち込んでたぞ?」
田向「まあ確かに、”実際にかけた”のはキャプテンでしたが……それは本人の意思じゃなかったんす」
……おいおい。ちょっと待ってくれよ。
一体全体、どういうことなんだ。
まったくワケが分からないぞ。
195 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:25:16.47 ID:ivjS9/IdO
田向「一週間前のあの日、キャプテンが七瀬川先輩に泥をかけてから、先輩は学校に来なくなりました」
田向「俺、なんだかそれがすっごく嫌で……」
男「ちょっと待って。よく分からない。そもそもなんで君も凪が泥をかけられたことを知ってるの?」
田向「そうっすね……俺、”その瞬間”を見てましたから」
男「見てた?」
田向「はい。キャプテンが泥をかけるのを、見てました」
瞬間、怒りのボルテージが一気に上がる。
男「どういうことだぁ? じゃあなんで止めなかったんだよ!」
男「お前もあれか? 凪へのいじめに加担したのか!?」
196 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:29:41.39 ID:ivjS9/IdO
田向「だから違うんです! 聞いてください!」
男「言っとくけどな、俺は凪をいじめた奴を絶対に許さねえぞ?」
男「場合によっちゃ、お前も今ここでぶん殴ってやってもいいんだぞ!」
田向「落ち着いてください! お願いします! 本当に違うんですって!」
頭に血が上ってしまい、俺が田向君の腕を掴んだので、彼は必死に弁解をする。
田向「だからそもそも、泥をかけたっていうのも、全部キャプテンの意思じゃないんすよ」
男「はぁ……?」
田向「本当なんす。本当に……キャプテンにも事情が……」
197 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:31:04.32 ID:ivjS9/IdO
そこまで聞いて、俺も冷静さを取り戻した。
つい、目の前の少年が凪のいじめに加担した一人かもしれないと思ったら、
後先を考えずに頭に血が上ってしまった。
俺は「ごめん」と伝え、彼に話を続けさせた。
田向「先輩がいじめられてるのは……知ってるんですよね?」
俺「ああ、聞いてるよ」
田向「なら、話が早いですね」
田向君はそう呟くと、ごくりと一つ唾を飲み、話しを続けた。
田向「七瀬川先輩が、同級生の女子から理不尽ないじめを受けてることは……」
田向「なんというか、野球部の中でも周知の事実だったんすよ」
男「そっか……やっぱりある程度、知れ渡ってることだったんだ」
田向「そうっすね。七瀬川先輩なんて校内でも目立つ人だったんで」
田向「そんな人がいじめに遭ってるんですから、みんな分かってて知らないフリをしてたと思います」
198 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:35:19.20 ID:ivjS9/IdO
男「そんな状態なのに、どうしても誰も助けてやらないんだよ」
不満たっぷりにそう言うと、田向君は「いやぁ……」と首を傾げた。
田向「自分の身を挺してまで助けようなんて人、そうそういないっすよ」
田向「リアルに考えてください。そんないじめに関わって、何か得があると思います?」
田向「あるとしたら、自分の今後の学校生活が今より悪くなることだと思うんすけど」
男「お前……」
俺は「ふざけんなよ」と言おうとして、やめた――。
仮に、俺が今中学生だったとして、目の前にいじめられている凪がいて……。
俺は自分のすべてを犠牲にしてまで凪を救えただろうか?
その”刃”が明日には自分に向かうかもしれない中、
すべてを捨てて凪を守っただろうか?
199 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:36:49.18 ID:ivjS9/IdO
多分、無理だ。いや、絶対に無理だ。
そんなこと、怖くてできるワケがない。
無責任なことは――言うべきじゃない。
男「まあ……そりゃそうか……」
田向「それに、七瀬川先輩のいじめの中心にいるのは”広瀬”っていう三年の女子なんすけど」
田向「これが本当に厄介で、学校の中心みたいなヤツなんすよね。敵に回したらヤバいっていうか……」
田向「親も地元の建設会社の社長で、先生らも手を焼いてるような生徒なんすよ」
男「はぁぁ……なるほどね。そういう事情もあったのか」
そりゃ、他の生徒からしたら極力関わりたくないのは当然だろう。
中学生はまだ子どもとはいえ、”ある程度の分別”くらいはつくようになっている。
どちらの味方についてどう動けばいいのか……みんな分かっているんだろうな。
200 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:38:35.54 ID:ivjS9/IdO
男「でもだからってさぁ……そんなの、凪がかわいそうだよな……」
田向「分かります。きっと、みんなそう思ってるはずなんすよ」
男「……田向君も?」
田向「はい。……当たり前じゃないっすか」
彼はここに来てから一番真剣な顔で、俺の方を見た。
その表情から、どこかただならぬ”決意”のようなものを感じた。
田向「俺だって、後輩っすけど……七瀬川先輩には本当にお世話になりました」
田向「だからいつも苦しんでる先輩を見るのは……本当に……つらかったっすよ」
201 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:40:27.67 ID:ivjS9/IdO
瞬間、俺はこんな事を訊いていた。
当然、今するような質問ではないと分かりつつも、訊かずにいられなかった。
男「田向君は、凪のことが好きなのか?」
田向「はい?」
男「……すごく凪のことを知ってるみたいだからさ、なんとなく」
田向「ち、違います。俺には他に、好きな人がいるんで……」
男「そっか、それならごめん」
田向君は「そういうんじゃないっすから」と恥ずかしそうに目を伏せた。
見た目はゴツいけれど、こういうところに中学生らしさがあって可愛いなと思った。
田向「七瀬川先輩は……どちらかというと憧れですね。目標みたいな人です」
男「なるほどね。なんとなく、分かる気がするよ」
田向「それに――七瀬川先輩のことを好きだったのは、キャプテンですから」
男「え……?」
202 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:43:39.24 ID:ivjS9/IdO
男「ちょっと待ってよ。凪のことが好きなのに、泥をかけたのか? まったく意味が分からないんだけど」
田向「そうっすね……これで、話が戻せますね」
そう言うと、田向君は「こっからがめっちゃ大事なことなんです」と大きく深呼吸をした。
心の準備が必要なのか、目を瞑って何度も首を振る。
男「大丈夫、ゆっくりでいいよ。それに、きっとここなら誰にも聞かれない」
一応、細心の注意を払って辺りを見回す。
人影一つなく、周辺には寂しげな小道が一本と、桃畑が広がるばかりだった。
時折風が吹いて、青々と茂った桃畑をカサカサと鳴らした。
203 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:48:32.11 ID:ivjS9/IdO
田向「キャプテンは、七瀬川先輩をいじめていた広瀬と、ある”契約”をしたんです」
男「契約……?」
田向「キャプテンはずっと、広瀬になんとかしていじめをやめさせようとしてました」
田向「でも……相手が相手ですから。キャプテンが何を言おうとも、ただでやめるわけがないんす」
田向「それでキャプテンは……広瀬に持ちかけられたんですよ」
『七瀬川凪を野球部から追い出したら、いじめをやめてやる』
田向「って……」
男「なんだよ……それ……」
204 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:50:34.09 ID:ivjS9/IdO
田向君は、苦虫を噛み潰したような顔で、話を続ける。
田向「本当に、卑怯なやつらっすよ……」
田向「広瀬は、七瀬川先輩が野球部を”心の拠り所”にしているのを知ってたんすよ」
田向「実際、部活の時の七瀬川先輩は本当に楽しそうでしたし、僕らもそれを見ていて嬉しかったです」
田向「広瀬は、七瀬川先輩に野球部がある限り、決して先輩が折れないと分かってたんです」
田向「だからこそ、自分たちがいじめるよりも、”それ”を奪うことの方が――」
田向「七瀬川先輩にとって一番つらいって、気付いたんでしょうね」
田向君の話を聞いて、呆然とする。
その広瀬とかいう女、一体どれだけ狡猾なんだ……。
205 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:57:56.17 ID:ivjS9/IdO
田向「それに、キャプテンが七瀬川先輩のことを好きだってことも見透かされてたんですよね」
田向「”もういじめはしない”なんて交換条件を出されたら……」
田向「キャプテンが、それを拒否するはずなんてなかったんです」
男「なるほど……」
キャプテンは体よく利用されていた、ということか。
その選択を迫られた時の彼の気持ちは……一体どんなものだったろう。
……苦しかっただろうな。
田向「その話をキャプテンからされた時……俺もなんて言ったらいいか分からなかったっす」
田向「だってこれ……正解なんてあります? 俺には全然、分かんなかったっす」
206 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:59:21.93 ID:ivjS9/IdO
田向「キャプテンは、俺だけにこの話をして……『協力してほしい』とお願いしてきたんです」
田向「当日は、二人で校庭の土をバケツに入れて水を貯めて、泥を作って準備しました」
田向「キャプテンは……これで七瀬川先輩をいじめから救えるって信じていました」
田向「……俺は思いましたけどね」
田向「こんなことをしても、広瀬がいじめをやめる保証なんてないし」
田向「なにより七瀬川先輩の気持ちはどうなるのか……って」
田向君は「はぁーあ」と分かりやすいため息をつき、話を続けた。
207 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:00:25.69 ID:ivjS9/IdO
田向「決行場所は、体育館裏のテニスコートの横でした」
田向「広瀬はテニス部なんで、”その瞬間”がちゃんと奴にも見えるように場所を選んだんですよね」
田向「俺が見ていたのも、ちゃんと”証人”がいた方がいいって言うんで……」
田向「とにかくキャプテンは必死でした」
田向「その”一撃”で絶対に七瀬川先輩を救うんだっていう――決意がありました」
田向「そしてキャプテンは、バケツ一杯の泥を……七瀬川先輩に思い切りかけました」
『もう二度と野球部に顔を出すな!』
田向「っていう言葉と一緒に……」
208 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:02:34.41 ID:ivjS9/IdO
俺は気付いたら、両手で頭を抱えていた。
なんというかもう、自分の理解の許容量を越えていたのだ。
田向「七瀬川先輩は、涙目になって……」
『……嘘でしょ?』
田向「と言っていました。けど、キャプテンが何も答えなかったんで……」
田向「そのまま、走っていなくなっちゃいました」
田向君は、またしても「はあぁ……」と大きなため息をひとつ吐く。
209 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:03:35.89 ID:ivjS9/IdO
田向「その場面は広瀬にもバッチリ見られてて……」
田向「テニスコートの方から『やるじゃん!』とゲラゲラ笑い声を上げてましたね」
田向「……あんまり、思い出したくはないっす」
俺は田向君の背中を何度か叩いた。なだめるような意味合いもあったと思う。
きっと彼も、沢山の苦悩と向き合ってきたんだ。
田向「そのあと、キャプテンは何度も何度も訊ねてきました」
『あれで良かったよな? 俺、間違ってなかったよな?』
『七瀬川は……大丈夫だよな?』
田向「不安だったんでしょうね。どうしようもないくらいに」
田向「正直……気の毒でした」
210 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:04:40.04 ID:ivjS9/IdO
田向「これで七瀬川先輩へのいじめがなくなると思っていたら……」
田向「先輩は、次の日から学校に来なくなりました」
田向「今までどんなことがあっても、絶対に学校には来ていた先輩が、突然来なくなったんです」
田向「そりゃどんなバカな奴でも分かりますよね?」
田向「七瀬川先輩の心を折ったのは、他の誰でもなく”自分たち”だったんだって……」
遠くで、原付が走り抜ける音が虚しくこだました。
風は吹かない。じめっとして野暮ったい空気が、身体にまとわりつく。
211 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:05:27.52 ID:ivjS9/IdO
田向「こんな話あります? 先輩を救おうとしていたのに、ドン底に突き落としたんですよ?」
田向「七瀬川先輩がいなくなって、俺たちはやっと気づきました」
田向「取り返しのつかないことをしたんだって……」
そして田向君は、ちいさく「クソ」とこぼした。
田向「俺と二人きりになった部室で……キャプテンは大泣きしてました」
田向「ずっとずっと……男のくせに、みっともないくらい泣くんすよ」
田向「バカっすよね。そんなことしたって、七瀬川先輩は戻ってこないのに、本当に……」
そう言って俯いた彼に、俺はかける言葉が見当たらなかった。
ただ黙って、静かに耳を傾けることしかできなかった。
212 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:07:05.77 ID:ivjS9/IdO
田向「それからキャプテンは嘘みたいに覇気がなくなっちゃって……」
田向「本当にひどいもんですよ。もう野球どころじゃないっす」
田向「声は出ないわ、足は動かないわ、極めつきにはコミュニケーションもまともに取れないんすよ」
田向「もう、罪悪感でいっぱいなんでしょうね」
田向「七瀬川先輩もいなくなって、キャプテンもおかしくなって、野球部はめちゃくちゃで……」
田向「もう大会とか、そういうレベルじゃないんですよ」
田向「だから俺、いても立ってもいられなくなって……」
田向「ここに来ちゃったんです」
213 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:09:19.69 ID:ivjS9/IdO
男「……なるほどね。そういうことだったのか……」
田向「はい。なんだか、色々複雑ですいません」
田向「俺もなんて説明したらいいか分からなくて……長くなっちゃいました」
男「いやいや。丁寧に教えてくれて、ありがとう」
俺は思っていた。
”想定していたよりも、事態は深刻じゃない。”
特に、そのキャプテン。
彼に「悪意はなかった」という事実は、光明であった。
むしろ、キャプテンは味方だ。凪にとって、とても大切な学校での味方。
あるいは、そのキャプテンこそが、凪を今の状態から助け出す”キーマン”になるだろう。
そして、この田向君。
彼も間違いなく、本当にいい後輩だ。
これなら、凪は。
すべてが上手くいけば、凪はまた――。
214 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:10:43.37 ID:ivjS9/IdO
田向「ただ、結局……こんな風に俺が来た所で、七瀬川先輩に伝わらないと意味がないっすよね……」
田向「どうしたらいいのか、分からないっす」
男「一番いいのは……そのキャプテンが、直接謝りに来ることだと思うよ」
田向「やっぱり、そうですかね」
男「間違いない。やった本人が事情を直接説明するのが、一番いい」
田向「でも……」
男「キャプテンはとてもそんな精神状態じゃないんだろ?」
田向「……っすね。無理だと思います」
俺は「うーん……」と考え込んだあと、とある”アイデア”を思いついた。
アイデアといっても、非常にシンプルなものだったけど。
215 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:14:03.76 ID:ivjS9/IdO
男「なあ、田向君。俺に考えがあるんだけど、いいかな?」
田向「はい。……なんすか」
男「明日の部活の時間、キャプテンを強引に連れ出そうぜ。俺たち二人でさ」
田向「連れ出す……っすか?」
男「きっと、田向君一人だと難しいだろ? そこを、俺が勢いで加勢する」
男「多少強引にでもキャプテンを引っ張り出してきて、凪に会わせるんだ」
田向「できますかね……? そんなこと……」
男「できるできないじゃないんだよ。……やるんだ」
田向君は、目を見開いて俺の方を見た。
216 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:15:01.85 ID:ivjS9/IdO
田向「でも、そうは言っても……」
男「大丈夫、任せな。実は俺、南中野球部のOBなんだ」
田向「そうだったんすか!?」
男「だから部活への潜入には多少強引でも”理由付け”ができる」
男「万が一先生にバレて難癖つけられたら……」
田向「つけられたら?」
男「めっちゃ逃げる」
田向「……了解っす」
217 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:16:58.67 ID:ivjS9/IdO
男「よーし! そうと決まれば明日の15時30分、南中の正門前に集合だ」
田向「分かりました」
男「いいか? このことは暮れ暮れも内密にな」
男「ちょっとでも誰かに怪しまれたら、全部パーだ」
田向「うっす」
男「大丈夫、俺も入念に”準備”をしていくよ。田向くんは、いつも通りで頼む」
田向「分かりました。キャプテン……絶対に連れ出しましょう」
男「おう、その意気だぜ」
凪、きっと大丈夫だ。
君のまわりには、こんなにも君を想ってくれている奴らがいる。
もうすぐだから。待っててくれよ。
218 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:20:26.33 ID:ivjS9/IdO
そして次の日。
”南中潜入作戦”決行の当日、俺は中学の正門から20mほど離れた場所に自転車を止め、様子を見ていた。
正門に田向君が来ていないか、遠目から確かめていたのだ。
彼がいなければ、到底中に入ることなどできないし、ただの不審者だ。
なので、その位置から熱心に正門付近を監視していたが、
遠巻きに校内を覗く俺の姿は、すでに不審者そのものだっただろう……。
空は今にも泣き出しそうなほどの曇天模様だった。
分厚いグレーの粘土で何重にも固めたような、どんよりとした重たい空だった。
しばらくして、正門にきょろきょろしながら田向君が現れた。
俺はそれを確認し、すぐに駆け寄った。
219 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:22:46.46 ID:ivjS9/IdO
男「やあ、大丈夫そ?」
田向「どうすかね。まあ分かんないすけど、堂々と入ってく方がいいんじゃないすか」
男「そうだね。変にビクビクするより、自信満々に歩いていった方がいいだろうね」
田向「んじゃ、行きますか」
学校に潜入するということ。
それは、いかにその世界に違和感なくなじむか、ということだ。
そのために俺はアンダーアーマーを着込み、上下を夏用のジャージで揃え、それらしいボードを小脇に抱えた。
いかにも”野球部のOBが指導に来た”感を演出することに徹したのだ。
もとより、俺は潜入して何かをやらかすわけでもなく、
実際に卒業生で野球部のOBなのだから、バレたところでさして問題にはならないだろう。
ただ、万が一変な騒ぎでも起きようものなら、全てが灰燼に帰してしまう。
今日、俺と田向君は――凪を救う第一歩となる、大事な”作戦”を決行しているんだ。
220 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:24:47.54 ID:ivjS9/IdO
前庭の、職員室の目の前を”まともに”通り抜け、二人して校庭へと向かう。
さすがに職員室の真横を通るのはどうかと思ったが、この大胆さが逆に周りからの不審感を緩和させる気もした。
前庭の花壇は記憶のままの光景で、百日草の花が咲き乱れ、風に揺れていた。
保健室前の水道も当時のままで、「ああ、ここでよく傷口を洗ったな」なんて記憶が思い起こされ、
胸がむず痒くなるような、懐かしい気持ちでいっぱいになった。
目に映るすべてのものにノスタルジーのフイルターがかかり、
本当にただ”久々に母校を訪れたOB”となってしまった。
校庭には、すでに野球部・サッカー部・ハンドボール部が展開しており、
バックネット周りでは練習着を来た野球部員がアップを始めていた。
途中、すれ違ったハンド部の男子に「ちわっす!」と挨拶をされ、思わずにやけてしまった。
田向「完全にOBか指導者だと思われてますね」
男「だなぁ……」
講じた策がしっかりとハマり、田向君と二人でくすくすと笑ってしまった。
221 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:26:39.81 ID:ivjS9/IdO
バックネット付近まで来ると、田向君はキョロキョロと辺りを見回す。
十数人ほどの野球少年がストレッチしたり腿上げをしたり、それぞれの準備に励んでいる。
中にはもう気ままにキャッチボールをしている子たちもいる。
一見普通の部活の様子にも見えるが、確かにどこか締まっていない、覇気のない空気が漂っている気がした。
男「キャプテン、いないの?」
田向「あれぇ……いないすね。いつも割と早めに出てくるんですが……」
そんな会話をしていると、一人の三年生と思しき部員が近づいてきた。
三年「おい田向ぃ、なんでまだ着替えてないんだよ?」
田向「あ、すいません。ちょっと色々あったもんで」
その三年生は、ヘラヘラと笑って「んだよぉ」と田向君に絡んでいる。
ただ、ふざけているという様子でもなく、きっとこれがこの子のニュートラルなのだろう。
222 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 03:50:30.05 ID:DNcSflKQo
三年「で、その人は誰?」
田向「え? ああ、ええと……」
田向君、思ったより機転が利かないタイプらしい。
すかさず俺は自ら名乗りを上げる。
男「俺はOBの者です。ちょっと今日は軽く様子を見に来ただけなんで。すぐ帰るから気にしないで」
するとその三年の子は「あーそうなんすね……」と気まずそうに答えた。
三年「なあ田向、キャプテンも七瀬もいねえからさ、全然まとまんねえよ」
三年「なんか俺もサボっちゃおうかな」
そう言うと彼は、「ひひひ」と肩を震わせて笑った。
田向「あれ、キャプテンはまだ来てないんですか……?」
三年「来てんだけどさぁ。なんか部室で考え込んでたんだよな」
この時、多分俺だけじゃなく田向君も「チャンスだ」と思っただろう。
もしも部室に一人で残っているなら、今が絶好のチャンスだ。
223 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 03:51:18.52 ID:DNcSflKQo
田向「先輩、すいません。今日俺とキャプテンは部活休むんで」
田向「先生が来たら、そう伝えておいてください」
三年「え、ちょ、どういうこと!?」
彼はとても動揺していたが、田向君は構わず「部室です!」と言って小走りで駆け出した。
後ろから「え、なになに? なにかあんの〜?」と呼び止める声が聞こえたが、
田向君は「あの人ならほっといて大丈夫です」と無視を決め込んだ。
二人で、校庭の隅にある部室小屋へと走る。
224 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 03:53:27.41 ID:DNcSflKQo
部室小屋の一番左。「野球部」と書かれた薄汚れた緑色の扉は、当時と何も変わっていない。
田向君が勢いよくその戸を開けると、中にはパイプ椅子に座ってうなだれている一人の男子がいた。
埃っぽくて薄暗い室内だったので、一層悲壮感が際立っていた。
田向「キャプテン……」
その声に反応し、”キャプテン”と呼ばれた彼はゆっくりと顔を上げこちらを見る。
表情は虚ろではあったが、すっきりとした顔立ちのイケメンだった。
キャプテン「ん……なんだ。タムか」
田向「なんだ、じゃないっすよ。もう部活も始まってるのに、着替えもしないで何してんすか」
キャプテン「んあ……まあ、何もしてないけど。ってか、お前も来るの遅かったじゃん」
田向「それは……俺も色々あるんすよ」
キャプテン「まあ、いいけどさ……」
225 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/27(月) 03:54:37.46 ID:yRBFXDGmO
すごい。見入ってる。
226 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 03:55:48.05 ID:DNcSflKQo
キャプテンはぼんやりとしたその瞳で、俺のことも見た。
キャプテン「え……。んん?」
そう呟くと、目を細めてまじまじと俺を眺めた。
キャプテンの髪の毛はボサボサで、目の周りは少し腫れているようにも見えた。
男「あ、俺は……野球部のOBです。よろしく」
キャプテン「ああ……OBの方? はじめまして」
そしてキャプテンは「ん?」と幾ばくか考えたあと、再び俺を見た。
キャプテン「すんません。OBの方がなんの用で?」
男「今日はちょっと見学に来ただけで……いや」
言いかけて、やめた。
もう、さっさと”本題”を伝えてしまおうと思った。
227 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 03:56:55.29 ID:DNcSflKQo
男「君が、この野球部のキャプテンなんだろ?」
キャプテン「え? ああ、はい。そうですけど……」
男「凪に泥をかけたのは君だな?」
その言葉を受けて――キャプテンは勢いよく立ち上がった。
座っていたパイプ椅子が「ガシャン」と音を立てて倒れた。
キャプテン「な、なんすか? なんでそんなこと知ってるんですか?」
そして彼は田向君の方を見て……「タムか?」と言った。
田向君は黙ってゆっくりと頷く。
男「事情は大体田向君から聞いてる。凪のことも、君がやったことも」
キャプテン「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。凪って……そもそも貴方は誰なんですか?」
228 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 03:58:42.24 ID:DNcSflKQo
男「自己紹介が遅くなってごめん。俺は、凪の家の塾で働いてる、塾講師の男です」
周章狼狽するキャプテンに向かって、俺は丁寧に説明をする。
男「凪は俺の教え子で……学校のことやいじめのことも、全部教えてくれた」
男「凪が君に泥をかけられたってことも……本人から聞いたよ」
すると、キャプテンは「えええ……」と苦い顔をし、膝に手をついた。
無理もない。
突然現れた見ず知らずの男にこんな事を言われたら、どうしたらいいか分からないだろう。
キャプテン「じゃあ、なんすか? その報復? 俺を懲らしめに来た……とかですか?」
男「いや、違う」
キャプテン「じゃあ何の用で……?」
229 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:00:15.48 ID:DNcSflKQo
男「一緒に凪を助けに行こう」
そう言った時――少しだけ時が止まった気がした。
目の前にいたキャプテンは目を見開いて呆然とし、外からは吹奏楽部の気の抜けたチューバの音が聞こえた。
そして、「カキィン」という気持ちのいい金属音が響いた時――。
辛気臭い空気の部室内に、小窓からふわりとそよ風が舞い込んだ。
キャプテン「は? どういうことですか?」
俺は、隣にいた田向君の肩を叩く。
男「聞いたんだよ、田向君にね。君があの日やったことは――”本意”じゃなかったって」
キャプテン「え……。タム、その人にどこまで話した……?」
田向君は「全部です」とはっきりとした口調で、淡々と答えた。
キャプテンはため息まじりに「あー……」と漏らす。
230 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:03:34.10 ID:DNcSflKQo
男「君は、凪が学校に来なくなったことに罪悪感を覚えてるんだろ?」
男「他でもない、自分のせいなんじゃないかって、思ってるんだろ?」
男「……違うか?」
するとキャプテンは唇を噛み、眉間にシワを刻んで俺を睨みつけた。
キャプテン「だったらなんすか?」
キャプテン「俺はあの子を傷つけたんです。もう何も戻ってこない」
男「そんなことはない。まだ間に合うし、必ず凪は戻ってくる」
キャプテン「……何が言いたいんですか?」
男「だから、そのためには君の力が必要なんだよ」
男「君が少し勇気を出して謝れば、変えられるんだよ。――分かるだろ?」
231 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:04:41.04 ID:DNcSflKQo
キャプテン「分からねえよ!!」
今までローテンションで話していたキャプテンが、突然大声を上げた。
その豹変ぶりはなかなかのもので、
歯を食いしばり、敵意剥き出しで俺を睨んでいた。
キャプテン「もう何も戻ってきやしないし、何も変わらねえんすよ!」
キャプテン「大体、アンタなんなんだ? 突然現れて偉そうなこと言って……」
キャプテン「アンタ、何がしたいんだ?」
俺は深く息を吸い……彼の質問に答える。
その言葉には、一寸の迷いも、陰りもない。
男「凪を、助けたいんだよ」
232 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:09:14.46 ID:DNcSflKQo
キャプテン「は……?」
男「だから、凪を助けたいんだよ。そのためなら、俺はなんだってするつもりなんだ」
男「大恥かいても、誰かに罵倒されても、痛くても苦しくても……」
男「死んでもいい」
男「俺はな、そのくらい凪を助けたいんだよ。それだけだ」
俺の言葉を聞いて、キャプテンは「はっはは」と渇いた笑いをこぼす。
キャプテン「アンタ……ただの七瀬川の塾講師だろ? 何言ってんだ?」
キャプテン「それにアンタいくつだよ。女子中学生相手に、本気か?」
男「確かに俺は25で……凪は15だ。でも、そんなことはまったく関係ない」
男「俺は、凪に命を救われたんだから」
233 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:11:23.46 ID:DNcSflKQo
キャプテンは、首を傾げて俺に鋭い視線を向ける。
田向くんも、驚いた様子で俺を見ていた。
キャプテン「命を救われたァ……?」
男「そうだよ。俺は……自殺しようとしてたんだ」
男「根図橋で飛び降りようとしていた時……凪に止められて、助かった」
男「もし凪がいなければ、俺は今頃……死んでたろうな」
キャプテン「はぁ……?」
キャプテンは、口を開けたまま固まっている。
突然目の前で自殺未遂の告白なんかされたら、誰だってそうなるだろう。
男「言ってしまえば俺なんか、この世界で死を選ぶことしかできなかったクズだ」
男「だから、君らには何一つ偉そうなことは言えない。言うつもりもない」
男「でも、絶対に、凪だけは助けるんだ」
男「なんなら――今はそのために生きてると言ってもいい」
234 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:16:21.17 ID:DNcSflKQo
カキィン。
また一つ、校庭から大きな金属音。
キャプテン「……本気、なんすね」
男「……ああ、本気だよ。それに、キャプテン。君なら分かるはずだろ?」
男「凪を助けたい気持ちがさ」
キャプテン「そ、それは……」
男「君も、凪を助けたいその一心で、泥をかけたんだろ?」
男「たとえ自分が悪者になって、凪にずっと嫌われることになっても……」
男「すべてを捨てる覚悟のうえで――凪に泥をかけた」
男「……ちがうかい?」
235 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:17:49.18 ID:DNcSflKQo
キャプテンは下を向いて押し黙った。
彼の右手は、ぎゅっと真っ白な夏服ワイシャツを掴んでいる。
男「はっきり言って、とても苦しい選択だったと思う」
男「でも、君は勇気を出して凪を助けようとしたんだ」
男「だからこそ、その勇気を無駄にしちゃダメだ。今からでも、謝りに行けば間に合うかもしれない」
そう言った時だった――。
小窓から湿った風がふわりと入り込んだかと思うと、
サアアと音を立てて雨が降り始めた。
田向「うわあ、最悪っすね」
田向くんは戸口から外を見て呟く。
男「なにが?」
236 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:22:07.89 ID:DNcSflKQo
田向「この感じ、通り雨じゃないっすよ」
田向「そうなると、外練は終わりで……じきにこの部室にみんなも、先生も来ます」
男「は? マジ?」
部員のみんなが部活に集中している時ならいざ知らず、
一旦部室に全員戻ってくるとなると、流石にそれはまずい。
さらに、いずれ顧問の先生も来るとなると……いよいよごまかしは利かない。
もうここには長居できない。
なんとかしてキャプテンを連れ出さなくては。
237 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:22:50.28 ID:DNcSflKQo
男「なあキャプテン、聞いてたか?」
男「今すぐ、凪のところへ一緒に行こう」
男「そこで、今までの事を包み隠さず話して、謝るんだ」
キャプテン「…………」
男「それができるのは、君しかいないんだよ! 分かるだろ?」
男「俺にも、田向君にもできないんだ。なあ、頼むよ……」
男「君じゃなきゃ……ダメなんだ」
238 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:23:57.86 ID:DNcSflKQo
キャプテン「俺には……無理ですよ」
男「はあ? まだそんなこと言って……」
キャプテン「今更、七瀬川に合わせる顔がありません」
男「じゃあ、ずっと凪が塞ぎ込んだままでいいって言うのか?」
キャプテン「そういうワケじゃないですけど……」
部室の外が、段々と賑やかになってくる。
雨で外練の中断を余儀なくされた連中が、徐々に部室まわりに集まってきてるんだ。
キャプテン「俺が行って謝ったところで、七瀬川が戻ってくるなんて保証もないですし」
キャプテン「だから俺なんか、何もしない方が――」
男「あのなあ!!」
239 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:27:55.86 ID:DNcSflKQo
俺は思い切り怒鳴っていた。
もう残された時間がわずかで焦っていたのもあるし、
キャプテンの煮え切らない態度が気に食わなかったのもある。
そして何より――キャプテンの”独り善がり”な考えが許せなかった。
男「じゃあ、凪は誰のせいでこうなったと思ってる?」
男「どんな理由であれ、最後にお前が泥をかけたからだろ!」
男「それをなんだ? なんでお前がそんなにぐじぐじしてるんだ?」
男「ふざけんなよ。凪はな、もっともっと苦しんでんだよ!」
キャプテン「う……」
240 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:30:17.35 ID:DNcSflKQo
田向「まずいっすよ。もうすぐみんな戻ってきます」
後ろで外を見張っていた田向君が声をかけてきた。
タイムリミットか。
男「キャプテン。お前、凪が好きなんだろ?」
キャプテン「え、は? な、なんで……」
男「別に今はそんな事どうだっていい。なあ、好きなんだろ?」
キャプテン「そ、それは……」
男「好きなら。凪が好きなら! 今、ここはやるべき時なんだよ!」
男「……信じてるからな」
田向「男さん、行きましょう! もうまずいっす!」
241 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:33:41.87 ID:DNcSflKQo
田向君に促され、部室から出る。
去り際――最後に一つだけ付け足した。
男「このあと、万力公園の芝生広場で待ってるからな! 必ず来い!」
そしてそのまま、一目散に駆け出した。
部室の外にはすでにサッカー部や野球部の少年たちが大勢溜まっていた。
先生らしき人影も見えた。
その人だかりの間隙を縫うように、夢中で走り抜けていく。
田向「危なかったっすね。野球部の顧問も普通にいましたよ」
男「マジ? 本当に間一髪だったか」
田向「ですね。まあ今はとにかく走りましょう」
俺たちは雨の中――正門を目指してひた走った。
242 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:36:06.11 ID:DNcSflKQo
雨は止むどころか、次第に勢いを増していき――あっという間に土砂降りになっていた。
俺と田向君は、そんな強雨の中で思い切り自転車を漕いでいた。
田向「このあと、どうするんですか!?」
雨音にかき消されないよう、隣をゆく田向君が大声で訊いてくる。
男「凪の家に行く!」
田向「家? 行ってどうするんですか?」
すっかり水浸しになった小道を、バランスを崩さないように走っていく。
桃畑に挟まれた未舗装の農道は、油断すればたちまち車輪を持っていかれる。
決して転ぶことのないように、しっかりとハンドルを握りペダルを踏む。
243 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:40:42.65 ID:DNcSflKQo
男「凪を家から連れ出す!」
田向「連れ出す? そんなことできるんですか?」
男「キャッチボールだ!」
田向「え?」
男「田向君、グラブは持ってきてるか?」
田向「持ってますけど!」
男「上等だ。俺を信じて付いてきてくれ!」
田向君は一瞬訝しげな顔をしたが――すぐに頷き、「はい」とだけ言った。
あとは、キャプテンを信じるだけだ……。
彼ならきっと、来てくれる。
244 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/27(月) 04:40:56.21 ID:mUqUIp1RO
ほんとに情景が映像になって浮かんでくる。
映画一本見てるみたいな気分、、
245 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:42:46.69 ID:DNcSflKQo
駅前の踏切を突っ切り、そのままあの根図橋を走り抜ける。
雨足は依然として激しいままだ。
すでに俺も田向君も全身びしょ濡れだった。
しかしそんなことは一切意に介さず、俺たちは自転車を漕ぎ続けた。
はやく、はやく。今すぐに、あの家へ――。
何がそこまで俺たちを駆り立てていたのだろう。
キャプテンの煮え切らない態度?
凪を助けたい一心?
自分にも何かできるかもしれないという……期待?
分からないけれど、きっと……その全部だったんだろう。
246 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:46:43.90 ID:DNcSflKQo
凪の家の前に辿り着くやいなや、俺はすぐにインターホンを鳴らしていた。
少しでも間ができると、余計なことを色々と考えてしまいそうな気がしたからだ。
田向君は神妙な面持ちで、すぐ後ろで見守っている。
婆ちゃん「はい」
インターホンに出たのは、凪のお婆ちゃんだった。
恐らくだが、陽子先生は塾で事務仕事をしているんだろう。
男「あの、男です。凪を呼んでもらいたいんですが」
婆ちゃん「あら、男くん。凪ねぇ……でも、あの子は……」
そうお婆ちゃんが言いかけた時、俺は咄嗟に口にしていた。
247 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:48:15.61 ID:DNcSflKQo
男「キャッチボールです」
婆ちゃん「え? ……なに?」
男「俺がキャッチボールしようって言ってるって。そう伝えてください」
婆ちゃん「……分かったよ。ちっと待っててね」
振り向くと、後ろで田向くんがぽかんとした表情で俺を見ていた。
田向「この土砂降りの中でキャッチボールなんて……そんなんで出てきてくれます?」
男「それは分からない。出てこなきゃ快晴の日でも出てこないだろうし、雨は大して関係ないさ」
田向「そうっすかねぇ……」
男「とにかく今は、バカみたいに信じるしかねえんだ」
248 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:51:17.91 ID:DNcSflKQo
すると、インターホンからあの声が聞こえた。
凪「……どうしたの」
まぎれもなく、凪であった。
窓際の風鈴のようにか細くて、それでいて澄んだ声。
もう、随分久しぶりに聞いたような、そんな気さえした。
男「凪! 久しぶり。すごく心配だったよ……」
凪「……ごめんね。今までずっと閉じこもってて……」
凪「男さんは何も悪くないのに、心配かけちゃったよね」
男「いいんだよそんなことは。こうやって話せて嬉しいよ、俺は」
今まで、こうして話すことすらできなかったので、
インターホン越しとはいえ、凪の声が聞けたことが本当に嬉しかった。
249 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:53:33.22 ID:DNcSflKQo
凪「でも、こんな雨の日にキャッチボールなんて……どういうこと?」
男「いきなりでびっくりするかもだけど、とても大事なことなんだ」
凪「だいじなこと……?」
男「ああ、そうなんだ」
目の前の真っ黒なインターホンに向かって、凪の顔を想像する。
今、どんな表情をしているだろうか。
やっぱり落ち込んで、俯いているんだろうか。
部屋でひとり、泣くこともあったんだろうか。
いつ戻れるかも分からない学校のことを思い、苦しんでいたんだろうか。
なら俺は、そのすべてを変えたい。
凪に笑ってほしいし、もう一度学校へ行って野球をしてほしい。
そう、だから――俺はここに来た。田向くんとキャプテンをけしかけて。
250 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:55:47.47 ID:DNcSflKQo
男「俺と一緒に、これから万力公園に行ってキャッチボールをしよう。……お願いだから」
凪「で、でも……」
「でも」と言う凪の声色は、決して明るいものではない。
凪「キャッチボールなら、また天気の良い日にしない?」
確かに。
こんな悪天のなかでわざわざキャッチボールなんてする必要は全くない。
普通ならば日を改めるべきだし、凪の言っていることはもっともだった。
でも、それじゃだめなんだよ。
男「でも……」
そう言いかけた時だった、後ろから田向くんがぐいっと俺の肩を引っ張った。
251 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 05:03:28.20 ID:DNcSflKQo
田向「七瀬川先輩、行きましょう!」
その声を聞き、インターホン越しの凪は「え!」と驚いたようだった。
田向「待っている人がいるんです。だから一緒に行きましょう」
凪「ちょ、ちょっと待って……誰? もしかして、田向……?」
田向「はい、そうです。田向です」
凪「うそでしょ……」
凪「なんでなんで? どうして男さんと田向が一緒にいるの?」
田向「それは……」
男「正直、話すと長くなるんだ。だからとにかく、今は一緒に来てほしい」
凪「でも……」
男「俺のこと……信じてほしいんだ」
252 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 05:39:52.17 ID:DNcSflKQo
しばらく凪からの返事はなかった。
雨がアスファルトを打ちつける音だけが、虚しく響く。
こんな突然の作戦、やっぱりダメだったか?
そう、諦めかけたときだった。
凪「わかったよ。男さんの言うことなら、信じる」
男「ほんとうに……?」
凪「本当だよ。だって、男さんを信じられなかったらさ」
凪「もうこの世界で、何も信じられなくなっちゃう気がするから」
男「凪……」
凪「それに、そこに田向もいるんでしょ。ただごとじゃないって、私にも分かるよ」
田向「先輩……」
253 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 05:56:01.10 ID:DNcSflKQo
また、凪に会える。
ずっと閉じこもっていた家の中から、出てきてくれる。
そう思うと、祭り囃子の太鼓みたいに、心臓が激しく波打った。
なんで?
その感情が一体どんなものなのか、自分でもよく分からなかった。
凪「それにしてもさぁ」
男「……ん?」
凪「こんな土砂降りの日にキャッチボールなんて、ほんとどうかしてる」
男「それは……ごめん」
凪「まあ、いいよ。濡れてもいい服に着替えたら行くからさ。待っててね」
そう言ったあと、ほんの少しだけ――「ふふ」と笑った声が聞こえた。
254 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 06:04:30.43 ID:DNcSflKQo
田向「先輩、本当に出てきてくれますかね……?」
雨に打たれ続け、額にいくつもの水滴を垂らしながら、田向くんが訊いてきた。
その表情には、いまだに不安が色濃く残っていた。
男「ああ言ってくれたんだし、必ず出てくるよ」
田向「でもこんな誘い、よく考えたらめちゃくちゃですよ」
俺は田向くんの肩をぽんと叩いた。
男「凪が言ったことを守る子だってこと、田向くんだって分かってるはずだろ?」
田向「それは……ハイ。間違いないっす」
男「なら待とう。あの子は出てくる」
255 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 06:17:15.46 ID:DNcSflKQo
しばらく雨に打たれながら待っていると、5分もしないうちに凪が出てきた。
凪「……ひさしぶり」
学校の体育着にパーカーを羽織った凪が、玄関先に立ち、はにかむ。
凪「ふたりとも、もうビショビショじゃん。なにやってんだか……」
なぜだか胸がいっぱいになり「お、おお」みたいな反応しかできない俺を尻目に、
田向くんが後ろから元気な声を出す。
田向「先輩! 久しぶりですッ!」
凪はわずかに微笑むと「久しぶりだね」と噛みしめるように言った。
凪「田向。ごめんね……心配かけたよね」
田向「いや、そんなこと全然ないっすよ……」
凪に向かって語りかける田向くんの瞳は、きらきらと光っているように見えた。
それは先輩への憧憬の念なのか、あるいは……。
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